ブルームーンの夜更け、フラウはお産に入った。 私の予想通り、いや予想以上の難産で、私は夜が明けるまでに何回も彼女か赤ん坊か、あるいは両方の心臓が止まったかと思った。 外見や物腰の割りに、どうもフラウは女の匂いが薄いと思ったら、彼女の内側はまだ女性として未熟だったようだ。 話を聞くと、ごく最近まで月のものも訪れなかったらしい。 …そこまで固い蕾を、花開かせたのは、やはりこの城の主のお手柄ってことなのかしらね……。 「……身篭ったと…判って…」 フラウは、激しい陣痛の中、うわごとのように珍しく良く喋った。 「……あの方…に…子供が……出来ましたって…申し上げたら……」 「なんて言ってた?」 私は、メイドたちにお湯を沸かすよう指示を出しながら、フラウの手を取る。 ……大分、脈が弱くなって来ている。 「そうしたら…ね……『どなたが?』って仰るんです…」 「…ほんと、男親ってしょうがないわね」 私は冗談めかせて肩を竦めて見せる。 「ふふ……でも…私が……私と貴方の子です…と…言ったら…… ……あの方…とても驚いて……それから…とても…暖かい眼で…笑っ…て………」 フラウの声が不意に途切れた。 額に、幾つもの汗の粒が滲み、深い蒼の瞳に微かな霧が掛かる。 それでいて、彼女は始終嬉しそうだった。痛みや苦しみを訴えることもなく、ただひたすらに、命の誕生を喜んでいる。 そんなフラウの様子を見て、私も腹を括った。 「ねぇ、フラウ。このままだと貴女の意識を保つのは難しいわ。 下手すれば、お産の最中でショック死してしまう。そうしたら、赤ん坊も助からない。 ちょっと危険だけど、強い魔法薬を使ってみようと思うの。ただ、貴女の身体が薬に耐えられるかどうか…。 選ぶのは貴女よ。どうする?」 「……。お願いします。ドクター・シシリィ」 そして、数ヵ月後…… 「しっかし、よく似てるわねぇ…」 私は、大きなゆりかごの上に覆いかぶさって呟いた。 ゆりかごの上には布天蓋が掛かっていて、ちょうどそのレースの影がゆらゆら揺れるあたりに、赤ん坊の小さな頭がある。ふわふわの服に包まれた彼女は、可愛いあくびをすると、うとうとし始めた。 細かな刺繍が施された美しいベビードレスは全て、ベルクリーリエがせっせと縫っていたものだ。 「ほんと、そっくりねぇ」 「女の子は、お父さまに似た方が幸せになると言いますから」 フラウはにっこりと微笑んだ。 彼女は、魔族の女には珍しく柔らかな空気を身に纏っていたが、母親になったことでよりその雰囲気が増していた。 赤ん坊の羽毛のように柔らかな髪は漆黒。 肌は雪の白だが、頬はふっくらとした薔薇色で愛らしい。 ぷくぷくとえくぼのある手に、桜貝のような小さな小さな爪がちゃんと付いている。 まるで、卵から生まれたばかりの天使のような姿。 大きな目の片方は、空を舞う氷晶の灰色。もう片方は、目の覚めるような透明なブルー。 この子が生まれた時、フラウは嬉しさに涙を零した。 それまで、泣き言一つ言わなかった彼女が、初めて。 ……魔族としては、儚い、あまりにもか弱い身体を持って、どうして彼女は諦めないのだろう…。 手が届かない筈のものに、必死で手を伸ばして、伸ばし続けているように。 それは多分……… 「あ、でも口の形は貴方似じゃない?」 「そうですか?」 フラウがゆりかごを優しく揺すって髪を撫でると、僅かに開いていた瞳を閉じて、赤ん坊はすっかり眠りに落ちた。 「名前は決めたの?」 私は、マシュマロみたいに柔らかいほっぺたを突付きながら聞いた。 「はい。…呼び名はリドル、と」 「”謎掛け”ね。真名の方は?」 魔族にとって重要な真の名前は、身内の中でも特に魔力の強い者が付けるのが慣わしだった。 「それは、あの方が考えて下さるそうです」 「へぇ〜」 こんなあどけない、それでいて自分によく似た顔立ちを持つ小さな生き物を、あの悪魔殿がどんな表情で抱き上げるのか。それを考えると、思わずにやにや笑いが浮かんでしまう。 ……でも、案外、普通に可愛がっているのかもね。 過度に豪奢ではないが、美しく設えられた寝台。おもちゃの様な小さな陶器の匙とカップ、ふわふわの縫ぐるみ、可愛い手にも握れる綺麗なガラガラ。 その他、フラウだけではどうしようもない細々とした品が、ここにはちゃんと揃っている。 リドルはこの部屋の、小さな小さなお姫様。 彼女は完璧な、当たり前の赤ん坊すぎて。 心配ばかりしていた私は、少し不思議になる。 フラウは知っていたのだろうか。こうなることを。 そう聞いてみたら、彼女は、首を振った。 「そういうわけではないんですけど。ただ…」 どこと無く遠い目になって呟く。 「魔族も人間も…自分の存在する意味を見出そうとして、ずっとずっと、もがいているような気がするんです…。 私は、一度それを失ってしまってから、長い間旅をして来ました…」 「それは、この子を産むために生きてきたってこと?」 「いいえ、そうではなくて。リドルは、沢山の方との糸を紡いで届いた、何よりも大切な出会いの一つなんです」 貴方との出会いもそうですよ、とフラウは笑う。 「…よく判らないけど」 私は照れ隠しにぶすっとしてみせた。 「貴女が凄い楽観主義だということは判ったわ」 バサバサッと翼を翻して、岩山の間にある、小さな庵の前に降り立った。 この山は細長く尖っているので、ナイフの岩とか呼ばれている。串刺しにされたら中々痛そうだ。 私の師匠は、昔、珍しい薬草を取るためにこの山間の窪みに住み始めた。 しかし、そこは今はそれなりに人の訪れる、こざっぱりした家になっている。この屋根を葺くときは、私も色々手伝った。 小さな扉が開いて、角の有る少年が一人飛び出してきた。 「おっと、危ないわよ」 ぶつかりそうになったので、慌てて抱きとめてやる。少年の背は、私の胸あたりしかない。 「あ、ごめん」 少年は、ぱっと私から離れて少し赤くなる。 「もう怪我はいいの?」 「うん、すっかり」 「それは良かったわ」 少年は、赤いつぶらな瞳を暫く瞬いていたが、 「ありがとう、ドクター・シシリィ」 ぼそっとそういうと、駆け去っていった。 「う、うん」 こんどは、私が赤くなる番だった。 …私は、どうして医者になろうと思ったんだろう。 あの日からずっと感じていた。 それは多分、手の届かないものに、必死で手を伸ばして、伸ばし続けているようなことなのだと。 だけど。 「悪くはないわよね」 |