+夢見+


彼は夢の中に居た。
それが夢だと、はっきりと感じ取れた。
眩しいほどの太陽の中に、少しも圧力を感じず…それが淡い月光ででもあるかのように、立っていたから。
目の前に広がる、一面の草原の果て、一人の少女が優しい声で歌を唄いながら、花を摘んでいた。
いつものどこか哀しげな声ではなく、それは子守唄のように甘い、柔らかな歌だった。彼は、これは彼女が紡いでいる夢だろうか、と思った。
魔女は自由に夢を紡ぐことによって、自分の力を高めるのだと聞いたことがある。

”こんな夢ならばいい。”

彼はそんな風に思った。

こんなに明るく優しい夢ならば、時に泣かせ、寂しい思いをさせながら自分の傍にいるよりもずっと幸せだろう、と。
何も言わずに立ち去ろうとした彼を、ふいに、少女が振り返った。
驚く様子も見せず少女は、嬉しそうに微笑んで彼の元に走って来る。
まるで、最初からそこにいることを知っていたかのように。
そして、両手一杯に抱えていた花束を、彼に差し出した。

「……て」

少女はにっこり笑って何か囁いたが、その言葉は風に浚われて届くことはなかった。



”贈り物をするときは、身に着ける物は選んではいけないと思っていた。
 自分がいない時まで、傍に置いて欲しいなんて強欲過ぎるから。
 だけど、何気なく渡した小さな青い石を。
 あの方は、ペンダントにしていつも身に着けていた。

 それを知った時、胸がとても苦しくて嬉しくて…。

 駄目なのに。
 何時かこの恋が邪魔になって、私をいらないと仰る時が来る。
 今までの私なら、きっと笑って消えることが出来たのに。

 「あとで開けてください…」
 その小箱を渡したのは、私の小さな賭け。
 中には襟や帽子に付ける、飾りピン。
 小さな卵型の石を飾っただけの、シンプルなブローチ。
 肌に直接触れることはない、しかし確かに身に付けるもの。

 私がいなくなったら、捨ててしまうかもしれない。
 箱を開けることもないかもしれない。
 開けたとしても…彼が見れば魔法の品だと気付く筈。
 触れてみようなどと思わないだろう。
 だけどこれは、小さな賭け。…いや、ただの願い。

 薔薇色の卵の中に眠る私の魂が、ずっと彼の傍に居ることが出来たら…。
 きっと、何よりも幸せ。”




薔薇色の柔らかな日差しが降り注ぐ草原で、エルスは色とりどりの花を摘んでいた。
風も、花の香りも、何もかも甘い。
ふわふわと笑いながら、彼女は振り返った。そこに彼がいることを知っていたから。
傍に駆け寄って、花束を渡す。眩しい光に、彼の髪が琥珀色に揺れる。
なんて幸せなのだろうと、エルスは思った。

「……て」

なんていったのか、本人にも聞き取れなかった。
忘れないで、か、愛していて、か、悲しまないで、か…。どれもこの場所に相応しくないような気がする。
ふんわりと薔薇の香りが立ち上った。
そっと彼が腕を伸ばして、壊れ物を扱うかのように優しく、花束ごと彼女を抱き締めていた。



”本当は。
 貴方の隣には、誰よりも優しくて美しい人がいるべきだと思っていました。
 私が上げられるものは。
 この心と、体、だけ。
 他に何もなくて。
 ほんの少し、少しの間。
 ここに居るのを許されているだけだと。
 …そう思っていた。

 けれど。  貴方に離れるように言われた時。
 迷惑なのも、望みがないことも、みっともないことも判っているのに。
 貴方を引き止めて、縋り付いて。
 泣いた。
 ああ。
 こんなに貴方を好きになっていたのだと。
 きっと、それだけで本当に幸福なことなのだと。
 心から感じた。”




