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 実は、私はこの部屋を作ることが今回ホームページを作る目的だったと言って過言ではない。自分の人生はどうあるべきか、どうありたいか、常に問いかけつつ、今の自分がある。

 この世に生を授かり今まで特に健康を害することなく、自分なりに精一杯生きてきたつもりだ。それなりに、大学を卒業し、それなりの会社に入り、それなりの家庭を持ち、不満など言ったらバチがあたる人生を歩んできた気がする。

 それでも、特にこの数年間は自分の発見、自分の人生の目的、意義探しの毎日だったような気がする。こういう人生探求の放浪の旅をこのページで綴ってゆきたいと思う。
(3月9日)

 いざ、何か書こうと思うと、やはりというか、自分が構えてしまうのが良くわかる。

 自分の心の変遷を書くわけだから、そんなに肩肘はらず、気ままに、自由に書けばと思うのだけれど何故だか、やはり書きにくいものだ。こういうところが自分の欠点なのか、なんて思ってしまう。

 そうだ、こうしよう。誰かに読まれているなんてことはあまり心に思わないようにして、自分の歴史を書き留めるような気持ちで、気軽に、くだけた文章でもいいから、思いつくままに書いてみよう。

 そうしたら、きっと後で振り返って自分の思い出になるし、誰でも、少しでも、役立ててもらえたら、とても幸せだと感じれる。そうだ、世のため、人の為という気持ちを大事にして、素直に表していこう。
(3月12日)

 自分がいつも心がけて考えるようにしていること。

1)自分に起こることは起こるべくして起こっている。

2)全て自分に起こることは自分の人生にとってプラスに働くことばかりである。

3)どんなに辛いことが起こっても、解決策が常に存在し、最後には必ず解決する。

4)あの時にあのことが起こったお陰で今の自分がある。

5)自分が心に描いた自分になる。

 以上のことを常に思うようにしている。なかなか難しいことだけれど、今までの自分の人生を振り返って結局、最後には何とかなってきたし、その時に辛かったことも全て今の自分にとってプラスになっていると思う。

 とにかく、どんな時にも常に自分の心を平静に保ち、謙虚な気持ちを忘れないようにしようと思う。
「俺が俺がのげを捨てて、お陰お陰のげで生きよ」は名言だと思う。(3月14日)

 私は、「縁」という言葉が好きだ。人生には数え切れぬほどの人との出会いがあり、この出会いのおかげで幸せになったり、不幸せになったりするのが実感だ。

 人生の中では、こちらに求める気持ちさえあれば必ず会うべき人が現れる。こちらの心の構え方次第で、そのチャンスを獲得したり、失ったりするような気がする。自分が自分の人生の主人公であるのは当然のこととしても、常に謙虚な姿勢を保ち、素直な気持ちでいれば、不思議と必ず、「この人」という人が出現するのではないだろうか。

 私も今までの人生の中で、実に多くの人に助けられてきたとつくづく思う。特に困った時に相談に乗ってくれたり手を貸してくれた人の恩は絶対に忘れない。自分さえ良ければという人が相当数多いこの世の中で、自分のことのように一緒に悩んでくれて、支えてくれる人に出会えるというこの上ない「ご縁」に恵まれてきた自分を、正直、幸せな奴だと思う。

 そして、あえて付け加えるならば、いい格好をするわけではないが、自分に不幸を与えた人のことも、今となれば、その後の自分の人生にプラスであった、そんな風に思えると言っても、嘘ではないのだ。

 もちろん、その時は「このやろう!」と深い憎しみを覚えたのだが、何故かほとんどの人に対してはその憎しみが続かなかった。(正直なところ、一人二人は、思い出すのも嫌な人間はいるけれど・・・。)結局のところ、いつまでもネガティブな感情を持っていると、それは自分にとって最悪なことだと、どういうわけか自己防衛反応をしていたのかもしれない。

 ところで、人との「ご縁」という意味では、誰と、とか、誰が、ということが大きな違いを持ってくるのをつくづく感じる。たとえば、「何を食べた」ではなく、「誰と食べた」かでかなり満足感が違ってくるし、「何を言ったか」ではなく、「誰が言ったか」でその発言の重みが違ってくるわけだ。そう言えば、マーケットでの発言等々が要因になったりそうでなかったりするのも、こういうことなのかもしれない。(3月16日)

 私が今までの人生の中で読んだ、最も感動に残った本は何かと問われたら、真っ先に、太田哲也氏の作品、「クラッシュ」を挙げる。

 1998年5月、「日本一のフェラーリ遣い」の名を馳せたレーシング・ドライバーである作者が、全日本GT選手権にて多重事故に巻き込まれ、意識不明の瀕死の重傷を負い、72時間の余命と宣告される。この生死の境界で太田は黒いマントの男と遭遇し不思議な臨死体験をする。

 その男は太田に話しかける。「少し若いけれど、君は濃い人生を送った。」「生きることは辛いことだよ。」と。そして、十日後、意識を回復し奇跡の生還を果たす。その後一命はとりとめたものの、三度熱傷、範囲60パーセントともいう皮膚の再生は二度と起こらないという重度の熱傷を身体ばかりか顔にも負ってしまう。こうして、彼の闘いが始まる。

 この世の痛みとは思えない熱傷治療、想像を絶する過酷なリハビリ。変わり果てた自分の姿との出会い。今までに味わったことのない苦しみ・絶望・虚無感が絶え間なく襲う毎日。生きる意味・自分の存在意義を失った彼は、自らの足で再び死の淵へ歩もうとする。だが、彼は再び生きる道を選び、凄まじい肉体と精神の闘いの日々が続く。

 太田は、マントの男のことを最初は死神のようなものと思っていたが、実はそうではないことを悟る。男の役割は太田が死ぬことに対するの痛みや恐怖を和らげることであったのだ。彼は大いなるものの存在を感じる。そして、「生きることは辛いことだよ」という言葉は「人生とは、もともと辛いものなんだよ。重い荷物を背負って、歩いていくようなものなんだよ」と言ってくれていたことが分かる。さらに、「でも、辛いからといって絶望するんじゃない。人生というものはもともと辛いものとして与えられているけれど、それを君がどう選んで、どう乗り越えてそこに楽しみを見出していくか、その過程にこそ意味があるのだ。」と語ってくれていたのだと悟る。

 太田はそれまでの人生を振り返って、自分だけが辛い目にあっているとか、自分だけが悲惨すぎると感じ、幸福そうにしている人を見ては妬みの気持ちを抱いていたことを反省する。かつてのレースの中でも、ライバルを蹴落とすことばかり考えていて、他人との比較ばかりしていた自分を発見する。自分自身の心の持ち方が大切であり、自分がどう与えられた条件の中で自分を磨き、楽しみを見つけ出していくか、その過程に意味があるということを実感するのだ。

 それまでは羞恥心と自尊心が対になり、心の中で増殖し、自分を蝕んでいく怪物のようなものを感じ、「あれも出来ない、これも出来ない」と凝り固まっていた自分からまるでクルミの殻が割れるように(「クラッシュ」)新しい自分が誕生する。人それぞれ個人の価値観、美意識の違いがあるものの、絶望から立ち上がり、人生を前向きに生きていこうとする姿勢にはやはり共通するものがあるのだろう。太田は地獄の境地から立ち上がり、人生に生きる意味を見出していく。家族、周りの人たち、全ての人たちに感謝の気持ちを持つに至るのである。

 私は、この「ノンフィクション」を読んで、強烈なインパクトを受けた。全てが想像を絶する生の原体験に基づいており、死から生、絶望から希望への心の変遷が伝わってくるのだ。「あれも出来ない。これも出来ない。」から「あれも出来る。これも出来る」への大いなる一歩を踏み出す人間の生き様だ。自分の人生が無意味に思えたり、疲れたりしている時に、太田哲也の生き方を見習い、勇気を出して前向きな人生を歩んでいく姿勢を持ち続けたいと心から思う。(3月20日)  

 私が、人生の心の支えにしている哲人は、中村天風とジョセフ・マーフィーである。中村天風は明治、大正、昭和と政治家、実業家、著名人など日本を代表する人たちが師と仰ぎ、薫陶を受けた、日本人の心のような大人物である。人生は実に数奇であり、波乱万丈この上ない、それこそ、言葉では言い表せられないほどの大人物である。

 ジョセフ・マーフィーは神学、哲学、法学、薬学の博士号を持ち、教育家、講演家、教会の牧師として幅広く活躍、多岐にわたる研究と深い洞察力から、人間の心の原理と実践についてのノウハウを人々に提供し、悩める人々を精神的、身体的、環境的な苦しみから救済した偉大な哲人である。


 さて、中村天風の教えはというと、人間が人間らしく幸せに生きる為の方法論とも言うべき「心身統一法」と、その基礎となる宇宙観、生命観、人間観などについての「天風哲学」の二つに大きく分けられる。重要なことは、天風哲学においては、大宇宙の根源的な主体を認める点であり、宇宙の根源主体は、神仏のように、あいまいな存在ではなく、無限の力と、叡智をもっており、全てのものを調和、進化させるものであるということだ。

 
しかも、私達人間がそれぞれこの宇宙の根源主体なるものを有しており、最も多くの気を頂いている万物の霊長であるということだ。この無限の力なるものと我々人間を結びつけているものが、私達個々人の「心」である。人間の持つ「心」の思い方や考え方が、その人間の人生を良くも悪くもする。「人間は心で思っているようになる」わけだ。私達のこの世の一切合切のものは我々の想像したもの、思ったものが具現化したものであるということだ。中村哲学でいうところの「絶対積極」の精神があって、正しく思い、正しく行動したならば、運命は自然と拓かれていくということだ。
(4月5日)

一般によく、「心身共に健康で・・」と言う。この考えからいくと、自分の体が病気の時にはどうしてもネガティブな考え方になってしまい、心もすさんでしまうことになる。こういう生き方、考え方は間違っていると中村天風は言う。真の自分は肉体でもなく、心でもないという強い信念があれば、体の具合が悪くとも、気にしなくなる。あたかも他人の体が具合悪いといった感覚である。そして弱気になった心を、積極的な言葉でもって自分を奮い立たせるわけである。言葉は言霊というように、どんな悪いことがあっても、否定的、消極的な言葉は発してはいけないのである。

 中村天風は、この世の全ての生物には宇宙エネルギーの中にある「気」が流れ込んでいるという。そして「気」こそが生命を動かす源であり、人間の本質は目に見えない「気」であり、心でも体でもないと説く。しかも人間は万物の中でもこの宇宙エネルギーを最も多く受けている存在だという。天風哲学ではこの 「気」の大源を「宇宙霊」と呼び、人間の本体である「気」は心を通じて宇宙霊とつながっていると説く。

 つまり重要なことは、健康であれ、運命であれ、人生の一切合切はその人間の心次第で決まる、と断言する。
結局どういうことかと言うと、私達の自分の命の正体は肉体でも心でもなく、「気」だということである。「気」が生きるために体というもの、心というものを作ったということであり、人間は心や体に使われるべきではなく、心や体を立派に使いこなさなければならないというわけだ。

 心が宇宙エネルギーに通じている以上、その心を常に積極的に保ち続けることが大切なわけである。心の状態が積極的であると、宇宙エネルギーが自然とたくさん流れ込んでくるわけであり、あらゆる創造力、判断力、理解力、知性、直感などの人間能力を全開させることが出来るというわけだ。
(4月6日)

「潜在意識」の存在を証明、発見したのは、20世紀初頭に活躍した心理学者のフロイトである。この「潜在意識」の発見はアインシュタインの「相対性理論」と並んで、人類史上最大の発見の一つと称される。フロイトは人間の心を占める理性、知覚、感情といった部分は全体の10パーセントで、残りの90パーセントは盲目的な潜在意識で占められていると言う。そして、ジョセフ・マーフィによると、この潜在意識は受け入れたものを全て無差別に実現してしまう性質がある、という。潜在意識には冗談が通じないわけである。私達が、幼い頃に両親や、教師から繰り返し聞かされたことなどは、普段は意識しないが、完全に消え去るものではない。それらはしっかりと潜在意識に蓄えられている。そして、消極的、否定的な内容が繰り返されると、本人の潜在意識はネガティブな思いで一杯になってしまう。そうなると、まさに悪循環であり、どんどんネガティブ、消極的な考えがもたげてきて、行動もそうなってしまい、不幸な人生に陥ってしまう。中村天風はこうした、潜在意識の中の悪い考えを退治しなければいけないとし、これを「観念要素の更改」と呼んだわけだ。人間が生まれてこの方いろんなものを潜在意識に詰め込んでしまっていて、その大半はマイナス要素のものが実に多いとする。不安、恐れ、怒り、悲しみ、恨み、妬み、憎しみ等々である。それらをいかにして捨て去り、積極的、プラスの観念要素に入れ替えるか、中村天風は説くのである。(4月7日)

ジョセフ・マーフィーの言う人生の黄金律(ゴールデンルール)とは、「あなたの人生はあなたの心に描いた通りになる」ということだ。私達の現在というのは、私達が過去に考え、今も考え続けていることの総体であり、これからの将来もそうだということである。この意味で人は誰でも自分の人生の創造者であり、演出者であるということだ。その人の境遇は全てその人の心の中で描かれたシナリオ通りに起こっていると言ってよいだろう。
 そしてこのゴールデンルールというのは、宇宙の法則と言ってよく、又、個人のレベルでいうと「潜在意識」と言ってよいと思われる。そして「潜在意識」を活用出来るかどうかが、私達が人生で成功を収められるかどうかの最重要課題であるという事と言える。更に言うと私達がどう心に思うかが「潜在意識」を有効に使えるかどうかを左右すると言って過言ではない。(4月17日)

 客観的な心とは意識する心、即ち顕在意識と呼ばれる。一方、主観的な心は直感の世界であり、潜在意識である。この潜在意識をどうコントロールするかが私達の人生を充実した幸せなものに出来るかどうかを決定するものと言える。
 私達が習慣的に考えることは何であれ、私達の潜在意識の中に沈みこみ、良いことを考えれば良いことが生じ、悪いことを考えれば悪いことが生じるわけだ。この潜在意識というのは日常でも経験することである。例えば、明日の朝、早朝5時に起きようと思って寝ると不思議と5時丁度のほんのわずか前に目を覚ますことがあるが、これなど私達の潜在意識の持つ驚異的な力の一つである。その目覚まし時計が進んでいようと遅れていようとその目覚まし時計の5時ぎりぎりに目覚めるというのは誰しも経験したことがあると思う。まさに無意識に行動を起こさせるのである。それも、客観的な現実の世界においてである。
 これほど、影響力のある潜在意識であるが、私達が顕在意識として、常日頃口にしている言葉の影響をまともに受け入れてしまうという性質のものであるだけに、いくら注意してもし過ぎることはない。言霊というのはこのことから来ていると思われる。決して、否定的な言葉、怒り、嫉妬、悲しみ等々、ネガティブな言葉を使ってはいけない。潜在意識がそれを察知し、私達の人生を不幸に陥れるからだ。この点は、あの中村天風がいつも言っていた言葉「今日一日、怒らず、怖れず、悲しまず、正直、親切、愉快に・・・」に通じるものがあると言えよう。(4月19日)

オーム真理教とか、怪しげな新興宗教にのめり込んでいく人が数多いが、以前はどうしてあんなものにまともな理性のある人までもが走っていってしまうのだろうと理解出来ないことがあった。しかし、「潜在意識」のことを知ってからは、全て謎は解けた気がする。人はあることを心の底から信じれば、現実に起こせるということを結果的に経験してしまうとその新興宗教を絶対的なものとして崇拝してしまうわけだ。本人にとってみれば麻原彰晃は神様なわけだ。自分が生まれながらにもつ「潜在意識」の力がそうさせているという事実を知らなくても、本人は十分に幸せなわけだ。私自身、過去に怪しげな宗教に引き込まれそうになって怖い思いをしたことがある。その人は私に、「先祖を供養しないと不幸になる。」と言って、大金を払わないと帰さないと言って迫ってきたことがあった。私はとんでもない奴に捕まったと思い、必死で逃げてきた。これは嘘でなない。事実だ。そういう私も瀬戸内寂聴氏の仏教の本を読んだ時は本物は違うと感動した。何千年も生き抜いた本物の宗教はやはり違うと思った。だからこそ、般若心経を暗記するまで至ったわけだ。わずか262文字の中に宇宙の真理が秘められていると直感したし、自分の心がいきなり大きな広がりを持てるようになったと実感した。私は宗教を十派ひとからげに分類するなんて絶対に許されないと思う。神様、仏様であれ、要するに偉大なもの、無限の力、宇宙の真理、大いなる力、呼び名は何でも良いわけであって、各人が自分の心の中に自分の神様を持っていることに意義があるわけだ。自分が信じるものがあるかないかで私達の人生は大きく変わってくるのだと思う。(4月20日)

 私は毎日の生活の中で嫌な事が起こると、「これもパッケージ、セットなんだ。」と考えるようにしている。例えば職場で嫌な人に出会うとする。それはお給料をもらう為の代償である、と。好きな仕事を続けていこうと思えば、嫌なことはある程度我慢しなければならないわけだ。毎日、目の前で起こることが全て自分の望むこと、欲することであるわけがない。でも全体としては、幸せな生活を送っていると思えれば、人間、我慢出来る。嫌なことも色々とあったけど、そのお陰で今の生活があり、自分があるんだ、と思っていても、「現在」の瞬間瞬間には実に様々な、そうあってほしくないことが起こる。仏教では、そういった現世の嫌な出来事は全て修行なのだと教えている。人それぞれが経験せねばならない修行なのだと悟れば、心が落ち着くものだ。悟りというものは自分が幸せになる為に、心を落ち着かせるためのものであるのだ。
 そして忘れてはならないのは、「感謝の気持ち」である。いいことがあったら感謝するのは当たり前というか、普通である。それよりも嫌なことがあっても、「感謝」するのだ。どうして「感謝」と表現するかというと、せめて言葉では感謝することが大切だということだ。そりゃ、人間だから、嫌なことがあれば「このやろう」「こん畜生」と「思う」のは当たり前のことだ。それでも、いい勉強になった、こうすればこういうことになるんだ、今度はこういう目にはあわないぞ、とむしろ感謝するわけだ。私自身、過去、とんでもない人間を採用してひどい目にあったことがある。でも、自分に人を見る目がなかったのだと多いに反省したのである。自分はまだまだ成長が足りない、と、その人間に「感謝」したのである。もちろん正直言って心の底からそんな風に思えるわけがないのだが、言葉として「そう思う」ように努めたのだ。それが自分にとって結局プラスな生き方になるわけだ。
 あることをいつまでも悔やんで、後ろ向きな気持ちを持ち続けていると、結局、不幸になるのは自分だ。それは良くない。やはり、人間、自分が一番かわいいものだ。ならば、そういった何も生まない、自分の心、体を傷つけるようなことは避けたいものである。せめて、「言葉」の上だけでもでも、「感謝」を表せばきっと幸福の女神は微笑んでくれ、私達を幸せにさせてくれるはずだ。(4月25日)

 恐らく多くの人は、片足を失った人を見て非難したりしないでしょう。寝たきりになった人を見て憎しみを抱いたり、腹を立てたりする人はいないでしょう。一方、世の中には独善的な人、乱暴な口をきく人、ひねくれた人、扱いにくい人がたくさんいます。そして、彼らに対しても先の人たちと同様に接してみるというのも必要なのではないでしょうか。即ち、そういった「嫌な人」に対して、憎しみを抱かず、腹を立てたりせず、むしろ哀れみ、情けを感じてみるわけです。彼らは精神的に未熟で、自分を知らず知らずに苦しめているのですから、かわいそうな人たちなのだと。彼らは、いつも他人に対して否定的な気持ちばかり抱いているわけで、何も幸福につながるわけではない、不幸につながることばかりやっている人たちなのです。だから哀れな人たちなのです。私達はそういった人たちに腹を立てていると、同レベルに落ちてしまうわけです。そして、知らず知らずのうちに今度は自分達をを精神的、肉体的に苦しめてしまうわけです。これは絶対に避けなければなりません。ぜひ、彼らを哀れんであげようではありませんか。(4月30日)

 私達は、今まで生きてきた過去の人生の中での体験、経験を通じて、かなりの程度、固定観念を持っていると思う。人それぞれ、色々な「体験」をベースに各人の判断基準、視野、物事を見る目が備わってきたのだと思う。そして、それぞれが相当な程度、能動的と同時に受動的に形作られてきたと思う。こういった「固定観念」意識するしないにかかわらず、自分達の行動を制約してきていると思われる。「どうせ、自分には出来っこない」「今度もどうせ失敗するだろう」「自分の力ではせいぜいこんなものだろう」などと、勝手に自己批判、自己批評するわけである。
 どうも私達は、何かを行おうとする時に、自分の思考と、行動に対して、過去からの「習慣」と「知恵」と「感情」で自分自身を動かそうとする。自分の可能性を知らず知らずのうちに、押さえ込んでしまっているケースが多々あると思う。
 中村天風にしても、ジョセフ・マーフィーにしても、人間は誰しも、幸せになるべくしてこの世に生まれてきている、それぞれ、自分の使命を持ってこの世に生まれてきている、と説いている。そして重要なことは、そうなれる権利、可能性を皆が持っているということだ。中村天風はそれを「絶対積極の精神」と説き、ジョセフ・マーフィーは「潜在能力の活用」と説いている。
 私は、自分が今まで生きてきて、辛いことも悲しいこともあったけれど、今の自分を、正直、幸せな人間だと思う。それは、こういった哲人に巡り合えたこともそうであるが、毎日の生活の中で自然と「感謝の気持ち」が生じてくるのだ。やはり、人間、絶対に自分一人では生きていけないし、周りの人の助けなくてはやっていけないと思う。そして、そういう、家族、親族を含めての自分以外の人とのコンタクトの中で、あたかも、テニスラケットのガットの一つが自分で、周りの全てと一つに合体して初めて、ラケットの役目を果たす、こんな感じがするのだ。
 「絶対積極の精神」「潜在能力の活用」これらを自分の人生の中で、有意義に生かし、自分の周りの人たちを幸せに出来れば、この上ない幸せな人生が自然と訪れるような気がする。(5月4日)

 私達は怪我をします。でも、その傷に薬をつけたり、包帯を巻いていると、何日かすると痛みがなくなり、やがて傷口も消えてなくなります。人間には自然治癒力があって、本来誰にでも備わっているこの世の大いなる力と言えます。薬などは所詮、治すのを早める程度で、この治癒力があるからこそ、人間は生きていけるのです。即ち、これは生命の真理なのです。宇宙の真理といっても良いと思うのです。
 一方、私達は心の傷を負います。誰かがあなたの心を傷つけたり、中傷したり、悪口を言ったりすると、きっとあなたはその人のことを考えると否定的な気持ちになり、憎しみを覚えるはずです。ある程度仕方のないことです。でも、いつまでもその心の傷をもっていたらどうでしょう。それは、いつまでも痛みの取れない傷を持っている体のようなものです。体の傷はすぐに癒されるのに、どうして心の傷が痛み続けるのでしょうか?それは、あなたが「生命の真理」「宇宙の真理」に反して、相手を許そうとしないからです。あなたさえ、自分の心を平穏に保ち、心の傷を拒否すれば、絶対に心は傷つかないのです。
 もちろん、ここで、無理に努力して、許すという行為に拘ると逆効果かもしれません。でも、心を平静にして、他人を憎悪すると結局自分自身を憎悪していることになるのだと、自分を説得して、自分を可愛がってやることが必要なのだと思います。そういう意味で、「自分勝手」になるべきなのです。要するに、自分の為に他人を許すのです。許すことが自然であり、この世の真理だから、当然なのです。自分をもっと大事にしてやろうではありませんか。(5月14日)

 「孤立自存」という言葉があります。物は物それ自体だけで、他と関係なく存在しているという考え方です。具体的に言うと、「俺は(私は)、自分が頑張って努力したから出世したんだ。誰の世話にもならずに一人で偉くなったんだ。自分の親だって自分に大したことをやってくれたわけじゃないんだ。」と主張するのが孤立自存の考え方です。しかし、こういう考え方をしていると、必ず自分勝手な生き方になって、回りの人は誰も助けてくれず、自分に近づいてくる人は皆、利害関係という物差しだけで判断し、打算的な付き合いをする人ばかりになってしまいます。
 「般若心経」の中には「空」という文字が6回も登場します。この「空」という文字を十分正しく説明することは私のような未熟な人間にはまだまだ無理ですが、今まで得た知識から言うと、「空」に相当する、インドのサンスクリット語は「シューニャ」と言います。この「シューニャ」は動詞語根{シュー}(ふくれるの意)から作られた言葉だそうです。その原義は、ふくれて中身がからっぽであること、となります。それから、欠如、とか何もないことを意味します。数字のゼロを発見したのはインド人ですが、この「シューニャ」の語は「ゼロ」に相当します。ヨーロッパ人は当初、「ゼロ」を知らなかったそうですが、インド人がゼロの観念をヨーロッパ人に伝えたと言われています。さらに、インド人の発想としては、「ゼロ」と「空」がまったくの同義語ではなく、「空」が持っている幾つかの意味の中に「ゼロ」が入るということです。
 さらに付け加えると、「空」は「消極的な空」と「積極的な空」と大きく2つに意味が分かれ、消極的な空は、あくまで常識的な意味で捉えていいわけで、「ゼロ」と考えて良いかもしれません。それに対して、積極的な空は、全てのものは単独ではありえない、というもので、「無我」という言葉が近いといえます。
 そして、「空」とは相関関係という意味を持ち、「空が分かる」とは「物は多くの力が関わってこそ存在する」という考え方です。即ち、「無我」とは孤立自存の否定であり、他との関わりを深く認識することと言えます。
 こういった考え方を進めていくと、自然と、「お陰様」という考え方に行き着きます。私は「お陰様で・・」という言葉が大好きですが、「お陰様」の意味が分かるには相当に「無我」という考え方を掘り下げていく必要がありそうです。私は、今までの人生はほとんどいつも回りの人々に助けられてきたと実感していますが、その意味で常に感謝の気持ちを忘れないよう心がけているつもりです。そして、世の中で、自分勝手、傲慢に生きている人を見るにつけ、本当に嫌になるというのが、正直な気持ちです。(5月23日)

 先週末(27〜28日)ほとんどトンボ帰りに近い格好で海外出張してきた。出張先では、それなりに成果はあったのだが、帰りの飛行機内にてひどい目に遭ってしまった。少し、余裕を持って空港に行ったお陰(?)もあり、良い座席を取ることが出来たのだが、何と隣に座った女性がとんでもない、エチケット知らず、礼儀知らずの人だったのだ。出発ぎりぎりに乗ってきて座ったと思いきや、大袈裟なバッグを依然体に巻きつけたままで座り、首には機内用とも言える枕をつけ(異様な格好)、いきなり眠りこんだのだ。ここまでは逆に静かになって良かったのだが、こちらが食事を終わる頃、突然目を覚まし、キャビンアテンダントを呼びつけ、食事を注文した。そして、熱いお茶を座席の前のテーブルに置いて、食事の入ったお盆を置こうとした瞬間のこと。体に巻きつけているバッグが邪魔なのか、無理に食事をテーブルに置こうとしたものだから、テーブルが傾き、熱いお茶の入ったコップがこちらに飛んできたのだ。挙句の果て、こちらは、スーツのズボンがびしょ濡れの状態に・・・。キャビンアテンダントの女性は慌てて、こちらも飛び上がり、何とも言えない光景に。キャビンアテンダントさんは濡れたタオル等でズボンを拭いてくれる一方、「申し訳ございません」の繰り返し。こちらとしては、とにかく、一瞬の出来事で、お茶をこぼした隣の席の女性に腹が立つばかり。何故ならば、一言も「申し訳ないです。」「ごめんなさい。」と謝りの態度を示さないのだ。チーフパーサーも来て、申し訳ないと言ってくれるのだが、決して、彼らに非があるわけではないので、こちらとしては恐縮するばかり。もともと、隣の女性にしても、わざとこぼしたわけではないので、当初から責めるつもりはなかったのだが、何せ、謝辞の言葉が一切ないのには驚いた。この世にこんな人がいるんだなと、改めて、人それぞれなんだな、と痛感した次第。人間である以上、言葉を話すのは最低のコミュニケーションである。そして、知らず知らず、人に迷惑をかけて生きている自分のことを自覚せず、厚顔無恥に振舞っている人間には成り下がっていけないと、改めて痛感した。(5月30日)

