アスファルトの道路も家々の屋根もすっかり白く染まっている。
 碇シンジは、学生の頃から使っているクリーム色のひどくやわらかなマフラーを首に巻いて外に出た。手袋をはめ、コートも着てしっかりと防寒をしているにもかかわらず、外の空気は芯から凍るように寒い。あまりの寒さに思わず震えるシンジのことなどお構いなしにひゅうひゅうと冷たい風が顔にぶつかる。
 家から歩いて十分ほどの学校に着くころには、すっかり鼻も頬もまるでりんごのように赤く染まっていて、職員玄関の扉に映った自分の姿を見てシンジはいつものようにため息を吐いた。
「おはようございます」
「おはようございます碇先生。今日も寒いですねぇ」
 今年一番の冷え込みらしいですよ、といつも自分よりも早く来ている白髪の事務員の世間話に付き合う。
「すいませんね、今ストーブを灯したばっかりなんですよ。もう少ししたら暖まるんだろうと思いますけど」
「いえ、大丈夫ですから」
 そう言って、事務員はまだ寒い職員室から出て行った。大方、各教室の暖房を入れるためにボイラー室にでも行ったのだろう。
 シンジはコートとマフラーをしたまま自分の机に向かう。乱雑に物が積み上がっているほかの机と違って、すっきりと整えられた机なのでどこにあるか一目で分かる。
 鞄を机に置くと、手洗いとうがいをするために廊下に出た。生徒も他の教師もまだ来ないだろうから、防寒具は身に着けたままだ。
 廊下に出て、冷たさを通り越して痛みを感じる水で手を洗ってうがいをする。ポケットからハンカチを取り出して手を拭いていると、後ろからいきなり声をかけられた。
「おはようございます、碇先生」
「おはよう、渚くん。今日は随分はやいね」
 振り返ると、授業でよく顔を合わせる生徒が鞄を脇に持ち、両手をコートのポケットに入れて立っていた。
「先生こそ僕よりも早いじゃないか。いつも?」
「僕は授業の準備をしなくちゃいけないから……」
 暖房が入っていない廊下は外にいるように寒い。シンジは自分よりも高い位置にある少年に向かって苦笑いした。
「渚くんも、今日はやけにはやいじゃない。いつもは遅刻ぎりぎりだって、葛城先生が言ってたよ」
「今日はたまたま目覚ましが時間ぴったりに鳴ったんだ。でも、ちょっと早く来すぎたみたいだね」
 カヲルは静まり返った辺りを見回して、肩をすくめた。
「この調子で教室に行ったら、間違いなく風邪を引きそうだよ」
「そう、だね。暖房は点けたんだろうけど、暖まるまでしばらくかかるんじゃないかな」
 シンジが頷くと、カヲルは無造作に跳ねた後ろ頭をかいた。教室はしばらく暖まらないだろうし、制服の上にコートを着ているとは言っても、むき出しの白い首筋はひどく寒そうだった。
「先生、教室が暖まるまで職員室いていい?」
「え…っと」
「寒いし、受験シーズンなのに風邪引いたら大変でしょ? 今はテスト期間ってわけでもないし、自由に出入りしていいんだよね」
 カヲルの言うとおり、大事な受験期間の真っ只中の人間に風邪でも引かせてしまったら。たとえシンジが悪くなくても、保護者からどんなクレームが来るかわからない。ただでさえ最近ははた迷惑な注文や言い分を学校に押し通そうとする保護者も多いのに。
「職員室もストーブ点けたばかりだから、そんなに暖かくはないと思うけど。それでもいいなら」
 シンジは少しためらった後、カヲルを職員室に連れて行った。生徒の出入りを禁止しているテスト期間も、どうせまだ先のことだ。連れて行ったところでなんの咎めもないだろう。
「先生以外まだ誰も来てないの?」
「事務員さんが教室を見て回ってるよ。それに、もう少ししたら他の先生も来るはずだから」
 ふぅん、と相槌を打つカヲルを背にしながら、シンジは机に戻る。
「寒いから、そこのストーブの前にいていいよ」
 椅子に座り、すっかり冷えてしまった手のひらをこすり合わせながらカヲルに言う。鞄からノートパソコンを取り出して、電源を入れた。
「―――あれ?」
 キーボードを叩くが、うんともすんとも変化しない画面に首を傾げた。何度パスワードを打ち込んでもエラーと表示される。
「どうしたの?」
