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医者としてその離宮に呼ばれた時、私はびくびくものだった。 深淵の貴族の”隠し部屋”なんてね。 どんな凄いものがあるのかと思うじゃない。 彼女を見た時、最初、猫が座ってるのかと思ったわ。 真っ黒な艶やかな毛並みと、大きな菫青色の瞳。そして長い長いしっぽ。 でも、よく見ると、しっぽだと思ったのは綺麗に梳られて寝台の上に零れる黒髪だった。 真っ白なドレスに身を包み、初めて会う私にもにこにこと笑いかける生き物…… こんなの見たことないし、一体なんていう珍種なのかって思っちゃったわ。 彼女は夜魔族、ヴァンパイア。しかも、元人間。 それ自体は別に珍しくもなんともない。 むしろ、こんな場所にいるのが不思議なくらい。 一体、貴族のどんな気まぐれなのかしら。 彼女の強い意志を持った瞳、穏やかだけど、人の言いなりになることには慣れていない声は、どう見てもペットや奴隷のものじゃないし。 「貴女をなんて呼べばいいですか?」 健康診断を始めながら、私は彼女にそう聞いた。 「名前……ですか?ドクター・シシリィ」 「私たちの患者(クランケ)は、本名で呼ぶことを避けさせて頂いたいております。 魔界の闘争に巻き込まれるのを避けるためですわ、フロイライン」 「フラウです」 くすくす、と彼女は笑う。 「なんとでも、お好きなように呼んで下さい」 「では……ベルクリーリエ」 私は、彼女の白い肌の中で一際目立つ百合の形の印を指差した。 「温室には咲かぬ山の百合。貴女に相応しいわ」 彼女は、首をちょっと傾げて、それから静かに笑った。 次に離宮に呼ばれた時、少し時間はありますか?と問われた。 私が頷くと、彼女の手作りのジャムでロシアンティーをご馳走してくれた。 世間知らずのお嬢様のような外見に反して、彼女…ベルクリーリエは編み物や刺繍、料理まで一通りのことをこなすらしい。 中庭で(この”隠し部屋”は、結界に囲まれた館のある箱庭のような造りだった)摘んだ苔桃や薔薇の実で作ったジャムは絶品で、本当はお菓子作りが好きなんですけどね、と笑う彼女に思わず聞いてみた。 「どうして貴女はこんな所にいるのかしら?もしかして、閉じ込められているとか?」 「まさか」 クスクス笑って、彼女が答える。 「じゃあ、自分の意思?」 「……はい」 嬉しそうに、とても嬉しそうに頷く顔は、あどけない少女のようでいて、どこか甘い艶を含む。 「私ね、”自分が死んでも幸せでいて欲しい”なんて思われるの、厭なんです」 含みのある言葉は、一体何を示しているのやら。 「…そういえば、聞いたわよ?」 数回目の訪問で、すっかり居間でくつろいでいた私は、レース編みを続ける彼女に言った。 「何をです?」 「貴方、元は人間だって言うけど、魔女だったんでしょ」 「……魔女といっても薬草を煎じるぐらいですよ」 「しかも、人の心を読み、その奇妙な歌で操ることが出来たって」 彼女は肩を竦める。 「心を読むことなんて出来ません。ただ、私は強い感情に触れるだけ」 「触れる?」 私が聞き返すと、彼女はおっとりと微笑む。 「そう……寂しさ、哀しみ、痛み…そんな感覚が心に触れる。溢れて流れ込んでくるんです。 それに、歌も…」 ちょっと困ったように笑った。 「元々その方の心にあるものが、私の歌と共鳴してしまうことがあるだけ。他の方には、ただの下手な歌ですよ」 自分の歌を美しいと思う方は、心に傷みを持っているのだ…と彼女は呟いた。 そんな能力に名前は付けられない。付けるほどの値打ちもない。強いて言うならば、ごく淡い精神感応(テレパシー)。 けれど、なんとなく彼女らしい能力だな、と私は思う。 「私にはとても無理ね」 そうですか?