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+口喧嘩+ 「……ですから、貴方が何度いらっしゃっても無駄というものですよ」 広い図書館の一角、何冊もの分厚い本を目の前に積み上げて、梯子に腰掛けていた女性がふわりと笑う。 艶やかに波打つ黒髪を今日は後で結び、薄紫のストールを、邪魔にならないように肩に掛け。 黒いレースの袖口から白すぎる指が覗いている。 その手で、重そうな金属打ちされた本を開きながら、目の前に現われた白い影に首を傾げて見せる。 「貴方も大概、諦めが悪いですね…」 「そうそう、簡単に諦めるわけにはいかないんだよ」 彼女の横にいつの間にか現われた白尽くめの男は、困ったように肩をすくめる。目にも眩しい銀の髪が、少しだけ揺らめいた。 「私は、あの方の傍にいると決めたんです」 女性の声が僅かに高くなった。 「だから、貴方と一緒には行けない。何度もそう言ったでしょう?」 「どうして、そんなに彼に拘るのかな?」 男は、ひょいっと傍のテーブルの上に飛び乗り、行儀が悪い…と目で叱られる。 周りの人々は彼の姿が見えていないのか、全く気に止めていなかったけれど。 「……愛しているから」 淡く微笑んだ女性の眼差しは、いかにも幸せそうだった。 「知ってるよ、それは…ね。エルス」 男は忌々しげに、彼女の左手に光る指輪を睨む。 「でも、彼は…悪魔だろう。本気で君を愛せるわけじゃない」 「………。どうでしょうね…」 少しだけ間を置いて、エルス、と呼ばれた女性はそう答えた。 「どうでしょうね、って……」 エルスは、ゆっくり笑みを浮べる。 「確かに、私だけが御心を独り占め出来るような方でもないかもしれません。 けれど、それが関係ありますか?」 「愛したら愛されたいと願うのが当たり前かもしれません。 でも……愛されなければ愛せないというわけじゃないんですよ」 ――それでも、自分は大切にされていると素直に思う。 それを”愛”と呼ぶのかは解らないけれど……。 「別に純粋な感情という訳ではありませんけどね。結局は……執着ですから。 おかしいですね。こんな私でも嫉妬に蝕まれ、あの方を自分だけのものにしたいと思うことがある。 だけど、お傍に居ることを許して頂けるだけで、私は幸せで……」 ……むぅ、と溜息を吐いて黙り込んでしまった男から視線を離し、女性は本を読み始める。 「いずれ誰かが連れに来る。それなら、僕が一番ましかと思った、それだけだよ」 暫くの沈黙の後に、男はそう言った。 「そういうしがらみは、あの方の血を頂いた時に断ち切れたと思ったのに……」 エルスは苦笑と共に呟く。 「一度印を付けた生贄を、早々逃がしはしないってことさ」 「……ようするに、逃げた魚は大きい、という心理ですか…」 身も蓋もないね、と苦笑する天使の前で、ええと…と、魔道書のページを捲る。 「……何探してるんだよ、エルス」 ツァドキエルが咎めた。 「ですから…私は一応魔女ですし。 神様のものになる前に、悪魔と契約しておけば、魂はそっちに行くかと…」 ね? と可愛らしく首を傾げて見せる。その前で頭を抱える天使が一人。 「………。一体、誰と契約なんか……」 「…やっぱり、あの方でしょうか……」 「仮にも恋人だっていう相手を召還して、一体何を願うっていうんだ!!」 彼の叫びに、エルスはのんびりと微笑む。 「では、デューク様か、ソロモン72柱の誰か」 「……誰でもいいのか、結局のところ…」 ツァドキエルが力なく呟く。 「だって、神様のものにはなりたくないんです、私」 くすくす、とエルスが笑う。 ……先ほどまで、白い男が座っていた場所には、今は何もない。 吊るされた灯りから零れる光が、白い羽のように机に落ちているだけで。 「ようやく帰りましたか……」 呟くと、ふと手に持った本を広げた。 ヤギの角と蹄を持った魔王の前で、全裸の女性が右手で頭を、左手で右足を掴んでいる絵があった。 「……『右手と左手の間にある、全てのものを貴方に奉げる』か…」 「……………。 ………馬鹿みたい」 ふっ、と小さく笑う。 「私が、あの方以外のものになるわけがないでしょう?」 きっと、ツァドキルには解らないのだと、エルスは思う。 この体の最後の血の一滴まで、私はあの方だけのものなのに。 「さて……調べ物も終わりましたし、帰りましょうか」 本を全て棚に戻すと、ふわりと梯子から飛び降りる。 その姿は、床に付く寸前に溶けて…… 消えた。 |