―望月(ノゾムツキ)―


エルスは寝台の上で目覚めた。


夜明け前の、甘やかで曖昧な時刻(とき)。ふと起き上がると、傍らで眠る人に視線を向ける。
目を開けば、冴え冴えと冷たいその美貌も、今はいっそ無邪気なほど安らかに見えて。
エルスはくすりと微笑み、そっと唇を寄せる。
白い瞼に優しく触れると、微かにぴくりと身動きをして。起こしてしまったかな、と首を傾げるも
穏やかな寝息が乱れることはなく、ほっと息を吐く。

こうやって、どれだけこの人に口付けただろう。満ち足りた微笑を浮べながら、そんなことを思う。
多分、相手が知らないうちに。寝息を盗むようにして、何度も何度も。
夢の中で、彼が気づかないのが不思議なくらいに。

静かに彼が寝返りを打つと、ふわりと薔薇の香りが広がる。エルスはそっと身を覆っていたシーツを相手に掛けると、素足のまま寝台から立ち上がった。
長い髪がまるで喪服のようにユラユラと身体を包む。


月が…呼んでいる……


窓辺に立ち、薄いカーテンを開くと、白い光が差し込んで来る。
淡い月の輝きが愛撫するように肌を滑り…そして素通りして床に落ちた。
これほど儚い光の元では、すでにエルスの体は影を作らない。

『私は、貴方に会うまで死んでいた……』

以前エルスが彼の人に向けたコトバ。それは、比喩ではなかった。
一度死んだ体…それが神によってむりやり生かされていただけ。
だから太陽の輝きならともかく、月の光の元では淡い亡霊のようなものだ。
自分の寿命はとうに終わっているのだということは、自分でもよく解っていた。

そして、今は貴方に生かされている…


小さく首を振って、窓を開け放つ。夜の風が黒髪を靡かせて、サラサラと衣擦れのような音を立てた。
その動きに誘われるように、白い肌から淡い蛍のような輝きが無数に溢れ出し、暗い部屋で星屑のように煌く。


月が…呼んでいる…… 


月の光に答えて、体の中の無数の死霊たちが囁く。『還リタイ』と。
その生命を、役割を終えた魂として……根源なる安らぎの場所へ。
『還りたい』
叫んでいるのは、誰だったのか?
滅びた故郷の亡霊たち…そして、そこにはエルス自身も含まれている筈だから。



エルスは月を見つめていた瞳を、名残惜しげに寝台の方に向けた。
ただ一人、自分をこの世界に留めている人を見つめる。
このまま自分が消え去ってしまっても、彼が寂しがることはないかもしれないと、ふと小さく笑った。
しかし、もしそうだとしても…。


貴方を…置いていくことは出来ない……


エルスは目を伏せて、窓を閉じる。そっとカーテンを閉めると、体を取り巻いていた死霊の輝きもその身に吸い込まれ、消えていった。
寝台に歩み寄ると、冷えてしまった体を静かに横たえる。
彼の人は、何も気づかずに安らかに眠り続けている…あるいは、ただそう見せかけているだけかもしれないけれど。


ああ、私はあとどれくらいここにいられるだろう…


目を閉じて幸せな温もりに身を寄せながら、そんな風に考える。

いつか、生者よりも死霊の囁きに身を任せる時が来るかもしれない。
いつかまた、他の方に心を奪われ、自分は忘れ去られる日が来るかもしれない。
……けれどそれは、誰にも解らない未来のこと。
今は…この時間だけは、私だけのものだから。

もう一度身を起こし、静かな、誇らしい誓いを込めて、エルスはそっと唇を重ねた。



「ずっと…傍におります。そして永遠に愛し続けます、貴方を……」











――惹かれたのは、悪魔の貴方。
恋したのは、月のような眼差し。
そして、愛したのは……私だけの秘密。












●ヴァンパイアキングダムのダグラス様に、御誕生日祝いとして贈らせて頂いたお話です。
以前、『エルス嬢の物語を読んでみたい』と仰ったように記憶しておりましたので、
メールでお送りしたのですけれども……
きっと、ご想像とは掛け離れたものだったのでは、と危惧しております(苦笑)
望月というと、満月のことになりますが、
ここでは『月を見る』と『月を欲しがる』の二つの意味で使っています。
イギリスでは叶わない望みのことを『月を欲しがっているようだ』と言うそうですが、
文字通り、月を望んでいるエルスのお話。