霧雨が、絶え間なく降っている。
雨に濡れそぼる年経りた桜の老木を、黙然と見上げている者がいた。
人間(ひと)、と呼ぶのがはばかられるくらい透明な雰囲気をその身に纏っている若者が、桜の古木のもとに佇んでいた。 腰を半ばまで覆う長い髪は淡く青みがかった銀糸で、雨に濡れているはずなのにまるで重たさを感じさせず、桜を見つめる双眸は黄昏時の紫で、どことなく切ない光を宿していた。
満開に咲き誇る花の一つ一つが雨の雫を抱きかかえ、時々、淡い色合いの花びらを滑り落ちていく涙めいた水滴が、若者の優美な姿を写し取る。
いつ果てるともしれない時間(とき)の移ろいのなか、佇み続ける若者の口の端に、不意に微笑みが浮かんだ。
深い哀しみのみを結晶化させたようなその微笑みは、陽炎の如く儚く、ガラス細工の如く脆く、若者の美貌を淡く彩る。
ふと、若者が白い繊手を桜に差しのべた。
枝から舞い落ちてきた桜色の花片がひとひら。
雨に濡れる手のひらに音もなく収まった。
それを見つめる若者の双眸が寂しげに翳り、微笑みがより深いものになる。
「また、ひとり・・・・・・」
哀しみのみが宿る声音でぽつり呟く。
今までに幾度、この科白を口に上らせたのか。
すでに若者は覚えてはいなかった。
こうして花びらが散っていくのをどうすることもできずにいるように、若者はこうして哀しみにくれることしかできずにいた。
その事実が、若者の心をますます翳らせる。
運命に抗う術をもたない無力な自分を知る度毎に、若者は己を深く傷つける。
時間と呼ばれる檻からはじきだされた存在ゆえに、若者は時間に関わりを持つことを許されずにいた。
たとえそれが許されたとしてもそれは仮初めでしかなく、若者は長い時間をこの空間で独り過ごすのだった。
またひとつ、花片が散る。
「・・・・・・ま・・・た・・・・・・」
泣いていたとしても決して不思議ではない、苦しげな呟き。
しかしあくまでも澄みきった黄昏時の双眸は静かに花びらを見つめる。
泣くことを忘れ去って久しい若者は、ただ哀しい微笑みをたたえていた。
時間の移ろいに囚われぬ若者は、時間の熱い抱擁を知ることもなく、生まれては消えていく人間という名の光輝に心惹かれながらも静観するしかなかった。
不意に、若者の頭上で濃桃色の花が花開く。
「サクラ・・・」
若者の声音に、哀しみ以外の想いが宿った。
大いなる喜び、そして隠しがたい不安。
この花が咲くとき、若者は運命の扉を開け放たなければならない宿業を背負っていた。
そして、この時間のみ、人間と関わりを持つことを許されてもいた。
霧雨が、絶え間なく降っている。
泣くことのできない若者に代わっていつまでも。
雨に濡れそぼる年経りた桜の老木を、黙然と見上げている者がいる。
いつまでもそれが永久に続くかの如く。
永久を思わせるような情景に、不意に変化が訪れた。
何かを求めるように両手を差しのべた若者の姿が、空気に溶けこむように失せたのだ。
霧雨が、絶え間なく降っている。
雨に濡れそぼる年経りた桜の老木に雨が静かに降り注ぐ。
今、桜を見つめている者は無く、ただ愁いを含む雨が降り続いているのみ。
END