 自分の過去の手帳に書き残してある言葉の一つ。何年か前、確か2001年だったと思う。瀬戸内寂聴さんへのインタビューの番組の中での話しだったと記憶している。親族を次々に失い、自分も大病を患い、それでも、世の為、人の為に生きているあるクリスチャンの女性の方のお言葉であった。
「神様は人間に耐えられない苦しみは与えない」
 瀬戸内寂聴さんもこの方には大変感銘を受け、尊敬をされていると話されていた。私もこの話を聞きながら、思わず、手帳に書きとめたのだった。最近は特にこの言葉に勇気つけられている自分を発見する。私達の人生に起こる全ての問題、困難、障害は必ず解決されるんだ、と。何故なら、人は生まれながらにして、解決出来ない問題は持たないものだから。これは真実だと思う。子供が受験勉強で悩むことはあっても、住宅ローンを返せないと悩むことはない、セールスマンが物が売れないと悩むことはあっても、国会議員に当選するかどうかで悩むことはない。例えは変に聞こえるかもしれないが、私達が悩んだり、苦しんだりすることは、全て、自分の心次第でどうにでもなる、そして解決出来るものばかりなのだと思う。自分が勝手に事態を大袈裟にして、苦しみ、悩んでいることがどんなに多いことでしょう。毎日、仕事していて、又、生活の中で、障害にぶつかった時に、いつも思い出すようにしている言葉である。それでも、時にひどく弱気になる自分を見つめては反省している。(6月2日)

 今日出会った心に残る言葉。
「私のやることはすべて、おまけだ。これ以上損なんかするわけがない。」
ここで言う「損」はトレーディングでの「損」に限りません。今まで生きてきたことで、資本(もと)はとれている、これからやることは全て「おまけ」なんだと言っているのです。何をやってもこれ以上悪くなるわけがないのです。これから行うことによって、人生にどんどん「おまけ」を増やしていくのです。
 今まで、とにかく生きてきたことは素晴らしいことであり、十分満足して良いわけです。この世に生を受けて、それなりに好きなことをやり、大きな病気をすることもなく、生死をさまようこともなく、とにかく、今まで、生きてきたわけです。この事実をどうしてもっと素直に喜んでもよいのではないでしょうか。
 日常のことに不満をもったらきりがありません。不満、不平、その気になれば四六時中、「材料」に事欠かないでしょう。相場の「買い材料」「売り材料」みたいなもので、いつでも、「材料」なんて何処にでもころがっているものです。「足るを知る心」という言葉があります。人生とは暗い側面を持っています。しかし、だからといって、逃避したり、ごまかしたり生きても空しいだけです。「暗さ」をどこまでも見つめることによって「暗いままの明るさ」を見つけることが出来るのではないでしょうか。どうにもならないことを、より高い次元でどうにもならない、と確認出来たら、そこから自分でなければ出来ない自分の生きる道を創造出来る、そんな気がします。とにかく、現在より先に行うことは全て、自分にとって全てプラスなんだと思うと、こんなに人生楽しいことはありません。(6月6日)

 私達は自分が心に何を描くかによって、自分の人生を決めることが出来ます。私達人間は夢を見ることが出来ます。想像力を一杯働かせて自分の輝かしい将来を心に描くことが出来ます。これは誰にも邪魔されない、私達の自由であり特権です。人間は過去、様々なものを夢に描いてきました。飛行機、船、自動車、テレビ、電話、コンピューター、きりがないほど数多くのものが、まず心の中で生まれ、それが現実に具現化され、人々の手元に届くようになりました。最初は何もなかったのに、全て人間の想像力、創造力が生み出したのです。平和、戦争も同じく、人間が生み出したものです。平和、平穏、幸福などの夢を心に抱けば、実現方向に全てが進み、逆に憎しみ、恨み、恐怖、嫉妬などを心に抱けば、同じように実現方向に現実が進んでしまいます。最悪は人間が繰り返してきた戦争です。
 毎日、心を落ち着かせて、楽しいことを思い出しながら、自分の夢を抱けば、必ず物事が良い方向に動き出すはずです。良いことを考えれば、良いことが起こるという好循環を享受出来ます。一方、悪いことを考えると、悪いことが起こるという悪循環に陥ります。これは避けねばなりません。
 そして感謝の気持ちを忘れないこと。これはとても大切なことです。感謝に満ちた態度はこの宇宙の真理につながっており、私達の心身の健康にも最重要なことです。感謝の気持ちを持って、夢を心に抱き続ければ何でも実現すると信じています。(6月13日)

 人生、何をやってもうまくいく人と、何をやってもうまくいかない人の違いは何か。色々あるのだろうけれど、私は「感謝する心」を持っているかどうかだと思う。私達は毎日生きていて、嫌なこと、辛いこと、不安なこと、怖いこと、様々なネガティブな事柄に出会ったり、感じたりする。しかし、その度に暗い気持ちになったり、腐ったりしてしまうと、幸運は逃げていく。常に、目の前に起こることは自分の人生にとって意味のあることであり、更に言えば必要なことなんだと思えれば、自然と「感謝の気持ち」が沸いてくる。もちろん、楽しいこと、いいことがあれば感謝するのは当たり前であるけれど、そうでない嫌なことにも感謝する、これが大切ではないかと思う。感謝する気持ちの足らない人はいつも恨みごととか、妬みごとをいつまでも言っているものだ。そうしていると、体も変調をきたすのは今まで書いてきた通り。「感謝する気持ち」を持ち続けていると、いつも色々なことを学ぶし、自分の将来に役立てていくことになる。そして後になって、「ああ、良い経験をした。」ということになる。それこそ、人に騙されたら自分に人間を見る目がなかったんだということが分かるし、仕事で失敗しても次の仕事で成功するきっかけになるかもしれないものだ。きっと、ディーリングもしかり、といった感じだ。(6月25日)

 「定命」とは、人間は全て死ぬこと、「天寿」とは、天から与えられている寿命のことです。
私達、人間は「定命」にも「天寿」にも逆らえません。しかし、私達に与えられているその「天寿」を如何に大切に生きるか、精一杯生きるかが何よりも大事だと思います。
 私達ほとんどの人が、出来るだけこの世を長生きしたいと考えると思います。しかしながら、自分の寿命がどれくらいか、事前に知ることは出来ません。そして、たとえ30歳の「天寿」しか与えられていない人が長生きをしなかったとか、100歳まで生きたら長生きをしたと、私は思いません。如何に自分に与えらた「天寿」を全うしたか、100%生かして生き切ったか、それが出来れば、本当の意味で「長命」だと言えるのではないでしょうか。
 以前、韓国からの留学生が、ホームから線路に落ちた人を助けようとして亡くなったニュースが人々の胸を打ちました。人々は何に感動したのでしょうか?彼は決して長く生きたわけではありませんでした。学生が他人を助けるために自らの危険を顧みずに行動したからだと思います。見てみぬふりすれば生きながらえた寿命を、自らの信念に従って行動し、使い切ったその行為に人々は感動したのだと思います。そういう意味で彼は自分の「天寿」を全うしたのだと言えましょう。
 繰り返しになりますが、私達は自分の「天寿」を知ることは出来ません。そうであれば、大切なことは、今、目の前にある一日一日を大事に精一杯生きることが大切なのだと思います。明日死ぬかもしれないし、まだ何十年も生きるかもしれません。それこそ、あと数時間先のことも分からないのです。イラクの人たちはそれこそ、あと数時間先の運命も分からずに生きているのだと思います。日本から派遣されている自衛隊の人たちもそういう気持ちで毎日を送っているのだと思います。
 だからこそ、私達は、今この瞬間を精一杯生きなければならないのだと思います。よく考えてみると、私達の不安や悩みの多くは、「次は何だ」と絶えずめまぐるしく考え悩み続けることから来ます。その「将来」への不安をなだめる最善の策とは何かと言えば、今、この時を考えることです。決して刹那的に生きるということではありません。真面目に真剣に、信念に基づいて生きるのです。私達が生きているのは今この瞬間だけなのだということを考えることが良いのではないかと思います。「一日一生、今を真剣に生きる」スタンスが大切なのではないでしょうか。人生とは、今この瞬間、今日この一日の集大成なのです。どんなに辛いことがあっても、今、精一杯生きていけば迷い、惑い、不安が消え、悔いのない人生が送れるのではないかと思います。(6月27日)

 日本には、古来「言霊」という言葉があります。言葉を繰り返し、唱えると、その内容は思い込みや確信に変わります。思い込みや確信は、自分にとって好ましい場合は好ましい結果をもたらし、好ましくない場合は、好ましくない結果をもたらします。
 私自身、日常、生活していて、耳に障る言葉を発している人に出会う、というか、人が何気なく話している言葉が妙に気になることがあります。後ろ向き、消極的な言葉、と言ってしまうと、簡単に聞こえるかもしれませんが、その本人にしてみると自ら己の口から発している言葉、こんなに悪影響のあることは他にありません。なんと言っても、直接自分の耳に入るのですから・・。自分が気づかないうちに多いに心身に悪影響を及ぼしているわけです。そして、周りの人たちにまで「不幸の気」を与えているわけです。我々とすればこんな迷惑なことはありません。
 世の中には「忙しい、忙しい」と言っている人がいます。そういう人に限って、その場でやるべきことを後回しにしたり、問題を先送りして、結局、時間、余裕がなくなり、自らを追い込み、自分の所属する組織を致命的な状況に陥らせてしまうことになるわけです。「忙しい」とは心を亡くすと書きます。心を亡くせば、体にも悪影響を及ぼすのは当然だと思います。
 私達は、人に対して前向きな言葉を使っていると、不思議と自分自身に対しても勇気、元気を与えることになります。私は「素晴らしい」という言葉が大好きです。別に意識しているわけではないのですが、良い人、良い場面、良い事に出くわすと自然と「素晴らしい」と言葉に出してしまいます。あるお医者さんが、人間、気持ちが良いと「βエンドルフィン」を対内に分泌するそうです。そうすると体調が良くなるのはもちろん、免疫力が高まるそうです。逆に、否定的な言葉を発していると、「ノルアドレナリン」という物質が体に発生するそうです。これはさっきと逆の効果を生むそうです。本当に「言葉」には気をつけたいものです。(7月2日)
 

 新約聖書の中に素晴らしい言葉を見つけたので、ここに書き留めておきたい。
「それから、イエスは再び群集を呼び寄せて言われた。「「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことが出来るものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。」」イエスが群集と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「「あなたがたも、そんなに物分りが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことが出来ないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」」更に、次のように言われた。「「人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出てきて、人を汚すのである。」」
(マルコによる福音書7.14ー23)
 私達が心に思っていること、それが全てであり、心にどういうふうに思い描くかによって、私達の人生は大きく変わると思う。外部の誰によっても自分の心は悪影響を受けるものでは「本来」ないわけであり、しっかりと自分を持っていれば、この世に怖いものなど存在しないはずである。そういった意味で「信念」を持った人間はこの上なく、強いと思う。(7月4日)

 英国の著名な哲学者、ジェームズ・アレンの著作の中に次のような箇所がある。
「人間の心は庭のようなものです。」「もし、あなたが、自分の庭に草花の種を蒔かなかったら、そこにはやがて雑草の種が無数に舞い落ち、雑草のみが生い茂ることになります。」
 しみじみと納得出来、実感として感じる文章だ。私の自宅の庭はほんの小さなものだけど、それでも、毎週末、必ず、雑草抜きをやる。最近は日常の仕事に追いまくられたり、心配事も多いだけに、週末、何も考えずに雑草を抜いていると何とも言えない幸福な気分を覚えるのである。私のほんのささやかな気分転換法でもあるが、同時に、先の引用した文の意味をよく理解させてくれるのである。毎日の生活に流されていると、ふと無性に心配になったり、不安になったりするものだ。毎日デスクに座っているだけでも苦痛に感じることもある。そんな時に、改めて自分の心の奥底を見つめて、前向きに生きる勇気を持つようにほんの少し心がけるだけで、ずいぶんと心地が違うものだ。一言で言うと、感謝の気持ちを持ち続けること、そして他人の為を思うことではないかと思う。特に感謝の念を忘れてはならないと思っている。さらに、何が身の回りに起こっても、きっと解決出来るものであり、全て何か理由があって、生じているわけであり、次なる良い出来事に向かって進みゆく一歩なんだと自覚出来るかどうかが大切だと思う。(7月19日)

 自分の願いを成就させるには、その途中のプロセスは大いなる宇宙の意思、力に任せてしまい、自分自身はただ成就した場合の状況をしっかりとイメージするのがベストだと言える。そして、成功、成就したことのお礼、感謝の気持ちを持つことだと思う。
 私は、玄関を入った所と、トイレの中に盛り塩を置くことを習慣としている。それを毎週末、日曜日の夜に行うようにしている。最初の頃は、盛り塩を置く度ごとに、「〜でありますように。」という風にまさにお祈りをしながら置いていたわけだが、この数年は「有難うございます。」とだけ言って置くようにしている。即ち、何もお祈りしないのだ。全てを大いなる力に任せる気持ちで、幸せな結果を享受させて頂いていると、まさに現在完了形の形で感謝の気持ちを抱くようにしている。何故だか、分からないけれど、気持ちが落ち着くと同時に、正直幸せな気分になるのだ。このことは「原因と結果の法則」を裏返しに解釈したものと言えるかもしれない。
 ところで、往々にして、翌日から会社が始まると思うと、どうも暗い気持ちになりがちだけれど、何があっても、何が起ころうとも、全てその次のステップに進むための通過点に過ぎないのだと思うようにする。そして、この世は「諸行無常」であると「あきらめる」。「あきらめる」ということは「明らかに究める」ということで、決して、放棄する、投げやりになることではない。結局、人間というものは、何事も納得の出来るものではない、あきらめきれないことばかり、なのだと勇気をもって積極的に認識することが大切だと思う。あきらめきれないと、怨念が残ってしまう。そうすると、決して良い結果にはつながらない。平穏、平和な心になれず、不幸を招く結果となってしまう。一種の使命感のようなものを心に持てれば人間本当に強くなれると思うのだけれど、今の自分はどうもそこまでは成長していないと思う。(7月28日)

 「マイナス言葉」は絶対避けるべきだと思う。マイナス言葉とはつまり、「ダメだ。」「疲れた。」「イヤだ。」等の言葉だ。私達は、知らないうちにマイナス言葉を口にしがちである。そして、その度ごとに、自分の心や体を蝕んでいっているのである。自分で自分を痛めつけるのは個人の勝手かもしれないが、周りの人にまで悪影響を与えるのだ。マイナス言葉を聞かされる人にとっては、たまったものではない。「いい加減にしてくれ!」となる。一般大衆紙、テレビ等のメディアもマイナス言葉の源泉となっているから困る。人々は、知らず知らずのうちに聞かされ、心身が蝕まれていくのである。例えは適切でないかもしれないが、タバコを吸う人の中には周りの人への迷惑などお構いなしの人たちがいる。自己責任で一人で吸っていれば良いにも関わらずである。電車内で平気で携帯電話で話している人もそうであろう。周りの人は同じく、ストレスを頂くことになる。そして心身共に悪影響を受けることになる。
 人間のもつ「潜在意識」というものは恐ろしい。自分で知らずに口にしているマイナス言葉が如何に自分に悪影響を与えているかを冷静に考えるべきだろう。自己を卑下し、自分を否定する言葉として刻印されていくわけだ。そして、そのうちに自分の周りの環境に変化が現れる。自分で自分の置かれた環境を悪化させていくわけだ。家庭、会社、友人関係、全てに影響を与える。そして将来のある日に突然思い知らされるわけである。
 私達はこのような事態に陥らないように心がけなければならない。即ち、マイナス言葉を口にしない、マイナス言葉に触れないようにすることだ。会社などで部下などがマイナス言葉を使っていたら、その瞬間でなくとも、落ち着いた時を見計らって諭してやるのが、本当の優しさであろう。(7月29日)

 新約聖書の中の素晴らしい言葉、ここに記しておきたい。
 「だから言っておく。祈り求めるものはすべて既に与えられたと信じなさい。そうすればその通りになる。」(マルコによる福音書、11章24節)
 ジョセフ・マーフィーの黄金律に通じるものである。マーフィー潜在意識の無限の力を用いて、強く心に思い描き、信じたなら、必ず実現すると、唱えた。聖書はまさに潜在意識の無限の力を説いたものだと解釈するわけである。私はキリスト教にはほとんど通じていないが、あらゆる宗教には何か共通するものがあるのではないかと信じる。仏教では、人間存在の根底をなす意識の流れ、魂のことを、阿頼耶識(あらやしき)などという言葉を用いている。阿頼耶識とは、蔵識ともいわれ、我々の、最も心の奥深いところにある基底的、「潜在意識」と考えるのが適切だと思う。唯識説(ゆいしきせつ)で最も根源的な識のはたらきとされるものだ。これをまた、中有の五蘊(ちゅううのごうん)とも言うそうだ。五蘊というのは「色(しき)・受・想・行・識(しき)」のことで、この蘊というのはつみたくわえるといった意味で、以上の五つが積み蓄えられて私たちの心身を構成する。「五蘊皆空」という表現で般若心経にも出てくるのでご存知の方もいると思う。
 それにしても、何千年にも亘ってこの人間社会に存続し続けてきたキリスト教なり、仏教の根幹を流れる思想、哲学に基づいた黄金律をジョセフ・マーフィー博士は現実の実社会に当てはめ、実践的に体系づけたと考えてよいのだろう。彼の功績はいくら誇張してもし過ぎることはないだろう。(8月1日)

 「般若心経」は本文わずかに262文字だけのお経の中のお経です。その中には、この世の真理、道理が凝縮されています。私は訳あって、仏教に近づくことが出来、その中の「般若心経」を諳んじれるまで暗誦しました。お陰で今では無理をしなくても自然と口に出てくるようになりました。辛い時、困った時には唱えるようにしています。
 ところで、「般若心経」の中に、「般若波羅蜜多(読みは、はんにゃはらみた)」というのがあります。菩薩の行動は全て、般若波羅蜜多行、と言われます。幸せになる為には善業を積まなければなりませんが、その為に具体的に何をすべきかを説いたものです。「六波羅蜜」と呼ばれ、「布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧」の6つを指します。
 第三の「忍辱」は「にんにく」と読みます。即ち、じっと我慢して耐えることです。一生懸命頑張ったのに、誰にも認められないとか、こちらが良かれと思ってやったことを相手が理解してくれないとか、自分の思いが相手に通じないといった時に、こうだ、ああだ、と言わずにじっと耐えることを意味します。結果を無理に期待せず、自分が正しいと信じたことを平静な気持ちでもって行い、あとはぐっと辛抱することです。
 日常生活において、いつもカッカとしている人を見て、こんなことで怒るなんて、可哀想な人だな、と思いやることです。相手を一段上の立場から見てやって、あわれみの気持ちを持ってあげれば、そう腹も立たないかもしれません。しかし、目上の人や会社の上司では、なかなかそうはいきません。そういう時は、相手のことを、観音様が変身したと考えると良いと思います。即ち、相手がこちらを侮辱したり、気を悪くさせた時には、観音様が、相手に変身して、私達を鍛えてくれているのだと思えば良いのです。そして、この状況を辛抱することが、自分にとっての試練の場なのだと思って、逆に感謝すれば良いのだと思います。そういう気持ちでいると、不思議と相手が穏やかになってきたり、こちらのことを思い遣ってくれるようになります。どんな辛い状況でも、それを「忍辱」の修業の場だと思うようにすれば、心に安らぎが訪れ、色々な難事の解決が早く見つかることにもなるのではないか、そんな風に思うように務めています。(8月4日)

 私の最高の幸せの時、それは心が安らぐ時です。自宅で一人静かに本を読んでいる時だけでなく、通勤電車で目をつぶって考えにふけっている時もそうです。何だかぼんやりとした表現ですが、正直そうなのです。日中は仕事など、雑事に追われて自分を失ってしまいがちですが、ふっと落ち着いた時、自分を静かに見つめる時が最高の幸せな時です。今までの人生を振り返り、ああ、多くの人たちに助けられて生きてきたなあ、と思い出し感じるだけで、素直に幸せに感じます。
 もちろん、相場、マーケットを見ているときも幸せです。儲けることに執着せず、ぼんやりと眺めている時はもっと幸せかもしれません。そして、ふっと閃きが現れたら、文章にして残しておこうと思うのです。直感も大事だと思うし、所謂、嗅覚というのは存在すると思います。ただ、般若心経にもあるように、物事に拘ってはいけないと思います。自由に相場を観る、と言うか、「任運自在」の境地です。「任運自在」とは、仏教用語ですが、一目山人翁も言っておられる様に、「どこでも、いつでも無理をしない、それ故にこそ自在である、自在は自ら在る、自由自在」(一目均衡表、第1巻、P38)
 仏教は「無執着の生き方を教える宗教」と言えるかもしれません。人間は執着の多い、煩悩の多い生き物だということで、その執着を如何に取り除いて生きていくかということを説いていると思います。そして、相場をやっている時がもっともこのことを経験し、学び、修業する時だと感じます。人間、何事も執着があると、それに囚われて、ものの本質を見ることが出来ない。執着を離れた心になると、あらゆるものが生きて見えてくる、そんな気がします。
 悲しみがあれば喜びがあり、喜びがあれば悲しみがある。それらを乗り越えると、囚われがなくなる。未来を思って取り越し苦労をしたり、過ぎ去った日を思って悔いていれば、痩せしぼんでしまう。現在を大切に生きていれば、身も心も健やかになるのだろうと思います。今日一日を精一杯生きることが幸せのなるための道だと思います。(8月12日)

 中村天風の名言の中でも私の大好きな誦句。
 「「 私は力だ。
    力の結晶だ。
    何ものにも打ち克つ力の結晶だ。
    だから何ものにも負けないのだ。
    病にも、運命にも、
    あらゆる全てのものに打ち克つ力だ。
    そうだ!
    強い、強い、力の結晶だ。」」
 中村天風が強調して唱えたことであるが、人間として完全な生き方をするには本当に心を積極的にしなければならない,と説く。心を清く、尊く、強く、正しく持って、絶対の存在である宇宙真理を基準として生きることを絶対積極の心で生きると言う。宇宙真理の姿は、真と善と美であるが、私達の日常生活のレベルで言い換えると、誠と愛と調和である。 
 「人間の健康も、運命も、心一つの置きどころ」「心の思考が人生を創る」と言う表現をしている。心が積極的か、消極的かという態度に応じて、私達の人生が良くもなり、悪くもなるのである。先ほどの誦句は般若心経と同じようにいつも諳んじて唱える好きな言葉である。(8月18日)

私の知人に現在自ら証券会社を設立すべく日夜奔走されている方がいる。実力、経験、人徳を兼ね備えられており、私の人生の中で久々に知り合った、心から多いに尊敬させて頂いている方である。始めてお会いしてからまだ1年も経たないのに、不思議と何年も前から存じ上げている感覚だ。しかも、以前より「般若心経」に親しまれていたとのこと、因縁を感じ、感慨無量を覚える。たまに、食事をご一緒させて頂くが、あっという間に時間が過ぎる感じだ。相場への取り組み姿勢も真摯かつ情熱を持っておられ、私はいつも刺激を頂戴している。その知人と何度か人生について論じ合った。そして、人生哲学、相場に関し、似た価値観を共有させて頂いている(少なくとも、私は勝手にそう思っている)。
 市場の世界に長くいると、この世の「不条理」をしばしば感じる。時に非常に孤独感を感じることもある。もっとも、市場だけでなく、「この世」「現世」そのものがそういうものなのだろう。ポジションを持たなければ相場観が良いにもかかわらず、自らポジションを持った途端に相場観がハズれ出すことは一般的に日常茶飯事だ。根底に流れているのは、5月9日の<コーヒーブレイク>にも書いた通りだ。市場(マーケット)の原理は「宇宙真理」の一つであると表現出来るかもしれない。その意味で「相場を究める」ということは「宇宙真理」の探究であり、挑戦であるのかもしれない。(8月25日)

 米大リーグで活躍するイチロー選手が、ついに前人未到の新人以来4季連続の200本安打の偉業を成し遂げた。この上なく、嬉しい気分だ。心から祝福したい。昨日の日本経済新聞のスポーツ欄の記事であるが、イチロー選手が目標到達を直前に意識しているかどうかとの質問に答えた時の言葉、「もし、そう思わない(意識しない)ようにしているのだったら、(実際は)そう思ってしまっているということ。思わないようにしている、思っていない、のどっちでもありませんよ。」に感銘した。と同時に、これぞまさに般若心経の世界だと思った。
 般若心経の根底に流れる思想哲学は「物事を空じること」即ち、般若心経の中での「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」である。つまり、色を人間の迷い、空を悟りとして捉える、つまり、迷いがあるから悟りがあり、悟りは迷いの上に立脚している、ということである。お釈迦様は、人間としての迷いを重ねられて、ついに悟りを開かれたわけで、無我というのはまさに人間の悩みから生まれたものと言えよう。悩みも迷いもない人には悟りはないということだろう。
 同じ状態にありながら、その人の心の持ち方、受け止め方によって、幸せにも、不幸にもなるわけだ。心に迷いを生じてくるのは、自己へのとらわれが、様々な感情や行動を生み出しているからだ。まさに、我執こそ、心の暗部と言えるのだろう。我執を離れるためには、心の働きを「空じていく」ことなのだろう。ある欲情があるが故に、清浄な心になれないことを悩むのではなく、その心そのものを制すること、それが、悩みをなくす最高の方法なのだろう。と、言うのは容易いが、行うは難しであるのは言うまでもない。しかし、イチロー選手はそれをやってのけているような気がしてならない。イチローのプレーを見ていつも感動する理由はこういうところにあるのかもしれない。(8月27日)

 「信仰」とは何か。信仰とは特定の信条や教義、特定の宗教とは何も関わりのないものです。即ち、信仰とは私達自身の心的な態度、考え方の方法のことなのです。
 信仰とは、自分が真実であると感じることを自分の持つ「潜在意識」に刻み込む、そういった意識的な力のことです。私達が日頃見たり、聞いたり、感じたりすること、即ち「顕在意識」を持つ段階で正しい、願いを持つといった選択をした上で、「潜在意識」に植え付けることによって、自分の前に結果を生じさせることが出来るのです。原因と結果の法則の別の表現と言えるかもしれません。
 「潜在意識」とは、私達人間が皆持っている創造力です。私達が願い、信じ、確信を感じることが出来れば、富、健康、平和、成功などを手にすることが出来るのです。
 ただし、現実問題としてはそのような「信仰」の実行は困難です。事実、何かを願っても、心の底で、「まさか、本当にそんなこと起こるわけがない。」と思うのが大半の人たちの感じるところだと思います。そうすると、願えば願うほど、現実はその逆のことが起こるという皮肉な結果に終わることが多くなるのです。そして、人々は皆途中で投げ出し、諦めてしまうのでしょう。
 出来るだけ、自分の心の中に葛藤の生じない表現の祈り、例えば、現在進行形でもって祈るのがベターだと言われるのはそういったことが理由です。そうした素直な心、気持ちでもって習慣的に祈ることが出来れば、願望の実現はかなり近づくのでしょう。
 そして無理をせず、自然体で、信仰を持つことが出来れば、良い結果が向こうから勝手にやって来るのかもしれません。(9月5日)

