「行かないで!」

少女は泣きながら手を伸ばした。
その指がけして届かないと判っていても。だから、こそ。

「行かないで!!」

彼に抱いていたのは、恋にも似た甘い憧憬。
それが滴り落ちていく。悲しみにぽたぽたと零れていく。
雫が額に当たり、彼は最後にほんの少し笑った。

「お前は、一人で生きていける。シーズィエル」





荒れ山に捩れた木が立っていた。
崖の縁を大きな根で絡ませるようにして、ようやくそこに生えている木は、見上げても先端が見えないほど巨大で、歪なモニュメントを思わせる。
その梢に程近い枝に、赤いものがヒラヒラと揺れていた。
上を見れば驚くほど美しい金髪を白い頬に落とし、一人の青年が幹に寄りかかって惰眠をむさぼっている。
木の又とはいえ、そこは十分に広く、なぜ好き好んでこんな所で眠っているのかという疑問を除けば、昼寝にもってこいだと言える。
風を孕むたび、真紅のマントの裾が揺れた。

ふいに白い手が、何かを求めるように天に伸びた。しかし、それはすぐにパタリと落ちる。
「シーズィエル……」
小さく呟くと、血のような色の瞳が開く。何も掴めなかった手を見つめ、一人、苦笑を刷いた。


魔王ルシフェルの欠片が、地上に現れてから暫く、その青年……フェネクスは酷い喧騒の中にいた。それなりに贅を尽くした自分の城から、こんな荒山に逃れたくなる位に。

仮にも魔界で貴族を名乗っている身であれば、 力を落としたルシフェルへの失望は勿論、天界への警戒、他の魔族たちとの緊張が高まる中、魔王の元にはせ参じなかった責任を形だけでも取るために自軍の一部を地獄の境に配備させられ。
(それはまたいつものように、小うるさいシャックス侯の口車に乗せられたような気がしないでもない。)
やがて、傷を癒した魔王が地獄に帰還すれば、万魔殿に使者を送りご機嫌伺いやらなにやらで様々な宝物を献上しなければならず。
各地域を治める悪魔たちの様々な欲望入り乱れる思惑に対しては、軍備を増強して牽制を図った。
ようやく状況が落ち着いたかと思えば、早くも次の欠片の覚醒が噂されている。
長年の膠着状態が嘘のような、まるで狂ったお祭り騒ぎだ。


――天界のしがらみを振り切るために堕天した筈なのに、また魔界のしがらみに自由を奪われる。
そう思うと、なにやらおかしく歪んだ笑いが込み上げる。
それでも、自分はもう、あそこには戻れやしない。





はるか昔、堕天した時の記憶…
長い赤銅色の髪をした、彼の妹…シーズィエルは落ちていくフェネクスに手を伸ばした。
フェネクスを焼いていた天界の炎が、その顔に飛び火して醜い傷跡を残そうとも、躊躇しなかった。
しかし、彼はその手を振り払った。


「お前は一人でも生きていけるんだ。シーズィエル」

手のひらを握り締め、フェネクスは呟く。
遠き道の向こう。いつか交わることがあるとしても、その時はどちらかが永遠に失われることになるかもしれない。
その一時の邂逅を思って、フェネクスは瞳を閉じた。








久々にバー”柘榴の果実”の扉を開くと、物憂げな女の歌に迎えられた。


あなたはきっと 忘れている
一人で生まれ 独り死んでいくと信じて

何もかも 消えた青い月で
あなたを 待っている人がいることを
その小さな吐息が落ちるたび
雪の欠片が 舞い落ちることを…



「……趣味が悪くなったな」
フェネクスが、カウンターに座りながら呟くと、バーのオーナーママ、マダム・モリィーはクスクス笑う。
「ほら、一時期仮面の公爵(デューク)のところで、ちょっと評判になった”吟遊人形(バードドール)”みたいのがいたじゃなぁい?」
「あれが?」
まぁ、レプリカだけどね、とマダムは肩を竦める。
フェネクスは、ちらりとその黒髪の女を見た。蒼白の肌によく映える、哀しげに歪められた紅い唇で、彼女はサビの部分を繰り返していた。


…だから
波が寄せるように 風が震わせるように
奏でましょう
遠い遠い
どこかの世界の果てに
繰り返される約束のことを



「…どうという歌でもないな」
「あら、そこがいいんじゃないのぉ?
…そういえば、フェネちゃんは天界随一の歌い手と言われてたんだモンねぇ」
彼女が手早く作った焼けるような酒を喉に流し込みながら、フェネクスは歪んだ笑みを浮かべた。
「……”レプリカ(偽物)”ね…」


私は 神に創られた人形
ただ 祈りを捧げるだけの……



人形は、無表情のまま、別な歌を唄い始めた。











もしかしたら続く。


戻ルノ?