息を殺して生きてきたゴミ溜めの世界で唯一意味のある存在だと気づいたことに僕は失望した。
「なぜ君なんですか」
骸は綱吉の細い首を握り締めながら呻いた。誰に聞いているのか宙ぶらりんな質問に返す言葉もなくじっと黙ったまま紅と蒼の歪められた双眸を見る。圧し掛かられた彼の体の重みや香水の匂いに緩む身体に気づいている。どうしようもないのだと自分が彼に説明したところで、納得するとは思はなかったので黙っていた。ただそれだけ。
「オレは嬉しい。たとえ、あんたがオレを憎んでいても」
母の胎内から生まれてきた少年は、少年である前に王の子どもだった。人であり、人よりも高貴な血筋と持て囃されることの無意味さに綱吉は気づいていた。自分が神のように人を支配することは嫌だった。身につけた帝王学も結局はインプットされてもアウトプットされないただの不要な知識。埋もれ行く時の残骸でしかない。
女は夫の祖父からの寵愛に折れ、子どもを結んだ。どうしようもない裏切りの形として、女の夫はオレを憎んだ。本来なら彼の子どもとして生まれ出でるはずだった自分。婿入りした権威を継承していないただの男よりも、周囲は皇族としての母と父の血筋を称え、まだはいはいも出来ない幼子に金の冠を授けた。重すぎて首が曲がりそうでも、王の子として生まれたなら当然の役目だと世話役も民も子どもの泣き声に耳を傾けなかった。
「骸さんの手で逝くことが、きっと、生まれてから今までの中でオレには幸福なことなんだろうな」
綱吉は血の通っていないような冷たい骸の手のひらを撫でた。傷つけられたように目を伏せた彼の長い睫毛が影を作る。
幸せなんて口に出しても、綱吉にはよくわからない。何が幸せと言うのかよく分からないからだ。貴方は不幸だと哀れんだ骸なら幸せと言うものがなんなのか知っているのかもしれない。
冷たい手を撫でた手を止めると、手錠のような宝石の散りばめられた腕輪がしゃらりと音を奏でた。場違いな安い音だと綱吉は笑った。なんだかひどくおかしな気分だった。
骸の手に力を込めて自分の首を絞めると、彼は伏せていた瞳を開けて綱吉を見下ろした。その目には憐憫も蔑みの情もなくて、ただただ透明な、壊れやすい硝子細工のように脆い瞳があった。苦しくなる息に、もうずっと息の仕方も忘れていた自分を思い出して綱吉は苦笑する。息苦しいことには慣れていた。初めから自由などなかったのだから。
苦しみの先に何があるのか分からなくて、骸に出会ってから分からない事だらけだと綱吉は体から力を抜いた。霞んだように白い意識の先には、自分にとっての父と母。王と后が見える。どんな顔をしているのか思い出せない自分に薄情な子どもだと哂って綱吉は目を閉じた。
「やくそく、守れなくて……ごめん」
意識が途切れる最後に、両目の違う幼い少年が綱吉に微笑んでいた。それが誰かを思い出す前に、綱吉はぽろりと一粒涙をこぼした。
手に入らないものなどないほどの地位、揺らぐことのない権力。陽炎のようにうつろう人の世の中でオレはずっと一人で石ころを積んでいた。
男の暴力に慣れる前に家から飛び出した。愛した妻に裏切られた男は現実から目を逸らすべく酒に溺れ、女に溺れた。僕は男の愛した女の腹からではなく、違う女の腹からこの世に生まれた。母というべき女は僕を父に預けて逃げた。
父親という男はそれに憤って、彼らの遺伝子を継ぐ僕を殴る。嘲るように殴りながら言った男の言葉に、自分に血の分けた兄弟がいることを知った。それはこのように男に殴られている僕とは違う、高貴な身分で生まれた神子だと男は哂った。
僕は男が何を言いたいのか理解していたので黙っていて、男が眠りに誘われてベッドで横になったあと、近くにあった包丁で首と心臓を何度も刺した。真っ赤に染まった体を見下ろして兄弟のことを思う。僕と血を分けた子どもは、いったいどんな子なのかと気になって胸が高鳴る。殴られて切れた唇から血が流れて、舌で舐め取った。
「……だれ?」
忍び込んだ大きな城の、広い部屋。うず高く積まれたおもちゃの山に、身を包む綺麗な布。初めて目にした少年はとても綺麗だった。何も言わずに近づいて少年が座るラグに向かう。綺麗で、しかし何も映さない琥珀色の瞳を覗き込むと、ぱちりと瞬きをして首を傾げる。警戒心や危機感がないのだろうか。
少年は黒く変色した骸の服を握る。何の意図もなく、何の恐怖を覚えることなく。覗き込まれた双眸の暗さに、僕は少年が望まぬ暮らしをしているのを悟った。たったひとりの僕の兄弟。
「きみはここにいるべき人間じゃないんですよ」
そう言って丸くて柔らかい頬を両手で包むと、酒の臭いでも香水のあまったるい匂いでもない、温かな人の香りがした。初めて感じた温もりに酒を飲んだような甘い痺れを感じて目を閉じる。少年を強く抱きしめると、彼も手を背に回してそっと縋りついてきた。確信した。
鳴り響く警報の音に身体を揺らすと、少年は僕に来ていた服を被せて逃がした。逃げるときに振り返って見た彼の目に宿る孤独を己の双眸に焼き付けて、僕は闇に混じった。赤々と燃える嫉妬の炎は彼を閉じ込める鳥籠へと向けられる。君を縛る鎖も、強固に閉じ込める籠を断ち切れるような力を持って君を迎えに行く。だから、それまでは、
「僕を待っていて」
誰のものにもならないで。僕だけの君でいてください。
|