〜 アンジェリーク 〜
その日、地の守護聖ルヴァは執務終了の定刻をかなり過ぎてしまったことに気づき、慌てて聖殿を辞する形となった。
昼過ぎに届けられた書物に熱中するあまり時を忘れてしまったのだ。
執務室を出た途端、ふと光の守護聖のことが脳裏をよぎった。ジュリアスは今日も定刻通りには帰っていないのだろうかと気にかかった。
謹厳実直という言葉が相応しい仕事ぶりの首座の守護聖が定刻を守って帰路につくことなど月に幾度もあることでなく、定刻を大幅に過ぎてからの退出となるのが常なのだ。そしてひどい時には夜半を回ってからやっと帰路につくことも、またそのまま執務室の傍らに設けられている私室でほんの少し仮眠をとるだけということもあるのだ。
女王や自分たち守護聖が長らく支えてきたこの宇宙が、すでに滅びへの道を歩み始めていることが明らかになった今、休める時に休んでおかなければいざという時に心身が保たない。
苦労性のルヴァは深いため息をつくと、正門を目指していた足の行方を首座の執務室へと変更した。
案の定、光の守護聖の執務室に灯りが煌々と輝いていた。
遠慮がちに軽くノックすると、招じ入れる声がする。
小さく吐息をつくと、ルヴァは扉を開け室内へ足を踏み入れた。
「今晩は、ジュリアス。まだ、館へ戻らないんですか?」
言いながら執務机に視線を投げると、ジュリアスが重厚な革張りの手帳に細々と何事か書き込んでいる姿があった。
「ルヴァ。済まぬが、少々待ってもらえぬか?もう少しで書き上がるのだ」
顔を上げることなく忙しげにペン先を紙面に滑らせる。
ええ、いいですよとおっとり答えたルヴァは、光の守護聖の集中の邪魔にならぬようその場に佇んだ。しかし、ジュリアスが何をそれほどまでに一生懸命にしたためているのか興味が押さえきれず、少々不躾だと自分でも思う熱い視線を注ぐことは止められなかった。
それからしばらくしてやっと気の済んだジュリアスはインクが乾くのを待ってから手帳をぱたんと閉じた。
「待たせてしまって悪かった。このような時刻に何用だ?」
執務時間が過ぎているせいか、常よりは柔らかい光をたたえた紺碧の双眸がまっすぐ地の守護聖を捉える。
「いえね、帰ろうかと思ったんですけど、貴方がここに居るかもしれないと思って・・・。たまには一緒に帰りませんか?」
言いながらも、灰色の瞳はジュリアスの手の中にある手帳に注がれたままだった。
「これが、気になるのか?」
苦笑とともにジュリアスが低く囁く。
その声が耳朶を打った瞬間、地の守護聖は思い切り頭を振っていた。
その仕草があまりに子供めいていたため、ジュリアスは苦笑をさらに深いものにすると、すっと手帳を差し出して中を見るよう促した。
目の前に差し出された手帳。
ルヴァは恐る恐るそれを受け取る。
「あのー、私が見てもいいんですか?」
見られてもかまわないから渡したのだがと、ジュリアスは朗らかな口調で告げる。
「よい機会だ。そなたにもそれが何であるのか承知しておいてもらえればよい」
言われて興味津々手帳を捲りだした灰色の瞳が、数ページ読み進めるうちに驚愕の光を宿した。そしてぱたんと音をたてて慌てて手帳を閉じて胸に抱え込むと、いつになく真剣な表情で首座の守護聖の顔を見つめた。
「ジュリアス、これは・・・」
視線の先、両手を軽く組んでその上に顎をのせ、相手の反応を見守っていた光の守護聖は微かに笑みをたたえていた。
「そなたなら、それを有意義に使うこともできよう」
どこか満足げな口調で囁く紺碧の瞳に浮かぶ微妙な光。
それは嬉しげにも、哀しげにも、そのどちらにもとれ、ルヴァを困惑させた。
「見てもらえれば分かるとおり、それは私の覚え書きだ」
そう、手帳の中身はすべてジュリアスのその日一日の覚え書きだった。
内容は執務全般にわたること総てで、どのような決済を自分がどのような判断でくだしたか、現在どのような執務をどのような形で抱えているのかなど、事細かに記されている。また、他の守護聖が抱えている執務に関しても自分なりの私見が記されていたりもした。
機密扱いにされている内容すら赤裸々に綴られている。
これを見れば、例えジュリアスがその場にいなくとも、大方の判断は下せるよう配慮された内容のものだった。
ジュリアスは執務机の引き出しから鍵を取り出し、
「手帳はこの引き出しに常に入れてある。そしてこれがその鍵だ」
手帳の存在を知る者はごく僅かだと言いつつ、机の上にそっと置く。
小振りの鍵が灯りを受けて鈍く光る。
まるで鋭い切れ味の小刀に反射する光のようだと、ルヴァは思った。
「私に何かあったときには、ルヴァ、これを利用して貰えるとありがたい」
明るい口調で告げられた言葉に、地の守護聖は少なからず衝撃を受けた。
(自分が今、どんなことを口にしたのか、理解しているのですか?)