そう、彼女はいつも、酷く不安定で。
それを自分のせいだと…彼は思った。

本当は、幼い頃から満月に近付いてくると、彼女の中にある幾千もの亡霊たちが彼女を連れ去ろうとした。

還りたい…と。

自分たちを無に還す、混沌(カオス)の海に。
いっそ、その呼びかけに応えてしまった方が、エルスには楽だっただろう。

しかし……彼女の師はとても命を大事にする人で。
小さな花も、鳥も、虫一匹でさえ、愛しんだ。
そして、命あるものが生きようとしないことを、何よりも悲しんだ。
彼女はその人の気持ちを、自身よりも大切にしていたから、自分の命さえ粗末に出来なかった。

生贄として育てられ、生に対して酷く執着が薄いように作られた心は、ずっと変らないようだった。
かといって、死を与えられることもなく、過去も未来も存在しないままただ生きていた。
エルスの中に封じられた神の力も、彼女を無理やり存在させ続けた。
異世界を渡り続けるという、人間にとっては過酷な旅の間にいかに体が衰弱しようとも、自然に死ぬことを許さなかった。
幾年月も彼女の中は、空っぽなままだった。

空っぽな心は、周りの感情を酷く感じやすかった。エルスは時に、他人の気持ちを自分の気持ちと取り違えることさえあった。
周囲の人々によって、時に陽気だったり少し哀しげだったり、様々な風に見られた。
それは、綺麗だがどこか空虚な人形に似ていた。
夜を鬻ぐ仕事が、それをより強くした。相手は自分の中の鏡像をエルスに投影して、抱いた。
彼女の唄う歌は、相手が自分の中に持っている何かと酷似していた。
それは時に”傷”と呼ばれるものだったかもしれない。



――――…ねぇ。
この果てしない旅を、終わらせて下さい。
貴方の、手で。―――――



エルスが、彼に惹かれたのも。
最初は”自分を殺しても、笑っていてくれそうだから”という理由だったかもしれない。
彼の細く長い指で、赤い唇で、冷たく煌く眼差しで、命を絶って欲しいと、切ないほど憧れた。

それが、いつか変ってしまった。
何故なのかは判らない。
多分、彼が酷く優しかったからだとエルスは思う。
”優しさ”というものの意味が、エルスと彼の中ではまるで違うようで。
彼女の中では、彼はあまりに優しかった。
…それを自分に対する”好意”なのだと思うには、彼女は歪み過ぎていて。

けれど、彼と過ごした時間と……それと同じぐらい他の人たちと過ごした時間が、少しづつ彼女を変えた。
空っぽの精神の中に、始めて心が満ちて溢れた。
”恋”という名の。



”貴方が他の方を愛していると言っても、それで構わない。
 邪魔にならないのなら、私は喜んでお傍に居るでしょう。
 けれど、この存在が、貴方や他の方を悲しませ、その幸せを妨げるとしたら。
 私など消えてしまった方が、いい。

 本当にそう願っていた。
 だから、あの時何も残さずに消えるべきだった。
 …それなのに、出来なかった。

 「いつか、貴方に素敵な恋人が出来たら、私が邪魔になる時が来るでしょう」
 「他に恋人なんか出来ませんよ。作る気もありません」

 けれど、私ごときがいなくなっても、貴方はけして”孤独”ではない筈。
 それは判っていたつもりだったのに。
 どうしようもなく、望む心を、傾く気持ちを止められなかった。
 魂だけでも、貴方の”永遠”という時間に寄り添っていたい、と。
 ピンに付けられた薔薇色の卵は、ずっと彼の傍に居られるようにと願ったささやかなまじない。”












けれど。



もしも。



彼が、その卵を暖めてくれたら……?























「どうして、貴女はそんなにわたくしを愛しているの?」
エルスを腕に捕らえながら、彼が呟く。

それは、きっと。
貴方を愛して、私が幸せだから、と、エルスは微笑んだ。
























”ただ一人の”伴侶”だと。
 貴方に言われて。








 勘違いでも、思い上がりなと責められてもかまわない。
 私は、ずっと貴方の傍にいたいと思ってしまった。
 生まれて始めて、生を願った……。



 なんて。
 なんて幸せ。”


























夢の中でさえ儚げな、彼女の体を、彼は少し強く抱き締めた。
胸元のピンが、小さく煌いた。