 ジョセフ・マーフィー博士の言葉に、「祈りによって懇願しようとするのは誤りです。」、というのがあります。意味するところは、私達が求めているものが何であろうと、あらゆる物事はすでに、私達の“無限の力”“潜在意識”の中に存在しているというわけです。富、健康、平和、成功、あらゆる問題の解決も全てこの世に存在しているというわけです。私達の無限の精神の創造力は計り知れないもので、今私達がなすべきことは、、解答が既に自分のものであり、、解決が必ずやってくるものだということを理解し、感じ、信じることだということです。
 そう言えば、毎年、日本の高額納税者番付の10位以内の常連である、斉藤一人氏の言葉にも似たようなものがあります。「幸せだなあ」「ありがたいなあ」と言う言葉を先に出していると、ありがたい現象が次々に起こってくる、ということです。言葉は人間にとってものすごく重要な存在であり、「心のコップ」に垂らす水が言葉であること、そして、コップの水をきれいにするためには、普段口にしている言葉を選ばなければいけない、と仰っているのです。「きれいな言葉」を使えば、幸せになれる、「汚い言葉」を使えば不幸になる、世の中はとてもシンプルである、とも仰っています。それにしても、「幸せだなあ」と言えば、幸せが、「ありがたいなあ」と言えば、ありがたいことが自分に返ってくるとは、何と言葉というものは無限の力があると同時に恐ろしいものであるかが分かります。確かに、斉藤一人氏は、「幸せだなあ」という言葉の対極にあるのが、「ため息」という行為であり、ため息をつくことは世の中で最悪のことだと仰っています。
 又、斉藤氏の話によると、ほとんどの人の「心のコップ」の水は濁っているそうです。何故なら、気がつかないうちに自分や自分の周りの人が、その濁った水を自分の心のコップに垂らしているからです。濁り水は、それまで自分が声に出してきたり、あるいは自分に向けられた諦めや絶望、妬みなどの言葉です。幸せになる為には、この心のコップの濁り水を澄んだきれいな水にすることです。その為に、きれいな水である、きれいな言葉を心のコップに垂らしてやるというわけです。そして大切なことは、繰り返すということ、いわば習慣化するということです。この点は、ジョセフ・マーフィー博士も仰っている通りです。私自身も最近は大きな難題を抱えており、何とか解決したいと思っていますが、自分の持つ「無限の力」を信じて積極的な姿勢を保ち、きれいな言葉を益々使いたいと思っています。(9月11日)

 日本の空手道を極められ、現代に生きる総合的な人間開発のための体術「新体道」を創始され講演などで活躍されている青木宏之氏が最近の著書の中で仰っている言葉、「運を開くためには幾つかの条件が整わなければなりません。つまり、“天の時、地の利、人の和を得ること。”が絶対に必要ですが、瞑想によって得られる力で、運を引き寄せることが出来るのです。さらにまた深い瞑想の中で、自分がどんなにツイているのかをしみじみ味わうと、天の恵み、神の愛、仏の慈悲に心から感謝出来るようになります。喜びと感謝のないところに運が開けるわけがありません。」には心から共鳴を覚えます。私がいつも心の中で思っていることをいとも簡単に表現されており、嬉しい気持ちになります。
 青木氏に言わせると、瞑想とは決して、難しいものではなく、宗教の修業や、座禅に拘ることはないと仰っています。瞑想とは一口言うと、「自分を無にすること」、要は精神統一の一つの方法と思えばよさそうです。それこそ、机に座っていても出来るもの、通勤電車の中でも可能なものであると言えます。私などは最近は通勤電車の中のひと時は実に貴重な自分だけの時間です。かつては、長い通勤時間は苦痛だと思ったこともありますが、ここ何年かは実に大切な自分の時間です。ほとんど、本を読んでいるのですが、周りも気にせず、自分の世界に入っていけます。まさに「瞑想」の時間です。ある意味、至福の時間帯です。
 「瞑想」をすると、心がリラックスし、良い「気」が体に入ってくるわけです。「気」とはまさに宇宙エネルギーのことであり、本来の我々人間が自ら持っているものなのです。人間本来が持っている「気」と言うものは良い「気」であるはずであり、我々の生命エネルギーなわけです。この良い「気」を活性化させるために「瞑想」は極めて重要になってくるわけです。心と体の健康を維持し、運命を切り開いてゆくためには、ぜひとも、心を穏やかにし、「瞑想」を心がけていきたいものです。(9月14日)

 最近、私の身の回りには起こって欲しくないことが頻繁に起こります。色々と原因を考えていましたところ、自分が多少弱気になっている面もあるのですが、周りの人たちが特に弱気になっている点に気がつきました。客観的に判断して、現在の自分が置かれている状況は相当厳しいことは明らかであり、どう控えめに見ても、解決には相当時間がかかると思わざるを得ません。しかし、何故こうなったのだろう、原因は何だろうと思いを馳せると、どうも、自分も含めて周りの人たちの心の持ち方が原因ではなかろうかという結論に達せざるを得ないのです。自分の上司は確かに多いに責任があります。この場で公表してしまうと問題ありなので、差し控えますが、いかなる弁解も許されないほど責任があります。その他にも多大なる過失を犯した(ちょっと大袈裟ですな表現ですが)人達がいます。どう控えめにみても糾弾されねばなりません。とは言え、こういった連中の暴走を放任したのはやはり自分を含め、支店(職場)全体の責任とも言えます。私はあるアジア系外資系の銀行に勤務していますが、おそらく前代未聞の、それこそスキャンダルに近い状況にあると冷静に判断出来ます。何人かの行員がその犠牲になる現状を目の当たりにして、自責の念にも駆られます。何としてもこの状況を打開したいと強く願っていますが、まず自分が悲観的になってはいけないこと、そして、周りの信頼出来る同僚を励ましながら、一致団結して困難に立ち向かおうと思います。困難、障害が大きければ大きいほど、克服した時の充実感は大きいなんて言うと、何を呑気なことを、と思われてしまいますが、あまり自分を追い込み過ぎず、大きな気持ちになって冷静に対処して参りたいと思っています。
 何だか、生々しい報告になってしまいましたが、私自身の原体験が今後の教訓になり、世の中の人たちに役立つ指針にでもなればと思っております。人の心というものの大切さ、重要さは幾ら強調しても強調し過ぎることはないでしょう。同じ厳しい状況、環境に対して、ああだこうだと言って逃げるのは簡単であるし、真正面からぶつからず、弱気な態度を取るのは誰でも出来ることだと思います。自分の人生を悔いのないものにする為に最大の努力を惜しまないつもりです。(9月22日)

 言葉の威力は恐ろしいと思います。人は誰でも、いつも口にする「口ぐせ」通りの人生を送っているといっても過言ではないと思います。人がいつも口にしている言葉の産物が今のその人自身の姿だということです。それほど、人が口にする言葉はその人の人生に多大な影響を与えるということです。
 しかも、日常私達が使う言葉を工夫することはそれほど困難なことではありません。日常使う言葉を意識的に変えることで、私達の人生が如何様にでも変わるのです。ある意味、こんなに自分の人生を変えることが簡単なことはありません。逆に言うと、言葉を「誤って」使っていると、私達の人生は幾らでも不幸になるのです。
 だから、私達が自分の人生を楽しく、幸せなものにしたければ、出来るだけ、言葉の選択をすることです。明るさ、楽しさ、美しさ、大きさ、等々の言葉を積極的に使うことが、大切な幸せになるためのステップだと思います。
 私達の人生をコントロールしているのは「自立神経系」だと言われます。この「自立神経系」は事実(現実)と想像(意識)の違いを区別することが出来ないと言われます。言い換えると、私達が考えていること、想っていることが自立神経系に影響を与えるわけです。このように、自立神経系は各人の意識を如実に表現することから、人間の「目的達成機構」とも言われます。従って、自立神経系は、自分が発する言葉をそのまま受け取ります。例えば、誰を誉めようが、誰を中傷しようが、それを行っている本人に入力されのです。日本に昔から伝わる言葉で「人を呪わば穴二つ」というのがありますが、人を恨む、呪うと、自分に帰ってくるということを言っているのです。まさにそうだと思います。私達は自分が普段口にする言葉を幾ら注意してもし過ぎることはないと思います。嫉妬、妬み、恨み、こんな言葉を口にしていると、結局、自分に帰ってくるのです。私も出来るだけ、前向きな言葉、積極的な言葉を口にしていたいと思います。そして、否定的な言葉を口にしがちな人は出来れば避けたいものです。(10月3日)

 5月9日の「コーヒーブレイク」に書いたことを自分なりにもう一度もう一度思い返してみました。よく、強く願ったことは実現する、と言われているけれど、どうも自分自身の過去の経験から、実は逆ではないかと思ってしまいます。一心不乱に祈る時はどうも自分を追い込んでいくような気がします。そして、自分があることを望めば望むほど、益々その望みが自分から遠ざかっていくような気がするのです。往々にして、自分があることを強く願っている時というのは、ある種、願望に対する「執着」、「こだわり」、「ひっかかり」を抱いてしまっており、もしその願望が実現しなかったらどうしようという不安、恐怖感を覚えてしまうのです。般若心経でも「心無圭げ(石偏に疑)」という言葉があります。「圭げ」というのは仏教語の一つで、「さまたげ」とか「こだわり」という意味を持ちます。ですから「心にこだわりがないこと」を意味します。さらりとこだわりなく生きよう、というのが般若心経の教えであるわけです。そのように生きていれば、「無有恐怖遠離一切顛倒夢想」、即ち、怖れることも、おののくこともないというわけです。そして、全ての誤った考えは、夢のごとくむなしいものであり、遠く離れるものである、というわけです。
 私達が、ある種のこだわりをもってある願望を一心不乱に願うことが実は、逆にマイナスの方向に向かわせるという、まさに私達が夢、願望を実現するにあたっては絶対にやってはいけないことを覚えておくべきだというふうに解釈することも出来ましょう。
 それでは、どうすれば良いのかというと、常に、「快」の状態に自分の心を保ち、こだわり、ひっかかりを持つことなく、自分の願望が、既に実現したものとして、その状況をリアルに想定、想像することが大切なのです。常に、前向きな気持ち、幸せな気持ちを感じつつ、周りの環境に感謝しつつ、目の前の些細なことに集中して毎日を生きていくことが夢、願望実現に向けての近道だということです。何事もやってやれないことはない、と常に一歩でも前に進むこと、しかも、気持ちよくリラックスして生きることが大切だと思います。(10月11日)

 前回、願望に対する執着が結果的にはマイナスの心の状態を生み出し、願望の実現を阻んでしまうということについて触れたが、今回ももう少し突っ込んで分析してみたい。
 昔、英語の文法で仮定法というのを習った時に、仮定法過去完了というのがあったのを覚えておられると思う。一例として、「I wish I were a bird.」という誰でも知っているフレーズがあるが、文法書にはこの表現は言い換えると「I am sorry that I am not a bird.」であると解説されている。簡単な文法の問題として頻繁に出題されてこともあるのでほとんどの人が記憶にあるのではなかろうか。当時は普通の「知識」レベルの認識であったわけだが、実は、願望実現の観点から、実に意味の深い真実、真理を私達に教えてくれているのだと思う。
 即ち、私達が「まだ実現していない未来」をイメージする時、どうしても、「それは実は実現しない、実現しないから残念だ、実現しなかったらどうしよう。」という現実認識、不安、恐怖などを抱いてしまうわけだ。それでも、その願望に意識を向け続けると、益々、願望に対する執着を生み出し、潜在意識自体がそのようなマイナスの心の状態に反応して、その人間をネガティブな方向に向かわせるわけだ。そしてさらに「望む未来」から遠ざかっていくわけだ。
 だから、何か願望があり、それを実現させようと思うのであれば、願望からいったん執着を外した方が実現しやすいということになるわけだ。
 ここで、現代物理学の最先端の学問の一つ、量子力学を引用させて頂きたい。量子力学とは物質の究極の単位である素粒子の運動を計算する学問(私の専門ではもちろんありません)であるが、この分野の中に「量子ゼノン効果」と言う理論がある。究めて専門的な学問であるが、簡単に言うと、「物質はそれを観察しているうちは何も起こらない。観察を止めた瞬間に物質は変化する」ということである。量子力学においては、重要なことは「観測における観測者の存在」である、と言われる。どういうことかと言うと、素粒子とは、私達が常識として考えているような決まりきった形をもった「粒」として存在するだけでなく、観測の状態によって素粒子は「波」としての存在を現してしまう、ということである。
 つまり、素粒子というのは「粒」の性質と「波」の性質を両方合わせ持っており、普段はその両方の存在が同時に重ね合わさっているのだが、「観測者」が「観測」した時、その状態の重ね合わせが崩れ、そこで初めて、その物質が「粒」であるのか、「波」であるのかが決定するということである。
 繰り返しになるが、量子力学においては、観測者の存在が大変重要な要素になるということである。そして、物質(物事)を観察するということはその物質(物事)自体に観測者が深く介入することで、物質(物事)の有様が決定されるということである。さらに言い換えると、人間の思いや願望のイメージというものは、脳内における物理的生理運動に他ならず、願望、希望などの精神的な行為は「客観的」な観測行為ではないということを意味するわけだ。何かを思い、感じた時点で、物質(物事)の物理的な運動が決定されてしまうわけである。何だか、かなり複雑怪奇になってきた感があるが、人間の脳内における生理学的な「反応」「運動」が私達の人生の生きる道筋を作っていくではないかという極めて宇宙論理、学問的な事実、法則が存在するのではないかということだ。
 ちょっと、自分でもかなり頭が混乱してきて、今後さらに突っ込んだ分析が必要な気がするが、要するに、願望に対する執着というのは、量子物理学的に言うと、ある特定の対象物に対して、観測し続ける、ということであり、その観測し続けるという行動によって、その物事の変化を止めてしまうということ、なわけだ。だからこそ、その願望を実現させようと思えば、思うほど、その執着を取り除き、大事な「快」の心の状態を持つことが大切だということなのだ。とにかく、固定観念、執着心を取り除くことが大切であり、願望を実現したんだというぐらいの余裕のある「快」の状態に如何に持っていけるかということが私達の成功への秘訣ではないかと思うのだ。(10月14日)

 江本 勝さんという方がいる。水の謎に挑んでおられ、オリジナルな視点で、身体の中の水、身の回りの水、地球上水の研究に取り組み、世界で初めて水を凍らせて、その結晶の形状から水を評価する氷結結晶技術を確立。また、波動技術のパイオニアで日本に「波動」を広めた第一人者でもある。
 江本氏によると、どうも水は人間の心を感じとるようである。というか、水は人の思いや、外からの情報をキャッチし、その結晶に表現するそうである。例えば、水に音楽を聞かせると、その音楽に応じた反応をし、自ら結晶に表現を行うのである。ビバルディの「四季」を水に聞かせると、何と、春夏秋冬のそれぞれのパートに応じて、水の結晶が変化するのである。びっくりというか、驚嘆である。しかも、その結晶が、それぞれの「季節」に合わせて、微妙にそれなりに「ふさわしい」結晶になるのである。こんなことがこの自然界に起こるのかと見せられると(彼の著書には写真で実にリアルに証明されているのである)、素直に驚かざるを得ない。
 彼の実験によると、普通の水に「ありがとう」という言葉を書いた紙を貼り付けて一晩置いたら、その水は素晴らしくきれいなものとなり、逆に「ばかやろう」と書いた紙を貼ったら、とんでもないほど汚い結晶写真がとれたなどと、写真と共に紹介されている。これらから分かることは、人の思いというものはあらゆるものに影響を与えるということだ。プラスのことを指摘すると、そういう反応をし、マイナスのこと、「欠点」を指摘すると、マイナスの反応をするのだ。私達は、自分でいかなる発想をするのも自由であるが、とにかく、マイナスの発想だけはしない方がよさそうだ。自分で自分に対して、プラスの発想をし続ければ、必ずや、プラスのことが発生すると、正に自然界からも教えられている感じがする。
 「私たちは心に考えたとおりの人間になります」と言ったのは、ジェームス・アレンであるが、自然界全てがそのような「真理」に支配されている、そんな気がするのである。(10月24日)

 私達は、生まれた瞬間から、知らず知らずのうちに自分の潜在意識の中のプログラムを形作っていくのだという、科学的事実を知っておく必要があります。幼い頃は、何の疑問も抱かずに、自分の周りで起こっていることをそのまま素直に吸収するのです。両親、兄弟姉妹、友達などを常に観察し、その価値観や行動を「お手本」にして、自分の潜在意識を形作っていくのです。特に自分の親の行動、言葉から子供、特に幼児が受ける影響は計り知れないと思います。仲の良い両親、仲の悪い両親、よく働く父親、ぐーたらな父親、それを毎日朝から晩まで否応なしに「観察」している子供は無意識のうちに自分の内部の心の記憶装置に情報を蓄積していくのです。
 そして、マイナスの情報の方がずっとインパクトがあり、子供の心の成長に甚大な悪影響を与えることになるのです。例えば、どれだけ大成功を収めた実業家の父親でも、私生活が荒れていれば、社会的な成功が決して幸せをもたらすことにはならないのだという考えがその子供にインプットされてしまう傾向があるというようなことです。又、例えば、自分に兄がいて、いつも親に叱られているのを見て育つと、その子は両親や人前では良い子ぶる傾向が高まり、警戒心をもったり、臆病な心を持つ大人に育ってしまう傾向があるということです。
 しかし、私達が大人になってしまってから、もう手遅れだ、自分の心は歪んでしまった、なんて思い卑屈になったり、まともな人生はもう歩めないなんて考えて心配になる必要はないのです。何故なら、私達は自分で自分の潜在意識を再度プログラミング出来る能力があるからです。振り返ってみると、私達は、寝床の中で、色々なマイナスのこと、悪いことを思い巡らしていたことがあると思います。罰せられたことを思い出したり、これから罰せられるのではないかとビクビクしてみたり、罪の意識や、怖れが失敗へのプログラミングを助長してしまっていたわけです。知らず知らずのうちに自分の潜在意識に悪影響を与えることを行っていたわけです。そして、この潜在意識の力というのは私達が日常、見たり聞いたり考えたりする顕在意識よりもはるかに大きな力を持っているのです。その為、いくら顕在意識で前向きなことを口にしても、潜在意識にプラグラムされたことに変化を生じさせるには多大な時間を要することになるのです。顕在意識で思ったり考えたことが潜在意識に届くまでに大きな「メンタルブロック」なるものが立ちはだかるわけです。
 私は、この「メンタルブロック」を打ち砕く上で最も効果のあるものが、「快」や「リラックス」を感じる心の状態だと思うのです。ある目標を達成しようとした時に、その目標をただ実現すべく努力するのは、言うは易しですが、現実的には、心の中で色々な葛藤が生じ、「ひょっとしたら、やはりダメではないか・・」とか後ろ向きな気持ちになるのが普通の人間だと思います。そういう時、途中経過を通り越して、目標を達成してしまった後の充実感、幸福感を先に味わってしまうような感覚が実は、最も最小の努力で最大の効果を生む成功法則だと思うのです。少なくとも言えることは、好きに楽しんで事を進められない人間は絶対に成功なんて出来ないと思うのです。よく、「私は苦労して成功を掴んだ」とかいう人が中にいますが、生身の人間が苦労を長い期間し続けられるわけがありません。ほとんど全ての人間は、結局は自分が最もやりたいことを最もやりたい方法で行っているに過ぎないのだと思います。どんなことをしていても、言い訳は出来ないと思います。何故なら、今の自分にしたのは結局は自分だからです。そして、重要なことは、自分の無意識下の潜在意識のプログラムがどうなっているかが決定的な要素であり、その潜在意識を今後どのように自分なりに再プログラムしていくかが成功、幸せへのステップだということです。(11月7日)

 数多い中国故事の中で私がいつも思い起こすのが「人間万事塞翁が馬」だ。とても有名なので、多くの人が知っていると思うが、この故事は色々に解釈出来ると思う。一つは、運不運というのは全体として量は一定であり、両方が交互に平等に訪れてくるというものだ。もう一つは、一見不運に見えることの中に幸運が隠されており、幸運に見えることの中に不運が隠れているという解釈だ。さらには、私達の身の回りに起きることは全て、幸運も不運もなく、それぞれの出来事を私達各人がどう受け止めるかである、という解釈も出来るのだ。
 私は、今までの人生の中で自分に起こったことは全て何らかの理由、目的があって生じていると思うようになってきている。何であんな嫌な目に遭わなければいけないのか、とか、ラッキーなことが続いて幸運な状況に恵まれたことなど、実はその後にどう展開していくかということを振り返って思い出してみると、それぞれがその後の出来事に繋がる上で実は大きな意味があったのだということをつくづく実感するのだ。たまにうまく事が運んでも、有頂天になってしまい、調子に乗っていると、その後思わぬ落とし穴にはまり込み、辛い展開になっていくことは現実にあった。一方で、何ともはや、辛い目に遭って、もうダメかと思っていると、誰かが助けてくれたり、辛い状況の中で出会った書物をきっかけに人生を前向きに生きてゆこうと思えるようになったことなどもある。
 後で振り返って、あれが人生の最大の転機だったんだな、と思える出来事に遭遇した自分は本当に幸せだったと思うし、そう客観的に自分の過去を振り返ることがようやく出来るようになったのかなとも素直に感じれる。自分にとってそれまでの人生で最も不幸に思えたことが実はとてつもなく幸運な出来事であることがあるというのは事実だと思うのだ。(11月30日)

 サッカー・Jリーグの第1ステージ覇者の横浜と第2ステージを制した浦和が対戦して、年間王者を決めるチャンピオンシップの第1戦が昨夜5日夜、横浜国際総合競技場で行われ、横浜が1−0で勝った。その決勝点を入れたのは、浦和から戦力外通告され、トライアウトで昨年、横浜に「拾われた」DF河合選手であった。Jリーグで過去無得点の男が大舞台で大仕事をやってのけたわけだ。その河合選手が試合後にインタビューにて語った言葉が印象的だった。
 「去年まで『見返してやる』と思っていたのが今は浦和に感謝の気持ちが強くなった。よくクビにしてくれた。」
 彼が感謝の気持ちを持ったから決勝点を奪うゴールを実現出来たのだと言っても過言ではないだろうと思う。感謝の気持ちを持つことによって人間の魂のステージが一つ、二つ上がったのではないだろうか。そして、全ての自分に起こる事象、出来事に一喜一憂するのではなく、冷静に受け止め、辛いこともこれから起こることの為に必要なことなのだと思うことが出来れば、この世に「マイナス」のことなど一つも存在しないのだと思う。人間とは自分の心の構え方一つで運命を好転させることは可能なのだとつくづく思う。それにしても、久々にすがすがしいサッカー観戦をさせて頂いた。(12月7日)

心の部屋

 「天は自ら助くる者を助く」
 イギリスの著述家サミュエル・スマイルズの書いた本で「自助論」という名著の出だしの文であり、あまりにも有名な格言である。実はこの本、今から140年以上も前の1858年に出版された超ロングセラー。「西国立志論」というタイトルで「学問のすすめ」と共に、明治の日本でも多くの青年に親しまれたが、2003年の3月に地球物理学者で有名な竹内均東大名誉教授によって再刊された。

 「西国立志論」という題に少々抵抗を感じ、今まで読まなかったのだが、今回初めて完読して、なるほど古典的名著と言われるだけの書物だと痛感した。本書が書かれた頃の世界でイギリスはまさに向かうところ敵なしの絶頂期であり、著者スマイルズによると、この頃のイギリスを支えたのは、自助の精神をもったイギリス国民であったという。

 彼は、国の発展は、国民一人一人の勤勉さ、元気さ、誠実さによって決まるものであり、反対に一人一人が怠け者であり、不道徳であれば、如何に法律を作ったり、制度を変えたりしても、国は衰退していくと説く。その後イギリスは成熟病と呼ばれる停滞期を迎えたわけだが、それは自助の心を持つ人々が少なくなったせいかもしれない。今の日本は明らかに翳りを見せているとは言えないだろうか。私達は多いに学ぶべきものがあると思われる。

 ところで、「自助論」の中には何度も繰り返すようにして、不屈の精神力、忍耐力、強い願望を持ち続けることの重要さを説いている。同時に、謙虚さや節度の大切さが如何に大切かということも唱えている。この書の中には無数の「天才」と言われる芸術家、科学者、発明家が紹介されているが、著者は決して、彼らの業績は天賦の才能によって生まれたものではないと言う。

 例えば、シェークスピア、ニュートン、ベートーベン、ミケランジェロのような天才と称される人物でも、どれほど勤勉と努力を積み重ねたかと強調する。実際にスマイルズの調べたところにより、世の「天才」達の地道な涙ぐましい努力が浮き彫りにされているのである。

 さらに、そういった科学者、芸術家があたかも苦痛を伴うかのような勤勉な努力の先に「喜び」を感じていたと、著者が述べているところに、私は特に感銘を覚えた。実はこの点が最大のポイントなのではないだろうかと思うのだ。確かに、不撓不屈の精神力で持って、死の瀬戸際まで努力を続けた、歴史の「天才」達は過程において、究極の「幸福感」を感じていたのだろう。正に最高の「快」の感覚である。

 この不朽の名作は、国民一人一人が自助の精神で、努力を惜しまず、強い精神力を持ち、道徳、謙虚さを失わずに生きれば、必ずや願望は叶うと説くわけだが、私には、以上に加えて、究極の「幸福感」「快感」を持てるまで人間が努力すれば、必ずや願望は叶うと読みたいと思う。(12月13日)
 

 「窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通ず」(「易経」)
 行き詰まってどうにもならなくなると、案外困難を切る抜ける道が見つかるものだ、という意味の格言であるが、もう少し突っ込んだ解釈をすると、自分を追い込んで心構えを変えれば、自分を含めて外部環境に変化が生じ、その結果、自分の目標、願望実現に向けての道が開けてくるということだ。

 何かを目指していて、「もうこれしかない!」という時に、自らの心構えを改め、積極的に課してゆく過程において、次第に心地よい感覚を覚え出す。そして、当初目指していたものよりはるかに高い目標を掲げたくなってくる。いわば「目標の進化」といった感じだ。そうして、うきうきした気分になってくると、その「変じる」過程そのものに幸福感を覚えるようになる。まさに「快」の気持ちだ。こういった自分自身の変化が結局は周りの外部環境も変えていってしまう。

 そして、気がつくと、大きな目標を達成している。「強く願えば願望が叶う」と言うのは容易いが、やはり、自分自身が変化して初めて生きてくる言葉であろう。自分の心構えが変化すれば、外部環境が自分に味方してくれるように見えてくるとか、さらに自分を助けてくれるような事象が生じるものだ。共時性(シンクロニシティ)なども頻繁に起こるようになる。誰かの助けが欲しいと心に思っていると、その人から連絡が入る、といったようなことだ。決して、超能力などというものではなく、誰にでも起こりうるものだ。人間の持つ可能性というのは恐ろしいくらい果てしないのだとつくづく思う。(12月22日)

 年末から年始にかけて、気持ちに余裕を持って過ごす時間が出来たお蔭で、今までの自分の人生を振り返る機会に恵まれた。

 自分の人生のことをこの場で色々と書いても、きりがないけれど、一つ確実に言えることは、自分が数多くの人達に助けられて生きてきたということを改めて認識したことだ。大学時代に知り合った友人、先輩、最初に就職した邦銀時代に知り合った知人、その後の外銀への転籍後に交流のあった人々、実に多くの人達と縁があった。その時には実感がなくても、後になって、あの時にお世話になったな、と思う方々が大勢いる自分は本当に幸せだとつくづく思う。

 池の蓮の花は表面からみるとそれぞれ咲いているように見えるけれど、根の部分が互いに繋がっていて、全てが関係あるという自然現象と私達の人生が同じように思えて仕方がない。少なくとも、自分の人生は数多くの人達のお蔭で成立しているのだと実感する。

 ある時に、嫌な人だなと思っても、後になって良い勉強をさせて頂いたと思える人、こちらがそれほどのことを差し上げていないのに、どういうわけか、気にかけて頂いていて、時ある毎にサポートしてくれる人、幾ら感謝してもし過ぎることはない。
 今年は、回りの人達にもっともっとお役に立てれる人間になろうと思う。そして、感謝の気持ちを決して忘れずに毎日を過ごそうと思う。(1月1日)

 私がかつて欧米系の銀行で共にした同僚の一人、T氏が私に語った言葉が耳に残っている。確か、こんな感じではなかったかと覚えている。
 「人間、いつも自分の死を意識していることは大切です。そうすれば、目の前のことを一生懸命やるわけです。」

 彼は、現在、自分の会社を立ち上げて立派に代表取締役をやっている。実に能力のある人物で、人生をしっかりと逞しく生きている。
 実は、私自身、12年強勤めた邦銀を辞めて外銀に移る時に多いに悩んだ記憶がある。その時に何気なく読んだ本に、喉頭がんで若くして亡くなったある有名なTVキャスターが書いた本「死は終わりではない。」があった。末期のがん患者として自分の人生観の変化や死に至るまでの壮絶な闘病生活の中で思いを語っていくドキュメンタリーである。

 死と直に向き合った人間が、自分のそれまでの価値観、信念、振る舞いに重大な変化が生じ、自分の人生で何が一番大切かを真剣に考えるわけだ。それまで重要だと思っていた社会的な価値、物質的な価値から、自分の人生の意味を探る中で、人生とは何かをより深く理解し、あらゆる出来事の下に隠されている意味を探求する。自分の人生に新しい目的を見つけ、自分が生きている意味を明確にし、その目的を実現するために以前よりきっぱりとした態度で人生に臨んでいく。新たな目的意識が、新しい人生の方向にエネルギーを与え、人生を変えていく原動力となるわけだ。

 当然の結果として、毎日の生活にめりはりが出てきて、積極的な人間へと変身する。今、この一瞬を大切に生きなくてはいけないと素直に思い至るわけだ。
 私自身、自分の究極の選択(後で振り返るとそうでもないのだが、その時は追い詰められた心境であった)をするに際して、自分が死に直面した時のことを想像するだけで、十分に自分にヒントが与えられたと感じたものだ。感謝の気持ちをもつ、自分の人生の目的を明確にする、宗教や精神世界に対する理解の深化等々、自分が少しでも成長する絶好の機会が「転職」(正確には転職ではなく、転社)であったと思う。その後の自分の人生は正に波乱万丈、毎日が修行の日々である。それにしても、T氏の言葉はいつまでも私の頭に残ると思う。(1月4日)

 毎日、私達は何を幸せのバロメーターにして生きていけば良いのでしょうか?何をもって自分は幸せだな、と感じれるのでしょうか?

