使用BGM:「Sandmann」 作曲者:saekoさん |
霧雨に煙る湖畔。
若者が一人、優雅なステップを踏んでいた。
いつからそこでそうしているのか、若者は全身ずぶぬれであった。
そしてその腕には、一枚の見事な意匠の施されたドレス。
若者は、ひたすらにそのドレスをパートナーに見立てて踊っているのだった。
いつ果てるともしれないその奇妙なダンスは、やがて不思議をひきおこす。
若者の腕のなか、そのドレスを身に纏った半透明の乙女が優雅にステップを刻みはじめたのだ。
乙女の姿を認めた若者は、瞬間、苦みの入り交じった歓喜の表情になる。
若者の視線を感じた乙女は、瞬間、頬を朱に染めはにかんだ表情になる。
若者は、肉をその身に纏う人間であり、乙女は人ならざる者、精霊であった。
生きる理を異にする二人がこうして心寄せあい、一緒に過ごせる時間はそう多くはなく、これが数度目の逢瀬であった。
互いの手が触れあうことはなくとも、互いの眼差しが交わることで胸の内に宿る想いは伝っていく。
それだけで、二人は十分だった。
互いが傍らに、ただあればよい。
それだけで、二人は至上の喜びを胸に抱くことができたのだ。
二人は、しばらくぶりの逢瀬を心より楽しんでいた。
しかし、時間が過ぎるとともに若者の表情が暗く翳っていった。
乙女はそれに気づき、麗しいその顔を曇らせていった。
やがて、どちらからともなく、二人はダンスを止めてしまう。
サアサア・・・・・・。
その途端、二人の耳に雨の降る音が聞こえてくる。
若者は額に張りついてしまった髪を無意識にかきあげ、伏し目がちに乙女に告げた。
「明日、私はこの地を離れなければならない」
感情を押し殺した静かなその声。
乙女は俯いたまま、
「わたくしはこの地を離れる訳にはまいりません」
哀しげに呟く。
乙女はこの湖にすむ精霊。
その精霊がこの地を離れられるはずがなかった。
分かり切っていた答えであるはずなのに、若者の心は哀しみに軋み、そして乙女の心も同様だった。
お互いの心の痛みがお互いに伝わり、二人はともに心が壊れそうだった。
だから、若者は約束したのだ。互いの心を思うが故に。
だから、乙女は約束したのだ。互いの心を護るために。
「約束、しよう」
若者は静かに告げる。
「約束、しよう。いつの日にか、貴女のいるこの地へ、再び帰ってくることを」
「約束、いたしましょう」
乙女は静かに告げる。
「約束、いたしましょう。貴方が此処へお戻りになられる日まで、お待ちしておりますことを」
それは、美しくも哀しい、約束。
おそらくは守ることの叶わない、危うく脆い絆。
それでも二人はそれに縋るしかなく。
やがて若者は乙女に背を向け、湖を後にした。
一人残された乙女は、ただ悲しみにくれた眼差しを、若者の背中へ向けていた。
それからどれくらいの時間が過ぎたのか。
一人の若者が、湖の湖畔に佇んだ。
若者はただ静かに湖面を見つめている。
若者に気づいたのか、音もなく、乙女はその姿を現した。
「貴方なの?」
問いかける声音は哀しく澄んでいた。
乙女の姿を認めた若者は、哀しげに微笑み、乙女の腕をそっと掴んだ。
「貴女のために、帰ってきたよ」
そして乙女の身体を両の腕にかき抱く。
自身を抱きしめる腕の感触に、乙女は驚き、目を見開く。
人間と精霊。
それは決して触れあうことの叶わない存在同士のはずなのだ。
乙女をかき抱く若者の両の手首には、未だ新しい傷が無数にあった。
「貴方?」
呼びかける乙女の声が震える。
「あの日の約束を果たせてよかった」
乙女の声音に含まれる不安げな響きを殊更に無視して、若者は寂しげに微笑む。
瞬間、互いの眼差しが交じりあう。
乙女は、若者の瞳のなかに溢れんばかりの想いを見いだした。
若者は、乙女の瞳のなかに溢れんばかりの想いを見いだした。
二人に言葉はもういらなかった。
ただ、お互いの存在があればそれだけで、よかった。
相手の想いを感じとり、二人は瞬間暖かい想いに包まれた。
そして二人はどちらからともなく、ステップを踏みだした。
