彼女が消滅してから、半月が過ぎた。 もはやこの世界は、彼女を覚えては…いない。 ふらりと立ち寄った酒場。そこに漂うのはアルコールと、美味そうな料理の香り。 いつも通りのざわめきと、物憂げな歌声が微かに響く。 「なぁ、以前別の吟遊詩人(バード)がここにいなかったけか…?」 大きなテーブルに腰掛けていた男の一人が口を開く。 「いや、気のせいじゃないか?」 「この酒場にいるのは、いつもあいつだけだよ」 リュートに合わせて唄っていた男は、気取って会釈する。テーブルの隣で、銀髪の青年が突然立ち上がった。 「おっと、あぶないじゃないか」 「…ああ、悪かったね」 青年はにこやかに微笑むと、酒場を出て行った。 彼女が消滅してから、半月が過ぎた。 もはや、この国に、彼女を覚えている者はいないのだろう。 「エルス……」 銀髪の青年……人間に扮したツァドキエルは、ゆっくりと街から外れて歩きながら、細い月を見上げて呟く。 彼女にとって、消滅とは体だけではなく、魂も、思い出も、何もかも消えるということ。 使っていた部屋は勿論、街の全てから彼女の痕跡が消える。 幾つかの荷物も、淡い残り香も、窓辺に置いた櫛も、ドレスも、竪琴も、唄っていた歌も。何もかも。 ただ、誰かへの贈り物を辛うじて残し。 微笑みも、眼差しも、長く涼しげな黒髪も、恐ろしいほどの勢いで記憶から色あせていく。 まるで、月が見せた気まぐれな夢のように。最初から存在しなかった者のように。 「それでも、お姉さまはいましたよね? 確かに、存在していたんですよね?!」 泣きながら訴えたシアの記憶は、ツァドキエル自身が塗り替えてしまった。 彼女が、エルスに引き摺られて、消滅してしまう可能性があったから。 同じ魂を二つに分けて出来た少女は、酷く儚い。 だから今、シアが覚えているのは、”エルス”という名の姉がいたということ、だけ。 ”彼女は幻だ。この世界にはありえなかった幻……。” 歩くうちに廃墟となった神殿に辿り着いた。 ツァドキエルはただ一人、笑った。 「こんばんは」 柔らかくも甘い、妖艶な声が響いた。 ツァドキエルが顔を上げると、神殿の高い柱の上に、ほっそりとした女性が腰掛けて、こちらをみて微笑んでいた。 「お久しぶり。…と、いうべきかしら?」 夜の風に長い長い髪が夢のように靡いて。その髪は黒から次第に銀色へと色を変えて行き、毛先は透き通るような銀髪で、ふわふわと闇に揺れた。 微かに細められた、凍えるような金の瞳はむき出しの魂の色を思わせる。 幾重にも重ねた漆黒のドレスに、白すぎる腕があまりにも細い。 ”ルシフェル……?” ツァドキエルは暫く声を無くして、その女性を見つめ返していた。彼女の背中に堕天の翼を感じ取ると、ようやく威嚇するように片羽を開く。 「ええ、私で二つ目かしらね。目覚めたのは」 女性は心を読んだかのように軽く首を傾げる。 魔王<ルシフェル>の魂が、無数の欠片となって生まれた存在。 しかし、それだけ分かれてしまっても、彼女からは強大な魔力を感じる。 「あなた、私が眠りに付く前は片羽ではなかった筈。……いつまで、神の冷酷な仕打ちに耐えるつもり?」 ツァドキエルは軽く眉を寄せ、女性の美しすぎる顔を見つめた。 闇が持つ魔性…その痺れるような甘美な笑みは、天使にとっても抗いがたい誘惑として映る。しかし、その中にどこか見覚えのあるものを感じて、彼は呟いた。 「その……器は?」 「これは月の幻。想い人の元に唯一残されたもの。異世界の少女の、最後の一欠けら……」 ツァドキエルは無言で柱の高さまで飛び上がった。 ブン、と風がうなり、彼の指から煌く糸が放たれる。 それは、幾筋か彼女の髪を断ち切り、氷のようにキラキラと舞い散らせた。 「始めて見たわ。怒ったところ」 女性は楽しげにそう言うと、トン、と柱を蹴って空に舞い上がる。 広げた翼は六枚。漆黒の羽根が花のように開く。 