 自分の欲求が満たされる状態を幸福な状況だとすれば、アメリカの心理学者マズローが説いた、欲求5段階説が参考になる。即ち、1 生理的欲求、2 安全の欲求、3 社会的欲求、4 自尊の欲求、5 自己実現の欲求、というふうに人間の動機や快楽が段階的に発達すると説明する。

 ある程度、人間にとってベーシックな要求が満たされると、その上のより高度な欲求を満たしたくなるというわけだ。言い換えれば、量的な欲求から、質的な欲求に変化をしていくとも言える。そして、高次元の「自己実現の欲求」というのは、自分にとっては完全に質的な変化である。

 細かな解説は他書に譲るとして、私は、日常の生活の中でもう少し、現実的なレベルで欲求を考えた場合、やはり、どの程度自分が幸せに感じれるかがバロメーターになる。そして、それは何を基準にすれば良いかとなると、「心の平安」ではないかと思うのだ。恐らく、幾ら社会的地位があっても、又、お金があっても、不幸な人達はいると思う。一方、本当に幸せな人というのは、「心の平安」を心がけている人だと思う。

 「自分が心の底からやりたいことをやっているかどうか」「自分が心の中でワクワクと感じれることをやっているかどうか」を基準にで自分の生活を振り返ってみると、自分の幸福の度合いが見えてくるのではないかと思う。「心の平安」を何よりも大切に生きていれば、自分の前に何が起こっても、ストレスから自分を守ることが出来るのではないかと思うのだ。(1月16日)

 米国の行動工学分野の心理学者、B.Fスキナー(1904−1990)が行った興味深い臨床実験がある。100人の人間を集め、50人ずつの2グループに分け、生活環境を変えてみたのだ。一方のグループには、何不自由ない贅沢な状況、寝たければ寝てもいいし、食べたいものも充分に与え、恵まれた環境においた。もう一方のグループには毎日会社に行き、食事もごく普通と、通常の生活を送ってもらった。

 そして6ヶ月経ってどうなったかというと、贅沢三昧の生活をしていたグループの人は昼も夜も寝てばかりいたそうである。思考する能力がすっかり低下したということだ。スキナーは「人間は行動を統制する環境条件によって統制される存在」と説いており、その環境を統制することによって「どんな人間でもつくれる」と述べている。環境決定論を彼が唱えたかどうかは知らないが、ここで大切なポイントは、つまり、恵まれた環境というのは、人の感覚を麻痺させてしまうもの、ということだろう。逆説的に言えば、障害物がなければ人間は大きく成長、発展しないと言えるだろう。卑近な例ではあるが、時間がないから本が読めないとか言うのは単なる言い訳以外の何物でもないだろう。

要するに、限られた時間の中で如何に充実した生活を送るかはひとえに個々人の心構え次第なのだろう。広い意味における困難や、劣悪な環境の下で、チャレンジし続けることによって、エキサイティングな未来、輝かしい将来が成功と共にもたらされるのだと言えるのではないだろうか。

あの偉大な作曲家ベートーベンは、27〜28才の頃、失聴という音楽家として最も致命的な逆境に追い込まれた。普通の人間にとっても音のない世界に引き込まれるということはまさに絶望の世界以外何ものでもない。まして、音楽家のベートーベンにとって如何に辛い状況であったことか、想像を絶する。それでも不屈の精神、忍耐力でもって、歴史に残る名曲を残した。彼が当時、同世代であったナポレオンに「英雄」を作曲したのはあまりにも有名な話だ。

「不可能」という言葉を控え、人間には限界があるという怠惰な常識を捨てれば、私達の前途には洋々とした未来が待っているはずだ。
(1月24日)

 

私は、野球が好きでよくプロ野球の試合を見る。面白いゲームというのは、自分にひいきにしているプレーヤーの所属するチームが勝つことはもちろんだが、やはり、相手チームにリードを許していて最後土壇場になって逆転し、それこそサヨナラヒットやサヨナラホームランで試合の決着がドラマチックに終わる場合だ。

 そして、試合後のヒーローインタビューで、選手が「無我夢中で打ったら入った」とか、「目の前の一球だけに集中した結果」と答えるのを聞くと、ああ、やっぱり人間の底力というのは神がかり的なものだな、と思うことがよくある。

 ここで、選手のよく言う、我を忘れて一球入魂の精神というのは私たちに大いに示唆を与えてくれる。人間が強く願望を抱き、その願望を実現している自分の姿をリアルに心に思い描けば、強い自己暗示となって人間の潜在意識に働き、大きな力を発揮出来ることがある。これはマーフィー理論の一つの実践でもあるが、ちょっと微妙にニュアンスが違うのだ。

 選手はヒーローになるべくヒットやホームランを強い願望で打ちたいと思う一方、その瞬間は無心の境地とか、無欲の状態になっているわけである。あまりに固くならず、力まず、むしろ、リラックスして目の前の「仕事」に没頭し、精魂を込めていくわけだ。この状態が最も自分の力を発揮出来、素晴らしい結果を残せることが多くなるわけだ。

 以上のような選手の心構えは、私達が人生にて自分の願望を実現していく上でのヒントとなる。即ち、「無欲」というと、何か欲がないというふうにとれなくもないが、決してそうではなく、自分に出来ることを精一杯やって、最後の最後は結果を気にせず、自然に任せきるようにすれば、知らず知らずのうちに自分の願望に近づけるのではないだろうか。

 「欲に目がくらむ」というのは良く言い当てている表現だと思う。周りの人間を気にしたり、世間の目を意識し過ぎると、本来訪れるはずのチャンスも遠のいてしまうかもしれない。自分の願い、願望を実現するために、努力を惜しまず、無我夢中、一心不乱に挑んでいけば、自然と結果が伴ってくると言えるのではないだろうか。(1月30日)

 

 「思いつきで答えるな!」とか、「そんな大事な事を、ひらめきなんかで決めたら危険だよ。」なんて言う人が世の中には多くいるようだが、実は「思いつき」や「ひらめき」は私達の人生においては殊のほか大切な「力」である。

 他の言葉で言うと、「第六巻」というのもそれに当てはまるものだが、これらは、私達が日頃、「リラックス」している時に多く経験する。精神状態が緊張せず、切羽詰まっていない状況下では、実に重大なヒントを与えてくれるものだ。過去を振り返って思い出してみても、今まで重大な決定を迫られた時は、実際のところは、最初に「ひらめいた」ことが、最後の結論になっていることがほとんどだ。

 身内や、友達に相談したり、それこそ、占い師に委ねた場合でも、所詮はなぐさめ、時間の無駄であり、実は既に自分の心の中に結論が出てしまっているケースがほとんどだ。ただ、自分以外の人にそれを確認して欲しい、肩を押して欲しいが為に、頼っているだけのことが多い。

そして、大事なことは、少なくとも私の場合、最初のひらめきで下した結論がほとんど全て「正しかった」ということだ。「正しかった」と表現したのは、その後、色々と苦労の局面もあったが、そこから多いに人生の勉強を出来たが故に、全て自分にとっては意味のある結論、決断をすることが出来たと思えているからだ。

私達が普段から、前向き、楽観的、積極的に生活するよう心がけていれば、「思いつき」「ひらめき」の頻度も高くなり、人生の岐路に立った時の大きな羅針盤を提供してもらえるわけだ。逆に、後ろ向き、悲観的、消極的に毎日を過ごしていると、そのような「第六感」に出会うこともあまりなくなる。出会ったとしても、知らず知らずのうちに逃してしまっていることが多くなる。

そういった「思いつき」「ひらめき」「第六巻」は絶対に掴もうと力んでも訪れるものではなく、逆に、遠のいて行ってしまいがちである。よくあることだが、試験の時にどうしても思い出せなかったことが、試験が終わって帰宅途中にふと脳裏に浮かぶことがある。後で振り返ると、何故あんなことが思い出せなかったのだろうと不思議に感じた経験のある人は多いはずだ。

 これらは、人間が神様から与えられた偉大なる能力であり、奥深いところで「潜在意識」につながっている。「自分は絶対に成功する」「自分は実現を信じている」と信念を持つことを習慣的に心がけることが出来れば、肝心な時に必ず恩恵を受けることが出来るようになる。

 卑近な例であるが、何か楽しいことがあって翌朝早く起きなければいけない時に、自分が合わせた目覚まし時計の設定時刻の直前に起きることはよくあることだ。ポイントは、「楽しい」と思って朝を迎えるかどうかであって、内容は何でもかまわないのだ。先に「リラックス」と表現をしたが、この意味は、単に精神が弛緩しているにとどまらず、「快」の感覚を持っている状態と言い換えるのが正しい。そういう精神状態の時は、「潜在意識」、宇宙の大いなる力につながっていく可能性が高まると言えるだろう。
(2月1日)

 仏教の根本原理と、「般若心経」

 仏教の根本原理とは次の三法印と言われる三つの真理です。
 「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」

「諸行無常」とはあらゆるものは移り変わることであり、「諸法無我」とは、あらゆるものは実体がないということであり、「涅槃寂静」とは、心の安らぎこそが幸せへの道だということです。この三つの教えは、仏教の根幹をなすものであり、永遠不変の真理と言われます。そして、この心理に目覚めることが、「悟り」なのです。

 人生とは何でしょうか。それは幸せの追求だと思います。誰もがより幸せになろうと、思って生きているのです。

 ところが、誰しも幸せになりたいと願うのに、人は不幸になることが多いのは何故でしょうか?それは、常住でないものを常住であると思い込み、実体のないものをあたかも価値のあるものと思い込み、心の安らぎ以外の世界に幸せを求めるからでしょう。

 「般若心経」は私たちが、迷いや苦しみの人生から、喜びと安らぎの人生に転換するにはどうすればよいか、人生いかに生きるべきかを教えてくれる、人間覚醒への教えだと言えましょう。(2月12日)

 

 作家の五木寛之氏が、「大河の一滴」という著書の中で、親鸞聖人がその弟子、唯円に向かって「さびしさ」について語る場面を引用されています。ざっと要約すると、こんな感じです。

弟子の唯円が「お師匠様、私はこのところ、なんだかさびしい気持ちがしてならないのです。・・・・なんとなく、心がさびしくなってきて涙がこぼれたりする。こんなことでいいのでしょうか。」それに対して、親鸞が答えます。「それでいいのだよ。唯円それでいいのだよ。さびしい時にはさびしがるがよい。それしか仕方ないのだ。」

 すると、唯円は、信心の定まった親鸞のようなお方でもさびしいなどという気持ちになるのかと、不思議に思い、尋ねます。そうすると、親鸞は答えて、「私もさびしいのだよ。そして私は一生さびしいのだろうと思っている。だが、私の感じているさびしさというものは、お前のと違って、骨身にしみわたるような深い重いさびしさなのだ。・・・お前もいずれそういう本当のさびしさというものが理解できるようになる。唯円よ、そのときにはそのさびしさから逃げようとか、そのさびしさをごまかそうとかしてはならない。自分を欺いたりしないで、そのさびしさをまっすぐに見つめ、その自分の心に忠実にしたがえばよい。なぜならば、本当のさびしさというものは、運命がお前を育てようとしているからなのだよ。」と言って聞かせるのです。

運命がお前を育てようとしているのだから、しっかりとそのさびしさを見つめるのが良いと、親鸞が答える場面、私は心に感動を覚えました。親鸞ほどの上級の僧侶でさえ、さびしさを感じることがあることに、驚くと共に、人間なら当然なのだなと思うと、ほっとした感覚を覚えました。そして、そのさびしさから逃れずに、真正面から見つめるという姿勢には大いに学ぶべきものを感じました。

そもそも、さびしさを感じるからこそ、そこから、本当の喜び、幸せが訪れるきっかけが生じるのであろうと思います。五木氏は希望について以下のように書かれています。

「希望というのは、片方に絶望があって、絶望の深い闇のなかから一条の光がさしてくる。私たちはただただ、明るいなかに希望を求めるといっても難しい。やっぱり絶望とか、あるいは悲しみ、迷い、苦しみなどのなかで必死になって自分の心の触手をあたりにひろげ、何かをつかもうとして動いている。そのようにいったりきたりしながら、私たちは何事かを理解する。」と。

私達はどうしても、苦しみ、不幸、辛いことを避けたがる傾向がありますが、実は、そういったネガティブな事がある「お蔭で」幸せになるきっかけが生まれるのではないかと思うのです。人が生きることは苦しみの連続であると、ある意味、達観、覚悟してしまえば、そこから一筋の光が見えてきて、まんざらこの世も捨てたものじゃない、という気持ちになり、生きる勇気が湧いてくる、そんな気がするのです。
(2月13日)

 

 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツがユダヤ人を連行し、そして強制的な収容所をつくり、その中でも最も残虐な殺戮が行われた「アウシュビッツ」のことは、以前にテレビで見たドラマ「白い巨塔」(山崎豊子著)にても物語の中で紹介され、強烈な印象として私の記憶に残っています。

その地獄から奇跡の生還をしたビクトール・フランクルという人物がそこで起こったことを記録にまとめ、「夜と霧」という本にて世に出しました。多くの人々に、人間存在の残酷さと、その中で生の尊厳を訴える永遠の書として今でも読まれ続けています。

精神医学者として嘱望され、ウィーンで研究を続けていたビクトール・フランクルは妻と二人の子どもに恵まれて平和な生活を続けていました。しかしこの平和はナチス・ドイツのオーストリー併合以来破れてしまいます。何故ならば彼はユダヤ人であったからです。ただそれだけの理由で彼の一家は他の人々と共に逮捕され、あの恐るべき集団殺人の組織と機構をもつアウシュビッツへ送られたのです。そしてここで彼の両親、妻、子供はガスで殺され、餓死させられてしまいます。彼だけが凄惨な生活を経ながらも生きのびることが出来るのです。

この本は冷静な心理学者の眼でみられた限界状況における人間の姿の記録ですが、そこには人間の精神の高さと人間の善意への限りない信仰があふれています。

しかし同時に、それはまだ生々しい現代史の断面であり、政治や戦争の醜い現実とも言えるのでしょう。

フランクルは、極限の不幸を経験します。 そして、生きていく上で、もう何も恐れるものはなくなるところまで行き着きます。人には、不幸を幸せに変える能力があるのかもしれません。そうでなければ、不幸な経験でのつらい思いが報われません。不幸を経験した人は、それだけ幸せになれる可能性が高くなったと考えてもいいのではないでしょうか。

大きい不幸という現実を受け入れることができないと、苦しみと混乱が長く続くことになってしまいます。と言っても、大きい不幸を心が受け入れてくれるまでには、誰でも相当に時間がかかってしまうでしょう。 長い時間がたてば誰でも自然に現実を受け入れることになるのでしょうが、すぐに現実の大きい不幸を受け入れることは難しいのも当然でしょう。

それでは、不幸な出来事による強いショックを受けた時には、どうしたらいいのでしょうか?ショックな現実をそのまま受けとめ、悲しみや怒りや悔しさや情けなさや不安や恐怖などの感情を今はしかたがないとひたすら受け入れようと観念するしかないような気がします。

そして、そのような状況に置かれた自分を、むしろ、「そのお蔭」で普段考えることのなかった問題に真正面から触れることが出来て、むしろ幸せだったと考えることが出来れば、と口で言うのは簡単かもしれませんが、心の底からそういう思いを少しでも抱くことが出来れば私たちは幸せに一歩でも近づける、そんな気がします
(2月17日)

 2月17日の「心の部屋」のコラムを書いた後、知人(無二の親友と呼ばせて頂きたい)からメールを頂き、非常に心配をしてもらった旨の連絡を頂いた。

彼とは日頃、様々なことをお互いに相談する間柄で、かなり突っ込んだ話もしていたからか、余計に心配をかけたようである。確かに、最近の自分は少々(正直かなり)落ち込むこともあり、悩み多い日を送っているのは事実である。

普段の自分であれば、こういう時には、どのようにしたら、元気になれるか、前向きな気持ちになれるか、努めて、心がける姿勢があるのだが、どうも、弱気の虫が出てきていたようである。なかなか自分では自覚症状がない時に限って、症状は軽くないのだというのが、彼からのメールを読んで、後になって分かった次第だ。彼には心より感謝すると同時に、そういう親友を持って私は本当に幸せだと思った。困った時に助けてくれるのが本当の友人と言うが、この度は特に実感させて頂いた。

ビクトール・フランクルの話は、いつか文章にしようと以前から心に溜めていたのであるが、「アウシュビッツ」での彼の生活の中での実体験には、書いた内容以外に、感動すべき行動が含まれていたのだ。

それは何かと言うと、人間があのような極限状態の中で耐えて最後まで生き抜いていく為には、感動することが大事、喜怒哀楽の人間的な感情が大切だと考えたことだ。無感動の後にくるのは死であると考え、強制収容所の中の友人同士と相談、話し合い、とにかく、毎日面白い話、ユーモラスな話を作り上げ、お互いにそれを披露しあって、笑おうじゃないか、と決めて実行していったことだ。希望をもつ、そして、持ち続けるためには、心の元気が必要であると、精神科医としてフランクルは「診断」したわけだ。

 心に元気がない時には、なかなか希望も湧いてこない。心を元気にする方法は色々あるけれど、ユーモアや好奇心を持つことが、心を元気にする方法の一つなのだと考えたわけだ。「希望」は、空想でも妄想でも良い、心の中が少しでも明るくなれば良いわけで、それこそ、絶望しているよりもずっと良いわけだ。そこから「快」の状態が生み出されるわけだ。明日も知れない極限状況の中で笑い話を作るという、フランクルならではの行動が奇跡の生還を遂げる上で大きな役割を果たしたのではないかと思われるのだ。

彼のこういった「前向きな」行動について書こうと思っていたら、前回のような内容になってしまったわけだ。そして、私の親友が心配に思って連絡をしてくれたわけである。繰り返し、彼の思いやりには感謝したい。同時に、私は、こういう形ではあるが、フランクルの大事な一面、行動を文章に出来たことを嬉しく思う。今の自分にも当てはめて、出来るだけ、暗い面ばかり見ずに、明るい面を積極的に見て、「快」の気持ちを忘れずに前進してゆきたいと思う。今回は人間の心の大切さを改めて実感した次第である。(2月19日)

 

 斎藤一人氏の名著「絶対成功する千回の法則」は、さわやかな読後感を頂戴すると同時に、その内容を自分自身実践した(し続けている)本の一つです。

斎藤氏は「言霊」の力が如何に大きいかを説かれます。地球上で言葉を使うのは人間だけであり、だからこそ、人間は無限の可能性を秘めていると言われます。そして、「きれいな言葉」を使いなさい、そうすれば幸福になれる、汚い言葉を使えば不幸になる、世の中は実にシンプルだ、と説かれます。

きれいな言葉というものは、意識して使う必要があるとし、その理由は人間の脳と関係があるとします。人間の脳は本能的に自分の体を守ろうとする為に、悪いことが起こる前提で物事を考えている、そうです。人間は様々な不安を自分で作り出して、勝手に思い悩むのです。しかも悪いことにその悩みや心配事を声に出してしまうわけです。そこで、斎藤氏が勧められる「習慣」があります。以下の言葉を繰り返し、口に出すことです。

「幸せだなあ」

「やってやれないことはない。やらずにできるわけがない」

「豊かだなあ」

「ありがたいなあ」

以上の言葉を繰り返し声に出せば、心をきれいにしてくれるわけです。この繰り返すことに意味があり、千回も口に出せば、神様が力を私たちに貸してくれると言います。そこからチャンスが驚くほど自然とやってくるというわけです。先の言葉の中には願いが既に叶ったということにして、願望を先回りして、感謝までしてしまうところにポイントがあるようです。そして自然に「幸せだなあ」という言葉が出てくるわけです。毎日の生活の中で、何気なくわずかな時間を見つけてはトライしてみては如何でしょうか。(2月21日)

 何か問題が生じた時、私たちはどのように対処すれば良いのだろうか?

