使用BGM:「Finsternis」 作曲者:saekoさん
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闇を覆すかのように大がかりに焚かれた松明に照らしだされ、黒衣に身を包んだ少女が一人、祭壇の中央で詩を詠っていた。
少女の声は素晴らしく、聴衆たちはしわぶき一つたてず、それに耳を傾けていた。
少女が奏でるその詩は、闇を讃える御詠歌。
そして、その詩を詠うことを唯一許された少女は闇の巫女。
『闇が在ればこそ、光はより素晴らしく輝きわたるのだ』。
その信念に基づいて、ここでは闇が崇められていた。
闇を崇めることで光をも讃えることになるのだと、固く信じられていた。
少女は、闇を祀る神殿の長に育てられし娘。
しかし、誰も少女の素性を知るものはなく。
それでも人々は少女を闇の巫女として崇めることに否やはなかった。
少女のその姿はまるで闇を具現したかのようだった。
地につくほどに伸ばされたその髪は、漆黒。
凛とした光をたたえるその双眸は、夜空を写しとったかのような深い深い紺。
そしてその容貌は、月の光の如く麗しかった。
その微笑みは、まるで花が綻ぶかのよう。
その声音は、まるで水晶のごとき響き。
誰もが少女を褒め称え、誰もが少女を特別視した。
それ故、少女は己の心のうちを誰にも明かすことができず、沈んだ表情を浮かべるのが、いつしか常になっていた。
詩を詠い終えた少女は一人、神殿の己の部屋へと戻っていく。
背後から人々の歓声が聞こえたが、少女はそれを敢えて聞かない振りで、自室へと戻っていった。
誰がこの心の内に宿りし想いに気づいてくれよう。
誰が有りのままの自分を自分として認めてくれよう。
少女は暗い表情のまま、そんなことを鬱々と思い悩みながら歩んでいた。
己の想いに深く沈んでいた少女は、不覚にも育ての親である神殿の長に声をかけられたことに気づかず、その前をすっと通り過ぎようとした。
「お待ちなさい」
長はそう声をかけつつ、少女の細き腕を手に取った。
シャラン。
少女の手首で装飾用の鈴が澄んだ音をたてる。
その音に促され、少女ははっと我に返った。
少女がふと見上げると、そこにあるのは憂いを秘めた長の眼差し。
少女の双眸とよく似た、夜空を写し取ったかのような深い深い紺の色。
常になく暗い翳りに満ちたその眼差しに、少女の心は不安を覚え、
「妾に何かご用でしょうか?」
問うた声音はか細く震えていた。
少女の怯えを聡く知った長は柔らかい微笑みを浮かべてみせ、
「そなたに使いを頼みたいのです」
なるべく穏やかな声色で告げる。
それでも少女の心から不安の影を消し去ることはできず、
「これから、ですか?」
少女がそう尋ねるのも無理なからぬことだった。
すでに世界は闇に包まれ、昼の世界とはまるで異なる理に支配されし夜の世界へと、その姿を変えていた。
長は少女の言葉に軽く頷き、
「そうです。とても大事な使いを、そなたに頼みたいのです」
毅然とした態度できっぱり告げる。
物心ついてより、この神殿からろくに外へ出たことのない少女にとって、それはあまりにもつらい頼みだったが、それを断る術を持つ少女ではなく。
「妾は何の使いをすればよろしいのでしょう?」
と答えるしかなかった。
その少女の言葉に長は満足げに頷くと、その懐中より一通の書簡を取りだした。そしてそれを少女に手渡し、
「これを届けて欲しいのです。ここより数里先にいったところにある、ある方の許へ」
哀しげな微笑みを口許にたたえつつ、長は使いの内容を少女に告げる。
少女は驚きに目を見開く。
今まで一度として見知らぬ場所への使いなぞ、させられたことなどなかったのだから。
今まで一度としてこんな哀しげな笑みを、その顔にみせたことなどなかったのだから。
だから少女は問うたのだ。
己の不安を癒すために。
長が浮かべるその表情の意味を読み解くために。
「なにゆえ、と、お尋ねしてもよろしいですか?」
しかしそれに答えをくれる長ではなかった。
「そなたに頼みたい、ただそれだけです」
少女はそれ以上何も尋ねようとはせず、ただ黙って頷いた。
快いとは決していえないが、それでも了解を得られたことに、長は喜色を浮かべ、
