使用BGM:「Ruine」 作曲者:saekoさん
※この曲の著作権はsaekoさんにありますので、転載等はご遠慮ください。

 

【フェリシア】


 少女が一人、人気のない神殿で祭壇の前に跪き、祈りを捧げていた。

 一体どんな祈りを捧げているというのだろうか。

 先刻から身じろぎもせず、一心不乱に祈り続けている。
 少女は実に簡素な衣装をまとっていた。それは、将来の美貌をたやすく想像させる端正なその容貌を際だたせこそすれ、みすぼらしさなどみじんも感じさせなかった。

 ふと、少女の身体が揺れた。
 どこか彼方で少女の名を呼ぶ声がしたのだ。
 それに促されるように少女は祈ることをやめ、大きく吐息をついた。
 気づかぬうちに、身体に力が入っていたのだ。
 少女は物憂く、声のした方角へ視線をやった。

 視線の先で、少年が立ちすくむ。


 何という眼差しだろうか。


 少女の双眸はその色を異にしていた。


 右の瞳は、人々の心を和ませる暖かい翡翠の色。
 左の瞳は、人々の心をかき乱す冷たい紫暗の色。


 相反する色彩を帯びた双眸は、どこか神秘的な光を宿していた。


 自分を呼んでいたであろう少年を見た瞬間、少女は訝しげな顔つきになる。
 見知らぬ少年だったのだ。
 少女はふっと視線を逸らし、少年に問うた。
「そなた、今、わたくしの名を呼ばなかったか?」
抑揚を欠いた平板なその声音は、少女の容貌に不思議と似合いのものだった。
「なにゆえ、わたくしの名を知っている?わたくしに何用だ?」
少女はその場から立ち上がり、少年の許へと歩み寄る。


 舞いを見るかのようなその素晴らしい所作に、少年は答えることを忘れて見入ってしまう。


 少年の前に佇んだ少女は、再度、問うた。
「このわたくしに、一体何用だ?」
硬質な響きを持つ鈴を思わせるその声音に、少年ははっと我に返った。
 目前にいる、不思議な双眸の少女。
 少年は、自分が探し続けてきた唯一無二の存在が、この少女であることを確信した。
 「私の許へ来ないか?」
少年らしい率直な物言いに、少女は驚愕の表情を浮かべる。
 少女は今まで周囲にいる人々にそのような態度をとられたことがなかったのだ。
「わたくしを、ここより連れだそうと、そなたはそう、いうのか?」
少女のそんな言葉に少年はにんまり笑う。
 少女は双眸を大きく見開き、そんな少年の顔を凝視する。


 少女は、この世に生まれいでた瞬間より、この神殿にて生涯を送るよう定められし存在だった。


 その輝かしき預言のために。
 その呪われし預言のために。


 【汝、いと高き御方に祝福されし存在よ。汝の在るところ、至福の御恵みもたらされん】
 【汝、いと高き御方に祝福されし存在よ。汝の在るところ、至上の御慈悲もたらされん】


 ふたつの預言を幼子のうちに受けた少女は、神殿の奥深くでひっそりと暮らすのを余儀なくされたのだった。


 少女を取り囲む様々な人々は、無論、この預言を知っており、それが故に少女に接するときは非常に気を配っていた。
 呪われた預言が己自身に降りかからぬように、細心の注意を払い、そして少女の存在に怯えてもいた。


 だから、少女はこの少年の物怖じしない言い様に、いたく興味を惹かれもした。


 「では、どうすれば、一緒に来てくれる?」
無邪気に問いかけてくる少年の笑顔に、少女は惹かれていくのを強く感じた。それでも、
「わたくしはここにいる。それがわたくしの父たる王の、そしてわたくしの母たる王妃の願いなのだから」
少女は己の信ずることを口にし、少年の誘惑をはね除ける。
 一瞬、少年は意外そうな表情を浮かべた。
 こんな寂しいところで幽閉の憂き目にあい、一国の王女たる者が質素な衣装をその身に纏っていて平然としているなど、少年には信じられなかった。
「私とは一緒に行けぬ・・・と、そう言うのか?」
震えがちに問うてくるその声に、少女はゆっくり首肯した。
 あからさまに肩を落とし、だが少年はそれ以上言葉を重ねることもなく、神殿から立ち去っていった。