1)解決可能か、不可能なことか、考えてみる。可能であれば、解決するための方法は何がベストか、考えて、それを実行する。2)不可能であると判断すれば、もはや悩むことはやめる。

 実はこんな簡単なことが出来ないのが私達の人生だ。何か問題が生じて、いつまでもああだ、こうだと悩んで時間ばかりが過ぎていく。ある意味、頑張りすぎている人に多いのかもしれないが、変な「欲」さえ持たなければ解決の糸口が見つかるのかもしれない。回りに出来る奴と評価されたい、皆があっと驚くような企画を出したい、というような「欲」を持つ人には、自分を買いかぶっているケースが多い。そんなに肩肘を張らずに、楽にすれば、案外解決出来るのかもしれない。否、悩みが減るのかもしれない。自分の手に余るものは必要以上に背負い込まないのが良いのかもしれない。

 それでも、責任ある立場の人は、これではいけない、何とかしなければ、と考えてしまうのが世の常だ。えてして、自分を追い込んでしまいがちである。そして、精神的に参ってしまう。残念なことに、回りの連中がその頑張っている人に気づかず、援助の手を差し伸べない。ある意味、ありがちなケースだが、当の本人は益々自分を追い込んでゆく。

 それでは、いったいどうすれば良いのか。「開き直る」ことではないかと思う。あれこれ、悩んでも仕方ない。そう観念して、開き直ったところから、解決策が出てくるものだ。とにかく、ジタバタせずに悩むことは止めて、天命を待つことが近道なのではないだろうか。決して逃げているわけではない。それが、生きる術のような気がする。本当の意味で自分を楽にさせる。そこから、道は開ける、そんな気がするのだ。(2月28日)

 経営コンサルタントとして名高い、船井幸雄氏は、経営者として何が大切かについて、現在の船井総研社長の小山政彦氏の言葉も交えながら、以下のようなことを仰っています。

経営トップに手腕や技能といった「人間力」が備わっていれば、企業を育てるという意味で優秀な経営者であるかもしれないが、性格、気質など人間の本質といった「人間性」がないと、一流企業であり続けることは出来ない。夢を実現するには「人間力」が必要だが、実現した夢を維持するためには「人間性」が必要だ、と。

経営者は、組織体のトップとして、従業員やその他多くの人々の生活に影響を与える意思決定をしなければならず、そこには迷いは禁物であると思われます。しかも、まさにオールマイティな能力が備わっていなければならず、加えて健康等の純然たる経営以外の要素も必要となってきます。

私の心より尊敬する友人は現在、証券会社設立に向けてまさに東西奔走し、全精力を傾注させる日々を送っておられます。時々会っても、ひしひしと、全投資家、全社員の気持ちを察し、一日でも早く会社を設立して、離陸させようと懸命に努力している姿勢が痛切に感じられます。私の胸にもじ〜んとくるものがあります。そして、彼を見ていると、「人間力」だけでなく、大いなる「人間性」を兼ね備えていると感じるのです。

「人間性」を備えた経営者というのは、この世の「自然の理」(この世を動かしている原理)に従って生き、一生懸命努力、勉強している人であり、夢を実現し、世の中を良い方向に変えていく、まさに「人材」以上の「人財」と言えましょう。この日本経済が長き低空飛行から本格的な回復を目指していく中で、特に我々日本の金融界が世界の中で取り残されないよう、新進気鋭のリーダーが待ち望まれます。心より、彼の成功を祈ってやみません。(3月2日)

 

私は「男のロマン」という言葉が大好きだ。別に「女のロマン」がないわけではないけれど、私は男なので、今まで自然と口にしてきたフレーズである。

それでは、「男のロマン」とは何だろう。私の心の中では、以下のように解釈している。地位、名誉、お金などに、とらわれず自分がこの世に生まれた使命感のようなものを感じつつ、好きな事、得意な事を世の為、人の為に行い、心の底から喜び充実感を感じながら打ち込めること、といった感じだ。沸々と、心底から満足感を味わえ、時間が経つのを忘れ、精神的疲労感もなく、充実感を感じることが出来、周りの人からも感謝され、生きていて良かった、と至福の感覚だ。

今の自分を振り返ってみると、現状は「決してうまくいっていない」状況である。それでも、何とかしようと思っている。何とか出来るのは自分だと思っている。決して思い上がりではなく、自分の責任、任務だと認識している。ある意味、自分の人生の中で最大のピンチかもしれない。自分は今までかなり恵まれていたと正直思う。何か困難が生じても、どこからか解決策が現れ、又、先輩・友人が助けてくれた。不思議なほど、自分はラッキーだったと思う。しかし、今回はかなり今までとは違う。

ひょっとしたら、神様が自分を試しているのかもしれない、そんな気がする。どこまで真剣にやれるか、人生目標に対する志の高さを確かめる為の最大の試練であるかもしれない。決して逃げず、真正面から問題に直視し、挑んでゆきたい。それが、今までお世話になった人たちへの恩返しかもしれない。(3月12日)

 今日は「花粉症」も気になり、一日中家の中でぼ〜と過ごしていた。最近の難題を考えつつ、昔社会人になった頃のことを何気に思い出していた。

大学を卒業して、縁あって入社した日本の銀行で最初に配属された部署は京都市内のとある支店であった。当時、入社したての新人は全て各支店にて基礎的な銀行業務を学ぶ。しかし、学生からようやく抜け出た程度の若輩が先輩行員並みに戦力となれるわけもなく、自分より若い先輩女子行員に毎日ご迷惑をお掛けしながら、札や硬貨の勘定をし、そろばんと格闘するわけである。当然のことながら楽しいわけがない。

そんなある日、支店のNO.2の次長が、「そのうちに毎日銀行に来るのが楽しくなるよ。とにかく、手を動かして、一刻も早く皆の力になることだぞ。」と仰った。彼は所謂たたき上げの、「泥臭さ」のある典型的な昔のタイプの銀行員であった。

当時は毎日の仕事が本当に単調で、無味乾燥に思えたものだ。中南米向けのシンジケートローンなどに興味を持ち、将来は大きな仕事をやろうと大志を抱いて大手銀行に入ったつもりの自分としては、日常の銀行業務がつまらなく思えたのだ。

著名な心理学者、チクセントミハイが提唱した「フロー理論」というのがある。彼は人間の行動の動機付けの問題を解いているのだが、人の喜びというのは、仕事であるとか、遊びであるとかに関わらず、何かに没頭して喜びや楽しみを覚える状態、即ち彼の言う「フロー」の状態が人間の行動を決定付けると説いた。

 一般的には、人間というのは、金銭、地位、名誉などに対する期待や、処罰や不名誉に対する恐れなどによって動機付けられるとされ、チクセントミハイはそれらを「外発的報酬」「外発的処罰」と呼んだ。

 一方、いかなる報酬を生まなくても、その動機が内部にこみ上げてくる喜びや楽しみである場合、それらを「内発的報酬」と名付けた。

 よく言われることは、「仕事」は自分自身の心からの願望に逆らって過ごすもの、「遊び」はたとえ無益であっても好きなことをすることだ、とされている。事実、昔、日本の銀行に入りたての私にとっては、毎日の「仕事」が自分の心の底からの願望に逆らって過ごすものという気持ちが強かった。まさに「外発的処罰」を受けないための「労働」であったわけだ。

 しかし、チクセントミハイはそうではなく、即ち、「仕事」か「遊び」という二分ではなく、人間にとって、「外発的報酬」か「内発的報酬」かの区別が最重要になるとしたわけだ。

 そして、彼によると、何かに没頭して、喜び、楽しみを感じることの出来る人間、即ち「フロー」の状態にある人間は、「好運」を招き寄せることが出来、結果として、幸せな人生を送れるのだと説いたのだ。

 人間が「フロー」の状態にあると、偶然が次々と起こり、出来事が収まるところに収まり、障害が消え去る。人生は無意味な戦いではなくなり、納得のいく目的と秩序の感覚に満たされる。フローは人生を変える莫大な力を秘めている、と彼は提唱するのだ。

 私は、市場部門に配属されてからは、自分の仕事に楽しみを感じ始め、気がつくと「仕事」に没頭する毎日を送っていた。毎日銀行に行くのが楽しみになっていた。その意味で、「フロー」の状態に入っていたのかもしれない。

私は、持論として、幸せな人生を送るには「快」を大切にすることが重要だと思っているが、チクセントミハイの理論は私達の心の状態、好運へのプロセスについて極めて説得力をもって解き明かしてくれていると思うのだ。(3月13日)

 最近、私は「瞑想」の時間を心がけて持つように努めています。悩みが多いこともありますが、「瞑想」していると、何となく落ち着き、安らかになれるのです。私の場合、「瞑想」中は全ての記憶が一瞬消えるような気持ちになります。

そして、現実に起こっているゴタゴタに動じることがなくなり、しばらくの間とはいえ悩みが消えます。まさに「涅槃」(ねはん、仏教用語)の境地と言った感じです。

私は、「瞑想」時には「般若心経」や「十句観音経」を唱えるのですが、唱えている間は、心経を思い出すのではなく、口が勝手についてくるといったイメージです。心経を唱えながら、その日にあったことを客観的に見つめ直すといった感じです。

そうしていると、ほんのひと時ですが、とても穏やかな気持ちになれるのです。こういう風に書くと、奇妙な人間だと思われるのが少々心配ですが、正直なところです。そして何故か、不思議と力がみなぎってくる気がするのです。(3月17日)

  お釈迦様が説いた話の中で、心に残る、好きな一説を以下に紹介します。

『比丘たちよ、まだ私の教法を聞かない人たちは、苦受にふれられると、憂え、疲れ、悲しみ、胸を打って泣き、なすところを知らず。彼らは二種の受を感ずる。身に属する受と、心に属する受である。比丘たちよ、たとえば第一の矢を持って射られども、さらに第二の矢をもって射られざるがごとし。』(増谷文雄「仏教講義」)

 お釈迦様は、人の受ける「受(感覚)」はみな同じであるとされるわけです。しかし、仏の教えを聞いた弟子と、教えを聞かない凡夫との違いは何かについて、説明をされるわけです。

我々は何か苦しいことに出会うと、心の中にはまず、不快の感情が起こり、拒否の感情が起こる。その感情は、普通いつまでも私達の心をとらえて離さないものです。この何か苦しいことが「第一の矢」であり、その後に心に突き刺さるのが「第二の矢」なわけです。お釈迦様はこの「第二の矢」をどう避けるかが、処理するかが大きな問題であるとされるわけです。

そして、彼は、苦しいことはもちろん、楽しいこともまた同じであると言うのです。私達は何か楽しいことに出会うと、心中にはまず、快の感情が起こり、愛着の感情が起こる。その感情もまたいつまでも私達をとらえて離さないものです。

しかし、美しい花はすみやかに散り、愛するものともいつかは別れなければならない、楽受に愛着することはそのまま苦受につながる、かくて、私達は、また、憂え、悲しみ、胸を打って泣き、なすところを知らざるものとなる、と説くのです。

お釈迦様は決して、私達人間が、感情を圧殺したほうが良いと言っているわけではないのです。そんなことをすると決して人間のよい生き方ではないわけで、実際不可能である訳です。

彼が戒めているのは、感情に溺れ、感情に囚われ、感情に圧倒されることは決して人間の正しい生き方ではないと言っているのです。そういう意味では、お釈迦様は理性を重んじる考え方の持ち主であったと言えるでしょう。

そもそも、仏教では、「禍」と「福」、「幸」と「不幸」を区別しないようです。全ての物事は善悪を超越した「空」と見ます。「禍福」「幸不幸」は決して別物ではないとするわけです。そういうふうに考えると、日常の悩み事について必要以上に考えこまなくてよさそうです。つまり、胸に突き刺さる「第二の矢」を避けることが出来るわけです。

目の前の新しい事態、しかも、あまり望ましくない事態を受け入れる時、つまり「第一の矢」が飛んできた時、それ以前の過去や価値観にとらわれていたら、事態は悪くなる一方です。新しい事態は固く硬直した心ではなく、柔らかな心で受けとめ、しなやかに対処するのが、「第二の矢」を避ける極意だと言えそうです。

 つまり私達の心の持ちよう一つで人生が大きく変わるのではないかと思うのです。実際こんなことを書いている私自身は最近の悩み事にどう対処すれば良いのか考えている毎日であり、今まで学んだ先人の教えに改めて感謝するこの頃です。(3月21日)

 

 「天国で君に逢えたら」「ガンに生かされて」を読んで

 日本人で唯一、8年間ワールドカップに出場し続けた世界的プロウィンドサーファーである飯島夏樹氏が、2002年5月肝細胞ガンと診断され、2度の大手術と様々な治療を施したにもかかわらず、肝臓は悪化、2004年6月に余命宣言を受ける。同年8月に慣れ親しんだハワイに家族で移住、最後の時まで執筆活動に生きがいを見い出しながらも、今年2月28日に享年38才にて亡くなるまでに書き上げた2冊のドキュメンタリーである。

 私は、死を意識して生きることほど、積極的なものはないと思っている。一日朝起きて、夜寝るまでの時間を自分の一生だと思えば、どれだけ前向き、能動的に生きることが出来るだろうか、と思う。それまで、自分で価値があると思っていたことが、どうでもよくなり、日頃気づかなかった些細なことに意味を見い出し、回りの人々に感謝の気持ちを強く感じるようになる。

 事実、飯島氏は、著書の中で、「だから、ガンになって、苦しんでいることにありがたみを感じた。全く不思議な思いである、『ガンになってよかった』なんて・・・。」とまるで不治の病に対して感謝するのである。妻と幼い子供4人を残して先立つことへの恐怖、悲しみ、無念さで一杯であるはずの本人が、余命僅かなところで、それほどの感想を残せるとは、自分ならきっと無理ではないかと思わせる、まさに魂の叫びである。

 彼自身が確実に死に近づきつつある中で、次の言葉に出会う。

「どうしたらすばらしい、愉快なことが楽しめるか」を問う代わりに、「今どんな善いこと、正しいことをなし得るか」をたずね、あるいは、この究極の目的のためにどのように自分の状態を改めたらよいかを絶えず問うことに、あなたの全思考力を向けているならばー
あなたが住むこの世界について、全く違った、より満足すべき観念が得られるであろう。(中略)そうなると、さしあたり、善を行う機会さえあれば(この機会がないことはまれだ)、あなたの生活がいくぶん苦しかろうと楽であろうと、また、あなたが健康であろうと病気であろうと、そんなことはこれまでより、ずっとどうでもよくなるだろう。」(ヒルティ『眠られぬ夜のために』)

 彼は病に侵されたお蔭で、全てのものが善きものに変わった、と思えるようになるのだ。尊敬出来、頼れる主治医のアドバイスを受けれる状況の中で、やはり彼は感謝の意を表明する。「僕は恵まれすぎるくらい恵まれている。終わりの時に向かって、地図も持たぬまま脅えながらよろよろ歩くか、それともしっかりと地図を見ながらふんふんと納得し、安心してその道を歩くかでは、随分違うと思う。」、と。 これ以上は、私自身がいくら感想を書いたところで、大して意味があるとは思えない。むしろ、著書の中で彼が書いている文章を幾つか引用してみたい。

 「終わりの日を垣間見ることによって見えてくるものがある。その日を感じる事によって、優しくなれることがある。
天命を全うする。
天から与えられた最後の仕事を全うする。
その方が今の僕には興味がある。
天に宝を積みなさい、という言葉がある。なざなら、この地上でいくら宝を蓄えても、虫食いと錆でどうしようもなくなってしまうから。」

「どの人も“怒りの人”になっている。“怒りの人”を見るのが、あるときから僕はとてもつらくなった。なぜなら、“怒りの人”の行きつく先に希望はない。たとえ何か得をしても、幸福も安らぎもないと僕は感じる。最終的に辿り着くべきなのは、受け入れること。結局はそこへ行くべきではないだろうか。」

「僕は選手時代の長い間、船とマークを結んだ見えないスタートラインをベストタイミングで切ることに夢中になっていた。見えないスタートライン。決して他人との戦いではなかった気がする。どちらかと言えば、わがままでコントロール不可能な自分自身との感情との戦いだったと今は思う。
―こうあるべきだ。自分はこうならなくてはいけない。
そんなつまらない小さな思いに、右へ左へ心をかき乱されていた。しかし、結果は違った。
―いつもその時その時に、自然から与えられる見えない風といかに調和し、与えられた環境でいかにベストを尽くすか。
その時はよく分からなかった。でも、今はほんの少し感じることができる。」等々。

 飯島氏の書き残した文章は又、紹介したいと思う。(3月28日)

 たまたま、体調を崩して読んでいなかった日経新聞夕刊に目を通していると、14日付けの記事「さらりーまん生態学」に幸田真音さんの投稿があった。

先月17日よりしばらく入院生活をされていたとのこと、しかも手術もされたとのことで、今は経過も良く、しばらくすると元通り仕事にも戻れそうとのこと、安心はしたものの、正直言って驚いた。

幸田さんとは、仕事の関係で取材を受けて以来、連絡を時々やり取りさせて頂いており、幸田さんの小説のストーリーの中での市場関連の話題について突っ込んだ話題提供などの機会を頂戴している。今や押しも押されもせぬ経済小説界のリーダー的存在であり、財務省・財政制度等審議会委員の要職もこなされるパワフルな方である。日本銀行の福井総裁も彼女の作品「日銀券」は特に関心を持って読んだと言われたそうだ。人間的にも、作品完成に向けての真摯な姿勢には心から打たれるものがあり、妥協を一切容赦しない冷徹なまでの作家執念を感じさせつつも、きちんとお便りを下さる心優しい温かみのあるお姉さまである。

そんな幸田さんが、今回の入院中に感じられたことをお書きになっていて、「ベッドで何気なく寝返りを打つことや、ひょいと起き上がること、洗面所で両手でザブザブ顔を洗うことなど。たったそれだけの行為に実はどれだけの体力が必要で、人の手を借りずに自由に出来るのがどれだけありがたいか。」と、日頃忘れがちな、ささやかな出来事に「人間の幸福」を改めて見出されたとお書きになっている。そして周囲の人々の温かさを感謝されるということを忘れておられない。

私自身も今回、実に久しぶりに体調を崩したこともあり、まるで、「シンクロニシティ」を感じたほどだ。そして、病気になって寝込んだことは私達の人生にとってやはりそれ自体に意味があるものであり、時に「必要」ですらあるのだ。このことを幸田さんは以下のように投稿を結んでおられる。「走れなくなったときは、それなりの走り方が見つかってくるものだ。短いように見えても、案外長い人生。たまには『倒れるもよし、休むもよし』である。」と。(4月16日)

 私の家には犬がいる。名前は「もも」という。「忠犬ハチ公」という言葉があるが、犬というのは何て人間と相性が良いのかとつくづく思う。

主人(一応、私ということにさせて頂く)が帰る時の出迎えはもちろんのこと、朝出勤する時も、玄関まで見送ってくれる。この愛犬「もも」が先日すい臓炎とかいう病気で入院した。家族で誰も入院したことがないのに、飼い犬が始めて入院したわけだ。入院する前、確かに症状はあったように記憶する。やたらと泣き声をあげていたのだ。

 特にどこかにぶつけて怪我をしたわけでもないのに、突然小さな声であるが、泣き出したのだ。変だな、とは思っていたが、入院するその当日の朝もいつものように、私の出勤に合わせて無理に起きてきて(そのように見えた)見送ってくれたのだ。振り返ると、相当我慢をして体を動かしていたのだと思うと、とても不憫になった。犬というのはなんて忠実なのかとつくづく思った。

犬は、こちらがどんなに不機嫌でも嫌な顔一つせずに、尻尾を振って近づいてくる。もちろん、こちらが相手にしないと、しばらくは様子を計りながら、距離を置いているが、しばらくすると、いつものように近づいてくる。そして、傍に寝転がる。そのしぐさが実に可愛らしい。

 そういう姿、行動を見ていると、自分が何故、つまらないことで不機嫌にしているのかと、反省させられる。こちらの喜怒哀楽など一向に気にせず、ただ、相手のことだけを考えて生きているように見える。「犬畜生」という言葉があるが、それは本能をむき出しにして生きる姿を人間が反面教師として、反省の意を込めて自制心を説くべく作った表現であろう。人間界には「畜生」は多く見られるが、犬の世界には「畜生」はいないのかもしれない。

犬は右脳が発達しているというか、左脳が発達していない分だけ、嗅覚をはじめ、各種の感知能力が人間をはるかに上回っていると言われる。人間は、生まれた時に持っていた自然の感知能力を次第に失い、社会生活を営む中で右脳の能力を後退させ、左脳中心の生活をする。

 自然治癒力も犬の方が人間よりはるかに優れていると、あの中村天風もインドでの修行の時に学んだ。私たち人間が犬から学ぶべきものが実に多くあるように思えてならない。「人への感謝の気持ち」もその一つのように思える。

 ある意味、犬は魂の成長において人間より進んでいるのかもしれない。何か嫌な出来事があれば、犬に教えを請うのも良いのかもしれない。考えてみると、犬は英語で「Dog」というが、逆から読むと「God」である。思わずそんな気持ちで愛犬「もも」を見てしまった。そう言えば明日5月1日は「もも」の4回目の誕生日だ。
(4月30日)

 心が素直でやわらかく、やさしい人ほど、多く傷つくという宿命を負っているのかしれません。
 
 苦しくて、淋しいから、人は自分の苦しみや悲しみを誰かに訴えたくなるのかもしれません。 何かにすがりたくなる。このことはごく自然な人間の行動だと思います。そして、そこに宗教が生まれるのでしょう。

 あらゆる宗教は、人の苦しみを救う為に生まれています。キリストも、釈尊も実に様々な人の苦しみの訴えを聞いておられます。

 人間が自分の頼りなさに気づいた時に、何かしら超越的な存在に憧れるのでしょう。
 
 世の中には「無神論者」と自ら言う人、言われる人が多いですが、それでも、自分自身の何か頼るものをもっている人が多いと思います。というのも、人間はそれほど強い存在だと思わないからです。

 どんな自信家でも、病苦に出会うと、苛立ち、怒り、焦るものであり、淋しくもなるものです。自分の弱さを知るのもそういう経験をしてこそだと思います。

 本当に自分の弱さを知った人だけが、人のはかなさを認め、真の優しさを持てるようになるのかもしれません。そういう辛い経験を出来るだけ人生の早いうちに「出来た」人だけが、幸せに一歩でも近づけるのかもしれません。 (5月3日)

 「最近は仕事上のストレスから元気がない。」とか、「ストレスで病気になった。」ということをよく耳にします。一般家庭でも嫁と姑との確執などでストレスが生じる場合もあります。又、「今の人は我慢が足りない。」とか言う人もいます。果たして、そうでしょうか?そして、ストレスとはどのようにして起こるのでしょうか?

本来、私たちは、かけがえのない人生において「我慢」などしてはいけないと思います。我慢や忍耐をあまりに強いると、私たちは息が詰まり、心の底に鬱憤がたまってしまいます。そしてこの状態が続くことがストレスの最大の原因です。ストレスは自分を殺して生きることから生じるのです。

それでは、我慢や忍耐をせず、ストレスを抱え込まないで生きるにはどうしたらよいのでしょうか?それには、まず、相手のことを認めることが大切です。自分のことだけが全てと考え、「俺が、俺が」「私が、私が」という姿勢があまりにも露骨に出るため、それが周囲に受け入れられなくなった時に、ストレスという形でその人の神経を逆なでし苦しめるのです。そして、家族や周りの人への感謝の心を失って利己主義になればなるほど、結局は自分で自分を苦しめることになるのです。

だから相手のことを考えて、認めることからスタートするのです。決して相手は変えられない、でも自分の心構えは変えられる。それぞれの人間にはそれぞれの立場があり、全て訳があって、そういう言動をとっているのだ、というぐらいこちらが心に余裕を持つようにすれば、す〜っと肩の力が抜けて楽になれるのだと思います。

  私たちはやはり自分が一番かわいいはずです。決して、無理をして我慢をしたり、忍耐をしてはいけません。そういう状態を防ぐためにも、そして、自分を守るためにも、さらりと相手のことを考えてやりましょう。感謝の気持ちを忘れずに接しましょう。そうするとストレスと無縁になり、健康にもなれるはずだと思います。
(5月9日)

 昨日はすでに終わった日である。過去にとらわれない生き方が出来、期待を持ち続け、自分を信じることが出来れば、成功への道は出来たも同然です。以下の詩は明日への勇気を与えてくれます。

 昨日は去った----それは単なる夢
 過去にはただ記憶があるのみ
 希望という名のスクリーンに投影される明日は
 幻影か、ただの見せかけか

 昨日の病をなぜ嘆き悲しむことがあろう?
 思い出を悲哀の色に染めることがあろう?
 明日には起こらないことを
 なぜ思い悩むのか?

 昨日は去った----二度と戻らない----
 残されたのは平穏と安らぎ
 明日を知る人間はいない
 そこにあるのは希望と信頼

 私の手にあるのはいまこの瞬間だけ
 無駄にするも、うまく使うも私しだい
 私の未来は
 今日の私の生き方しだい

 いまこの瞬間、私は過去と未来をつくっている
 過去と未来を選んでいる
 いま私がしていることで
 いま私が口にした言葉で

 だから私は未来を恐れない
 過去を悼むこともない
 今日できることすべてをしているから
 いまこの瞬間を生きているから
 あたかもこれが最期のように
 あるいはそうなのかもしれない
 だれにもわかりはしない
 だれにわかるというのだろう?
 (T.Cハワード) (5月16日)

 オランダの心臓病専門医ウィリアム・ヴァン・ロンメル博士が唱えた説に、人間の意識と肉体とは本来別の場所にあり、両者をつないでいるのが脳である、というものがあります。

 そして、意識は人間界の上層部にて互いにつながっていて、これがスイスの著名な精神科医
カール・ダスタフ・ユングが提唱した「集合的無意識」ということなのではないかと思います。「集合的無意識」は人類普遍の「愛」をつなげるものであると思います。

 私達の「思い」は遠く離れた人にも通じると言います。テレパシーという表現もありますが、決して「超能力」というわけではないと思います。私たち人間が誰でも生まれながらにして持っている能力だと信じています。

 こちらが会いたいなあと思っていたら、その人から突然連絡がある、といった「シンクロニシティ」(共時性)は私たちが日常でも経験することです。もちろん、その「偶然」を単なる偶然として見過ごすか、それとも、大いなる意味があると思って、自分なりに吸収し、何らかのアクションをとったりするかどうかはその人次第だと思います。

 私は、最近、この「シンクロニシティ」なるものをよく経験するようになりました。多分、自分の気持ちを楽にして、素直に自分の心に従っているからだと思います。そして、この「シンクロニシティ」を生かすかどうかは、本当に自分次第だと感じます。これからの輝かしい未来に向かって、前向きに生きていく為にも、自分の心に素直になれればと思います。

(5月22日)

 人生、諸行無常、所詮このようは短く、はかないものと、言うのは簡単ですが、それでも、やはりこの世に生きる価値、意味があるのでしょう。「魂の成長」が今の世に生きる目的だと思います。

 そのためには、嫌なこと、不幸なことを経験するのが最高の近道のようにすら感じます。もちろん、その瞬間、その時期はとても辛いし、誰も経験したくないと思います。それでも敢えて言いたいです。今までの自分の人生に起こったことは全て意味があったんだと思うことが大切だということを。

 刹那的な生き方は何も生まないし、決してやってはいけない。目の前のことに一喜一憂しても始まらない。「輪廻転生」を私は信じます。過去、現在、未来、全てつながっているのだと思います。だからこそ、魂の成長があるのだと思います。どうせ死んだら終わり、そんな風に考えることはやってはいけない、と思います。短い人生、自分の好きなことを勝手にやって生きればいい、そんな考え方では決して幸福にはなれないと思います。

 この短い人生に「自分の魂の軌跡」を残せるように毎日を「一日一生」のつもりで生きていきたいと思います。そうして、自分の魂を向上させることが大切ではないでしょうか。「悔いのない人生」という言葉の真の意味はそういうことなんだと思います。(5月29日)

私の大好きな詩の一つに、アメリカの詩人であるサミュエル・ウルマンが書いた「青春」という詩があります。希望がいかに大事なものかであることを説いており、どんな挫折があろうとも、希望を失ってはいけない、希望を失うと心がしぼんでしまうということを伝えてくれます。希望を失わない限り、若さも失わないということですね。如何に詩を引用します。

「「 青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。

  優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、

  安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。

  年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。

  歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。

  苦悶や、狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年

  月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。

  年は七十であろうと、十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。

  曰く驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる

  事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く

  求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

    人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる。

    人は自信と共に若く 失望と共に老ゆる。

    希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる。

  大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして

  偉力の霊感を受ける限り人の若さは失われない。

  これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、

  皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ

  人は全くに老いて神の憐れみを乞うる他はなくなる。 」」

  

   (脚注) 逞しき(タクマしき)がっしりしてつよい

     怯懦(キヨウダ)おくびょうで気の弱いこと

     却ける(シリゾける)後退させる

     孤疑(コギ)疑ってためらうこと

     恰も(アタカも)まるで ちょうど

     芥に(カイに)ごみ

     曰く(イワく)言うのには

     星辰(セイシン)星のこと、辰は天体のこと

     欽仰(キンギョウ)つつしみあおぐ

     剛毅(ゴウキ)意志が強固で不屈なこと

     悲歎(ヒタン)悲しみ嘆くこと 歎は嘆と同じ

     蔽い(オオい)遮蔽する
                                              (6月5日)

 この世には、決して無駄な経験はないと思います。もちろん、楽しいこと、嬉しいことは誰しも経験したいことであり、生涯に亘りほのかな思い出として、いつまでも私たち自身を幸福な気持ちにさせてくれるものであり、とても歓迎すべきものでしょう。

 しかし、一方で、辛いこと、嫌なことも、決して無駄になるとは思いません。その時、その場ではこんな経験は二度としたくない、と誰しも思うのでしょうが、後になって振り返ると私たち自身の人生の年輪を内容のある、意味深いものにしてくれるはずです。

私自身、過去に人間不信に陥ることが何度かありました。そのうち一度は最悪なものであり、その人間を心の底から憎みました。自分が助けたその同じ人に裏切られた時の辛さ、無念さは形容し難いものでした。ある信頼している先輩氏とそのことで話す機会があった時、「神様はどこかで必ず見ているものだよ。」と言われ、ほっと心が救われる思いがしたものです。

私たちは、この世に、何のために生まれてきたのでしょう。思うに、様々な喜怒哀楽を経験し、魂を向上させるためにこの世に生を受けたのではないでしょうか。そうであれば、苦しい思い、辛い思いを経験すればするほど、人間は貴重な経験をし、学ぶことが出来るのだと思います。

 その結果、人間の魂はより高次なものに成長・発展を遂げるのです。強い憎しみに苦しんだ経験があるからこそ、強い愛を経験することが出来るわけです。日常の出来事で例えるなら、空腹感があるから、「ああ、おいしい」と感じることが出来るのであり、くずついた天気があるからこそ、晴天のすがすがしい天気の素晴らしさが経験出来るのです。

 又、人間関係がうまくいかない時があるからこそ、人と分かり合えた時の喜びがあるわけです。そういう意味では、辛いことは、次に喜ばしいことが起こる前触れだと言えます。苦しみに直面した時に、逃げずに深く向き合えば、その分、私たちの魂は磨かれて、強い光を放つようになるのでしょう。

