使用BGM:「Gletscher」 作曲者:saekoさん ※この曲の著作権はsaekoさんにありますので、転載等はご遠慮ください。 |
街道からほんの少しだけはずれた所にある、寂れた感の否めない街の一隅に、宿屋がひっそりとあった。
人々の喧噪以外聞こえない、そんな一夜を迎えるのが常であったが、今日は違って竪琴の音が優雅に流れていた。
どんなきまぐれを起こしたのか、旅の吟遊詩人がこの町で一夜の宿を求めたのである。
大抵の宿屋は宿泊客のみで生計を立てていくのは難しく、食堂を兼ねた酒場を経営しているのが一般であり、ここもその例にもれなかった。
宿屋の主が宿代の代わりに酒場で歌わないかと申し出、少々懐が寂しく、最初からそのつもりであった吟遊詩人は快諾したのである。
だが、実際の所、宿屋の主人はこの吟遊詩人の技量にはあまり期待はしていなかった。
吟遊詩人と名乗るだけあってさすがに素晴らしい声をしているのだが、どんな旅をしてきたものなのか、その旅衣があまりにもみすぼらしかったのだ。吟遊詩人といえば、少々華美な装いをしているものと思い込んでいる主人には、それが悪印象に写ったのである。
最近とんと娯楽に恵まれていない町の人々に少しでも気晴らしになれば、とそう思うのみだった。
「それでは少々場所をお借り致します」
吟遊詩人のそんな言葉に、忙しげに働いていた宿の主人は声のした方向に視線をやり、絶句した。目前で婉然と微笑んでいる人物が誰なのか、咄嗟に理解できなかったのだ。
優雅に歩み寄ってくる人物は、先刻までのみすぼらしい印象などまるでなく、その容貌の端正さと相俟って、竪琴を腕に抱えていなければどこかの貴公子に間違えてしまいそうだった。ただし、その身にまとう衣装はごくありふれた長衣にすぎなかったが。
「ご主人、どうされましたか?」
吟遊詩人が不思議そうに尋ねるが、主人は魂を抜かれたように放心しているのみで、反応しない。
吟遊詩人は軽く肩を竦めると主人の傍らをすり抜け、食堂兼酒場へと足を踏み入れた。
夜もすでに更け、食事をするために来ている者よりも酒を楽しみに来ている者の方が大多数を占め、酒場は喧噪に溢れていた。
吟遊詩人はその一隅に己の居場所を定めると、軽く竪琴を鳴らした。
途端に酒場から喧噪が途絶え、人々の視線が吟遊詩人の許へと集まる。
周囲の反応に十分気をつけながら、
「今宵お集まりの皆さまがた、お耳汚しかと存じますが、どうか私の詩にしばし耳をお傾けください」
吟遊詩人は涼やかな声でお決まりの口上を述べ、まずは陽気な歌を奏で始め、曲が終わる頃には酒場にいる人間の心を奪っていた。
最後の小節を弾き終えた途端、拍手の渦が巻き起こり、あちらこちらから次の曲の希望が飛び交った。
吟遊詩人はにこやかに微笑むと、それら要望に次々に応えていった。
どれくらいそうしていたのだろうか。
すでに夜もかなり更け、酒場に集っていた人々も、一人また一人、暖かいベッドのある我が家へと家路を辿り行き、気がつけば、吟遊詩人だけが残されていた。
「お疲れさん」
そんなかけ声とともに宿屋の主人が吟遊詩人の目の前に料理を並べた。
「あまり食べてなかったろう。残り物だが、これでも食べるがいい」
吟遊詩人は感謝の笑みを浮かべ、提供された料理に手を伸ばす。
ふとその手が、止まった。
あまりにも不自然に止められた手の動きに、主人は訝しげに吟遊詩人を見つめた。
やや表情を強ばらせ、吟遊詩人は宿屋の入り口に視線を注いでいる。
その視線の先で、扉がゆっくりと開かれていった。
「?」
こんな時間の来客などここ数年あったためしがなく、主人は開きゆく扉を呆然と見つめる。
やがて扉の向こう側に、紗で顔を隠した、妙齢の貴婦人と思しき女性が姿を現した。
「こちらに、吟遊詩人の方がいらしているとお聞きしてまいりました」
鈴を転がすような柔らかい声音が、女性の口から洩れ出でる。
吟遊詩人は少し戸惑いの表情で女性を見つめ、
「私に、何かご用でしょうか?美しい方」
女性に負けない澄んだ声で問いかけた。
音をたてず、女性は宿屋に入ってくると、吟遊詩人の傍らに歩み寄り、
「“月の乙女”を所望したいのですけれども・・・よろしいかしら?」
と告げる声音は、何故か挑戦的な響きが宿されていた。
会ったばかりの相手がそんな態度をとる意図を掴む術などなく、吟遊詩人はただ静かに微笑み、その要望に応えるべく竪琴を構えた。
ピーン!!