「それでは今すぐ、それを届けてください。先方も待ち望んでおりますから」
と言い、少女の背中をそっと押した。
長のその手に促され、少女は振り返ることなく己の部屋へと戻っていった。
それゆえ、少女は気づくことはなかった。
少女の背中を見送る深い深い紺色の双眸に、哀しみの色が宿っていたことを。
少女にどこか似通ったその月の如き容貌が、憂いに翳っていたことを。
少女の背中を見送りながら、長は小さく何か呟いたが、それが少女の許へ届くはずはなく。
いつまでもいつまでも、長は少女の歩んでいった方角を見つめていた。
少女が長より託された書簡を胸に、慣れぬ夜道を辿り行けば、いつしか少女の足許を照らすかのように見事な月が夜空に浮かぶ。
少女は月を見上げ、ほおっとため息をひとつ。
先刻まで感じていた不安など、その胸に最早ありはしなかった。
どれくらいそうしていたのか、はっと我に返った少女は慌てて夜道を進んでいった。
その足取りは軽く、恐れるものなどなにもないようであった。
長の示した場所は、少女の見知らぬ様式の建物で、一目でそれは神殿とわかるものだった。
少女は訝しげに思いながら、神殿の門をくぐりゆく。
「闇の神殿の長様よりの書簡、お届けに参りました」
少女は声高にそう言いつつ、建物のなかへと一歩足を踏み入れた。すると、そこには思いもよらぬ人影があった。
少女は驚き、その場に立ち竦む。
少女の目前に佇むは、少女の養い親たる闇の神殿の長、その人。
しかしその人はどこか少女の知る人とは異なり、
「では、貴女が闇の巫女、なのですね」
少女のよく知る声音とはまるで違う声音でそう呟くと、少女を両の腕でかき抱いた。
シャラン。
少女の手元で涼やかな音色をたてる鈴。
ふわりとその人から漂いくる優しい香り。
少女は己を抱きしめる人が、長とは別人であることに、この時はじめて気づいた。
「貴女様はどなたなのです?なにゆえ、妾を知っておられるのですか?」
少女はそれだけの言葉を精一杯紡ぎだし、見知らぬ人の腕のなかからその身を引きはがす。
そんな少女の行為に、その人は深い深い紺の瞳に哀しげな光を浮かべ、
「わたくしは、貴女の母。そして、闇の神殿にて長を務めたる者の姉」
少女に囁きかける。
「貴女は、闇の神殿に伝わりし予言を知っていますか?」
少女は戸惑いと不安のなか、首を左右に振る。
母と名乗ったその人は憂い顔になり、ため息をひとつつく。
「そう、妹は、最期まで貴女に何も告げなかったのですね」
深い深い紺色の双眸から、涙が静かに溢れだす。
『光と闇をその身に宿せし乙女の喉もて、闇の刻、光の刻、震えし刻。我らが命運尽き果てぬ。そは哀しみの予兆、そして喜びの兆し』
「妾は闇の巫女。光なぞ知りませぬ」
少女の言葉はもっともなものだった。
少女のその姿はまるで闇を具現したかのようだった。
地につくほどに伸ばされたその髪は、漆黒。
凛とした光をたたえるその双眸は、夜空を写しとったかのような深い深い紺。
そしてその容貌は、月の光の如く麗しかった。
その人は哀しげに微笑み、軽く首を振る。
「いいえ、貴女は光を知っています。貴女の母たるわたくしは光の神殿の長なのだから。光と闇、これらはつねに表裏一体。分かちがたく結びつけられしもの。それゆえ、妹は貴女を我が子にと望んだのです」
その人の口から告げられる言葉の数々は、少女の心を切り裂くのに十分な力を持っていた。
「貴女はわたくしの娘。そして貴女のその髪はその証」
少女ははっとして己の髪に目をやり、絶句した。
地に着くほどに伸ばされたその髪は、黄金。
真昼の日の光を思わせる、輝き渡る金。
最早闇の巫女はそこには居ず、居るのは闇と光をその身に宿せし少女。
地に着くほどに伸ばされたその髪は、黄金。
凛とした光をたたえるその双眸は、夜空を写しとったかのような深い深い紺。
そしてその容貌は、至高の存在もかくやと思わせるほど麗しかった。
「そんなのは嘘。妾はそんな予言信じませぬ!」
血を吐くような叫びをあげ、少女はその場から走り去った。
後ろを振り返ることなく、ただ激情のままに走り去っていった。
それゆえ、少女は気づくことはなかった。