 それぞれの局面では、そんなこと言ってられる場合ではない、と思うのが普通の人間でしょう。しかし、少し時間が経って、後で振り返ることが出来た時に、「ああ、自分は辛い思いをしたけれど、人間的に成長したのだ。」と思えるだけで、私たちは心身ともに救われるのではないでしょうか。決して、神様は見放さない、そう私は信じています。

 世界的ロングセラー「死ぬ瞬間」で死の概念を変え、生涯を通じて「生と死」の考察に深いまなざしを注ぐ精神科医、キューブラー・ロス女史による、最初で最後の自伝である「人生は廻る輪のように」(The Wheel of Life,1997)にて、出会った心に残る名言を幾つかこの場で挙げてみたい。

1)「人生の個々の出来事は、たがいに噛み合わないように見えるかもしれない。だが、私は経験を通じて、人生に偶然などないということを学んできた。起こったことは、起こるべくして起こったのだ。」

2)「誰だって、生きていれば辛苦を経験する。つらい経験をすればするほど、人はそこから、人はそこから学び、成長するのだ。」

3)「逆境だけが人を強くする。人はいつも私に死とは何かと訊ねる。死は神々しいものだと、私は答える。死ほど安楽なものはないのだ。生は過酷だ。生は苦闘だ。生は学校に通うようなものだ。幾多のレッスンを課せられる。学べば学ぶほど、課題は難しくなる。」

4)「困苦なくして歓喜はない。それを私は学んできた。苦悩なくして、喜びはないのだ。戦争の悲惨がなければ平和のありがたさが分かるだろうか?エイズがなければ、人類社会が危機に陥っていることに気づくだろうか?死がなければ生に感謝するだろうか?憎しみがなければ究極の目標が愛であることに気づくだろうか?」

5)「峡谷を暴風から守るために峡谷をおおってしまえば、自然が刻んだ美を見ることは出来なくなる。」

本文を読めば、以上の彼女の名言の背景、意味が手に取るように分かる。スイスで過ごした少女時代、難民救済活動、ナチス強制収容所で出逢った蝶の壁画の謎、医師への道、結婚とアメリカへの移住、終末期医療と死の科学への取り組み、夫との別離、体外離脱体験、詐欺及び殺人未遂被害、ヒーリングセンターの設立、放火による全ての消失、等々。生々しい実体験からくる強烈なインパクトを私達に投げてくる感じだ。そして、最終的に、明日への希望と感動を与えてくれるのだ。(6月25日)

 昨今、スピリチュアリズム(心霊思想あるいは零交思想)に関する書籍が世の中に増えつつあります。私の理解では、江原啓之氏の功績が大きいと思います。彼は霊的真理を追究して20年近くになりますが、今でこそ、一種のブームのような状況ではあるものの、以前の日本は、「怪しげなもの」「危なっかしいもの」というイメージが強く、世の中で受け入れてもらい難い風潮があったと振り返ります。実は欧米諸国では、スピリチュアリズムに関する研究は進んでおり、実際に霊能力者が日常のカウンセリングに多く用いているようです。注目すべきは、キリスト教(新旧共に)が広く普及している欧米諸国であるにもかかわらず、決して教祖的色彩はなく、むしと技術者的な色合いが高いということです。日本におけるそれは、仰々しい面が強調されていると言えます。誤解があってはならないのが、「宗教」があって、「霊的世界」があるわけではなく、「霊的世界」があるのが先で、それを昔の霊能力者達が現世の言葉で表そうとしたのが「宗教」だということだそうです。

 今回、ご紹介するのは、「聖なる予言」という題名で、一見小説風の形を取っていますが、霊的世界、精神世界になじみやすいように実に巧みに構成された読み物です。著者、ジェームス・レッドフィールドはこのように言っています。「アメリカでは、過去30年にわたって、スピリチュアルな気づきに関する興味が高まっていますが、多くの人々が本書を読んで人生にも確かに思い当たるところがあると感じるからです。20世紀も終わろうとしている今、多くの人々が人生において、より大きな満足感と目的意識を求めています。そして、本当の人生を生きるためには、真のスピリチュアリティが必要と感じているからでしょう。」

 本書の中で、著者は「聖なる予言」として、九つの「知恵」を順番に紹介していきます。若干回りくどい表現が続きますが、逆にじんと胸に残るものがあります。出来るだけ、簡潔に要約して、ここに紹介したいと思います。

第一の知恵

その人の人生を変える不思議な出来事に気づくこと。つまり、何か大きな力が働いていると感じ取ること。この目覚めは、自分の人生は霊的にひもとかれてゆくものであり、多くの不思議な偶然の一致によって導かれる旅であるということを体験した人々が一定の数に達することによってもたらされる。

第二の知恵

過去500年間続いた現世的な、生き残りと安楽だけを追い求める思い込みに気づくこと。そして、新しいより完全な世界観を持ち始めること。この物質主義的で技術万能の思い込みは、通過しなければならない重要な一段階ではあったが、その後、人生における偶然の一致に気づくことによって、私達は地球上での人間生活の神の目的と宇宙の真実の姿に目覚めてゆく。

第三の知恵

人間は自分の欲する方向へ注意を向けることによって、自分のエネルギーをその方向へと放射することが出来ることを知る。存在するすべてのものは聖なるエネルギーの場であり、私達はそれを知覚し直感することが出来る。特に自然の美しさに気づくことによって、人間はエネルギーの場を観察することを学ぶ。さらに、そして、私達の思いによって出来事を早めたり、遅くしたりすることが出来、人生に生ずる偶然の一致の起る速度を早めることが出来る。

第四の知恵

人間は現実問題として、ほとんどの場合、聖なるエネルギーの源から切り離されており、そのために無力感と不安感を感じている。エネルギーを得るために、人間が互いに相手を出し抜き、支配しようとするのは、外の世界の具体的な目的の為だけではなく、心理的な高揚感を得るためである。こうしてうまく他人を支配できた時には、私達は自分が強くなったように感じるが、相手は力を失ったように感じる為、しばしばその力を取り戻そうと戦いを挑んでくるものだ。この無意識の、限られたエネルギーを奪い合う競争こそ、人々の間のあらゆる争いの根底をなす原因である。

第五の知恵

不安や暴力は、私達が内なる神のエネルギーとつながる時に消滅する。この感覚は、あらゆる宗教の神秘主義者たちが語っている神との合一のことである。体が軽くなったような感覚・・・浮遊感・・・と、愛にあふれた感覚は、このつながりが本物かどうかの尺度と言える。私達は他人をコントロールすることをやめる必要がる。さもないと、私達は宇宙のエネルギーの源から切り離されてしまうからである。

第六の知恵

内なる神のエネルギーと常につながるようになると、このつながりを失った時は、それにすぐ気がつくようになる。普通、私達がストレスを受けている時は、このつながりを失った状態であり、その場合、私達は、往々にして他の人々からエネルギーを盗もうとする。ところが、自分が無意識で行っているやり方に自ら気がつけば、内なる神とのつながりは更に強まり、次第に、自分の人生の成長への道と、霊的な使命と、世界に貢献する方法を発見出来るようになる。私達の平和な落ち着きは、どれくらい宇宙のエネルギーにつながっているかの尺度である。

第七の知恵

自分の使命を知ることによって、不思議な偶然の一致の流れが早まり、私達は自分の運命へと導かれてゆく。まず、自分の知りたい問題を明らかにし、次に夢、または白昼夢、直感が、その答えへと私達を導いてゆく。通常、こうした夢や直感は、他の人々がもたらしてくれる智恵と同時に起ることが多い。自分が生まれた霊的な理由が分かり、自分が本当は何者なのか明らかになり始める。本当の自分を知り、自分がどこに進み、何をしているのかの教示を受けることになる。私達の人生は、自分自身を成長させる道を見つけ出すためのものである。

第八の知恵

自分の人生に現れるすべての人々にエネルギーを送ることによって、偶然の一致が起る頻度を高めることが出来る。他の人々にエネルギーを送るのは特にグループの中では効果的である。メンバーの一人ひとりが、他の人すべてからエネルギーを感じることが出来るからだ。すべての人々の中の美しさを見ることによって、私達は、その人々を最も聖なる自己にまで高めることにより、その人々から必要なメッセージを受け取るチャンスを大きくすることが出来る。

第九の知恵

私達がみなその霊的な使命の完遂に向かって進化するにしたがって、生存のための技術的手段は完全に自動化され、人間はその代わりに、自己の成長へと焦点を向け始める。このような成長は人間をより高いエネルギーレベルへと高め、究極的には私達の体を霊体へと変容させる。そして、現次元と死後の次元が結合して、生と死のサイクルは終わり、永遠に生き始める。
(7月3日)

 私の理解では、神様(大いなるもの)は私達の人生を長期的な視点から判断した上で、時には幸運を与えてくれたり、また時には最善を尽くしたにもかかわらず、試練を与えたりするのです。私たちは皆、この世にそれぞれの使命を持って生まれてくるのであり、多くの試練を経て「学び」を行うわけです。そして、「魂の向上」を目標に今世を生きていくのであり、その過程で、神様は私たちに「学びの場」を与えてくれるのです。

 実は、私は大学受験に失敗して第2志望の大学に行くことになったのですが、受験直後に出身高校に入学試験結果が送られてきて、その内容を見て大変ショックを受けた記憶があります。というのも、第一志望の大学(法学部)にたったの1点差で落ちたのです。法学部が最難関であったので、他の学部であれば、全て合格点に達していたわけです。さすがに、この苦い思い出は、長い間自分の心の中でくすぶり続けました。正直言って、自分の心の底にコンプレックスが残ったと思います。

そして、ず〜と後になって、ようやく以下のように思えるようになりました。「神様は自分に長い目で見て最高の結果を与えてくれたのだ 敢えて第一志望の大学を落とさせて、第2志望の大学に行かせたのだ」そして、その理由は、「神様は自分を成長させるためにその後の人生を選択させたのだ」と考えることが出来るようになったのです。

そうすると、不思議とそれまでの悶々とした思いが消え去り、幸福感が生じてきたのを覚えています。ただ、私の場合は、家庭の経済的な事情で国立大学にしか行けなかったことで、進んだ学部が法学部と全く異なった学部になったことを自分で納得するのに、相当時間がかかったような気がします。加えて、その後の自分の人生において、就職、転籍等、数多くの進路選択を迫られたのですが、各場面にて、自分の進路はベストであったかどうか、大いに疑問に感じる点はあったわけです。しかし、それら全ての決断においても、神様は私に最高の選択を与えてくれたと、今は思えるのです。

幸せとは、幸せに「なる」のではなく、幸せで「ある」ことに気づくことが大切だと思うのです。神様が私たちに与えてくださるのは、現世利益ではなく、様々な経験を通じての成長であり、魂の向上であると思います。そして特に苦しいこと、辛いと感じることを通じて、大いに学ぶのだということ、この世に生まれた意義があるのだということを再認識することが必要ではないかと心から思うのです。
(7月31日)

 世の中には「プラス思考」というのと「マイナス思考」というのがあります。
 例えば、自分が希望していたK大学の入学試験に失敗して、第2志望のO大学に進学することになった時に、どう考えるか?

「マイナス思考」
ああ、がっかりだ。せっかくあんなに勉強したのに、念願のK大学に受からなかった。仕方がないとは言え、僕の人生は敗北だ。果たして、O大学で一生懸命勉強に打ち込めるかどうか自信がない。

「プラス思考」
K大学には入れなかったけど、O大学にも良いところがあるかもしれない。あまり落ち込んでも親も悲しむだけだし、出来るだけ前向きにやってゆこう。

 一般的には、マイナス思考は何も生まないし、良くない考え方だということで、プラス思考が勧められます。当たり前のこととして何の不思議もありません。


 ここで、もう一つの思考方法があります。「ブレイクスルー思考」というものです。ブレイクスルー(現状突破)という考え方は、そもそもどなたが提唱したのか知りませんが、私は、飯田史彦氏という福島大学の経営学の先生がお書きになった書物で読んだのを覚えています。飯田氏が「生きがい論」三部作(「生きがいの創造」「生きがいのマネージメント」「生きがいの本質」)にて問いかけている永遠の命題「人生に如何に生きるか」の哲学・考え方の根底に流れている思考方法が「ブレイクスルー思考」だと思っています。9年近く前に買った彼の代表作「生きがいの創造」を改めて読み直して、自分の人生哲学に共鳴するものを感じた次第です。

さて、先ほどの大学受験失敗の試練に対して、「ブレイクスルー思考」だと、どう考えるかというと、
 僕は確かに、第一志望のK大学の入学試験に落ちて第2志望のO大学に行くことになったけれど、これにはよほどの理由があるに違いない。その大学では、自分の人生にとってとても重要なことを学ぶかもしれないし、将来の仕事につながる恩師や友人に出会うかもしれない。ひょっとしたら結婚相手と出会うのかもしれない。結局、僕は長い人生の中で最高の学校に進学したのだ。それなりの理由があり、必要だからこそ、O大学に行くことになったのだから、これから楽しんで大学生活を送ろう。

このように「ブレイクスルー思考」というのは、「プラス思考」をはるかに凌ぐ積極的な前向きな考え方、思考方法なのです。そして、単なる考え方というよりも、その発想、考え方をする理由があるのです。この点については、これからゆっくりと、この「心の部屋」にてお話してゆきたいと思っております。
(8月20日)

 私たちは日常生活や仕事において、何か理不尽なこと、不条理なことを受け入れざるを得ない時に、どのように対処すればよいのでしょうか?煮えたぎる怒りを少しでも抑える為には、どのような心構えが必要になってくるのでしょうか?今回は難しいことは考えずに、あくまで実践的な方法論として対処方法を考えてみたいと思います。

一つの方法は、「これで、一つのカルマが消えた」と思うことです。カルマとは自分が過去に犯した広い意味での罪や負債のことです。とにかく、嫌なこと、辛いことが自分に起これば、「これは良い兆候だ」と努めて思ってしまうのです。そうすると、心がふ〜と穏やかな気持ちになり、平静な状態に戻ることが出来ます。因果応報の法則とか、因果関係の法則という言葉も聞きますが、根底に流れていることは同じだと思います。ちなみに、斎藤一人氏は、何か悪いことが起こると、「因果が一つ消えた。有難いこととして感謝することが大事。」のようなことを仰っています。

私たちが人生において経験することは実に膨大な「出来事」「事象」の連続、重なりであると同時に、互いに密接に繋がっています。その全ての結果として、今の「自分」があるわけです。そして、知らないうちに周りの人達に迷惑をかけたり、お世話になっているのです。時には、広い意味での「罪」を犯しているかもしれません。このことから、自分が回りに対して負っているものが存在するわけであり、「カルマ」が積み重なってきていると言えるかもしれません。

もう一つの方法は、この世は「学校」だと考えることです。私たちがこの世に生まれてきたのは、「学ぶ」為であり、人間性の向上であるわけです。魂の成長と言い換えても良いかもしれません。思い通りにならないのが人生であり、だからこそ、価値があり、色々なことを「学ぶ」わけです。嫌なことがあるから、楽しいことが分かり、まずいものがあるからこそ、美味しいものが分かり、悲しいからこそ、幸せな思いも出来るのです。「魂」とかいう表現をすると、怪しげな人だと思われるかもしれませんが、私は決してある特定の宗教に属しているわけではなく、ただ、人類普遍の真理について言及しているのです。

前回のコラムでも書きましたが、「プラス思考」「マイナス思考」に加えて「ブレイクスルー思考」があります。そして、全て自分に起こることには意味がある、起こるべくして起こっている時もあり、全ては順調な学びのプロセスなのだと考える「ブレイクスルー思考」(飯田史彦氏)はこの世を「学校」と考える根拠とも言えましょう。生まれる前の「魂」「意識体」である時には、経験出来ないけれど、この世である「物質世界」にいることによって、始めて与えられる試練(死、病気、人間関係の悩みなど)は、わざわざ私たちがそれらを通じて「学ぶ」為なのでしょう。
(8月23日)

 毎年高額納税者番付上位におられる、斉藤一人さんの言葉の中で印象に残っている好きな言葉があります。

 「天命を信じて、人事を尽くす」です。

 一般的には「人事を尽くして天命を待つ」ですが、斉藤さんによるとどうも順序が逆のようです。私達は、向こうからやってくる未来を恐れる必要はなく、自分の身に起こる問題で解決出来ないものはない、と言います。何故なら、それらは天命だからです。神様がこの問題をやってみろと言って私達に与えてくる。そして、この問題は全部、自分達が出来るものばかりである。だから、それらがやってきたら、精一杯やる。人事を尽くすわけです。そうすれば、何も怖いものはない、と斉藤さんは言います。

 未来は勝手に向こうからやってくるわけですから、予めその準備など出来ないわけで、全て出来事が起こってから、その対策をすれば良い、ということになります。実に、明快な論理です。私自身の考えも斎藤さんと同じで、この世で出会う問題は全て、予定されていた「問題集」であると考えます。しかも、各人が努力すれば解ける問題ばかりなのです。私達は、生まれる前に、そう計画を立ててくるわけです。

 ある、敬虔なキリスト教徒で、親族を次々に失い、自らも大病を患いながらも、世の為人の為に生きている方が、「神様は人間に耐えられない苦しみは与えない」(昨年6月2日の『心の部屋』で紹介)と仰ったことも、同じ流れの考え方だと改めて感じた次第です。(8月28日)

 私達は、苦しさや辛さを感じる時に、精神的に成長するのだと思います。そういう意味で、苦しみを喜び、辛い出来事で自分を磨いているのだと思い、全てを神様が与えてくれた試練だと考えれば、苦しみは苦しみでなくなるのでしょう。

 私達の中には、全ての試練を克服することの出来る力が備わっているのだという「真理」に気づき、信じることで、救われるのだと思います。

 「うつ」というのは現代の病として一般的なものですが、実は、「うつ病」そのものは存在するものではなく、「気の滅入るような考え」を抱くという行為が存在し、それに罹っている人が存在するというだけなのでしょう。何を得たとか、未だ何を得ていないとかいった考え方は、比較的先進国に生きる人々がもつ考え方であり、それが故に、「うつ」が生じるのでしょう。後進国と呼ばれているところに住む人々には「うつ」はあまり存在しないと言われるのはそういったことが原因なのでしょう。

 悲しみとは、金、健康、愛、友達等々が充分にないと考えてばかりいることで、「不足の観点」から世界を見る習慣のことを指すのでしょう。一方、喜びとは、「自分は満たされているという観点」から世界を見ることを指すのでしょう。自分が持っているものをひたすら感謝する気持ちがあれば、幸運の扉が開かれていくのだと思います。

 一つの方法論ですが、何か辛いことが起きた時に、自分を「観察者」の立場として「客観的」に見ることが出来れば、絶望感に陥らないと思います。自分をあたかも、外から第三者的に見る、判断する習慣はぜひつけておくと役立つと思います。
(9月25日)

 星野富弘さんという方がおられます。

彼は、高校時代、器械体操に親しんだ後、大学を卒業、群馬県高崎市の中学校に体育教師として赴任してわずか2ヶ月後の放課後のクラブ活動において空中回転の模範演技の際、頚髄損傷の大怪我をします。それ以後、首から下が麻痺した体となってしまい、まったく寝たきりの病院での毎日を過ごし、絶望の淵をさ迷い続けます。

星野さんのお体の方は以前と変わりなく首から下は麻痺状態のままです。しかし、星野さん自身は、何度も自殺を考えた頃とは打って変わって、怪我をして良かったとまで述懐されるほど大きく変わられます。その間、聖書に出会い、聖書のある言葉を見つけた時、自分がまだ健康で聖書について何も知らないで飛び回っていた頃からすでに、神さまはそのことばを自分に与えて下さっていたのだと思われたそうです。そして、「労する者、重荷を負う者、我に来たれ」との言葉を発せられたその方(イエス)のそばに行きたい、素直について行きたい、と思われたのが洗礼に導かれた動機とのことです。まさに、イエスとそのことばが星野さん自身を死から命へと移し変えたのです。

その星野さんが著された著書の中で、感動した箇所を幾つか紹介したいと思います。そのまま引用させて頂きます。

「 人間て、ぜいたくに出来ていると思った。
  呼吸の苦しみ(というより死の苦しみといったほうがいいかもしれない)から
  今度は声が出せないということが、最大の苦痛になってしまった。

  
 体を動かせない、うなずけない、声も出せない、ということは自分の意思
  を人に伝えることがほとんど出来ないということでもある。

 目は口ほどにものを言う、とはよく言われるが、そうなってみると、目もたいして役には立たなかった。自分の言いたいことが、他人に分かってもらえないというのもつらかったが、何も出来ないというのも苦しかった。

 身動き出来なくても、声が出せた時は、話をして気を紛らわせることも出来た。しかし、すべての表現の手段を奪われてしまった私は、ただただ、部屋の天井を見つめたまま、目をパチクリさせているほかは、何一つ自分で出来なくなってしまった。」


「 私は自分の足で歩いている時、車椅子の人を見て気の毒に思った。見て
 はいけないものを見てしまったような気持ちになってしまったこともあっ
 た。

   私はなんと、ひとりよがりな高慢な気持ちを持っていたのだろう。

   車椅子に乗れたことが、外に出られたことが、こんなにもうれしいとい
 うのに。初めて自転車に乗れた時のような、スキーをはいて始めて曲がれ
 時のような、初めて泳げた時のような、女の子から初めて手紙をもらった
 時のような・・・。

  でも今、廊下を歩きながら私を横目で見ていった人は、私の心がごむま
 りのように弾んでいるのをたぶん知らないのだろう。

  健康な時の私のように、哀れみの目で、車椅子の私を見て通ったのでは
 ないだろうか。

   幸せってなんだろう。

      喜びってなんだろう。

  ほんの少しだけれどわかったような気がした。

  それはどんな境遇の中にも、どんな悲惨な状態の中にもあるということ
 が。

  そしてそれは、一般に不幸と言われているような事態の中でも決して小
 さくなったりしないということか。

  病気や怪我は、本来、幸、不幸の性格をもっていないのではないだろう
 か。

  病気や怪我に、不幸という性格を持たせてしまうのは、人の先入観や生
 きる姿勢のあり方ではないだろうか。」

 星野さんの生き様にはともかく解説などいらないとつくづく思います。この星野富広さんのことを教えてくれたのは、私の25年来のソウルメイトです。心から感謝しています。(10月3日)

 今日はもう少し、星野富弘さんの詩を紹介させて頂きたいと思います。いずれも私のような俗世間の一人間が感想を述べたり、解説をしたり出来るようなものではなく、素晴らしい、感動するものばかりです。

「黒い土に 根を張り
 どぶ水を吸って
 なぜ きれいに咲けるのだろう
 私は
 大ぜいの人の
 愛の中にいて
 なぜ みにくいことばかり
 考えるのだろう」

「ブラインドのすき間から
 さし込む朝の光の中で
 二つめのつぼみが六つに割れた
 静かに反り返ってゆく花びらの 
 神秘な光景を見ていたら
 この花を描いてやろう
 などと思っていたことを
 高慢に感じた 
 『花に描かせてもらおう』
 と思った

「木は自分で
 動きまわることができない
 神様に与えられた その場所で
 精一杯枝を張り
 許された高さまで 
 一生懸命 伸びようとしている
 そんな木を
 私は友達のように思っている」

「車椅子を押してもらって
 桜の木の下まで行く
 友人が枝を曲げると
 私は 満開の花の中に
 埋まってしまった
 湧き上がってくる感動を
 おさえることができず
 私は
 口の周りに咲いていた桜の花を
 むしゃむしゃと食べてしまった」

「神様がたった一度だけ
 この腕を動かして下さるとしたら
 母の肩をたたかせてもらおう
 風に揺れる
 ぺんぺん草の実を見ていたら
 そんな日が

 本当に来るような気がした」


 (10月9日)

 船井総研の会長であり、数多くの啓蒙書をお書きになっている船井幸雄氏が仰る言葉の中で私の好きなのが、「世の中の仕組みの中には何ひとつ無駄はなく、人生の中で出会う人、起こるできごとのすべてが必要、必然、ベストである。」です。昔から、「袖振り合うも多生の縁」といいますが、船井氏は、身近にいる人たちとの縁というものを強く感じることが大事であり、『必要・必然・ベスト』と感じることで、私達の人生が豊かになると仰っています。

 別な表現をすると、日常の出来事の多くが一見偶然のように見えますが、世の中には決して偶然というものはないということです。すべての事は「原因の世界」でプログラムされ、それが作用して偶然と思うような出来事がこの世である「結果の世界」でも起こるということです。(「原因の世界」「結果の世界」の考え方は森田健氏の著作が最も理解し易いです。)

 そのため、ひとつひとつの出会いや出来事は、何の関係もないように見えてもすべてはつながっているという考え方が大切だと仰っています。ともかく、すべての出会いを大切にし、またその出会いにはどういう意味があるのかをよく考えながら生きてみること、そうすればすべてが『必要・必然・ベスト』だということが分かる、と言えるのでしょう。


 私達は皆、この世に何らかの使命をもって生まれてきているのであり、言い換えると、何らかの目的をもって自分で人生を計画してこの世にやってきたのだと思います。その意味で、船井氏が仰るように、私達が経験する全て出来事には意味があるのだということです。しかも、それらが、必要なものであり、且つ、ベストだという考え方が重要なのだと思います。

 こういうスタンス、考え方をもっていると、例え、辛いこと、困ったことが自分に降りかかっても、冷静になって見つめ、対処出来る可能性が高まると思います。決して、くさらず、投げ出さず、全ての出来事が自分に課された試練なのだと思って、心を平静に保つことが出来れば、対処方法にも巡り会うことが出来、人生を価値のあるものにすることが出来るのだと思います。
(11月4日)

 今日行われた東京国際女子マラソンで、2年ぶりのマラソンとなった00年シドニー五輪金メダリストの高橋尚子選手が初優勝を果たしました。恐らく、マラソンファンならずとも、高橋尚子選手を応援する多くの国民が感動を覚えたのではないでしょうか。

 というのも、アテネ五輪代表選考会を兼ねた2003年の今大会では、35キロから始まる上り坂でまさかの失速。エチオピアの選手にかわされ2位となり、結局、五輪代表の座を逃したこともありました。しかも、今回、右足の肉離れを抱えながらリスクを冒してまで参加したわけです。レース直前には医師からドクターストップまでかかっていたとのこと。以前の指導者である小出義雄・佐倉AC代表は「おれだったら出場を止めたかな。」と述べています。選手生命をかけてまでレースに参加した高橋選手の心の中はどんなであったろうかと思います。

 そんな体の状態にもかかわらず、必死に走り、36キロ付近で一気にスパートし因縁のエチオピアのアレム選手を振り切って前に行く姿、そして優勝のテープを切った瞬間に、胸にこみ上げてくるものを感じさせられました。 

 レース終了後のインタビューで、高橋選手が語った言葉は、いままでのアスリート選手が競技終了後に口にした内容としては、前代未聞のものを感じました。その内容を簡単に要約しますと、「ここに帰ってきて良かった。2年前で止まっていた時間が進みそう。」「失意で、一時は引退も考えた。しかし失敗したまま終わりたくない。」 「たとえ、今、悩んでいたり、暗やみにいると思っている人でも、夢を持つことで、一日一日が充実する。」「一日24時間は誰にも平等に与えられているもの。今日一日の目標でも、これから先の目標でも、とにかく持つことが大切。皆さんにもそのことを感じてほしい。」 「この2年間で走る喜びだけでなく、人生の喜びを知った。」

 高橋選手が語るからこそ、重みのある言葉だと思います。人間はやはり如何なる辛い状況下でも、目標を失わず、毎日努力を続けることで、人生の喜び、感動を感じることが出来るのだと改めて教えられた一日でした。
(11月20日)

 固定観念の恐ろしさを説明してくれる有名な話があります。言い換えると、「自分に出来る」という「信念」をもつことの重要性を説いてくれる、実際の実験に基づいた話です。

 ノミは非常にジャンプ力の強い生物として知られていますが、小さいガラスのケースをかぶせて、ジャンプする度に頭がガラスに当るようにすると、何と、かぶせられたガラスのケースの高さ以上には飛ばなくなるそうです。そうしておいて、今度はガラスのケースを取り外しても、ケースがあった時の高さまでしか飛ばなくなるというのです。ガラスはもはや存在していないにもかかわらず、ガラスの制約があるものと思い込んでしまい、自分自身の能力を決め込んでしまうということです。

 この実験は大いなる示唆を私たちに与えてくれます。ノミでさえ、固定観念を持つと、自分の能力を忘れてしまい、本来備わっている力を発揮出来なくなるということです。私たち人間も同じように、自分に能力、才能があるにもかかわらず、思い込みや先入観から自分には出来ないと決めつけてしまって、自分の将来の可能性を狭めてしまっていることがあるということです。

 決意と信念があれば、自分が生まれ育った環境やそれまでの境遇の制約を受けることなく、どんどん未来は開けてくるということに気が付かなければなりません。多くの人は、知らず知らずのうちに、自分の成功する可能性を抑え込んでしまっているのだと思います。固定観念などに縛られず、自分の願望を叶えるべく、しっかりとした信念をもって毎日を生きていきたいと思います。

(12月4日)

 「ほめ言葉のご利益」ということをご存知でしょうか?