 おかしいなぁ、と眉を寄せたシンジの背後からカヲルが声をかける。シンジは椅子に座ったままカヲルを振り返った。
「パソコンが動かないんだ」
 振り返った先、思いがけず近くにあった白皙の美貌に驚きながらシンジはそろそろと画面を指差した。
「見せて」
 後ろから、まるでシンジに覆いかぶさるようにして、カヲルは左手だけで素早くキーを叩く。
「はい。出来た」
 流れるような指の動きを呆気にとられながら見ていると、至極あっさりとした口調でカヲルが告げた。慌てて画面に視線を戻すと、いつものデスクトップが目の前に表示されていた。
「あ…、ちゃんと動く…。直してくれてありがとう、渚くん」
「大したことじゃないよ」
 起動したことに安堵してお礼を言うと、実になんでもないことのように首を振られる。変に鼻にかけることもなくいつもの様子の少年をついつい感心して見上げると、はめ込んだルビーのような印象的な彼の瞳と目があった。
「―――碇先生って、kaninchen(カニーンヒェン)みたい」
「カニーンヒェン?」
 聞きなれない単語に思わず復唱してしまう。
「えーっと、日本語でなんて言うんだっけ」
 言葉を探すようにぶつぶつと何かを呟いては首を捻るカヲルに、シンジもまた首を傾げた。
 流暢に日本語を操るのでついつい忘れがちになってしまうが、カヲルは日本で生まれ育ったわけではないらしい。シンジは彼の担任ではないので、どういう経緯でこの学校に転校して来たのか詳しくは知らない。それでも、並外れた容姿と見た目にそぐわぬ数々の問題行動で、職員室でもよく話題になっているのをたびたび耳にしていた。
「うー……う、うなぎ?」
「うなぎ!?」
 頭を悩ませた末に言われた一言にシンジはショックを受ける。あんなぬめぬめした棒状のものと自分が、他人からは似て見えているのだろうかとなんだかかなしくなる。
「あれ、違った? えーと、kaninchen……rabbit…」
「ラビット…うさぎ?」
「そう! それ! うさぎ、うさぎだ」
 知っている単語が聞こえて思わず口を挟むと、望んだ答えがわかって嬉しそうな顔をしたカヲルが頷いた。
 もう成人して数年経っているというとのに、教え子にそんな例えをされてもさっぱり嬉しくない。シンジは微妙な気持ちになりながら、満足げな表情のカヲルを見る。
「渚くんには僕がその、それに見えるの?」
 自分をうさぎに似ている、というのもなんだか嫌だったので、日本人が得意なうやむやな表現でシンジは尋ねた。いったいどんなところがあんな小動物に似ているというのだろうか。人より特別耳がいいという自覚もない。
「だって先生、表情も動作もちまちましててすごく可愛い。初めて見たときからずっとそう思ってたんだよね」
 あはは、と笑みを浮かべる目の前の少年の思考回路は一体どうなっているのだろうか。シンジはおもわず額をおさえる。いくら年がそう離れているわけではないからといって、まさか生徒にそんなことを言われるとは。自分が情けなくてシンジは肩を落とした。
「そのマフラーも、すごく似合ってるよ」
「……うさぎみたいで?」
「うん」
 無邪気な言葉に乾いた笑みで返すと、間髪いれずに頷かれた。どうして今日に限って白っぽいマフラーなんて巻いてきてしまったんだろう、とうなだれるシンジをカヲルはじっ、と見つめた。
「やっぱりうさぎみたいだ」
「分かったから、そう何度も言わないでってば」
 繰り返される単語をただからかわれているのだと思い、シンジは困ったように眉を寄せる。
「うさぎって逃げ足がとても速いんだって。でも僕、駆け足には自信あるんだよね」
「? なに言って」
 カヲルの言いたいことがよくわからず、不思議に思って顔を上げると。先程感心して見ていた長い指が顎にかかった。目を白黒させるシンジに、カヲルは笑みを浮かべたまま顔を近づけた。
「な、な、なっ!?」
 有無を言わせず近づいて重なった唇に、頭が真っ白になる。呆然とするシンジを見下ろして、カヲルはシンジの耳元に唇を寄せた。そのまま囁く。

「――先生、このまま僕に捕まってみない?」












 貞カヲルと庵シンジはいいカップルになりますね…!
 2008,1,26