と彼女は聞き返した。 「シシリィは、どうして医者になろうと思ったんです?」 「……それは…」 地獄では、暗殺や裏切りが横行している。 時に、罠を回避するよりも、掛かった罠をいかに踏みにじるかが重要になることもあり。 魔界の大貴族と呼ばれるような悪魔であれば、代々自分の家だけに仕える医師がいることが多い。 彼らは、高価な薬品や呪術を惜しげもなく使って主人の健康を守り、命令があれば毒薬の調合もするという。 しかし、そんな身分にない者たちは、せいぜい知り合いの呪い師に薬草を分けて貰う程度。それすらも、敵の息が掛かっていないとは言えない。 私は、それが厭だった。 何かあれば、種族や身分に関係なく、分け隔てなく患者を診る、そんな医者が欲しかった。 そんなの、だたの理想だけど。ユメだけど… いないなら、自分がなればいい。 そう決心したのは、いつのことだったか。 魔物同士の小競り合いで、姉妹たちを沢山失った時だったかもしれない。 「…それはもう、医者になればがっぽがっぽと儲かるし、地位も名誉も思うがままよ?」 私は、笑いながらそう言ってウィンクした。 「そうなんですか?」 にっこりと彼女が私を見つめる。深い深い蒼の瞳で。 何もかも、見通されているような気がして、少し決まりが悪くなる。 優しさとか、慈しみなんて、地獄に一番相応しくない言葉。 私も、自分の本当の気持ちなんて、いつも隠していた。 絶対に口に出してはいけないこと。 だから、その時も、彼女を突っぱねてしまった。 「勿論、お金になる治療しかしないわよ。慈愛の精神なんてうんざりよ」 「そう…ですか」 彼女はふわりと笑う。そして、編み物の手を止めると私の方に歩み寄った。 「それなら、もし…私が……」 そこまで言って、細い体が傾ぐ。 ふらりと。 気が付いた時には、小さな白い花のように、床に倒れ伏していた。 「ちょっと!どうしたって言うのよ…」 立ちくらみがしただけだと言うベルクリーリエを寝台に突っ込んで、私は検査結果や病態を師匠の庵に持ち帰った。 何度も検討して、二人の出した結論は同じだった。 「妊娠」 地獄には、モラルも貞操もありはしない。 その結果孕んだ子らは、早いうちに下ろしてしまうことが多かった。 もし生まれたとしても、その殆どが死産か奇形。成人に達することが出来る者は、ほんの一握りしかいない。 特に、力の強い悪魔の子を脆弱な女が孕んだ場合、母体にだって影響が出ないともかぎらない。 大体、彼女はヴァンパイア、かの城の主(あるじ)だって本来なら子供が出来ない筈。自然の摂理に反した妊娠は危険も跳ね上がる。 出来るだけ早いうちに、胎児を取り除く必要がある。 屋敷に向かったとき、私は大分重い気分だった。 貴族方の愛人の堕胎や、奇形に生まれついた赤ん坊の始末も、大体が医者の仕事だった。 まだまだ世間に認められていない私の場合、そんなことばかりやってきたと言ってもいい。 けれど。 「生みますよ、勿論」 懐妊の知らせを当たり前のように、そして嬉しそうに聞いて、彼女はそう言った。 「貴女、体も弱いし魔力も強くないでしょ?! リスクの方が大きいのをわかって言ってるの?」 「……はい。」 でも、生みたいんです。生ませて下さい。 そういう彼女の目には、少しの迷いもなかった。 「不思議ですね。ここに私以外の命がいるんですね」 彼女は、聖母のような笑みを浮かべて、お腹に手を当てた。 「あの方に似ているでしょうか。私にも似ているのかな…」 私の心配を他所に、ベルクリーリエのお腹は、会う度にふくふくと膨らんでいく。 「人間の妊娠期間は、太陰暦で十月十日……次の満月は二日後だから…え〜と、7魔王の血筋では…ああ、資料が古すぎるっっ」 本を抱えてブツブツ呟いていると、トン、と机の上にカップが置かれる。 