少女の背中を見送る深い深い紺色の双眸に、哀しみの色が宿っていたことを。
少女にどこか似通ったその月の如き容貌が、憂いに翳っていたことを。
少女の背中を見送りながら、その人は小さく何か呟いたが、それが少女の許へ届くはずはなく。
いつまでもいつまでも、その人は少女の走っていった方角を見つめていた。
自身にかせられていたあまりにも重いその役割を、少女は心の底から拒絶した。
「嘘、嘘、嘘じゃ!妾はそんな予言、信じませぬ!!」
詩を詠うこと。
少女はそれがとても好きで好きで、暇さえあれば練習と称してよく詠っていた。
詩を詠っている刻こそが、少女にとって至福の刻であった。
心地よい夜気を運んでくれる夜風に乗せてのびのびと。
寂しさに心乱された夜半、皓々と輝きわたる月に向けて切々と。
春のせせらぎに耳を傾けながらそっと口のなかで口ずさんだり。
陽気なおしゃべりをする鳥たちに誘われて高らかに。
夜となく昼となく、長に請われるまま朗々と詠った日もあった。
それら総てが予言のとおりとはつゆ知らず。
ふと気がつくと、少女はいつの間には闇の神殿へと戻ってきていた。
闇の神殿の長は、祭壇の上に横たわっていた。双の目を固く閉ざしたまま。
「・・・お、長様?」
問いかける少女の声はか細く震え、今にも泣きだしそうであった。
少女が切望する返答は、無論、なく。
それでも少女は祭壇に駆け寄り、長の身体を揺さぶった。
「長様、ただ今戻りました」
固く閉ざされた双の目が、開く気配はなく。
少女の双眸に見る見るうちにたまり浮かびゆく涙。
ふと、涙に曇った視界が、長の胸元に抱かれしひとつの書簡を見いだした。
それは、闇の神殿の長が最期に養い子に向けて宛てた手紙。
少女は泣きながら、それに目を通し、そして・・・・・・。
少女が手紙のうちに何を見いだしたのか。
少女はやがて詠いだす。
その頬を、涙で濡らしながら。
いつまでもいつまでも、少女は心のまま、己の詩を詠い続けていた。
◇
大都市の片隅にある小さな舞台。
そこで催されたコンサートは大成功のうちに幕を閉じた。
つい先刻まで舞台に立っていた歌姫の控え室。
そこに当の歌姫とひとりの吟遊詩人が向かい合っていた。
「無理に伴奏をして頂きまして大変助かりましたわ。ありがとうございました」
麗しい歌姫は鈴の鳴るような声音で高らかに礼を告げた。
開演間際になって、歌姫の伴奏を担当する竪琴の弾き手が突然倒れ、偶然通りを歩いていた吟遊詩人に白羽の矢が立ったのだ。
吟遊詩人は抱えていた竪琴を傍らに置きつつ、
「いえいえ、どういたしまして。貴女の素晴らしい歌声のお陰で新しい物語が浮かびそうです」
歌姫は控えめに吟遊詩人を見つめ、花が綻ぶような微笑みをたたえたまま小首を傾げた。
「それは、どんなお話なのかしら?」
吟遊詩人も歌姫に負けないほど魅力的な微笑みを浮かべ、
「闇と光、両方に愛され、また、詩をこよなく愛した、そんな少女の物語です。ある時絶望に心が押しつぶされそうになった少女を救ったのはやはり詩でした。そんな物語を語りたいと、そう思います」
そう告げた。
歌姫は一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐに魅力的な微笑を口許にたたえた。
「まあ、それは素晴らしい物語になりそうですわね」
歌姫のそんな言葉に特に応えようとはせず、吟遊詩人はただ軽く微笑み、控え室を後にした。
その場に一人残された歌姫は、一瞬遠い眼差しになったが、すぐに現実に引き戻された。
誰かが歌姫のことを捜している声がしたのだ。
歌姫は優雅に立ち上がる。
シャラン。
軽やかな鈴の音が、歌姫から聞こえてきた。
それは歌姫の手首にある、古びたデザインの装飾用の鈴がたてた音。
歌姫は深い深い紺色の双眸に優しげな光を宿し、己の腕にある鈴をしばし見つめていた。
END
※BGMに使用させて頂いている曲を耳にした途端、闇に抱かれ、朗々と詩を詠いあげる女性の姿がひらめきました。思い浮かんだ女性がどんな人間なのかすごく気になって書いた物語です。
※使用ブラウザがネットスケープの場合、MIDIがうまく再生されない場合があります。ご了承ください。