マキシスの部屋は、ナフテラ達が寝泊りしている部屋とは正反対の場所にあった。思えば、ナフテラが彼の部屋に招かれるのは今夜が初めてだ。先に部屋に入ったマキシスから少し遅れて一歩足を踏み入れながら、今さらのようにナフテラは思った。
「適当にくつろいで」
「ありがとうございます」
 マキシスが部屋の灯りをつけると、部屋主の好みを表したようなシンプルな室内が姿を現した。橙色の光が外に漏れないように扉を閉め、無遠慮にならない程度に室内を見回す。華美な装飾を省いていながらも存在感のある家具にナフテラは感心した。
 使えることが出来れば安かろうが高かろうがなんでもいいナフテラとは違って、この家にあるどの家具もしっかりとした造りで出来ており、歴史を感じさせる。こういう高いものを見ると自然と値段を予想するナフテラとは違って、根本的に物に対する価値観がマキシスとは違うのだろうと推測できる。
 壁にずらりと並んだ本の多さに圧倒されながら手持ち無沙汰に立ち尽くす。知らない場所に一人ぽつんと取り残されたような心もとなさがあった。
 ナフテラがマキシスに視線を向けると、彼はベッドの上に綺麗に畳まれたタオルを手にして、濡れいてる髪を拭いていた。ナフテラは唐突に理解する。ここは自分の居場所でなく彼一人のための空間なのだと。
 それを思うと、急にマキシスと二人だけというこの空間に居心地の悪さを感じる。かといって、部屋を出るわけにもいかないので自然と足は窓に向かっていた。窓枠に手を添えて外を見ると、手入れの施されたマクドール邸の庭を見渡せる。空を見上げればほんの数個、明滅している光がある。本拠地と違ってここは明るすぎるのか、星の数はいつもよりずっと少ない。

 ハイランドは、星が見えるだろうか。

 なんとなく、ナフテラの脳裏に今はここにいない親友の顔が浮かんだ。
「星が好きなのかい」
「そういうわけじゃなくて、ただ」
「ただ?」
「星に詳しい……友達がいるんです」
 そうだ。小さな頃からずっと一緒にいた。でももう道を違えた親友。
 彼のことを思い出すのは、ずいぶん久しぶりのことのように思えた。ナフテラが思い出す彼は、よく一人で星空を眺めていた。
 今なら分かる。どうしてジョウイが一人、星を探していたのか。
「呆れるほど馬鹿で、真っ直ぐな奴なんですけど」
「うん」
「そんな彼(アイツ)が、僕らには自慢なんです」
 マキシスはただ静かに聴いていた。突然脈絡なく話し出したことを彼がどう思ってるのかナフテラには分からない。
「こんな風に、いつも……」
 数多の星の中に、一際輝く星がある。それを見上げながら幼いころのジョウイの背中を思い出す。
 ナナミはジョウイがいなくなってから、よく空を見上げるようになった。そんな時、彼女は決まってジョウイと同じような表情をした。手の届かないものを飽きるでもなくいつまでも眺めている。
 寂しいのだと、気づいた。
 部屋の明かりが急に消えて、ナフテラはハッと我に返る。
「こうしたほうが星がよく見える」
 マキシスがナフテラの隣に並んだ。
「読書はいいんですか?」
 星明りに浮かんだ横顔を見上げる。血生臭いにおいなど一切しない、傷の無い顔があった。
 職人が作り上げたような端正な顔に、類まれなる才を授かった人。天は彼に素晴らしい才能の数々を与え、彼は見事にその花を咲かせた。グレミオや彼の近くにいる人達が自慢したくなるのも無理はない。
「別に今日読まなくても明日があるからいいよ」
 何気なく言ったその言葉を叶えるために、いったい彼は何を犠牲にしてきたのだろう。一点を見つめる眼差しは強くて、透き通っている。なぜ。なぜ、そこまで曇りない眼で世を見通せるというのだろう。ナフテラにはわからない。マキシスが、グレミオが、ビクトールが、フリックが、ナナミが、ジョウイが、人が。
 何を思って、誰のために、何のために戦うのか。







