| +月草夜+ *** 真夜中、目が覚めた。 長く続いていた雨音も止み、静けさが部屋を包んでいる。 ―――――…喉が、渇いた………。 とくん、とくん、と体の芯から響くように、渇きが押し寄せてくる。 シーツの中、向きを変えて身を丸める。音もなく白い絹が滑り落ち、素肌にひんやりと空気を伝える。 ふいに、花の匂いがした。 部屋中に飾られている、白い花の香り。 エルスは目を上げた。 薄い直垂から外を透かし見る。ゆっくり身を起こすと、寝台の傍らに置いたサイドテーブルから小さな黄金の箱を取る。 中に入った薬を一つ。グラスに注いだワインの中に溶かす。 透明な液体が赤く染まる頃、硝子の縁に幼児のような朱唇を当てて、一口、飲下す。 「はぁ…………」 小さな溜息が零れて、瞳が揺らぐ。肢体に甘く…甘くその液体が染み透る。 喉を通るその度に、体は痺れるように歓喜し。 全てを呑み終えても、もっともっととざわめくのを感じる。 ―――…こんな夜、他の夜魔(ヴァンパイア)たちは、美しき得物を狩り、その肌に思うまま牙を埋めるのだろうか………。 白い腕を伸ばすと、布の手触りが触れた。 さらり、と月草を染めた浴衣を引き寄せ、身に纏う。 そのまま一人、外に出た。 *** 月がごく淡く、潤んだ眼差しで、こちらを見つめている。 恋する女のような、と胸のうちで呟き、それは自分のことではないかと小さく笑う。 こんな宵には、天の楔も外れて、霊魂が空に遊ぶのやもしれない……。 遠い異国には、輪廻転生という思想がある。 魂は繰り返し生まれ変わり、鳥になり虫になり鬼になり人になって、その間に業と煩悩を捨て去り、高みに登ることが出来るという。 「何度も生まれ変わることが判っていたら、死ぬのも怖くないかしら……?」 けれど、彼女には転生などないのだけれども……例え生まれ変われるとしても、この胸にある執着は捨てることは出来ないだろう、と思うのだ。 ”何度生まれ変わっても、必ず見つけて上げるから” 彼からそっと耳に囁かれた言葉。混沌(カオス)の海にこの身が溶け入って、消えてしまっても、 そこから新たに生まれる命は、例えほんの小さな花であろうとも、イトシイ、イトシイと彼の方に囁くに違いない。 そんな風に思いを巡らせながら。 ゆらゆらと歩みを進めていく姿が、水溜りにも映らぬのが不思議。 吸血鬼、と呼ばれる身でそれでも血を厭う所為で、どこか儚く頼りない足取りに。 ぴちゃんと水が跳ねれば、青い花を一面に咲かせた裾がふうわりと揺れる。 雨を一杯に吸い込んだ草花は甘い息を吐き出し、それに惹かれるように白い指を伸ばして。 枯れかかった薔薇から一枚花びらを咥えれば、愛しい香と共に精気が唇を濡らした。 *** どれほど時間が経っただろうか。 ふいに、小さな光が彼女の頬を掠めた。 「………なに?」 紡がれた言霊に答えるかのように、木々の奥で青白い光が揺れた。 約束して下さい。危険なことには近づかないと。 最愛の主の声が蘇えり、思わず身を乗り出したエルスは、一瞬足を止める。 「………さま。」 お守りのようにその名を呟いてから、ふわっと地面を蹴って、高い樹の枝に乗る。 浴衣の月草が翻り、身の丈程もある黒髪が残像を作った。 *** 女の姿は木々を渡り、風が吹き抜けるような音をさせてその灯りに近づいた。 枝の陰からそうっと覗き込む。 茨の茂みの片隅に、無数の光が集まっている。 ―――…ほたる? よく目を凝らすと、小さな銀色の手鏡が落ちている。蛍たちはその表面に宿った露をしきりに舐めているのだった。 「……どうしてこんな不気味な森を選んだんだ?」 人の気配に顔を上げると、人工的な明りがゆうらりと近づいてくる。 「術に適した場所が他にないのだから、仕方がない。 それとも、お前は信じているのか? この森には、悪霊が住むと」 「まさか。」 木々の間に身を隠しながら、ああ、ここは”外”に繋がっているのだな、と少女は思った。 知らずに、主の張った結界の淵まで来ていたに違いない。 「ほら、あの鏡だ。あそこに落ちている」 男たちは、草むらを掻き分け、乱暴に蛍を追い払うと、銀の手鏡を手に取った。 蛍が居なくなったと言うのに、その鏡の表面は、濡れたように輝いていた。 