「判っているだろうが、伯爵がこの体を媒体として利用し、私を降臨させた……。 だから、彼女はまだ消滅しきってはいない」 ひゅっと風を切って更に糸が彼女に向かう。それを翼の一振りで舞い落とし、黒い羽根が針のようにツァドキエルに注ぐ。それを銀糸で振り払い、もう片方の手で、何本もの糸を放つ。糸はほっそりした腕に絡まり、二人は空中で眼差しを交わす。 「…つまらないわね。本気じゃないんじゃ」 暫く後に、女性が肩を竦めた。 「君だって、剣を抜いてないじゃないか」 ツァドキエルが穏やかに応じる。 ふいに、鋭い殺気がツァドキエルを掠めた。ボッと音がして、糸に黒い炎が燃え上がる。 プツリと切れた勢いで、片羽の天使は微かによろめいた。 「そろそろお時間です、猊下」 快く響く低い声に振り返れば、黒い帽子を被ったシルエットがそこにあった。 先ほど、ツァドキエルに向かって黒炎を放ったとは思えないほど落ち着き払って、手には金色の懐中時計を持っている。 「……いつから見てたんだよ」 「これ以上やるおつもりなら、わたくしがお相手致しますが? ケセドの天使」 淡い灰色の瞳をツァドキエルの方にやると、そう言って漆黒の悪魔は酷薄な笑みを浮かべる。 「いや、やめておく。…エルスが怒りそうだ」 ツァドキエルが含みのある苦笑を浮かべたが、悪魔の方は然様ですか、と表情も変えずに呟いた。 「次に会うときは、また刃を交わすでしょうけど…今夜は異邦人同士として別れましょう?」 美しき女魔王の言葉にツァドキエルは小さく頷いた。一陣の風と共に、薄い黒絹の裾が翻って消える。 それを追うように踵を返した伯爵の背中に、ツァドキエルが問いかけた。 「あれを…ルシフェルの魂の欠片をエルスに降ろしたのは、君の計画通りだったのか?」 漆黒の悪魔は天使の方を見ずに、帽子のつばを軽く下げた。 「……。さぁ」 そういうと彼は音も立てず、地面の中に吸い込まれて消えた。 「なんか、凄く疲れたな…」 空を見上げると、月が笑うようにゆらゆらと煌いている。 ツァドキエルは、崩れかけた柱に舞い降りた。指一本動かすのも億劫で、そのまま暫くじっとしていた。 やがて、どこか遠くから、竪琴の音が近付いてきた。 それと一緒に、まるで青空とそこに浮かぶ雲のように大らかに澄んだ歌声がふんわりと流れて来て、磨り減ったツァドキエルの心をそっと癒す。 ツァドキエルは、瞳だけ動かしてそっちを見る。アクアマリンのような美しいブルーの髪が目に留まった。 勿論、人間の持つ色ではありえない。 「こんばんわぁ〜ですよぅ」 髪がサラサラと揺れるたび、どこからか、潮の香りがする。 全てを包み込む母なる海の、優しい香り。 きらきら輝く瞳は、海底から生まれた大粒のサファイアのようだ。 「あれぇ、誰かいたと思ったんですけどねぇ〜」 竪琴を奏でる手を止めて、その少女は不思議そうに呟く。その声は困惑よりももっと暖かいものが篭っていた。 「こんばんは、海のお嬢さん」 ツァドキエルは柱の上から声を掛ける。 「ああ、こんばんわぁ〜ですよぅ」 少女は彼を見つけると、にこにこと笑った。 「誰かと待ち合わせかな?」 「ん〜、そういうわけではないんですけどねぇ。誰かに会えたらいいなぁ〜と思って」 「そうか。僕にも君のような吟遊詩人(バード)の友達がいたんだけどね。もう会えないみたいなんだ」 ツァドキエルは、口元に苦笑を浮かべながら呟いた。 「吟遊詩人のお友達ですかぁ〜。会えないのは寂しいですねぇ」 そういえば、ベリアルさまとか〜、エルスさまとか〜、最近会ってないですねぇ。と少女が呟く。 ふわっとツァドキエルが柱から飛び降りた。その声は、驚いたように掠れている。 「もしも…もしも、君がその友達のことを覚えているのなら、ずっと覚えていてくれないか。ずっと……」 「はい、お友達のことはずうっと覚えていますよぅ〜」 少女は、とてもとても楽しそうに微笑んだ。 |