喉元に冷たい刃を突きつけられたかのように冷や汗が背筋を伝い落ちていく。ルヴァは手帳を胸に一歩その場から後退った。
「ジュリアス!」
自分でも悲鳴のようだと思える調子でとっさにそう叫んでいた。自分の唇が微かに震えているのを、ルヴァは自覚する。
どうして地の守護聖がそのような反応を返すのかわからず、ジュリアスは訝しげに相手をじっと見つめる。
灰色の瞳と蒼い瞳がしばし混じり合う。
視線を先に逸らしたのは、意外なことにジュリアスの方だった。
「クラヴィスもこの存在は知っている」
とってつけたように呟くジュリアスの声は囁きにも似て小さかった。
「そなたたち二人ならば・・・これを委ねてもよい、と思ったのだ」
そなたたちはいつでも私の信頼に応えてくれるゆえ安心だと、そう言い切った後、ジュリアスはふっと微笑んだ。
それを目にしたルヴァは見つめていられず、視線を逸らす。
ジュリアスは、清々しいとさえ呼べる穏やかな笑みを浮かべている。
そこには暗い感情など何ひとつなく、あるのはただ優しい色のみだった。
それは、ほんの時々皆の前で浮かべてみせる優しい笑顔ではなく、長い時間を越えて生きてきた者だけが浮かべられるだろう穏やかな笑顔。
喜びも悲しみも、ありとあらゆる感情を内に秘め、そしてそれらすべてを昇華したような微笑み。
ジュリアスが見せるその表情、口調がまるで遺言を語るかのようだと思った瞬間、そのあまりにぞっとしない想像を振り払うように、ルヴァは夢中で頭を振った。自分は何と恐ろしくてくだらないことを考えているのだと必死でうち消そうとするのだが、一旦浮かんでしまった思考はなかなか立ち去ってくれようとはしない。
しばらく自分の胸に宿ってしまった暗い想像を忘れようと煩悶したルヴァだったが、どうやらそれは無理のようだと思い至り、別のことを考えてそれをうち消してしまおうと思いついた。やれやれと言いたげにため息をつき、視線をジュリアスに戻す。
微かに戸惑いの表情を浮かべて黙然とこちらを見つめている蒼い瞳。
地の守護聖は、常に強い光を宿している紺碧の双眸の奥底に揺らめく憂いの色を見つけてしまった。それに気づいてしまった以上、かける言葉を見失い嘆息するしかなかった。
(ああ、誰よりも真っ直ぐに未来を見据えている貴方には、これから宇宙が辿るであろう道筋がすでに見えてしまっているんですね。聡明だということは、本人が望まざるとも時に残酷な結果をもたらしてしまう)
「わかりましたよ、ジュリアス。それでは鍵は預かっておきますねー」
殊更に明るく戯けた口調で言いながら、後生大事に抱きかかえていた手帳を光の守護聖に返す。
「でもね、私としてはこんな物、使う状況なんかこなければいいと、そう思いますよ」
何故と目線で問いかけてくるのに敢えて気づかない振りをする。自分の胸の内に宿る思いなど伝える必要はないと思った。ジュリアス自身ですら気づいていない身内に巣くう暗い思いを、人の心の機微に疎い自分などが憶測を交えて気安く口にするべきではないと思った。
「あ〜、ジュリアス。貴方はお腹空いてませんか?」
私はもうぺこぺこなんですけどと言うルヴァに苦笑を誘われたジュリアスはそれほどでもないがと言いながら、戻された手帳を引き出しにしまい施錠する。
「そうなんですか?よろしければ一緒に夕餉をと思ったんですけど〜」
あからさまに落胆の色を浮かべてみせる地の守護聖の様子にジュリアスは苦笑混じりに、
「では、その後、一戦つきあってはくれぬか?たまには酒を片手に、そなたとチェスに興じるのもよかろう」
そう提案し、衣擦れの音とともに椅子から立ち上がる。
「それはそれは・・・。楽しそうですねー」
今度こそ負けませんよーという地の守護聖の表情はすでにいつもの穏和なもので、先刻までの暗い感情など微塵も感じられなかった。
「では、今宵も私が返り討ちにしてくれようか」
そう高らかに宣言する蒼い瞳に、ルヴァが感じ取った憂いの翳りなどまるでなかった。
END