男は鏡に手をを差し込んだ。硬いはずの表面は、易々とそれを飲み込んでいく。 ぐっと手を引くと、中から一羽の鳥の細首を引き出す。 白鷺に似たその鳥は、体を小さな鏡に飲み込まれて、ぐったりと項垂れている。 銀毛に縁取られた頭も、萎れた花のように力なかった。 「どこで使うのだ」 「近付きすぎて術を返されたら困る。ここで良かろう」 「よし、月の魔物よ。離して欲しければ、敵の魂を取って来い」 揺さぶられて鳥はうっすらと目を開いた。その時。 ひふみよいむなや こともちろらね しきるゆゐつ わぬそをたはくめか うおゑにさりへて のますあせほれ、け…… 奇妙な歌声が男たちの耳に入った。 それは、遠い異国の”詞”に酷似したものだったが、彼らとしては、そんなことは解りようもなく。 「ひっ、今のは何だ?」 「どうして、こんな所にひとが……?」 周りを見渡せば、いつからか少し離れた木陰に、ちらちらと青い花を染めた衣が揺れている。 「見られたか……?とにかく、放ってはおけん」 「……口を封じるしか……」 小声でそんなことを囁きあいつつ近づけば、翻る白い衣。 「まてっ………!!」 ぐっと引いた着物の裾は、案外抵抗なく彼らの方に舞い降りてきた。 その途端、目の前を染めたのは。 一面の。 赤。 赤。 赤。 「……うわっ?!」 「目がっ!」 男たちは目を閉じると、大きく両手を振り回した。頬を掠めて無数の何かが飛び過ぎていく。 やがて、彼らが瞳を開けると、辺りはしん、と静まっていた。 傍らに目をやると、落とした灯りの元、一羽の真っ赤な蝶がしきりに舞っていた。 思わず手を伸ばして捕らえる。 開いた掌がぬめりと紅かった。 「………血?」 はっと周囲を探る。傍に落ちている筈の鏡が…ない。 にゃおん。 笑うような啼き声に顔を上げると。 闇色の猫が、鏡を咥えて走り去った。 *** 猫は暫く森を走って、やがて立ち止まった。 影絵のようなシルエットで、じっと耳を澄ます。 足音が聞こえないことを確認すると、咥えていた鏡をそっと草の上に置いた。 幾らもしないうちに、はたはたと、幻のような蝶の群れが、猫の頭上に舞い降りて来た。 体の上から、浴衣が掛けられ、猫はゆっくりと立ち上がり。人の姿を作り出す。 「いらっしゃい」 少女が手を伸ばし、もう片方の指で微かに手首を傷付けると。蝶は紅い花びらのように、彼女の血の中に吸い込まれていった。 腕を一拭いして、傷跡を消してしまうと、少女は、ゆっくり屈み鏡を手に取った。 「苦しかったでしょう。今、出して上げるから」 小声で歌を唄いながら、トン、と鏡の淵を指で叩く。 鏡面がゆらゆらと揺れて、樹の芽が伸びるように銀色の鳥の頭が現れた。 とんとん、と独特のリズムで叩いて行くと、鳥はゆっくりと浮上し、羽を広げる。 大きさは鷺より一回り小さく。輝く体は雪の重ね、尾羽は真珠、翡翠、瑪瑙……まるで花のように開く。 やがて、術が解けた鏡は鉛色に染まり、からりと地に落ちる。 ふわりと柔らかな羽毛がエルスの頬に触れた。 何か語りかけるように。 彼女が笑うと、鳥は澄んだ瞳を彼女に向ける。 これは魂の色だと少女は思う。 「さぁ、飛んで。飛んで行きなさい。まっすぐに」 やがて、思い切ったように翼を羽ばたかせ、ぴぃ、と高い声で啼いた。 その姿が優雅に空に舞うと、一、二回頭上を回る。 そして、月に向かい、ゆるゆると昇っていく。 「……急に眩しくなったな」 猫を探して遠く歩き回っていた男たちも、ふと立ち止まった。 目の前で手を翳して呟く。 「朧月だと思ったら、もうあんなに高い……」 「なぁ、やはりあれは……幽霊だったのか?」 もう一人の男は苦笑した。 「死人が化けて出るなんて、信じているのか」 「どうだろうな。でも、こんな夜には、何があってもおかしくない気がする…」 ひふみよいなむや ここのたり ふるべゆらゆらとふる、べ… くすくす、と彼女の唇から笑いが零れる。 ―――――……夢を紡ぎ、その夢を喰い、また夢を紡ぐ。 それが魔女というものの…… ふわり、と浴衣の裾が翻った。青い、小さな花を染め抜いた着物。その月草の花の。 夜の幻のように、エルスは微笑む。 |