〜 アンジェリーク 〜
ここは首座を務める光の守護聖ジュリアスの執務室。
いつものように大量の書類と格闘している主の様子を窺いながら、炎の守護聖オスカーは言いだすタイミングを今か今かと待ち望んでいた。
本日はどういう気まぐれか、女王陛下から午後の執務を早めに切り上げるよう通達があったため、午後の執務時間が異様に短くなってしまっていた。そしてその煽りを受け、首座を務めるジュリアスは殺人的なスケジュールをこなさなければならなくなったのである。
ただでさえ一日で終えられるか終えられないかというぎりぎりの量の仕事を抱えている人だけに、今日のジュリアスの仕事ぶりにはまるで余裕がなく、それを見ていられなかったオスカーは朝からその手伝いをするべく、執務室に入り浸っていた。
勿論オスカーとて自分の仕事が無いわけではないのだが、ジュリアスがこなさなければならない仕事の量および質に比べれば、決済にさほど時間を要さないものがほとんどで、部屋の主にきちんと許可を得て、本日はこちらに自分の仕事を運んでくるよう手配した。
事前に今日の執務時間短縮についての話があったため、一部の守護聖たちが集まって茶会でも開こうかと言う話が持ち上がっており、オスカーはそれに参加することになっていた。しかし守護聖の長はそれに未だ招かれておらず、オスカーは皆の代表として茶会へ招くよう言い渡されていたのだった。
招こうと思っている人物は人一倍仕事熱心であり、その仕事量は半端ではなく大量のため、茶会への招待を口にする機会がなかなか訪れず、結局今日まで持ち越してしまったのであった。
オスカーは内心焦りながら、口を開くタイミングをじりじりと待っていた。
「ジュリアス様、俺と一緒に茶会へお行きになりませんか?」
部屋の主の仕事があらかた片づいたのを見計らい、オスカーは声をかけた。
処理し終えた書類をまとめていた手が止まり、紺碧の双眸が微かに見開かれる。
「オリヴィエが、何でも非常に珍しい茶葉を手に入れたとかで・・・。本日は午後の執務も早めに切り上げることですし、よろしければご一緒にいかかですか?」
たたみかけるように誘いの言葉をかけてくる相手にジュリアスは微苦笑を浮かべる。
「そなたの心遣いはありがたく思う。だが、私が茶会の席に招かれては皆がくつろげぬであろう」
物静かに告げる声音に微かに寂しさにも似た諦めの色が滲んでいた。
「折角の楽しい席を私一人のために台無しにするのは忍びない。そなただけで行くがよい」
言い様、整理していた書類を腕に抱えて席を立つ。
その唐突な動きについていけず、オスカーは慌てた。
「ジュリアス様、どちらに?」
ジュリアスは苦笑を深いものにし、
「午後の執務はこれで終わりであろう。この書類をディアの許に提出してくる。今日はご苦労だった。そなたももう退出してよいぞ。皆には私がよろしく言っていたと伝えておいてくれ。ではな」
それだけ言うと振り返ることなく、ジュリアスは執務室を出ていってしまった。
その場に一人残される形となったオスカーは、己の失態を悟った。
守護聖の長としての義務感に囚われるあまり、ジュリアスの言動は常日頃から口うるさい部類に入るもので、色々な人から煙たがられており、常に厳しく理想的な守護聖であるということを己に課し、あまつさえ、それを他の者にも求めがちなため、その結果としてくちやかましい印象を周囲に与えがちなのであった。
誇り高いがゆえにとかく周囲と隔絶しがちなジュリアスを、少しでも自分たちの身近に置いておきたくて茶会の話を持ち出しだりしてみたのが、見事にそれを拒絶されてしまい、オスカーは己の迂闊さを呪った。
もう少しうまいやり方はあったのだ。例えば、ジュリアスをさりげなく茶会の開かれる場所まで案内してそのまま茶席につかせてしまうとか。からめ手で攻めてみるべきだったのだ。正攻法で攻めて効果があがるのは時と場合による。
オスカーが敬愛してやまない光の守護聖は、なかなか扱いの難しい性格をしているのである。
今回見事に選択する方法を読み間違えてしまい、オスカーはとんだ失態をしでかしてしまった、とそういう訳である。
ディアの許に決済済みの書類をおいたジュリアスは自分の執務室に戻ろうとはせず、一人聖地のはずれにある湖へとその足を運んだ。
多分恐らくオスカーは執務室に未だおり、苦い顔つきのまま佇んでいるだろうことが容易に想像できてしまい、戻る気がしなかったのだ。
オスカーが自分に何を求めてあのような申し出をしているのか、ジュリアスは自分なりに理解しているつもりだったが、それを叶えようとするには守護聖の長たる己の立場と、ジュリアス自身の誇りの高さが邪魔をしていた。
澄んだ水を満々とたたえる湖は静寂に包まれ、湖面をわたりくる風は、ほどよい冷気をその身に抱いていた。
湖面を見つめたまま、そっと己の額を飾るサークレットをはずし、ジュリアスはほうっとため息をついた。それに伴い、鋭い光をたたえていた紺碧の双眸が柔らかく和んでいった。