 例えば、誰かを見て美人、きれいだとほめると、ほめられた人ではなくて、ほめた人の方が美人、きれいになるという不思議な現象のことです。

 人間の持つ自律神経は本来、人称の区別がつかないと言われます。即ち、主語を限定せず、全て自分が発した言葉をそのまま自分のこととして読み込んでいきます。その為、自分も含めて自分の周りの人を美人、きれいだと言っていると、「ほめ言葉のご利益」により、自分自身がどんどんきれいになっていくわけです。

 人を愛することも同じです。愛することは愛されることなのです。だから、人を愛すれば愛するほど、人を愛するパワ−がアップして、ベーターエンドルフィンなどの快楽ホルモンが分泌され、さらに良い気分になり、肌にいきいきとしたハリやツヤが出てくるのです。

 人間は嫉妬する心が特に自分自身に災いを起こすと言われますが、これも、先ほどの現象を逆に見た解釈ととれるでしょう。「人を呪わば穴二つ」という格言が本質をついています。自分が人のことを恨むと、相手の悪いところを刺激します。悪いところとは、怒りや恨みや後ろ向きの心です。すると、今度は魔性の度合いがアップした相手がこちらの悪いところを刺激し始めます。その結果 私たちはだんだん気が滅入ってきて、落ちこんでしまうという悪循環になるのです。挙句の果てには、自分の健康を害する羽目になってしまいがちです。なんと不幸なことでしょう。

 辛いこと、心配事があると顔色がすぐれないものですが、これは、脳内にアドレナリンというホルモン物質が作られて、毛細血管を縮小させ、血液の多くを筋肉系に運んでいくために生じる生体化学反応の結果だと言われています。

 以上から、私達の現在の状況は口癖の産物である、と言っても過言ではないと言えましょう。言語習慣ほど、無意識に私達の人生を左右するものはありません。「嬉しい」「楽しい」「ついてる」「幸せだ」「ありがとう」といった言葉から大いなるパワーを頂戴出来ることは言うまでもありません。一方、「悲しい」「つらい」「ついてない」「不幸だ」等の言葉からはネガティブなものしか生まれないのです。私達の意識や思考をつかさどり、それらと表裏一体をなす言葉の習慣である口癖は人生に大きな影響力を及ぼすということが分かります。しかも、意識して肯定的、前向きな言葉を選ぶだけで、未来はどんどん開けてくるのだと言えるでしょう。ぜひとも、普段何気なく使っている言葉にはくれぐれも気をつけ、豊かで幸せな人生を歩みたいものです。(12月10日)

 この世に生きる私達が幸せな毎日を送る為に、何か秘策のようなものがあるのでしょうか?私は、昨年3月に「心の部屋」を書き始めたきっかけは、自分の人生を振り返って、人間如何に生きるべきか、そして、幸せな人生につながる処方箋のようなものを探索することが一つの大きな理由でした。ありきたりの「成功」という言葉では表現出来ない、もっと本質的な、生きる意味、生きる目的、人間の幸せとは何かを追求することが、どうしても、自分にとっては必要な、そんな半ば切迫感すらあったというのが、正直なところです。

 ある外資系銀行に勤務していた私は、ある日突然、上司である本部長に呼ばれ、自分の部の廃部を言い渡されます。東京支店における部の業務閉鎖に至る経緯を知った時、外資系銀行に一般的にありがちな支店間の政治的な闘争が背景にあったのはある程度の納得がいったものの、ある人物の「裏切り行為」とも言うべき経緯を耳にした時のショックは筆舌に尽くし難いものでありました。その「事件」をきっかけにこの世の不条理さ、理不尽さを如何に解釈すべきか、そして如何に乗り切るか、自分自身に問いかけざるを得ませんでした。

 そうした時に、自分にとって救いとなったのは、仏教でありました。半ば貪る様にして仏教関係の書物を読みました。般若心経を暗記するまで唱えたり、写経も試みました。そして、「運命論」、「幸福論」の分野にも造詣を深め、「成功理論」までも関心が向っていきました。そうすると、不思議なことに、かつて買って本棚に並べてあった、ジョセフ・マーフィー氏の多くの作品や、飯田史彦氏の代表作「生きがいの創造」の内容が実にしっくりと理解出来るようになったのです。

 元々、長年勤務した邦銀を退職して、外資系銀行に転籍する時に、ナポレオン・ヒル氏の「成功哲学」に深い感銘を受けたことはあったものの、やはり、私自身にとっては、「積極的に人生を送る」為の方法論に近いものであったことは否めません。その後の自分が経験した「この世の不条理、理不尽」を理解し、乗り越える為には、更なる「ステップ・アップ」を図る必要があったのです。

 その意味では、自分に降りかかった一連の「災難」はいわば「必要・必然な出来事」であったのかもしれません。言い換えると、この世では、意味のないことは何一つ起こりませんから、当然ながら、そこには明らかな理由が存在していたのだということです。その理由とは、辛いことが起こらなければ体験出来ない、何らかの「価値ある学び」を通じて「成長する」ことであったと言えるのです。私たち人間は、成長したいと願う「意識体」であり、自分の人生をいわば自分でプロデュースしているのだと表現出来るのです。自分に試練を課し、その試練を乗り越える中で、「魂の成長」を図ることがこの世での私たちの使命なのかもしれません。

 以上から、この世の自分の人生で起こってくる諸問題は、全て自分で自分に与えた試練なのだと考えれば、他の人のせいにして恨んだり、運命を呪うこともなくなり、心を平穏にして幸福な人生を送れるようになるのだと思います。「魂の成長」、このことがまさに私達に課されたこの世での使命なのではないでしょうか?
(12月24日)

 日本の戦後の代表する陽明学者である安岡正篤は、自民党政治の中で陽明学思想を元に政治家のご意見番の位置にあった人と言われています。中でも、佐藤栄作・福田赳夫・大平正芳などの元首相は全て安岡正篤の影響を受けたとそうです。私は、同じく日本の多くの政治家に影響を与えたとされる偉人、中村天風の書物に出会った当時に同じく安岡正篤の存在を知ってはいましたが、最近、安岡正篤に関する文献に触れる機会があり、改めて日本の歴史に残る偉人の凄さに感動した次第です。

 実は、占い師として著名な細木数子の年表を見ていて、彼女が再婚した人物が何と安岡正篤であったこと知って驚きました。しかも、結婚時、安岡正篤が何と85歳の高齢であったのです。そして結婚生活はたったの10ヶ月であったという数奇な運命であったことも印象的です。細木数子が、よく最近TVなどで頻繁に古典の言葉を引用しますが、なるほどと思わせます。

 安岡正篤の功績は何と言っても、彼独自の不朽の人間学によって社会を啓発し、昭和の時代の名だたる為政者・経営者を指導したということでしょう。彼は、孔子・孟子や老子・荘子ほか東洋先哲の教訓に潜む普遍の真理を国家の歴史と指導者像を介して現代に敷衍し、人の道そして国家と指導者のあり方を論じました。「一燈照隅・万燈照国」と説く安岡教学の真髄は、単なる経世済民の学に終わらず、自ら指導者の養成に励むとともに世直しを求めて指導者の啓蒙につとめる、実践的な学問にあったと言えるでしょう。

 その凝縮したものが人の道と指導者のあり方に関する教えであり、安岡人間学(人物学)といわれるゆえんです。とりわけ歴史の故事に真理を諮り、国家・社会の指導者について筆法鋭く諭す指導者学は人々に多くの共感と感動を与えています。万人に支持されている安岡教学の真髄がここにあると言えるでしょう。

 ところで、安岡正篤は、学問を二つに分けています。一つは、「知識の学問」、もう一つは「知慧の学問」です。機械的知識をいう「知識の学問」に対して、「知慧の学問」は経験を積み、思索反省を重ね、人徳を練る中から湧き出てきたものであり、体験の中からにじみ出てきたもっと直感的な、人格的な学問を指します。この週末のTV番組の中で細木数子が、スタジオでの成人式に出席して発言した青年に向かって、薄っぺらな「知識の学問」ではなく、「知慧の学問」の重要性を説いていたのが特に印象的でした。

 そして、安岡正篤は「知慧の学問」即ち人間学の第一条件として、孔子、孟子以後の最大の思想家である荀子のいうところをとります。つまり荀子が、本当の学問は、就職や立身出世の為ではなく、「窮して苦しまず、憂えて心衰えず、禍福終始を知って惑わざるが為なり」というのを指摘しているのです。

 言い換えれば、人間ある以上、迷いや心配事、窮することは避けられない。しかし、学問修養を積めば、どうすればどうなるかということがわかってきて、精神的にまいってしまうことはない、と言います。こうなってこそ、真の主体性が立つわけであり、惑うことがないので自由になれる、と断言するのです。

 私は、安岡正篤の言葉を読んだ時、飢えたものが一椀の飯にありついたような強烈な満足感を得たような気がします。安岡正篤の人間学を深く究めてみたい衝動に駆られたことは言うまでもありません。そして、年頭にあたり、この2006年をどう生きるかを自分に問うた時、何としても決して怯まず、怖れず、臆せず、勇気をもって果敢に諸問題に挑んでゆきたいと心を新たにした次第です。人生のあらゆる経験を嘗め尽くすぐらいの姿勢を貫き通せば、自分という人間の魂を磨くことが出来るのではないかという考えに至ったわけです。
(1月9日)
 

 今回の「ホリエモン騒動」、様々な意味でインパクトのあった事件です。恐らくは、若い世代に堀江貴文の生き様が大いに影響を与えていると思われます。「稼ぐが勝ち」に象徴される「拝金主義」は、特に一攫千金を狙う人々には幸か不幸かあまりにも浸透させたきらいはあります。

 それにしても、あの本来頭脳明晰の堀江貴文は自らの発言の中で「諸行無常」と言っているにも関わらず、自分自身がああいう失態を犯したわけであり、それだけに、人間の弱さを改めて思わせました。人間、幼少期の体験がその後の人生に影響を与えるとは言いますが、堀江貴文もその一人であったのでしょう。幾ら働いても、お金のことを言っていた父親のことを見ながら、自分はお金では苦労しないぞと、あそこまで人間を走らせたわけです。ある種の「トラウマ」が人間を変わらせたのだと思うのは私だけはないと思います。

 仏教の教えでは、「人生は諸行無常である。毎日色々なことが起こるけれど、それに拘ったり、執着したりするのはやめなさい。無常という真実に随順しながら、充実感のある日々を送りなさい、その時本当の心の安らぎが得られる。」とあのお釈迦様が伝えたと言われます。そして、真髄は「現実のあるがままの受容」と言われます。

 私たちは日々起こる様々な現象をいつも色眼鏡をかけて見ています。だから、正しく見えない。そして悩んだり、落ち込んだりしている。そんなことでは、心は落ち着かない。大きく目を開いて悠々なる宇宙を見上げることが大切です。そして、自然の理を考える時、日々の出来事が実に瑣末なことに見えてくるのだと思います。まさに、仏教の教えは悩める者にとっての「暗夜の一灯」だと言えるでしょう。

 あの堀江貴文が執着心なくし、とらわれのない、「真に自由な心」を保つことが出来れば、ああいう事件を起こすことはなかったと思います。心の平静心を保つことの大切さ、これこそ、私たちに必要なことではないでしょうか。
(1月28日)

 

 先日、私の大親友と話していた時、お互いに再認識し合った言葉があります。それは、「Give and Given」という表現です。人に与えれば自分にも与えられる、といったような意味です。

 一般によく言葉に、「Give and Take」がありますが、これは、与えたり、頂いたりということで、相互互恵の精神を説いたものです。とんでもなく自分勝手で我儘な人は「Take and Take」といった表現が当てはまるのでしょう。私の周りにもそういった人が散見されます。

Give and Take」にしても先にGiveが来ているところが重要です。即ち、まず与えること、それから得るのだという順番ですね。

 さて、「Give and Given」の持つ意味は実に深いと思います。人に何か恩恵を与えれば、その結果自然に自分も与えられることになるということです。決して、自分に返ってくることを期待してあげるというのではないということです。ひたすら世の中に良いものを提供するという思いが根底にあって、その結果として、自分に返ってくるわけであり、「フィードバック理論」と呼ばれることもあります。

 そう言えば、人を好きになれば相手も好きになる、人を恨んだら自分にも恨みが返ってくるという現象もこの「フィードバック理論」でもって説明出来そうです。

 ところで、人間とは誰でも、それぞれ固有の波動を出しているそうです。人間同士の相性が良いとか悪いというのも、お互いが発する波動が合う、合わないで決まってくると言えます。2人の人間同士互いに良好な関係にあるとプラス、そうでない関係にあるとマイナスとすると、ある組織がうまくワークしているかどうかというのも、その組織の人間関係全体がトータルでプラスになっているか、マイナスになっているかが大きく左右しそうです。全ての人を好きになれれば理想なのでしょうが、現実にはそうはいかないものです。

 さきほど、相手のことを好きになれば相手も自分を好きになってくれ、嫌いになれば相手も自分を嫌いになるといった点に触れましたが、その意味では、世の中の人間関係で起こることは全て自分が引き寄せていると言えるのでしょう。自分が発している波動が相手と引き合うかどうかが全てを決定づけるわけです。

 話がちょっと逸れてしまいましたが、「Give and Given」という精神は私たち皆が相手のことを考え、思いやり、尊重すれば、それが回りまわって自分に返ってくるのだということです。言い換えると、自分だけ成功しようとか、人の不幸せを喜ぶとかいうエゴ的な思いは、結局自分が不幸せになる羽目になるのだと思います。良い思いと悪い思いがあるとすると、過去かつては悪い思いでも実現したケースがあったかもしれませんが、これからは悪い思いを抱くと益々不幸になることでしょう。最近の色々な事件がそれを物語っていると思います。そして、良い思いを強く抱けば、益々幸せな状況に至ることが出来るのだと思います。いわば、「宇宙の真理」というものはそういうことではないのでしょうか。この真理に従わねば通用しない時代が到来したのだと信じています。
(2月12日)

 財界のご意見番とも言うべき有名な経営者の一人に日本電産社長の永守重信氏がいる。その永守氏が先週の日経新聞の夕刊にコラムを載せられていた。ちなみにコラムの名前は「こころの玉手箱」で、この私の「心の部屋」と似ていてとても嬉しくなった。

 その永守氏が、中村天風の著書のことを紹介されていた。永守氏が創業後、不渡り手形をつかまされて会社がつぶれそうになった時、中村天風の本を読んで助けられたそうだ。彼は、自分はこんなつまらないことで悩んでいたのかと気がついた、と振り返っている。命の大切さを教えてくれる生き方論としての名著として「成功の実現」や「盛大な人生」を今も社長室に置いてあるそうだ。

 永守氏はこうも仰っている。「不思議なもので元気な時に読んでもあまり響かない。ところが行き詰まって意気消沈している時には全く違う。(中略)そんな時に、天風さんを読むとハッとする。」そして、最近の永守氏は毎日元気に過ごされているようで、「最近は幸い、天風さんの本を開く機会が少ない。」と締めくくっておられる。

 自分を振り返ってみて、確かに元気のない時、意気消沈している時に、中村天風の本は本当にビタミン剤になる感じがする。中村天風の説く「絶対積極の精神」は心の底に訴えるものがある。だからこそ、逆境にいて悩んでいる時には助け舟になるわけだ。

 ただ、よくよく考えてみると、いつも中村天風にお世話になっているというのも考えものだと言う気がしてしまう。それは、自分自身が弱気になっている証拠であり、きっと心も暗くなっているのだろうと思う。人間、積極的に前向きに生きている時は、きっとそれに気がつかないもので、消極的になって落ち込んでいる時にハット自分を振り返るのだと思う。そして、そういうマイナスの状況の時に、多くのことを学んでいるのだと思う。ただ、そうは言っても、その辛い状況の瞬間は心の余裕なんてないのが人間なのだろうとも思う。

 そんな時、大いなる力が働いて、自分のガイドなるものに助けられて、自分が守られ愛されているのだということに気がつくかどうかが、この世で生きがいを感じられるかどうかの境目なのではないだろうか。さもないと、ただただ落ち込んでそれっきりということになる。この世に生まれてきた私達はそれぞれ固有の使命を持っているのだと思う。そして、究極の目的は「魂の向上」なのだろうと信じている。毎日自分に起こることは全て意味があり、全てに学びの材料があるのだと落ち着いて考えることが出来れば、この世での使命をまっとう出来、魂を向上されることが出来るのだろう。私も、永守氏のように中村天風の本を開く機会が少なくなるような日々が待ち遠しい。
(2月18日)

 川崎市多摩区マンションで3月20日、小3男児が投げ落とされ、無職の容疑者(41)が殺人未遂などの疑いで逮捕された事件報道を見て、改めて、昨今の日本の社会情勢の変化に考えさせられました。最近の日本に起こっている様々な悪質な事件は現代の日本人が何か大切なものを失っているような気がしてならないのです。

 今回の事件で、容疑者は「最上階から落とせば死ぬと思った」と話しています。被害者に対しては「申し訳なかった」と話していますが、動機については「投げ落としたかったから、そうした」と供述していると言います。恐らく、これからの日本はこういった恐怖事件が多発する社会になっていく可能性が高いと思われます。何と恐ろしいことでしょう。

 藤原正彦氏が著書「国家の品格」(新潮新書)の中で、『平家物語』の中で、武士道の典型として新渡戸稲造の『武士道』の中でも引用される有名な場面を著述されています。

 一の谷の合戦の際、熊谷直実が敵の平家の武将を捕まえます。殺そうと思って顔を見るとまだ若い。15歳の平敦盛でした。自分の息子ぐらいの歳である若者を殺していいものかどうか悩みます。熊谷直実は思わず逡巡するわけですが、さすが、平敦盛は「首を討て」と直実に命令します。直実は仕方なく首を討ちました。その後、手にかけてしまった若者を悼んで、直実は出家するのです。

 このような敗者、弱者への共感の涙、これが日本の無常観にはあります。この無常観は「もののあわれ」という情緒になって、日本の長い文化の流れの中に生きてきたはずです。日本人の持つ、情緒、自然に対する繊細な感受性は、私たち日本人だけでなく、日本に滞在した外国人も一様にその素晴らしさを指摘しているのです。

 「論理とか、合理を『剛』とするならば、情緒とか形は『柔』です。硬い構造と柔らかい構造を相携えて、はじめて人間の総合力は十全なものとなる」と、藤原氏は書かれています。長い日本の歴史のなかではぐくんできた、日本社会の構造は、あの名著「日本人とユダヤ人」の中の「日本人は安全と水は無料だと思っている」という有名なフレーズのなかにもエッセンスが含まれていると思います。

 電車の中で大声で携帯電話を使う人、ベビーカーを広げたまま堂々と満員電車に乗り込んでくる若い奥さん達等々、普通レベルのマナーを失った日本人が実に増えていると感じるのは私だけではないと思います。

 「国家の品格」に流れる日本人の高い道徳は私たち日本人が世界に誇れるものと思います。私たち日本人一人一人が美しい情緒と形を身につけ、品格ある国家を保つことは、日本人として生まれた真の意味であり、人類への責務と言うのは決して過言ではないと思うのです。
(4月2日)

  「水清きところに魚は住まず」

先日、「オーラの泉」というTV番組内で出演者の美輪明宏さんが仰っていたことわざです。


水というのは多少汚れていないと、魚は住まないものだということ。プランクトンや汚れが適度にあるからこそ、生物が存在するのだということ。そして、この世の人間界も汚い出来事、人との交わりがあるからこそ私たち人間が生きていけるのだと、という風にお話されていました。


そこで感じたことですが、人間界を越えて天上界があるとすれば、そこでは、全ての願望が瞬時に叶えられ、互いの競争もない、天国かもしれませんが、実は現世のように様々な障害がある方が、苦しみがある分、それを克服した時の喜びがあり、魂の成長があるのだと思います。


さらに思うに、この世には生命のリスクがあるからこそ、人間が生きているのではないかと思います。そして文明が発展してきたのではないでしょうか。リスクは時として「必要」なものなのでしょう。人間がリスクを冒して挑んで、挑戦して数々の目的、願望を叶えてくる過程にこそ、成長があったのだと思います。


リスクと聞くと相場を連想するのですが、やはり私達が相場に惹かれるのはそういったDNAが人間に組み込まれているのかもしれません。


さらに昇華して、全ての出来事には意味がある、全ては必要だから起こっている、と心の底から思えたら、人生実に有意義に生きられると思います。
(4月29日)

 名前は思い出せませんが、「自己欺瞞」こそ、全ての個人的問題や人間関係の問題の根源であると主張した哲学者がいました。

 そもそも、私が「マーケット・ホームルーム」というホームページを始めたのは、自分の心の変遷、成長を書き残したいと思ったことがきっかけですが、確かに、市場に生きていると、実に様々な精神状態になります。まるで、天国に昇る気分になることもあれば、地獄に突き落とされた心境になることもあります。

 そして、そういった時に、自分の心の状態を素直に見つめることが出来ること、自分に正直になることがどれだけ大切かということが分かりました。そうです。「自己欺瞞」こそが、もっとも犯してはならない行為だと分かったのです。

 実際に、日常生活や、仕事上で様々な問題が生じているにも拘らず、真正面からその問題に立ち向かわず、関心をそらし、事態の本質に迫らないのは、正に怠慢そのものであり、心の状態で言うと、「自己欺瞞」であると言えます。

 こと、トレードに関して言えば、自分のトレーディングシステムについて、自分が正直であれば、そのシステムのルールを破ることを拒否するでしょうし、仮にルールを破る場合は、新たなルールをしっかりと作り直して、行うべきです。

 それを、周りの雰囲気に惑わされて、恣意的に「選択」して、システムを利用すると、結果は長い目でみて最悪に陥ると思われます。感情的に相場の流れを判断出来るというのは、極少数の天才的な動物感覚をもっている相場師だけでしょう。その天才相場師でさえ、長い人生において、最後まで勝ち続けることは不可能に近いと思います。

 決して、失敗を他人のせいにしてはいけませんし、全ては自分が原因であると思うのです。人は所詮、自分が頭で描いている、想像している以上の人間にはなれるわけではないのです。

 私は、普通のレベルで、恐怖感や不安感をもつ生身の人間です。決して、トレーダーとしての超人的な資質を持ち合わせていません。だからこそ、努力して、自分のスタイルを構築してきたつもりです。その過程において、「自己欺瞞」に陥ることなく、自分を正直に見つめ、自分の至らないところを認め、反省し、少しでも改善しようと前向きにアクションをとってきたわけです。

 それでも、全く不満に感じないという日はめったにありませんが、普通の日常生活においては、少しは心穏やかに過ごせるようになった気がします。それも全て、この過酷な市場、マーケットが与えてくれた数々の試練のお蔭である、そんな風に思っております。
(6月11日)

 私の尊敬する、日本を代表する哲人である中村天風翁は、運命には、二つの種類があると仰います。

「天命」と「宿命」です。

彼の定義によると、「天命」とは、絶対的な運命で、人間の力ではどうすることも出来ないもの、です。そして、「宿命」とは、相対的な運命で、人間の力で打ち開いていくことが出来るもの、です。

実は、私の頭の中では、今まで、上記の「天命」に当るものが「宿命」で、「宿命」に当るものが「運命」だと理解していたのですが、この際、その意味が分かりさえすれば、どれでも良いかなと思っています。

中村天風翁は、運命には、上記の2種類があるにも関わらず、私たちは2つを混同して、全てが運命であると思い込んでいるとします。

例えば、病気にかかってなかなか治らないと、それを運命だと思ってしまう。また、自分の勤めている会社が倒産すると、それも運命だと思ってしまう。

日常、上手くいかないことがあると、全て運命だと片付けてしまう、まさに諦めの心境に陥りがちです。しかし、中村天風に言わせると、実は、「天命」と「宿命」を明確にすれば、どうにもならない運命などはかなり少なくなると言うのです。

どうすることも出来ない「天命」とは、自分が日本人であること、男や女であること、昭和に生まれたり、平成に生まれたりすること、必ず死を迎えるといったことなどなど、絶対的に変えられないことを指します。

しかし、天風翁は、「自分の心を、積極的にして活きるという方に自分の心を決定しなさい。そうすれば、もう天命なんてものは、極めて僅かしかない」と言い切るのです。

そして、「宿命」は自分の力で打開していくことが出来ると、天風翁は強調してやみません。それに必要なのは、常に心の持ち方を前向きに、積極的にすることだと、断言します。

その為には、少しでも、心を明るくしておく必要があります。悲しみを感じる心、怒りを感じる心を長く滞らせておくのは、後ろ向きで消極的な心の持ち方であるわけです。

ここで、問題となるのは、幾らこの後ろ向きな心の持ち方が良くないと言っても、どうしたら、直せるかです。私たちは生身の人間である以上、悲しいことも、腹が立つことも、憂鬱なことも、苦しいこともあります。

それらを心に感じるな、と言っても無理だし、不可能だと思います。逆に、そう感じないようにすればするほど、益々感じるのが私たち人間だと思います。

天風翁は、そんな時に、そういったマイナスの感情を心から外してしまえば良いのだ、気がついたらそれを拭き去れば良いのだ、と仰います。そして、彼は、「宿命」を自分で打開するには、自分の心を統制しなければならない、その為に、「感謝」と「歓喜」の感情を持つよう心がけることを勧めているのです。

私は、やはり、天風翁のようには、マイナスの感情を簡単には拭き去ることは出来ません。そして、「感謝」「歓喜」の気持ちを持つことはやはり難しいと認めざるを得ません。

そこで、私個人は、こう考えるようにしているのです。「全てセットなんだ。悪いことが起こっているけど、その分、そのお蔭でプラスの恩恵も受けているんだ。だから、トータルで考えないといけないのだ。」といった風に心の中で思っている、いや思うようにしているのです。