それは、別れを決めたあの雨の降る日、踏んでいたステップだった。
若者はふわりと暖かく微笑み、乙女を優雅に踊らせる。
乙女はふわりと柔らかな笑みを浮かべ、若者の導くままに踊る。
いつまでも、いつまでも、二人は心のままにステップを踏み続ける。
哀しみとともに果たされた約束。
殊更に、その事実から目を背け、二人はいつまでも踊り続ける。
やがて、二人の姿を覆い隠すように霧雨が降り始める。
それでも二人の足が止まることはなく・・・・・・。
霧雨に煙る湖畔。
二人はいつまでも踊り続けていた。
湖へと降り注ぐ雨。
それは麗しき乙女の涙。そして、心の欠片。
雨はやがて霧のようなものから大粒のものへと変化していった。
雨の降り注ぐなか、二人のダンスはいつまでも続いていた。
優雅に弦をかき鳴らし、詩を締めくくった吟遊詩人は、傍らに座る妙齢の貴婦人にふわりと微笑みかけた。
「これで私の詩は終わりですが、お気に召して頂けたでしょうか?」
大きく開け放たれた窓から差し込む月の光に照らされた貴婦人は、
「やはり、人という存在はよくわかりませんわ。どうして、その若者は自らの命を絶ってまで乙女の許へと戻ったのでしょう?」
吟遊詩人は、小首を傾げ、
「おわかりにならない?」
少し不思議そうにそう、尋ねかえす。
貴婦人は奇妙な表情を浮かべ、首肯する。
「ええ」
その答えに吟遊詩人は苦笑を浮かべて見せ、
「『恋は盲目』と申しましょう。若者は、ただ、乙女に会いたかったのです。たとえそれが夢幻のような存在でも、若者にとっては至上の存在でした。だから・・・・・・」
若者はそこで一旦言葉を切り、傍らの卓に置いてある酒杯を手に取り、中身を干す。
先刻から貴婦人のために語り続けていたため、非常に喉が渇いていたのだ。
ほっとため息をつくと、吟遊詩人はすっと立ち上がり、窓辺へと歩み寄る。
窓から見上げれば、今宵は満月だということがわかった。
惜しげもなく降り注ぐ月光のなかへ、手にしていた竪琴をそっと優しく置く。
月に照らされる竪琴を満足げに見つめ、
「だから、若者は、親に薦められた己の意に染まぬ縁談を断り続けました。けれどもそれがいつまでも通るはずはなかったのです。若者は、さる高貴な家柄の跡継ぎでしたから」
穏やかな口調で、言葉を続ける。
「そして若者は決心しました。断れぬ縁談ならば、断れるような口実を作ればよいと」
貴婦人は吟遊詩人の言葉に疑問を感じ、それを口にする。
「口実を作るためならば、何も死なずともよいのではないでしょうか?」
吟遊詩人は苦笑を浮かべ、
「それが『恋は盲目』ということなのです。若者は、もう一度乙女に会いたいと思い、しかしそれは現世のしがらみのお陰で無理だと気づいてしまいました」
吟遊詩人の声音に宿る何とも言い難い響きに、貴婦人は不安げに繰り返す。
「気づいてしまった?」
大きく頷いた吟遊詩人はさらに言葉を継ぐ。
「そう、気づいてしまったのです。乙女の許へ戻るには、肉の身体を捨て去ってしまえばよいことに。魂のみの存在になれば、誰にも自分を止めることはできないということに。そして、愚かな若者はそれを実行してしまった」
穏やかな調子で話を続けていたその声が、不意に暗く沈む。
貴婦人はその変化に気づき、訝しげに窓辺へと視線を投げる。
吟遊詩人は哀しげにその眼差しを伏せ、震えていた。
「若者は愚かでした。そのために、乙女がどれほど心を傷めるか、考えることすらしなかった」
人外の者の声を聞いてしまう、そんな吟遊詩人の心に、乙女の想いはどう伝わってくるのか。
貴婦人にそれはわからなかったが、そのためにこの吟遊詩人は心を傷めていることだけは理解できた。だから、すっとその場から立ち上がると、その傍らに赴き、優しく震えるその身体を抱きしめた。
貴婦人のそんな行動に、瞬間、意表をつかれた吟遊詩人だったが、己の心を慰撫するような優しさに、そっと身を委ねることにした。
音もなく降り注ぐ月光のなか、竪琴がしっとりと輝きを帯びていた。
END