 少女はその背中を見送ると、再び祈りを捧げ始めた。




 数年が経ち、少女は麗しき乙女へと成長していた。


 それでも乙女は相変わらず神殿での暮らしを余儀なくされ、言葉を交わす人々も少なかった。


 それが故に乙女は世界が争乱の嵐に巻き込まれていることを知らず、ただひたすらに祈りを捧げる日々を過ごしていた。


 それがこのままいつまでも続くかと思われたある日、上品な身なりの、気品漂う貴婦人が神殿を訪れた。


 乙女はいつものように祭壇の前に跪き、静かに祈りを捧げていたが、それを妨げるように貴婦人が優しく乙女の名を呼んだ。
 乙女はその呼びかけに振り返ることなく、
「わたくしの名を呼ぶ者は誰?」
静かに問うた。
 硬質な鈴の音を思わせる、軽やかなその声音は、やはり平板なものだった。
 その様子に貴婦人は涙を浮かべ、
「そなたの名を呼ぶは、そなたの母たるわたくしです」
乙女の傍らに歩み寄り、そっと乙女を両の腕に抱いた。
「生まれてこの方、一度として顔をあわせることはなかったけれど、わたくしは、そなたの母です」
 乙女は相手から漂いくる芳しい香りに陶然となったが、その表情が変わることはなく、ただ静かに貴婦人の言葉に耳を傾けるのみだった。
「これからわたくしの言うことを、よく、お聞きなさい」
人形のように表情の動かぬ乙女に、貴婦人は涙を禁じ得ず、語るその声は震えがちであった。
「そなたはこれより神殿から立ち去るのです」
 あまりに唐突な話にも乙女は動じる気配はなく、ただ貴婦人の言葉を聞いていた。
「そなたの父、この国の王たる方が昨日戦場にてお隠れになりました」
貴婦人は伏し目がちに告げる。
「それ故、そなたをここへ縛りつけておく理由がなくなったのです。何処へなりと、心の赴くままにお行きなさい」


 貴婦人の言葉に、乙女は自分をここに幽閉するよう命じたのは、父たる者のみの願いで在ることを知った。そして、母たる者の願いはそれと相反するものであったのだと、知ったのだった。


 乙女はここで初めて祈ることを止め、母たる者の顔を見つめた。


 毎朝鏡のなかで見る、硬い表情の自分の顔によく似た女性の顔がそこにあった。


 涙に泣き濡れたその顔はそれでも美しく、瞳に宿る優しい光に乙女は心をはっとつかれた。
「は・・・は・・・・・・、母・・・上?」
ぎこちなく、乙女は呟く。
 一瞬、貴婦人は驚きに目を瞠ったが、すぐふわりと微笑み、
「ええ、そうです。わたくしが貴女の母」
愛しい我が子の頭を優しく何度も撫でる。


 貴婦人がもたらす優しい空気に、乙女はうっとりとした表情を浮かべ、双眸を閉じた。



 きっとこれが最初で最後の親子の語らいであろうことを、二人は知っていた。


 王が戦死した以上、この国は余所の国の支配下に置かれるのだ。そして侵略者たちはこの国を思う存分踏み荒らすのだろう。


 やがて、貴婦人は抱擁を解き、
「さあ、おゆきなさい。貴女は最早、自由なのですから」
神殿の最奥をすっと指し示す。


 その指先が示すのは、ごく一部の者以外知ることのない秘密の出口。


 乙女ははっと貴婦人の顔を見つめた。
「ゆくのです。振り返らずに、心の命ずるままに」
有無を言わさぬ何かが、貴婦人の目に宿っていた。


 乙女はゆっくり頷くと、その場から立ち上がり、神殿の最奥へと足を運びだす。何度も何度も後ろを振り返りながら。それでもその足は止まることなく。


 貴婦人は暖かい微笑を浮かべると、乙女が去りゆくのを、静かに見送っていた。ただひたすらに我が子の幸せを心から祈りながら。その背中へかける言葉を見つけられず。


 我が子の姿が完全に見えなくなった頃、貴婦人はすっとその場から立ち上がり、後ろを振り返る。


 そこに佇むは、若き覇王。
 この国を攻め滅ぼし者。


 幼き頃に、乙女がまだ少女であった頃に、乙女を望みし少年の成長せしその姿。


 貴婦人は覇王を見やる。
「あの乙女は何処へ?」
覇王はまっすぐ貴婦人の眼差しを受け止め、短く問う。


 貴婦人は不思議な微笑みを浮かべると、己の懐深く隠し持っていた小瓶の中身を一気に干した。
「そなたに、我が子を託すわけにはまいりません。そなたの手は血にまみれすぎています」
言葉とともに溢れる赤き血潮。


 貴婦人が飲み干したのは、人の生命をたやすく奪い去るものだった。


 貴婦人は、ただひたすらに我が子の幸せを祈りつつ、二度とは戻れぬ旅路を辿った。


 己の手を見つめつつ、若き覇王は呟いた。
「たとえどれほどの血にまみれようとも、私はあの乙女を望むのだ」


この後、作者の頭のなかで乙女はある行動をしました。

あなたが乙女ならば、一体どんな行動をとりますか?  次へ

※BGMに使用させて頂いている曲を耳にした途端、冒頭の光景がひらめきました。後は少女の思うままに物語が綴られていきました。

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