澄んだ高い音とともに弦が一本弾け飛ぶ。
突然の出来事に、吟遊詩人は狼狽するでなく、優雅に苦笑すると、
「私の詩だけでもよろしいでしょうか?」
手にしていた竪琴を示しつつそう尋ねた。
女性は左右に頭を振ると、どこから取りだしたのか、優美な彫刻の施された竪琴を吟遊詩人に差し出した。
「それでしたら、こちらを使って頂けません?」
女性の手のなかにある竪琴を見た途端、吟遊詩人はちょっと目を見開き、
「こちらを、私に使えと、そうおっしゃるのですか?綺麗なお方」
戸惑い気味に問う。
「ええ」
間髪入れずに返される返事。
吟遊詩人は軽くため息をつくと竪琴を受け取った。その途端、竪琴から不思議な波動を感じとり、目眩を覚えたが、すぐに気を取り直すと“月の乙女”を歌いだした。
それは次のような内容の詩だった。
【それは昔、神名を忘れ去られし神々が、未だ人間の傍らに在りし日。
闇の神に仕えし光の精霊が一族に一人の乙女あり。
そは、人々の心をとらえてはなさぬ、月の光の如く麗しくも冷たき乙女。
美しくも気高き乙女、いつしか一人の人間に心奪われん。
乙女の心奪いし者、姿心は選れども、詩の才能は無きに等しい吟遊詩人。
恋人は、ある日乙女に己の才能の無さを嘆かん。
愛しき恋人のため、それをどうにかできぬものかと考えし乙女。
そして乙女は天界の楽の音を封じし竪琴を恋人に与え、神々の怒りに触れん。
恋人の手の内より、神々により奪われし竪琴。
哀れ乙女は己が与えし竪琴に封じ込まれ、これをもって月香琴が誕生せん。】
最後の小節をかき鳴らすと、吟遊詩人は瞑目した。すると、竪琴から伝わってくる波動が少し和らいだ。
女性は静かに吟遊詩人を見つめる。
やがて、吟遊詩人は静かに語り出した。
「この後、乙女が封じられた竪琴は光の精霊王のもとに長らく置かれておりましたが、ある日、何者かの手によって持ち出されて以来、行方しれずになったと聞き及んでいます。また、月が満ちたる夜に竪琴を月光にさらすと乙女の姿が浮かび上がるともいわれております。・・・・・・、そういえば、今宵は満月でしたね」
宿屋の主人は促されるようにして窓から夜空を見上げた。すると天空には見事な真円が煌々と輝いていた。
女性は不可思議な微笑みを浮かべると、
「よろしければ、今宵の詩の代価として、その竪琴を受け取ってくださいませ」
そう言い捨て、宿屋を去っていった。
再び取り残される形となった吟遊詩人は苦笑を浮かべ、女性の残していった竪琴を見つめる。そして軽くため息をつく。
自分が現在手にしている竪琴が、あの【月香琴】であることを、吟遊詩人は理解していた。それを携えてきた女性が“月の乙女”その人の化身であることも。
女性を一目見た瞬間から、女性が人間の範疇にはいる者ではないことに、吟遊詩人は気がついていた。
昔から、ああいった人外の者に何故か好かれてしまう質なのだ。
それが原因でもめ事に巻き込まれたことも一度や二度ではない。
しかしそれを嘆いても今さらはじまるものでもなく、長年の経験から吟遊詩人はあっさり考えるのを放棄した。
大きくあくびをすると、吟遊詩人は安らかな眠りにつくべく、今宵限りの己が部屋へと向かった。
一人残された主人は、最後の食器をかたづけるべく厨房へと足を運んでいく。
煌々と輝きわたる満月が、今宵も美しく夜空を彩っていた。
END
※BGMに使用させて頂いている曲が、この物語を書くきっかけとなりました。まるで映画のワンシーンのような曲で、すんなりと主人公の姿が浮かんできました。
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