ただ、このように考えると、自然と、「感謝の気持ち」が生じてくるのです。色々と嫌なことがたくさんあったけど、そのお蔭で、今の幸せな自分があるのだと思えるのです。

このホームページを始めたのも、自分の心の変遷を記録に残しておきたいという、正直な気持ちがあったからです。特に、自分の人生で一番辛い時期を経験した時であり、何となく、自分の軌跡を後で振り返るのも良いかなと、若干ながらも心に余裕が出来て書き始めたのが率直な理由です。

恐らく、自分自身が順風満風であれば、ホームページを始めていなかったような気がします。だから、マイナスが転じて、プラスが生じた、そんな気がするのです。「マイナスよ、有難う。」と言っても言い過ぎではありません。

たまたま、「相場の世界」に出会って、そして、多くの素晴らしい人達に巡り会えて、一方、とんでもない極悪の人間にも遭遇し、結果として、自分が人間として成長出来た、そんな気がするのです。

さもなければ、中村天風、ジョセフ・マーフィー、ブライアン・ワイス、瀬戸内寂聴、本田健、船井幸雄、斎藤一人、飯田史彦、江原啓之、ひろさちや、五木寛之などなどの偉大な哲人、思想家、作家に巡りあうこともなかったかもしれないと思うと、「マイナスの出来事、ほんとうに有難う」と思うのです。
(7月2日)

 「現状肯定、過去オール善」、これは、船井総合研究所の創業者である船井幸雄氏が仰っている言葉です。

 現在目の前で起こっている出来事は、偶然は一つもなく、全て必然性があり、意味があるのだということ、そして、過去のどんな出来事も自らに何かを教え、気づかせるための過去である、といった意味です。

 現状をいくら否定してみたり、嘆いたところで、何も進歩はありません。今の現実の自分は自分が選んだのです。まさに、自分がなりたいように自分で創ったわけです。他の誰の責任でもないのです。

 逆に言うと、なりたい自分をイメージして、そのように行動すれば、なりたい自分になれるのです。

 過去の出来事は、全て自分の学びの為に用意されたものなのです。サムシンググレイト(何か大いなるもの)が提供してくれたものなのです。楽しいこと、嬉しいことはもちろん、辛いこと、悲しいことも全て、自分にとって最高の学びの場なのです。

 世の成功者と言われている人に比較的共通しているのは、自分の置かれた境遇を嘆かず、他人の恵まれた(風に見える)環境に嫉妬を覚えず、自分の周りに起こる出来事に意味を見出し、それらを自分の今後の考え、思い、行動に生かそうとすることです。

 幸い、私の友人の中には、会社経営者として成功されている方が何人かいます。証券会社を創業した新進気鋭の社長や、30歳を前に既に数店舗の高級クラブを経営する社長、同じく会社を創業して各国と商取引を行っている会社社長などです。彼らに共通しているのは、常にプラス思考であり、決して過去の暗い面について不満を表さないことです。周りへの感謝の念も強いです。

 そして、何と言っても彼、彼女らは明るく、人間的にとても魅力的なのです。また、人相が実に良いのです。一緒にいて話していると、こちらも元気になり、まさに「良い気」が互いに充満してくる感じがするのです。こちらが少々落ち込んでいても、会えばすぐに元気にさせてくれるのです。本当に感謝の気持ちで一杯になります。

 ところで、私は、自分の周りの人達のことを出来るだけ、それぞれの人の長所を見るように努めています。どんな人間でも100%非の打ちどころのない人などいないと思います。恋をして、「あばたもえくぼ」的な感覚に陥る点はさておき、出来るだけ長所に目を向けさえすれば、嫌いなタイプの人間も不思議と付き合えるようになれるものです。

 何となくですが、周りの人間を観察していて、いつも不平、不満を言っている連中は、どうも不運、不健康を自分で導いているようです。そして、そういった連中に限って、こちらの話には耳を傾けないものです。こちらも気分が悪くなるので、出来るだけ相手の長所を探す、さすがの私でも、あまり関わらないようにして、悪い気が来るのを防いだりしています。

 「全ては、必然・必要・ベストである。そう思うこと。世の中に不必要なことなど一つもないこと。」これも船井幸雄氏の言葉ですが、私たちをとても元気付けてくれる名言です。どんなに辛いことがあっても、腐らず、頑張ろうという気にさせてくれるのです。

 私自身、つくづく思うのですが、日常の些細なことに幸せを見出すことは、心がけ一つで可能なのです。幸せは、見つけるか、見つけないかの差だけであって、いつでも、どこにでもあるものだと思います。そして、感謝の気持ちを忘れなければ、必ずや、良い出来事が自分の周りに頻発して起こるようになるのだと信じています。毎日、新たな出来事を与えてくれるサムシンググレイトに感謝して日々送りたいと思っております。(7月17日)

先週号のアエラに、「脱ホームレス」という題で、20代の2年間ホームレスを経験した後、建設会社に就職、その会社での経験を基に一念発起して、会社を設立して成功した38歳の社長の話がありました。

 彼は、20代の時に、働く意味を見出せず、日中はたまにアルバイトし、夜は都内を転々としてビルの非常階段などで寝袋で寝ていたのです。食事は、コンビニやハンバーガー店で出る賞味期限切れの商品でした。

 そうしたまさにホームレス生活を2年ほど続けていたある日、真っ黒に汚れた中年の男性が近づいてきて、「やめときな、素人は。」と言われたのです。そこで、彼はハッと我に返り、「やばいな、おれ。このままではいけない」と思ったのです。

 ここまで読んだ時、私は自分が高校生の時を思い出しました。当時、高校生になったらバイトしてお金を稼ぐことが出来るぞと期待していた私は、高校1年の夏休みになってすぐに、近所にあった今で言うファミレス風のレストランがアルバイトを募集していたので、すぐに応募、早速始めたのでした。

 仕事内容は、夕方6時から夜12時までのウェイターでした。父母は、反対したのですが、個人的に何かやってみたかったので、思い切って始めたのでした。

 案の定、自分に向いていないことが分かるのに時間はかかりませんでした。そもそも、人に頭を下げて、「いらっしゃいませ」の言葉がスムーズに出てきませんでした。来店されたお客さんに態度が悪いとお叱りを受けたこともありました。

 そうこうしているうちに、辞めようとどうか悩んでいたある日のことです。いつものように、午後11時頃に厨房裏でアルバイト仲間同士で夜食を食べている時に、店の専任のウェイター担当の年配のおじさんが私にこう言ったのです。「君は、高校生やろ。こんなところで働いていたらあかんで。おっちゃんみたいになるで。勉強せんとあかんで。」(私の出身は大阪です)

 私はまさにハッと我に返ったのです。そして、翌日に辞める意思を店長に伝えました。それからの私は人間が変わったように勉強しました。高校1年生の夏からまるで受験生のようになったのです。

 先ほどのホームレスの彼に近づいてきて声をかけた中年の男性と全く同じように、私の人生にとって神様のような存在であったあの「おじさん」への感謝の気持ちは今でも忘れられません。

 アエラで紹介されている社長は、仲間と建築作業を請け負う会社を設立、挫折だらけの人生を無駄にせず、社会的に意義のあるものをしたいという意欲が沸いてきたと言っています。

 さらに彼は、何をすればいいのか分からなければ、見つかるまで答えを探し出すしかない、片っ端から挑戦していき、自分に合うものを見つけることが大事であると言います。そして、たとえ「勘違いでもいいから」、目標をもってそれに没頭することだとアドバイスしています。最後に、彼自身はビッグ・トーカー(Big Talker)となって大きいことばかり発言していたとも言っています。

 「思いは実現する」

「自分の思ったとおりの人生になる」

「今の自分の境遇は自分が造り出したものだ」

いずれも私の好きな言葉です。

私は、夢を持つことが出来るのは人間ならではのことと思います。そして、頭に描いた事以上のことは実現出来ないと思います。逆に言うと、「こうしたい」と思ったことは実現させることが可能なわけです。

 そして、自分の身の周りに起こることは全て意味があって起こっているのだということとして、逃げず、真正面から受けとめ、真剣に取り組んでいけば、必ずや道は開けてくるものと私は信じています。

 私は妥協せず、常に自分の願ったものを実現すべく、これからも前向きに歩んでいきたいと強く思っています。
 (8月6日)

 私が毎朝出勤途上に立ち寄るコンビ二エンスストアに実に爽やかな青年がいます。そのコンビ二は虎ノ門駅3番出口を出てすぐ角にあるのですが、毎朝大変な賑わいです。カウンターに店員の方だけでも6人程度おられます。ひっきりなしにお客さんが出入りしています。

 私は、毎日そのお店で買うものは決まっていて、「さらさらそば茶を2本、ヨーグルト1個」です。合計金額は399円です。

 その青年は、私がカウンターに勘定に並ぶと、いつも「にこっと」微笑んで、レジの計算機を叩かずに「おはようございます!399円です!」と元気に叫ぶのです。

 毎朝、対応するお客さんの数だけでも何百人に及んでいるはずです。それにもかかわらず、彼は私に対して「おはようございます!」と微笑んで挨拶をしてくれる上に、金額を即座に答えるのです。その実に爽やかな態度にはとても好感を覚えるのです。そして、思わず私も彼に笑顔で挨拶をするのです。

 確かに、私の買う商品は計算が楽なのかもしれません。レジの計算機を使わずに合計金額を即座に答えることはそれほど難しいことではないのかもしれません。しかし、それを差し引いても、青年の接客態度には惚れ惚れするのです。

 彼が微笑んで接客するだけで、お客さんの心が和みます。そして、そのお客さんはその日に職場や仕事関係で接する他の人にも爽やかな気持ちで応対出来るきっかけになるのです。

 一人の微笑が何百、何千人もの人々に影響を与えるのです。何と素晴らしいことでしょう。これを「幸せの相乗効果」と呼んでも大袈裟には聞こえないのではないでしょうか。

 ところで、仏教には「六波羅蜜(ろくはらみつ)」という六つの行があります。そのうちの一つが「布施」です。一般に「お布施」という言葉があるように、お賽銭(さいせん)をすることや、物をあげることを指します。

 その「布施」の中にも色々と種類があり、「顔施(がんせ)」というのがあります。これは誰にでも出来る「布施」であり、にっこりと笑ってあげることです。人に優しい言葉や思いやりを施すことが苦手でも、微笑むことは簡単に出来ることと思います。

 特に和やかな顔を施すことを「和顔施(わがんせ)」と呼びます。どんなに、口下手な人でもにっこりと笑うことぐらいは出来るのです。笑顔を見れば誰でも気分が晴れるものと思われます。

 ちなみに「心施(しんせ)」というのは、文字通り、心をプレゼントすること、優しい言葉をかけてあげることです。そして、悩んでいる人、困っている人に声をかけて、ちょっと話しを聞いてあげることです。悩みを聞いてあげるだけで、充分相手の人にとっては慰めになるのです。

 私にも高齢の両親がまだおりますが、親不孝と言いますか、かなり離れて暮らしている為、せめて週末には必ず電話をするようにしています。そして、ただただ話を聞いてやるのです。それだけで、父母にはささやかながら「心施」をしていると思っております。

 要するに、「お布施」というのは、お金を出したり、物をあげるだけではないのです。どんなささやかな微笑み、声かけだけでも、「お布施」になるわけです。仏教は実に多くのことを私たちに教えてくれるものです。

 明日の朝も、いつものコンビニの青年が私に微笑みかけてくれるのを楽しみにしたいと思います。
(9月3日)

 私たちが、後悔のない人生送ろうとすれば何を一体どのようにすれば良いのでしょうか?いきなり人生哲学的な難問をぶつけてしまったようです。普段は、あまり真剣に対峙することのない問題ですが、ちょっと落ち着いて自分を振り返ると、どうしても避けて通れない人生一大事も言うべきテーマです。

 例えば、日常の仕事は、通常一日の大半の時間を費やすものです。それだけに、もし、自分の嫌いな仕事を、ただ金銭的目的だけで取り組まざるを得ないとしたら、こんなに苦痛なことはありません。

 また、もし、自分の周りにいる家族、職場の人間が自分にとって一緒にいたくない人達であれば(そう思う時は、大概、彼ら、彼女らも一緒にいたくないと思っていると思われます)、同じくこんなに悲惨なことはありません。

 人生で最も幸福な時、それは、私流の解釈では、「心の安らぎ」を感じる時です。自分が一番好きな人と一緒に暮らし、気の合う人達と一緒に仕事をし、一番好きな仕事に時間を忘れて没頭出来るとすれば、人間こんなに幸せなことは他にないと思います。

 それでは、以上のような幸せな人生を送ろうとすれば、一体どうすれば良いのでしょうか?それは、自分が最も大切なものは何か(人、物)を真正面から真剣に考え、その実現の為に何をすべきかを決めることだと思うのです。

 ところが、この自分にとって何が大切かを明確にし、その為に行動を起こすことが「心の安らぎ」を得る秘訣だと分かっていても、実際問題、それがどれだけ困難かというのも事実です。それは何故かというと、大切でないものが私たちの行く手をふさぎ、人生にとって優先順位の低いものが目の前にどんどん現れてくるからです。

 この自分にとって何が大切かという価値観を明確にしないと、日常生活が悲惨なものになってしまいます。例えば、仕事上で何か達成しなければならない目標、ノルマがある場合に、綿密な計画を立てて、一日の大半の時間を費やして達成出来たとしても、もし、自分の価値観と一致していないものにエネルギーを注いだとすれば、やはり心底から満足するには至らないでしょう。

 一方、もし、自分の行動が自分の価値観に導かれたものであれば、自分は大切なものを達成しているという満足感が得られ、成功への充実感を味わうことが出来るのです。そして、この充実感が「心の安らぎ」につながっていくのだと思います。

 ちょっと抽象的な内容になったかもしれませんが、私は、後悔のない人生を送るためには、しっかりと自分を真正面から見つめて嘘偽りのない自分の奥底の思いと直面する必要があると思うのです。そして、私自身、実際に実践して参りたいと心から思うのです。
(9月18日)

 願望を具体的に設定すること。私は、幸せな人生を歩むに当たって、このことが如何に大切であるかと実感しています。

 何故大切であるか、幾つかの理由があります。

 まず、第一に、明確な目標を設定すれば、より賢明な選択をするために考えることが出来るようになります。自分はいったいどこに向かって進みたいのかが明確になり、その目標に到達するための行動を選ぶのがずっと楽になるのです。

 一般的に言って、選択肢が多いと悩みが多いものです。ますます複雑に考え過ぎて、袋小路に迷い込んでしまいます。願望を具体的に設定すると、このように迷っている自分から抜け出して、集中することが出来るようになり、自分の目標実現に必要な行動に専念出来るようになるのです。

 こうして目標を具体的に定めることで、毎日の生活の中での心配事から解放されるのです。さらに、こうして願望実現のための目標設定は、私たちそれぞれの人生での使命とも言うべきものに基づいた行動を取れるようになるのです。

 願望を具体的に設定することが有効な第二の理由は、様々な機会を逃さないように、自分の感性が増し、注意深くいられるということです。私は、自分の周りに起こる出来事に偶然はない、全て必然であると思っております。そして、自分の目標が具体的なると、自分の身の周りに起こることが、自分が望んでいる方向に進展していくことになるのです。

 自分の気持ちが変わることによって、自分の周りに自分の願望実現に必要な出来事を磁石のように引き寄せることになるのです。スピリチュアルな意味でも自分の感性に変化が生じることによって、益々、自分が心から望む方向に身の周りの環境が進展していくわけです。

 向こうから訪れるのを待つのではなく、あたかも自分が引き起こすかのように、色々なチャンスが巡ってくるのです。自分自身が心の底から真に望むことがあれば、決して、神様が見捨てたりはしないと信じています。常日頃から、やる気をもって、事に臨んでいれば、ベストのタイミングでベストの出来事が生じるのです。

 そして、大事なことは、しっかりと自分の夢を抱き続けることです。何故ならば、物質的であろうと、精神的であろうと、自分が抱く夢以上のことは実現させることは出来ないからです。
(12月3日)

 「真実の愛」とはどういうものでしょうか?

 その人の喜びをあたかも自分の喜びとして感じ、また、その人の悲しさを自分の悲しさとして感じることが出来ることだと思います。まさに、自分とその人が「一体になる」ということだと思うのです。

 一般的に人を好きになる言う場合、自分の都合で人を好きになったり、嫌いになったりすることがほとんどだと思います。自分に恩恵を与えてくれるものは好きになるけれども、自分に不利益を与えるものは好きになれないのです。ある意味、普通のことかもしれません。

 しかし、「真実の愛」は、やはり次元が異なると思うのです。相手を全身全霊でまるごと受け入れ、相手の幸せを心の底から祈ることが出来ることだと思います。そして、相手の苦しみ、悲しみを全て自分が受けているのと同じように感じ、相手と共有出来ることだと思うのです。

 一般に親が子供を思う気持ちは、この「真実の愛」に近いと言われています。子供に何か危害が及ぼされそうになったら、自分の命を顧みず助けようとする行為はそれに近いものかもしれません。しかしながら、最近では、自分の子供に過度な期待をかけて、それに応えれば褒美を与えるとか、期待に沿わないと冷たくなるとか、最悪は虐待するとか、まるで親が子供を自分の欲望実現の手段にしているかのような現象が多く見られます。

 確かに、血縁関係とかいう言葉があるように、親族というものは、かなりの程度絆が強いという印象があります。それでも、遺産相続を巡って親族が骨肉の争いをするというのも一般的に珍しくありません。法的に近い関係であるだけに、余計に醜く映るものです。

 一方、たとえ血縁関係や親子の関係になくても、相手のことを心から愛せる関係というものが存在するのも事実だと思います。こういう相手は互いに固い絆で結ばれた「ソウルメイト」だと言えるでしょう。まさに、魂のレベルで互いに永遠につながっているわけです。

 この世に縁があって互いに知り合い、「真実の愛」を深めていく関係は至上のものと思います。何故なら、相手の喜び、悲しみを全て自分のものとして、一緒に共感して、ただひたすら相手の幸福を望む関係というのはこの上ない最高の愛の形態だからです。
(2007年1月1日)

 「人間関係」とはどういうことでしょうか?

一般的に「人間関係」というと、他の人と自分の関係を指すと思われています。しかし、果たしてそうでしょうか?私が思うに、「人間関係」とは、他の人と自分の関係ではなく、自分と自分の関係ではないかと思うのです。

ある人を好きになる、その人のことを気に入れば、その人と上手くやっていけると思います。逆に、その人を恨む、嫌いになれば、その人と上手くやっていけないわけです。結局、決め手は、その人をどう思うかという自分の心が全てであるわけです。即ち、人間関係とは、自分と自分の心との関係であると思うのです。

およそ、この世の中で、「人間関係」が多くの場合に決定的な要因となっています。会社においても、家庭においても、結局は「人間関係」が全てだと思われます。例えば、仮に、どんなに給料が安くても、人間関係が良ければ、その職場は素晴らしいと思えるでしょう。一方、どんなに給料が高くても、同僚や、上司との人間関係が最悪であれば、その職場を辞めたくなるでしょう。

家庭でも同じことが言えると思います。どんなに、貧しくとも、心が互いに通じ合って、真心から信頼し、愛し合える家庭であれば、幸せな家庭であると思います。もっとも、そういう家庭では、それぞれの家族の一員は自分たちの家庭を「貧しい家庭」とは思わないでしょう。

一方で、どんなに経済的に恵まれていても、家族がそれぞれ自分のことばかり考えて、勝手な行動をとっていれば、決して幸せな家庭とはなりえないと思うのです。

ところで、ここで問題があります。それは、自分が相手のことを思う心の状態です。すなわち、自分が相手のことを好きになっていると思う感情そのものに問題があるケースです。言い換えると、自分は相手のことを愛してきたつもりであれば、その相手のことを否定することは自分を否定することにもなり、そういう状況をどうしても避けたいと感じてしまうことです。潜在的には、相手のことを嫌で仕方ないのに、相手を嫌ってしまうと、結局は今まで相手に対して尽くしてきたはずの自分の否定につながってしまうことが辛く思えてしまうわけです。そして、自分を騙しながら生涯を送ってしまうのです。

しかし、これは明らかに自己欺瞞です。何故なら、自分の本当の感情を押し殺してしまっているわけであり、人間として生まれて最も悲しい状況にあると言えるからです。自分の本心の否定、これこそが人間として生まれてもっとも悲惨な状態であると思うのです。

毎日、朝から晩まで忙しい毎日を送っている現代人にとって、自分が自分の心と向き合うことすら困難になっていることがあるとすれば、そして、自分の本心を覆い隠してしまっているとすれば、こんなに悲しいことは他にないと思います。

私は、自分の心の底に思っている本当の自分の心を大切にして生きていきたいと思っているのです。
(3月23日)

 久々の明るい話題(私の中でのことが)ですが、10日(日本時間11日)、米大リーグ・パイレーツの桑田真澄投手は日本選手史上最年長の39歳で「メジャーリーグ」にデビューしました。しかも相手はかつての同僚である松井秀喜選手も属する名門ヤンキースでした。

 大リーグを代表する打者、ヤンキースの4番強打者のアレックス・ロドリゲスに本塁打を許し、松井選手にも四球を与え、2回を2失点としました。それでも、桑田選手は「うれしい」を繰り返したそうです。

 中でも、「けががあって歩けない状態から、ようやくここまで来た。こんなに良いことがあってもいいのかと、疑いたくなるくらい、うれしい」(朝日新聞)という彼の言葉にはことさら感動しました。

 かつて、大阪・PL学園高時代に甲子園を沸かせ、堂々ドラフト1位で入団した巨人ではエース番号の「18」を背負いました。右ひじの手術を乗り越えて173勝を挙げた右腕が昨年11月、事実上の戦力外で巨人を退団、マイナー契約から大リーグを目指しました。

 球速は140キロに満たないものの、抜群の制球力と大きなカーブが高く評価され、メジャーデビューも時間の問題と言われる好スタートをきったはずでした。ところが、試合中に不運にも審判とぶつかって右足首をねんざ、直前には、開幕メジャーリーガーとして桧舞台に上がるはずだった望みが絶たれたのです。松葉づえが必要な重傷を負いながら、あきらめず、ひたすらリハビリに専念、マイナーの3Aに合流し、チャンスを待っていたのです。

 桑田選手は、「目標を持ち、それに向かって努力するのが僕のスタイル。目標が達成できなくても、努力している姿勢が好き」(同)と言い切りました。

 私は、あらゆるスポーツが好きですが、それは、それぞれの選手が私達に精一杯前向きに生きる勇気を与えてくれるからです。プロスポーツの世界は厳しく、過酷です。アマチュア時代は有名でもプロの世界に入ると多くの選手がいつの間にか消えてゆきます。

 そして、それぞれの選手にはそれぞれの生き様があります。全ての選手の人生を追うことは不可能ですが、不断の努力、不屈の精神、不動の忍耐力を持ち続けた選手から伝わるプレー、そして発言には本当に学ばされることが多く、感動するのです。時に、自分に降り注ぐマイナスの出来事に落胆したり、元気を無くす自分にとって、彼ら彼女達の生き様は本当に励ましとなってくれるのです。桑田選手の活躍は自分を含め多くの人々にとって間違いなく、元気の素をくれるものと確信しています。

 そして、桑田選手の言葉「こんなに良いことがあってもいいのかと、疑いたくなるくらい、うれしい」には深い感謝の気持ちがにじみ出ています。周りの人達への感謝はもちろん、起こった出来事にはたとえマイナスの出来事であっても、感謝するくらいの気持ちがあれば、私達の人生は、意義のある学びとなるのだということを教えてくれていると思うのです。
(6月12日)

自分の直感を信じることはとても大切なことです。

人と会っていて何となく信用出来るとか、この仕事にはどうも気乗りがしないとか、私たちの人生の中では、往々にしてこのような状況に直面することがあります。

それぞれの状況下で、特に自分が意識していないにも拘らず、何かしら沸々と心の底から湧き上がってくるものがあるのです。それに気がつくかどうかで私たちの人生は大きく左右されるのです。そして、それが大きなヒントを与えてくれることになり、障害を乗り越えることが出来たり、災難から逃れたり、大切な人に出逢えたり、さらなる自分の成長につなげることが出来るのです。

直感に対して感情というものはどうでしょうか?感情は、喜怒哀楽ということで、一時的な感覚です。そこには首尾一貫性はありません。その為、揺れ動いたりして、信用出来ないことが多いものです。

その為、感情は心と言い換えることも可能です。心が「ころころ変わる」から「こころ」と言われるように、感情に頼って物事を判断すると、人生に混乱を招くことになりがちです。出来るだけ、自分の感情を第三者的に見つめる余裕が出来れば、多くの失敗を未然に防ぐことが出来るように思えるのです。

直感は、自分の奥深いところから聞こえてくる、いわば神様の声とでも言い換えることが出来るかもしれません。人生の重要イベントに際して、自分の心の奥底に耳を傾け、静かに聞こえてくる感覚を大切にすれば、自分が真に求めている人、物に出会えることが可能になると思うのです。

日常生活において、ちょっとした場面でも、静かに自分の感覚を尊重し、生かすように努めることによって、有意義な人生を送ろうではありませんか。
(8月6日)

「思考が現実を作る」という言葉は真実、宇宙の真理だと思います。世の「成功哲学」や「ニューソート」と呼ばれている考えの本質をなすものと言えます。

 ただ、決して物質的な価値観に基づく幸せだけではなく、精神的な安らぎの境地に至るまで広範囲な幸福の実現に向けて、私たち人間が拠り所にする根幹の考えとも言えましょう。

 確かに、思考が感情を生み、言葉を作り、行動につながっていきます。良いことを思考すれば良いことが起こり、悪いことを思考すれば、悪いことが起こります。

 もっとも、まず良い言葉を発すれば楽しい気分になり、幸せ感を味わえるという考え方も出来、これは私達人間ならではの能力と言えるかもしれません。

 問題は、私たちが日頃生活をしていて、自分が本当に何を望んでいるかということを忘れていることです。潜在的に自分が欲しいもの、願っているものがあるにも拘らず、毎日の生活の中でそれらをわざと覆い隠してしまっていることです。そして、いつも不満を抱いたり心配をしているという状況に自らを追いやっているという不幸な現実です。

 もっと素直に自分を見つめ直し、自分の願望に正直に向き合い、自分を可愛がってあげることが大切ではないかと思います。自分を愛し、大事に出来ない人は決して周りの人を愛することは出来ないと思います。何も自分勝手な人生を送れば良いと言っているわけではありません。まずは自分の願望に耳を傾けてあげることが、結局は周りの人を幸せにすることにつながるということです。

 そもそも自分がどうしたいのか、どうありたいのか、心穏やかにして本来の自分と真正面から向き合ってみることが本当に大切なことだと思います。そして、自分の願望に気がついたら、臆病にならず、怖がらず、少しずつでも良いから一歩一歩前に進むという行動を起こすことが必要です。

 そして、その進む過程において、気持ち良い状態を保てるように、自分が心の底から好きなことをやり、毎日ワクワク感を持って快の気持ちで過ごせるように努めることが、私達主体性を持った人間がとるべき生き方なのだと考えます。

 一緒にいて幸福感を共感出来る人に囲まれて、自分が好きなことに没頭出来、その成果が周りの人々を幸せに出来るならば、これほど幸福な人生はないと思うのです。

(11月16日)