死にたくなる瞬間と言うのは特に何の兆候もなく、むしろ日常に浸りきった退屈で安穏とした時に湧き上がる。


 油断をしている自分の首にナイフを立てているのが死神でもなんでもなく自分なのだと鏡を見たように悟った時ほどかなしいことはない。
 どうしようも出来ない現状に抗う為なのか、嫌いだと思っていたのに本当は誰よりも可愛がって甘やかしていたいのか、鏡張りの迷宮に迷い込んでしまったように答えは掴めない。
 ただ、身体の内側を小さな虫が這いずり回るようなおぞましい感覚だけがただリアルで逃げ出したくなる。

 泣くことも叫ぶことも忘れた次は、いったい何を失ってしまうのだろう。

 リオウはすでに何度目かわからない春の訪れをいつもの執務室の机に向かいながら書類を整理していた。机の上に転がした羽ペンのインクはすでに乾いてしまっている。
 開け放たれた窓からは涼しい風が吹いて部屋の空気を澄んだものに換え、ついうとうととしてしまうのを冷たい風がやさしく揺り起こしてくれる。
 城の最上階に位置するこの部屋に出入りする人間は意外に少なく、書類を片手に諸連絡を行う大臣だったり軍師など仕事上のつきあいを除けばたまに気まぐれに訪れる紋白蝶やむささび意外誰もいなかった。

 午前中の書類をすでに終わらせたリオウは椅子から立ち上がって、華美な装飾がほどこされた執務服から私服に着替える。すでに自分の一部になった皮手袋をしっかりとはめ直して静かに扉を開ける。
 すべてが終わった日から赤い服はなるべく着るのをやめた。目に見える現実逃避だとわかってはいても身体は素直に拒否反応を示して見につけることを拒む。あまりにお粗末な自分の身体になんど苦笑いしたか覚えていない。
 そうやって大切なことを忘れてしまうことが何度この先にあるのか、知っているのはきっと誰もいない。

 お出かけですか、と扉番をしていた兵士が不思議そうに尋ねるのに笑顔で頷いてリオウは階段を駆け下りる。通り過ぎる城内の誰もが足早にかける王の姿に驚いても決して咎めようとしない。いい人たちだな、とリオウが本心から思えるくらい穏やかな性格の人間が多かった。

 たまにどうしようもなく息苦しさを感じて城下町を抜け出して森を歩いているときに感じる罪悪感の正体は、きっと彼らに対する申し訳なさのせいだ。

 人も街も国も、すでにリオウ一人がいなくなっても充分に機能するところまできた。戦後の復興を望んだ多くの人々の努力の賜物であり、その結果として今のデュナンという国がある。漁業や貿易が盛んで民は最低限食うものに困らぬくらいには生活できている。飢えで苦しむ者のいない世界でも珍しい国。

 その国の統率者であるということに誇りはある。国をひとつ背負うということの責任も覚悟だって。

 だからこそリオウは、この国にはもう自分は必要ない存在だとわかっていた。紋章という強大な力を利用しようとするものも出てくるかもしれないし、それによって無用な争いの火種を灯すことを何より恐れている。人の憎悪が取り返しのつかないことを引き起こすことを知っていた。

 だからこの国を去ることを決めた時、喪失感よりも安堵が勝ったことが少しだけ嬉しくて申し訳なかった。
 日に日に城にいる時間が短くなっていることに、きっとリオウに近しい者たちは気づいているだろう。それでも何も言わないで接してくれるのにただ甘えることしかできない今の現状が歯痒い。

 市場の賑わいの中でそっと見上げたクレール城がリオウにはただ遠かった。初めてこの本拠地として戦場で利用したときはあんなにも寒々しかったのに今では国を見渡す厳しくもあたたかい概観はこの国の象徴に見える。時が経つたび世界がうつろうように、人にも変化がおとずれる。そして、自分は今こそ変わらなければならないときなのだとリオウは漠然と思った。

 すべてを捨て去った後の世界を創造してくすりと口もとを歪める。粉々に砕け散った過去の残骸を拾い集めることなく見失っていく今、そんな些細なことなどどうでもいいことだった。
 見上げていた視界を喧騒に戻して流れに身を任せながらゆっくりと進む。防具や紋章球などさまざまな品物が並べるある露店をこどもの頃を思いだしながら見てまわる。