「こうして話を交わすことは滅多に無いことだから言うけど」
「僕に、ですか」
 マキシスが何を言うのか見当もつかなくて、ナフテラは疑問を覚えながら聴く体勢に入った。マキシスはナフテラの瞳をまっすぐに見据えながら口を開く。
「そう。君と、初めて会ったときの話だけど。その頃からずっと不思議で聞きたかったことがあるんだ」
 なんですか?とナフテラが話を促す。
「君と僕が出会ったとき、僕は池で釣りをしていただろう?」
「はい。グレミオさんがずっと通せんぼしてましたね」
「ああ。あそこは池のほかに特に目を引くようなものは何も無い。君から見た僕の後ろにも池があるだけだった」
 マキシスの淡々とした物言いがじわじわと追い詰めるような感じがして、眉を寄せる。
「僕と言葉を交わす前、僕の背後を見て驚いていたのは何故」
「そんな顔、僕してましたっけ」
 ナフテラの持つ答えを知りながら、あえて本人に聞くようなマキシスの態度にやれやれと肩を竦めて息を吐く。
「人に見えないものが君には見えるんじゃないか?」
「どうしてそう思うんです」
 とぼけたように笑うナフテラの肩を掴んで向き合わせ、マキシスがにこりと笑った。
「死んだ僕の友人から聞いたことがある。……自分は人には見えないものが見えると。言ってる最中はなにを馬鹿なことを、と思ったけど、彼はそんな冗談を真顔で言えるような奴じゃない。」
「それと僕と、なんの関係が」
「君が僕を見たときと、彼が時々浮かべていた表情と同じだったんだ。だからそのことを思い出したのかもしれない」
 マキシスの語り口調から、彼がその親友を信頼していることは容易に察することが出来た。マキシスがそう親しくない自分にあえて聞く、ということはそういうことなのだろうとナフテラは目を伏せる。
「あなたの友人がそうだったからといって、僕がそうだとは限らないでしょう?」
「その通りだ。でも、誤解しないように言っておくけど、僕は別に友人や君が、たとえ僕には見えないものが見えていようといまいがはっきり言ってしまえばどうだっていいことなんだよ。こんなに沢山の人間がいるんだ。僕が知らないことを知っていたり、見えないものが見えていても何も不思議なことじゃない」
「じゃあ、あなたとは逆に気味が悪いと思う人や、話し自体を作り話だと思う人間がいてもおかしくはありませんね」
 ナフテラの意地悪な返答にマキシスが苦笑する。
「そうだろうな。だから友人自身、長いこと僕にそのことを隠していたのだろうし」
 懐かしむような声音で目を細めるマキシスを見上げて、ナフテラはまた外に視線を向ける。
「その話を初めて打ち明けられたとき、薄情な奴だと僕は怒った。友人として彼自身に見縊られたと思ったから」
「マクドールさんって、結構熱い人だったんですね……」
「そうかな。自分ではあまりそういうつもりはないんだけど、でも、たまに言われるよ」
 首を傾げるマキシスを横に、体の力がため息とともに緩んでいく。人から聞いていた性格とは随分違っていてナフテラは少し戸惑ってしまった。
「たとえ、あなたの言うとおり僕には他の人が見えないものが見えたとして、それを聞いてどうしようって言うんですか」
「知りたいんだ」
 予想外のマキシスの強い答えにナフテラは口を噤む。
「教えて欲しい。僕の後ろに何があるのか……誰がいるのか。僕はきっと知っていなければいけないから」
 なにを言われても受け止める覚悟があることを見て取り、ふぅ、と息を吐く。ナフテラを部屋へ呼んだ時から、マキシスはこのことを問うつもりだったに違いなかった。そんなことを知ってどうしようというのか。
「……あなたと同じくらいの年の男の子と、腰に剣を下げた男の人、その隣に寄り添うように立っている女の人の姿が、見えます、けど」
 この世に未練を残しながら死んでいく人間は多い。小さい頃からぼんやりと見えていたそのドレもが血走った目をしていたり、恨みがましそうに命あるものを睨んでいたりもした。だから今まで見たことも無いような安らかな微笑で、マキシスを見守るように立っている彼らを見たときに目を疑ったのだ。それはほんの数瞬のことで、気づかれたとは思ってもいなかったけれど。
 ナフテラの言葉に、マキシスは小さく息を呑んだ。その気配を感じながらナフテラは目を伏せる。
「その男の子は、青い服を着ていて、髪は麦の穂のような鮮やかな黄金色をしてないか?」
「はい。瞳は栗色の」
「男の人は、僕と同じ髪色をしていて、顔立ちが僕と似ていないか?」
「はい。髪は少し短くて年も重ねていますが、あなたとよく似た目をした男の人です」
「女の人は、」
 マキシスは口もとを手のひらで覆って、俯いた。
「母は、父の隣で、笑ってくれているだろうか……?」
「ええ」
 ナフテラは伏せていた目を上げ、頷いた。
「すごく綺麗に。皆、笑ってますよ」
「そうか……。良かった」
 俯いたために長い前髪に隠れてマキシスの表情は見えなかったが、笑っているんだろうな、とナフテラは思った。マキシスの中でどういった変化があるのか分からないけれど、きっと安心したのかもしれない。人は悲しみとは違った涙を流せることを知っている。それでも、この胸には届かない。
 ナフテラは鏡に映った自分に視線を合わせた。後ろには何も見えない。
「どうして」
 自分でも分からないほど小さな呟きを、マキシスは拾った。顔を上げると、睫毛についた雫が頬に垂れてしまい、袖で顔を拭う。外に視線を合わせているナフテラには表情が無かった。
「何を思ってあなたは泣くんですか?」
「ナフテラ……」
 雰囲気がガラリと変わったナフテラにマキシスが困惑すると、ナフテラはマキシスを見上げて自嘲するように笑った。
「僕にはあまり、ソウイウことがよく分からない。なんでなのか、僕にも分からないけど。でも、あなたが流す涙の意味も、ジョウイの気持ちも、ナナミの悲しみも……。鈍感すぎるのかもしれません。それか、本当は興味が無いのかもしれない」
 マキシスの戸惑いを感じ取りながら、そろそろ潮時だと思う。それでもナフテラは止めなかった。
「仲間に聞かれました。どうしてお前は戦争をするのか、って。僕も一応軍の大将ですから。彼が気になるのも不思議はないですよね。もちろん、それに答えるのが僕の義務だとは分かっていますし、ルカ・ブライトを倒した今でも、僕個人としてのハイランドに対する不信感が消えたわけでもない。だけど僕は、彼の問いには答えられなかった」
 笑ってしまう。こんなことを関係ない人間に話してどうしようというのか。ナフテラは自分が一番分からなかった。
「笑っちゃいますよ。僕は、僕が、ときどきよくわからなくなる。親友と決別して、姉を泣かせてまでしたいことがなんなのか。ルカを倒しても結局何も変わらない。戦局は、もう僕たちの手の届かないところまで勝手に広がってしまって、誰かがそれを止めなきゃいけないんです。なら、それを広めるきっかけになった僕と親友が、たとえどういう結果になったとしてもそれを止めないといけない。そうでしょう? 責任がありますし、それを他人に譲る気もありません。でも、」
 深く呼吸をする。視界が暗い。光が、見えない。マキシスは何も言わなかった。
「正直思うんです。どうして僕はこんなことをしているのか。そんな根本的なことが宙ぶらりんなまま人を殺して、仲間が死んで、皆が哀しむんだ。戦争をして利益を得る一握りの人間のために何万もの人間が犠牲になってる。馬鹿馬鹿しい話だ。なのに僕はそれを止められない。止めるべき理由がないから、進むしかないんだ」

