まだ日が出ない朝の早い時間。古びた雑居ビルを横切る影がある。疲労した体を精神力のみによって支えながらふらふらと歩いていたジョミーは、ガタンと乱暴に自室の扉を蹴り開けた。
「くそっ!」
 慣れない場所を酷使したせいで、不愉快極まりない痛みが下半身を纏っていてジョミーは唸った。洗面所に移動して、手を洗うよりも先に口の中を洗浄するように何度もうがいをした。乱雑にしすぎたのか器官に入り、ゴホゴホっと咽る。
「厄日だ……」
 出かける前にたまたま見た朝の占いは、文句なしの一位だったのに。これだから占いは信じられない。
 鏡に映る自分の真っ黒いシャツから覗く首に、点々とついている赤い痕に思いっきり眉を寄せ、舌打ちをして鏡から目を逸らした。結んでいたネクタイを鬱陶しげにはずし、シャツを脱いで新しいものと取り替える。首元まで覆うようなハイネックの服を身につけた。すでに一度シャワーを浴びているので、服を取り替えたらそのまま寝るつもりだった。髪や顔は起きたら洗えばいい。
 乱雑に脱ぎっぱなしの服や仕事用の本が床に散らばっている部屋を横切って、冷蔵庫に常備しているオレンジスカッシュの蓋を開けた。ごくごくと煽りながらソファに近づき、倒れこむようにして座り込む。空になった缶をゴミ箱に放り投げる。その際にまたズキンと体の奥が痛んで寛大に顔を顰めた。
「あのませガキっ……!」
 数時間前まで確かに己を支配していた少年の大人びた顔を思い出し、ジョミーは情けないやら悔しいやら、複雑に絡んだ感情のまま心の中で罵倒する。子供のように悔しさで涙が流れそうだ。肉体はすでに疲れ果て、精神的にも参り始めたのでベッドに移ることなくソファにごろりと背中を預ける。もぞもぞと座り心地のいい場所を探して、ジョミーはふぅとため息を吐いた。やはり自分のテリトリーは落ち着く。たとえ借家であったとしても、住んでいると自然に自分の居場所になってくる。間違っても他人のつけている香水の匂いなんかしない。
 ソファの上でごろりと寝返りを打つ。寝ればすべてを忘れるというわけではないが、先に受けた衝撃を少しでも忘れることが出来るだろうとジョミーは目を閉じた。





 数時間前、取引相手が些細なポカをしたらしく、一緒にいた自分まで巻き込まれてしまった。取引相手は警察やジョミーのしている家業の人間なら名前を知らなければもぐりと呼ばれるような大物人物の周辺をこそこそ嗅ぎまわっていたらしく、彼らの部下にあっさりと捕まってしまったのだ。
 そこに居合わせてしまった自分の不運さをジョミーは嘆いた。圧倒的なカリスマ性と手腕でもって暗黒街を支配する人物なんかに下手に睨まれたら商売上がったりだ。彼の機嫌を損ねて生きている人物などこの街にはいない。それだけの影響力がある人間だった。

 ソルジャー・ブルー。

 ジョミーも仕事柄、彼のしてきた事の噂や情報は勝手に耳に入ってくる。だが、自分には関係のない人間だと眼中にもなかったのに。なぜこんなことに、
 彼の部下であろう人間に取り囲まれて腕を縛られ、何度か殴られた際にはもうこの街では仕事が出来ないかもしれないと言う危機感と自分の身の危険に身が竦んだ。それでも、倒れなかったのは元来の負けず嫌いと巻き込まれた理不尽さに腹が立っていたからだった。隣には殴られて意識を失った取引先の人間が血を流して倒れていた。死んではいないようで、僅かに呼吸しているのが見て取れた。こんなときに意識を失ってることがいっそ羨ましいとさえ思った。
「人の縄張りで好き勝手やった落とし前をどうつけるつもりだ?」
「……言っておくが、僕はこの件とは無関係だぞ」
 頭上から降ってくるまだ年若い声に、項垂れたままだった顔を上げた。跪かされたまま顔を上げると、自分の予想よりはるかに若い姿に少し驚いたが、ジョミーははっきりとそう言った。下手をしたら、自分より年下かもしれない。
「いっ……っ」
「止せ」
「しかし、ソルジャー」
 嘘を言っても自分の為にならないし、ジョミーが絡んでいる仕事とは別件のことだったので本当のことを言っただけだった。しかし強情に口を割らないジョミーに痺れを切らしたのか、途端に掴まれていた腕に力を込められ痛みに顔が歪んだ。
「放してやれと言っている」
 少年の一言で後ろ手に縛られていた腕が解放され、ぎしぎしと痛んだ肩の関節をジョミーは両手で掴んだ。汚い地面に膝をついたまま、この場をどうやって切り抜けているかを考えながら俯いていると、ぐっと顎を掴まれて無理矢理顔を上げられた。視界に広がる銀と赤に眼を眇める。。整った美貌が、見下ろすようにして微笑んでいた。
「鼠はこちらで始末しよう。ただ、君を解放する代わりにその情報が欲しい」
「言った瞬間殺(バラ)されるってことはないだろうな」
「それはこちらを信じてもらわないとね」
 まだ発展途上であろう幼さに騙されそうになるが、ソルジャーと呼ばれた少年は確かにこの業界のトップともいえる肩書きで。本来ならこうやって顔を突き合わせて会話をするどころか、視線が合うこともないだろう存在だ。ジョミーは赤い瞳に、底知れぬ恐ろしさを感じる自分をあえて中にしまいこんだ。修羅場なら慣れているが、今回ばかりは相手が悪い。
 もう少し仕事の相手を選ぶべきだった、と後悔するジョミーに少年が笑った。
「いい眼をしている。……欲しいな」
くつくつと笑う姿は荒野を統べる王者のように堂々としていて、銀色に輝く髪が白い顔を彩っている。真っ赤な瞳がジョミーを覗き込んだ。
 浮かんだ笑みに嫌な予感がして咄嗟に後ずさるが、逃げられるわけがなかった。






 犬にでも噛まれたと思って、さっさと忘れるに限る。
 ずきずきと痛む下半身のことなど知ったことか。足元に落ちていたブランケットを頭から被って、ジョミーは今日の悪夢をすっかり忘れることにした。













2008,1,24