「あら、ありがと」 振り返ると、いかにも好々爺と言った風情の、白ひげを長く伸ばした顔があった。体の半分は漆黒の馬。 彼は私の師匠で、名前はドクター・ケロンという。 医術で名高いケンタウリの一族だが、地獄に落とされたってことは何かしでかしたってことかしらね。 「せいが出ているな。どれ、妊婦の様子は?」 「…順調なんだけどねぇ。」 あのフラウは緊張感が無さ過ぎるのよ、と呟く。 私は、カップの中身を一口飲んだ。 「にが」 「地獄の底に咲く宵待草を薬草と煎じた。月の魔力を高める」 「……。 ししょー! それ教えて!」 数種類の薬草を抱えて屋敷に行くと、彼女は天井が一面硝子張りの部屋で、一人空を見ていた。 青白い月の光が、彼女の透き通るような長いドレスと、それが見せるライン…ふっくらとした腹部を否応無く照らし出す。 「お産の無事を月に祈っていたの?」 私が声を掛けると、彼女はゆっくり首を振った。 「いえ、子供が出来たことへのお礼です」 私は肩を竦める。 「ねぇ、フラウ・ベルクリーリエ。貴方は怖くないのかしら?子供を生むことが」 「あら」 彼女はクスクス笑う。 「地上の動物はなべて女の腹から生まれて来るんですよ?」 「でも、普通の子供ではないでしょう。その子には堕天使とヴァンパイアの血が混じっているのよ?!」 「……ああ、確かに」 何かを思いついた、というような悪戯っぽいまなざしで彼女は呟く。 「私って意地悪かもしれませんね。 あの方は(と言って、彼女は城の主の名を口にした)多分、妻や子供を作る気は無かったんだと思います。 でも、きっといいお父様になると思うんですよね?」 …いや、もうそんなことはどうでもいいわ。 私がこめかみに指を添えると、彼女は楽しそうに笑った。 「はっきり言って、前例が多くないからどうなるか解らないのよ。 生まれて来るのは死人かもしれないし、化け物かもしれない。 人の形をしているかさえ怪しい。 産むなとは言わないわ。でも、医者として忠告させて貰うなら、これは危険な賭けよ?」 私がそう言うと、フラウは愛しさを滲ませた目をした。 「解っています。だからこそ、こんなこともう二度とないかもしれない。奇跡のような小さな謎(リドル)……。 ええ、私はこの賭けに乗ってみようと思っているんです。生きて、この子と共に生きるために」 「あのねぇ」 「大丈夫、ギャンブルは強いんですよ?こう見えて」 コロコロ笑う彼女を見て、私はあの始めて彼女に会ったときの不可思議な気持ちを思い出した。 どうして、こんな所に彼女のような女性がいるのかと。 彼女は、どこか力とは無縁に見えた。 …力とは、なにも戦う力だけではない。 例えば、類稀な美貌や、心を蕩かす色香。 外見だって使いようによっては大きな武器となる。 それから、誰もが持ち得ない能力や強い魔力。稀有な種族や高貴な血。 金が多大な権力を与えるのは、地上でも地獄でも変らない。 だから……。 魔王の城の”隠し部屋”にいるもの…それは、どれほどまでに珍しく、また素晴らしいものかと誰もが思う。 しかし、彼女はただの女性だった。 綺麗な長い黒髪をふんわりと垂らし。その深い蒼の瞳に優しい笑みを湛え。 彼女はなんの力も持たずに、穏やかで儚げな容姿そのままに、ゆらゆらと柳のように折れることなく。 ただ意志だけが、凛とそこにあった。 「……そこまでいうなら、もう止めないわ」 私はありったけの薬草と、師匠に貰ったメモを取り出した。 「でも、出来る限りリスクを減らしておいた方がいいわ。今日から毎日、この煎じ薬を六種類飲みなさい!それから、この丸薬は一日三回。いいわね!!」 「……。はい」 ありがとう、シシリィ。 彼女はそう言ってまた笑った。 |