「あの、そこ僕の家なんだけど。何か用ですか」
学校帰りで疲れた身体が、目の前でぼうっと立っている少年の姿を見とめて更に重くなるのを感じながら、シンジは仕方なく声をかけた。
目の前の人間から大体一メートル程の距離を開けて、肩から下げた学生鞄を横にずらす。六教科の教科書と学習書が収まった鞄が酷く重たかった。
「ねえ、ちょっと、聞こえてるんだろ。無視してないでどいてくれないかな」
家に帰るまであと一歩というところで邪魔されて、シンジは無視されたことも手伝って眉を顰めた。
「ん?もしかして僕に言ってるのかい?」
何度か声をかけて、やっと振り返った少年はシンジを見て首をかしげる。正面から見た少年のノーブルな顔立ちに、真っ赤な炎のように揺らめく瞳は、かのノアの箱舟を照らしていたガーネットのように稀有な輝きを放っていて、北極星の明るさを思わせる銀の髪はふわりと柔らかい。ひどく整った面立ちの少年だとシンジは疲れた頭でどうでもいいことを思った。
「そうだよ。君以外ほかに誰がいるんだ」
「へぇ……君、僕のことが見えるんだね」
当たり前のことを言う少年に、いくら顔はよくてもボケてるんじゃないのかと失礼な感想を胸中で抱きながらシンジは頷く。面白そうに吊り上げられた唇に嫌な予感を覚えるけれども、早く家に入って一息吐きたかった。
「見えるって、あたりまえじゃないか。近眼でもあるまいし。それよりも人の家の前に用も無いのに立たないでくれないか」
「それはすまない。でもしょうがないよ、僕にもどうしようも出来ないことだから」
すまないと謝っておきながらも、決して退こうとしない少年にシンジは胡乱な視線を向ける。
少年はシンジの冷たい視線に気付いて軽く肩を竦めた。
「わかった。とりあえず君が僕の家の前で立ち尽くしてようが何しようが構わないから好きにすればいい。だけどそれは僕を通してからにしてくれ」
「通ればいいじゃないか」
「だから、君がいると通れないんだって……!」
「大丈夫さ。ほら、ね」
埒が明かない応答に痺れを切らしたシンジに笑って、少年はシンジとの距離をつめてしなやかな腕を伸ばした。
「ひぃっ、な、どうして」
その指が胸を通り抜けて肘の辺りで止まった瞬間、シンジは小さく悲鳴を上げた。
自分の身体を突き抜けた少年の白い腕に恐怖を覚えるが、目を逸らすことも出来ない。
「僕、どうも死んじゃったみたいなんだよね。誰も僕に気付かないし、僕も自分のことがよく判らないし。だから君に話しかけられてびっくりしたよ」
肩を竦めてシンジの身体と繋がった腕を興味深そうに見つめる少年にシンジは背筋が冷えながらも叫んだ。
「こっちがびっくりだよ!な、なんで幽霊が人の家の玄関に突っ立ってるんだ。何か僕に恨みでもあるのか?!」
「さあ?気付いたらここに立ってたし、動けないからどこにも行くことも出来ないし。丁度いいから僕のことが見える君に取り憑くのもいいかもな」
繊細な硝子細工のような瞳を瞠って顔を白く染め上げたシンジを見て、にっこりと微笑む少年の表情が心から楽しんでいるように見えて、シンジは慄きながらも強気に言い返した。そうでもしないと貧血で倒れてしまいそうだ。
「じょ、冗談じゃない!僕はお化けとか幽霊とかよく解らないものが大っ嫌いなんだ!これ以上君なんかと関わりあいたくないよ!」
目を固く閉じて制服のポケットに仕舞っていた鍵を取り出してなんとか鍵を開けようと鍵穴を探す。そのたびにシャラリシャラリと鍵に付けられていた金色の鈴が場違いなほど軽やかに鳴っていた。
「ねえ、今さら僕のこと無視しようとしてるの」
「なんか言いなよ」
「聞いてんの?」
あえて無視するたび後ろの気配がだんだんと冷えていくのを背中に感じてシンジはさらに焦ってしまう。
手荒く鍵の切っ先で鍵穴を探して微かに震える指先がドアノブを掴んだとき、微かな手ごたえを感じた右手は素早く鍵を差し込み回してシンジは扉の中に滑り込んだ。嫌な汗が米神を伝って、シンジは掠れた吐息を誤魔化すように笑った。顔面が引き攣っているのが自分でも解っていて、シンジは無理やり言葉を搾り出す。
「何なんだよ、なんでよりによってあんなのが家の玄関にいるんだ。気持ち悪いし薄気味悪いし第一邪魔だって気付けよ」
後ろ手に鍵をかけると膝から力が抜けて、シンジは扉を背に玄関にへたり込んでしまう。大きな音を立てて落ちた鞄にびくりと身体を震わせて、恐怖を誤魔化すように胸の前で腕を交差させて二の腕をきつく掴んだ。二十歳までに幽霊を見なければ一生見えないと、オカルト雑誌片手に喋っていたケンスケの言葉が不意に過ぎる。それがもし、万が一にでも当たる可能性があるなら。シンジは嫌な予感を打ち消すよう首を振る。
元々オカルトや心霊現象などの類に興味が持てなかったシンジは、そういう曖昧でよく解らない、確証の無いものが嫌いだった。かといって別に科学万能主義というわけでもない。花にも川にも道端に転がっているただの石ころにさえ神々が宿っているという日本人の考え方は、時の流れに流されることなく自然に対して持つ敬愛の心を如実に表していて好きだった。たとえ今はその心がだいぶ薄れてしまっているとしても。
シンジがオカルトを嫌う理由はただ一つ。怖いからだ。背後に見知らぬ髪の長い女が恨めしそうにこちらをみているだなんて、夜中にトイレに起きられないどころか髪を洗ってシャンプーを流すときすら目を閉じられないではないか。ぞくぞくとした悪寒が背筋を辿る。今まで感じていた寒気がまたシンジの細い身体を襲った。
「気持ち悪いって……ほんとに取り殺してもいいんだけど」
「うわ―――――っ!!」
唐突に耳の近くで聞こえた声に、シンジは羞恥も外聞も忘れて悲鳴を上げた。
「なに。その反応。むかつく」
扉から顔だけ出してじろりと見下ろす少年をシンジは絶句して見上げ、するりと壁をすり抜けて部屋に入ってきた少年に視界が白く染まる。まさかホラー映画みたいな経験を実際に体験する日がこようとは。
夢なら覚めろと思いながら自分を見下ろしている少年が面白そうにニヤニヤと見下ろしているのを最後に、シンジは気を失った。
|