 本当はずっと、誰かに聞いてもらいたいと思っていたのだろうか。するすると澱みなく出る言葉がナフテラを冷静にさせる。くすりと笑って、肩を竦める。
「少し喋りすぎました。今夜のことは忘れてください」
 そう言って、踵を返す。マキシスは今夜のことを、誰かに話すだろうか。ナフテラ扉に手をかけようとしたとき、背後から声がかかる。扉を見たまま立ち止まって、なんですか、と返事をする。
「僕が泣いた理由は、嬉しかったからだよ。僕はずっと、彼らを殺した原因は僕だと思っていた」
 幼い子供に教え諭すような優しい声だった。
「自分のために泣いたんじゃない。彼らが。親友が、父と母が僕の近くで、僕には決して見えないけれど笑ってくれていることが、嬉しかった」
 ナフテラが振り返ってマキシスを見ると、彼は月明かりを背後に、年相応に笑っていた。ずっと知らなかった彼の満面の笑み。いつもの落ち着いた彼とは違う、きっと本来の彼の姿だった。
 ナフテラは何と言っていいのか判断がつかなくて、そうですか、とありきたりな返事をした。
「ありがとう。君が正直に話してくれたことが、僕を救ってくれた」
「そんな。お礼を言われることなんか何もしていません」
 マキシスの後ろにハッキリと見える三人が深く頭を下げていて、ナフテラを落ち着かなくさせた。居心地の悪さに今度こそ部屋を出ようとする。
「それでもだ。きっかけなんて小さなことなのかもしれない。でも、その言葉で確かに僕は救われた。長い後悔の中で、やっと光が見えた」
 ぼんやり立ち尽くすナフテラの背中を見ながらマキシスは語りかける。
「マクドール家は受けた恩義は絶対忘れない」
「大げさですよ」
「そうでもないさ。だから僕は君の力になるよ。たとえ君が必要としなくても、僕は君の戦いを傍で見守ろう。この場にいる父と母に誓う、マキシス・マクドールの名にかけて」
 馬鹿なことは言わないでくれと、笑うつもりが上手く笑えなかった。あまりにも真摯に言葉を綴る彼の表情のせいかもしれない。
「僕は決して君を裏切ることはしない」
 マキシスが静かに佇んでいる中、おやすみなさいと早口で告げて振り返ることなく部屋を飛び出した。
 与えられた部屋に走って戻って、すっかり寝入っているサスケやフッチを起こさないようにベッドにもぐりこんだ。目を閉じてもマキシスの声が耳から離れない。裏切りなど、自分は気にしないのに。
「ナナミ……ジョウイ……」
 遠く離れた場所にいる二人のことを思い、ナフテラは堪らない気持ちになってきつく目を閉じる。暗闇しか映らないはずの目蓋の裏に二人の笑顔が浮かぶ。
 いつから二人の笑顔を見なくなっただろう。それはきっと遠いことではないのに。
「もう、戻れないよ」
 ポツリと零した声を掻き消すように、ナフテラは深く上掛けを被りなおした。サスケのうるさいいびきだけが唯一の現実のように思えて、鼻を啜りながら小さく笑った。


 夜明けまでは、まだ遠い。