使用BGM:「Ruine」 作曲者:saekoさん ※この曲の著作権はsaekoさんにありますので、転載等はご遠慮ください。 |
ふと乙女はその歩みを止め、今し方、己が歩んできた道をかえりみた。
何かが己の名を呼んだ気がしたのだ。
そして乙女は己の意志で、神殿への道を辿り始める。
なにゆえ、そうしたのか。
それは誰に分かろうはずもなく。
当の乙女にすら、分からなかった。
ただ、己の心の望むまま、神殿へと帰りゆく。
貴婦人と別れた場所まで戻った乙女は、そこに見知らぬ青年の姿を見いだした。
そして、その足許に力なく横たわる貴婦人。
一目見て、乙女は貴婦人が永遠に失われたことを悟った。
若き覇王は、乙女が己の手の内に帰り来ることを知り、喜色に顔を輝かせ、
「私の許へ来るがいい」
すっとその手を差しのべる。
目の前に差し出されしその手。
それを見た途端、乙女の顔が恐怖にひきつった。
乙女の目には、その手は赤く染まっているように見えたのだ。
それは、覇王が此処に再びたどり着くために支払った代価の証。
そしてそれは、覇王が贖うべき罪の証。
それは、覇王が再び此処を訪れるため、罪なき人々が流した赤き血潮。
乙女は一歩、また一歩、覇王の許から後退る。
覇王を彩りしその赤から逃れるように。
しかしそれを許す覇王ではなく、素早く乙女を己の腕のなかにかき抱く。
「私の許に来るがいい」
そして再度乙女に囁きかける。
覇王の言葉から逃れるように顔を背けた乙女の双眸に、貴婦人の顔が映しだされた。
『わたくしが貴女の母』
つい先刻、貴婦人と交わした言葉が、乙女の心に甦る。
とても暖かい気持ちにさせてくれた優しい言葉が、乙女の心に甦る。
しかし、それを与えてくれた人は最早永遠に失われたのだ。
なにゆえ、そうしたのか。
乙女は己の手を暫時、見つめ・・・・・・。
そうして乙女は、己の手も、覇王と同様赤く染まっているのに気づく。
それは、乙女がここより逃れようとして支払った代価の証。
そしてそれは、乙女が贖うべき罪の証。
それは、乙女をここより解放するため、母たる者が流した赤き血潮。
乙女は、己の心が音をたてて壊れていくのを感じた。
覇王の手の内で、いつしか乙女は笑いはじめ、最初は小さく忍び笑い程度に、やがては全身を震わせ哄笑を響かせた。
覇王はぎょっとして、腕のなかの乙女を見つめ、愕然とした。
右の瞳は、人々の心を和ませる暖かい翡翠の色。
左の瞳は、人々の心をかき乱す冷たい紫暗の色。
幼き頃、覇王の心を一瞬にして掴んだ色違いのその双眸から、意志の強さを顕していた鋭き光は失われ、ただ虚ろな光が宿るのみだった。
そして覇王は知る。
己の所行が乙女を二度と手の届かぬ高処へと追いやったことを。
乙女はいつまでも、いつまでも、ただひたすら、笑い続けているのみだった。
この後、覇王と乙女がどうなったのか。
それを知る者は、誰もいない。
最後の一弦を弾き終えた吟遊詩人は、静まり返った聴衆に微笑みかけた。
それを合図に聴衆は精一杯の賛美と拍手を語り手である吟遊詩人へと贈った。
「その乙女ってやらはその後どうなったんだい?」
少々酒の入った男がそんなことを問うた。
吟遊詩人は優雅に微笑むと、軽く左右に首を振り、
「さあ、残念なことに、それは伝わっておりません」
曖昧に答える。
さらに若者が、吟遊詩人に問うた。
「それで、その乙女とやらの名前は解らないのかい?」
意表をついたそんな質問に、吟遊詩人は苦笑を浮かべた。
「乙女がその後どうなったかではなく、乙女の名前がお気になるのですか?」
との言葉に、周囲はどっとわき返った。
若者は顔を真っ赤にして照れくさげに頭をかいた。
「残念ですが、乙女の名は伝わっておりません。ただ・・・」
間髪入れずに問い返す若者。
「ただ?」
吟遊詩人はさらに苦笑を深くし、
「乙女の名は『フェリシア』。“楽園”もしくは“幸福”の意味を持つ名前だと、何処かで聞き及んだ気がいたします」
涼やかに告げる。そして若者に歩み寄ると、己が指にはめていた古い指輪を抜き取り、若者の手の中に落とし込んだ。
「これは?」
戸惑い気味に尋ねる若者の耳元へ、吟遊詩人は囁く。
「かの乙女『フェリシア』が所有していた指輪です。そうですね、貴方にだけは乙女のその後をお話してもよろしいでしょう」
若者はごくり唾を呑みこむと、相手の語る物語に耳を傾けた。
「かの乙女はその後、若き覇王の正妃に迎えられましたが、乙女の心はこの世へ戻りくることはなく、それに心痛めた覇王は、それを振り払うかのように闇雲に侵略を続け、やがて戦地で倒れたのです。乙女の名を呼びながら、独り寂しく彼岸へと旅立ってゆきました。そして、その日の夜、乙女もまたこの世を去ったといわれております」
吟遊詩人の囁きはどこまでも暗い響きを宿し、どこまでも救われぬ乙女の話に、若者の心は沈んでいった。
「お〜い、次は何か楽しい物語を語ってくれ!」
若者ほどには物語に思い入れができなかった人々が、この言葉を機に次々と曲を所望し始めた。
苦笑を浮かべ、吟遊詩人は再び座の中央へと戻っていった。
若者は、手の中に残された古ぼけた指輪を見つめつつ、乙女の名を小さく口のなかで呟いていた。
END
☆貴方が選んだ運命はこうなりました。貴方の予想どおりの結末でしたか?それとも、運命を選び直しますか?