 大勢の人がいるのにまわりには誰もいない孤独を抱えながらリオウはこっそりと困ったように笑った。














「この議事案は受け付けられない。必要の無い増税案を提出する前に自分たちが使っている税金の使い方を見直したほうがよほどいい。いたずらに民を苦しめると結果的に痛い目を見るのはこちらなのだから。それを肝に銘じておきなさい。次は」
「隣国ハルモニアで武器が大量に製造されているとの情報が入っております。つきましては調査グループをハルモニアに派遣し、彼らの動向を探るべきかと」
「政治家や法王庁が絡んでいる様子は?」
「詳しくは調査をしなければわかりませんが今のところその様子はないようです」
「そうか。分かった、許可しよう。それについてはハルモニア政府と連絡を取り彼らと協力して真意を探れ。国が絡んでいる場合を考え政府の動向にも注意するように」
「了解しました」
「次」

 半日にも及ぶ会議が終わっても執務室を出た人間は誰一人いなかった。会議が終了の挨拶と同時にリオウが少しその場に留まってほしいと告げたためである。いつもは会議が終わると笑みを絶やさないその幼い顔に真剣な色を乗せていたので、側近たちは誰も席を立つことなく静かにリオウの言葉を待った。

「皆に言わなければならないことがある。本当はもうすこし早いうちに言っておけばよかったのだけど、ここまで長引いてしまったのは僕の弱さだ。すまない」

 誰の顔にも緊張と不安が浮かんでいた。リオウは一人一人の目を静かに見つめながら言葉を選んだ。

「僕は来月の建国記念祭を最後にこの国を去る。王冠も玉座もすべて空にしていなくなることを赦してほしい」

 ずっと考えていた言葉を口に出すときリオウは短い間だけ目を伏せた。覚悟を決めていたとはいえ実際に皆に話すのは躊躇われた。

「わが国の王を辞めると、デュナンを捨てると、そう申されるのですか」

 白く長い髪を後ろでひとつに結わえた老人がしばらく黙った後、静かにたずねた。

「捨てるわけじゃない。ただ、この国に僕がこれ以上いる必要がなくなっただけのことだ」
「そんなことはありません。王があっての国の繁栄、平和があります。貴方がその任を降りることなど私たちも民も望んでなどおりませぬ」
「あなたがそう言ってくれることは僕にとってとても幸せなことだと思う。でも、だからこそ僕はこの国を出なければならない。争いが何によって引き起こされるか貴方たちもご存知でしょう。富、権力。それだけなら僕がこの国を去る理由にはならなかった。そんなものは捨てればいいのだから。でもそうはできないものもある。力が、僕にはやろうと思えば労せずこの国を滅ぼせるだけの力がある。けしてそんなことのために使うつもりはないけれど、それを望む誰かが僕に近づいてくるかもしれない。そうなってからでは遅いんだ。僕はもうこの国を無用な争いで汚したくない」

 全員の真っ直ぐな眼差しに真摯な気持ちで返事をしたかった。

「傲慢で独りよがりだと言われてもかまわない。でも貴方たちにはこれからもこの国を、民を良い未来へ導いてほしいと思っている」
「すでに覚悟を決めたのですね」

 リオウは確かな言葉を伝えるのではなく黙って頷いた。厳しい表情で考え込んでいた者も突然の宣言に戸惑っていた者も覚悟を決めたように向き合った。誰もが本心ではリオウが王冠を脱ぎ去ることを望んでなどいない。それでも主を止められるだけの言葉を口に出すのは憚られた。

 今までありがとう。そう言って深く頭を下げたリオウにただ熱くなる胸のうちをさらさないよう大臣たちは礼を返すしかなかった。これ以上あのちいさな肩になにかを背負わせることなど出来るはずがないと思った。満場がリオウの意思を尊重した瞬間、デュナン国王はながく愛したその国からすがたを消すこととなった。









 西へ東へ南に北へ。地図を片手にいろいろな場所を歩きはじめてまだ数ヶ月、リオウは道を少し外れた草の上で横になっている。

 ひどく気分が悪かった。

 体の力がすべて抜け落ち魂ごとどこかに堕ちてしまいそうな空虚感が寒々しく身をつつむ。体調に違和感を覚えたとき無理をせず前の村ですこし休んでおけばよかったと膝をついた瞬間後悔した。
 すこし休めばなんとかなると携帯していた薬丸を口に放り込んで水で流し込んでから、照りつける太陽を避けるように木陰に身を寄せた。ぐるぐると世界が回っているような感覚をむかし体験したことがある。いつだったっけ、と遠い過去をぼんやりと探しながら目蓋を閉じた。頬を撫でる風も耳を通りすぎる鳥のさえずりもすべてが自分とは切り離された遠い場所のかけら。

 それからすぐ、引きずられるようにリオウは深い眠りの底に落ちた。













 何かを手にしていくたび砂のようにこぼれ落ちてしまって本当に欲しかったものは決して手に入らないという現実。願うならただひとつの夢を見させて。