「ここは、こんなにも美しかったのか」
吹きゆく風になぶられて顔に乱れかかる髪を軽く手で押さえつつ、誰にともなく呟く。そして執務の忙しさにかまけていて、周囲に満ち溢れている自然へと目をやる余裕を無くしていた自分に気づいた。
口許に浮かぶ自嘲的な笑み。
周囲を省みる余裕のない現状に、そしてその現状をなかなか覆すことのできない己の不甲斐なさに、ジュリアスは自嘲の笑みを洩らす。
だがそれでも、当の本人は自分がどんな表情をしているのか、理解していなかった。
軽く首を振り、ジュリアスは感傷的になりつつある思いを振り払うと、つい先刻自分が決済を済ませたばかりの書類に思いを馳せた。
その途端、湖面を優しく見つめていた紺碧の双眸が暗く翳る。
ここ最近、自分の許に届けられる様々な情報。
それらから読みとれる事象のすべてに、ジュリアスは逃れようのない運命を感じとっていた。
懸命にあがいて見せても決して避けることのできない運命。
それでも少しでもその運命が訪れるのを先延ばしにできるよう努力することに、ジュリアスは躊躇いを感じなかった。そのために自分がどれほど傷つこうが構わないとすら思っていた。
ジュリアスがいち早く感じとったそれに、他の守護聖たちは恐らく気づいていないだろう。もし気づいている者がいたとしてもそれはほんのごく一部の者だけに違いない。そしてその中には、光の守護聖たる自分と双翼をなすといわれている闇の守護聖クラヴィスその人も含まれていることだろう。
闇の守護聖は己の司る闇のサクリア以外に占術といわれる不可思議な能力を有しており、ジュリアスはなかなか認めたがらないが、これまでにその力で度々危機を救われてきたのは間違いようのない事実だった。そしてその不思議な能力を持つが故に、クラヴィスは恐らくこの世界の行く末に落ちている翳りをすでに知り得ているだろう。
クラヴィスの顔を脳裏に思い浮かべた途端、ジュリアスは渋面になる。
謹厳実直という言葉を地でいくジュリアスにとって、職務怠慢という言葉はすなわち闇の守護聖をさす言葉であった。
真面目に執務を執りおこなえば文句のつけようのないくらい完璧にこなすことができるのに、すぐにでも自分の代わりに首座を拝命することができるだけの実力を有しているというのに、己の能力を生かすことをせずに怠惰に日々を送っているクラヴィスのそんな態度が、ジュリアスには我慢ならないことだった。
物憂げなため息をつきつつ、ジュリアスはサークレットをつけ直した。
そろそろオスカーも茶会に赴いた頃だろうから、執務室に戻ろうと思ったのだ。
再度ため息をつくと、その場から踵を返して宮殿の方へ足を向けた。
「今日の執務はもう、終わりであろう?何処へ行くつもりだ?」
日差しのさんさんと降り注ぐ真昼にまるで不似合いな、気怠げな声がその背中へとかかった。
反射的に表情をきついものにして振り返った紺碧の視線の先に、木立に凭れるようにして座っている闇の守護聖の姿があった。
「そなた、今日も執務室に姿を見せないようであったが、このような所で優雅に昼寝か?」
いつものクセでついつい嫌みな口調になってしまう。
「おまえがいるのだ。私一人がいなくとも執務に差し支えはなかろう?」
あくび混じりに返された言葉にジュリアスはますますまなじりを吊り上げる。
「どうしてそなたはいつもそうなのだ。少しは皆の負担を軽くしようとは思わぬのか!?」
黒水晶の双眸がすっと眇められる。
光の降り注ぐなか、背筋をきちんと伸ばして佇むその姿に、隠しようのない疲労感が漂っていた。
多分クラヴィスでなければ気づくことのできない微かな翳り。
右腕と称されているオスカーですら未だ気づいてはいないその微妙な翳りに、クラヴィスは敏感に反応した。
「今日はもう館に帰ったらどうだ?これからという時期に、おまえが倒れでもしたら、こと、だ」
いつもと同じ感情の籠もっていない平坦な声音だったが、それでも自分を気遣っているのが知れる言葉にジュリアスは驚き、目を見開いて相手の顔を見つめてしまった。
紺碧と黒水晶の双眸が瞬間、交錯する。
互いの眼差しのなかに何を見いだしたのか、二人はほぼ同時に軽く吐息をついた。
再度くるりと踵を返したジュリアスは今度は己の館へ戻る道筋を選び、そちらへ足を運びかけた。
「そなたの忠告どおり、今日は館に戻って休むこととしよう。だが・・・・・・」
やっと一人になれると安堵して再度眠りに就こうとしていたクラヴィスは、不自然に途切れた言葉の先が妙に気になり、
「だが、何だ?」
思わず先を促してしまった。
ジュリアスは後ろを振り返ることなく言を継ぐ。
「だが、危急の際には、クラヴィス、そなたにも思う存分働いてもらう故、覚悟しておくがよい」
そして足早にその場から立ち去っていった。
潔いその後ろ姿を見送った闇の守護聖はやれやれと言いたげにため息をつきつつ、
「難儀なことだ・・・な」
ぽつり呟くと、再度心地よい眠りに就くために双眸をそっと閉じた。
END