ティル・マクドールがリオウという少年に出会ったのはただの偶然だった。
道端で倒れて意識のない少年を放っておけるほどまだ人間を捨てたわけじゃなかったのでしばらくためらった後、少年に声をかけた。しかし真っ青を通りこしてすでに白くなってしまっている少年はティルに対して何の反応も示さなかった。風の紋章で癒したほうが手っ取り早いかと考えたがすぐにその考えを否定する。少年に必要なのはそんな、癒しのようなものではない気がした。
長年の感が鋭くこの少年に近づくことを警戒している。ざわりと右腕から肩にかけて鳥肌が走った。
手袋越しの体温が妙にあたたかくて結局ティルは黙って少年を背に担いで出発したばかりの村に引き返した。
「あんらまあ!どうしたのその子!顔が真っ青じゃないのさ!」
宿屋の女将は背に担いだ少年とティルの顔を見比べながら慌てたようにティルの前に立って部屋に案内した。医者呼んでくるから待ってな、とふっくらとした体型に似合わず素早くいなくなった室内ですることもなく少年が寝ているベッドとは反対側のベッドに腰を下ろした。
まさか今さら彼とは何のかかわりも無いと言ったところであの情に厚そうな女将さんが信じるはずも無いだろうことはティルには簡単に想像がついた。長年愛用している棍をすぐに取れるように近くの壁にかけ、砂塵避けに着ていたローブを脱いで畳むと他にすることもなくなる。
今までの自分らしくないと言えばらしくない行動に戸惑っていた。
彼を女将にあずけてすぐ村を出ればよかったはずで、そうすれば余計な面倒ごとに巻き込まれなくてすんだはず。息をしているのかいまいち分からない隣の少年の呼吸は薄くて、時折魘されているようなうめき声があがる。
簡単に消えてしまいそうな灯火を目の前にしているような感覚に居心地が悪くなる。早く医者が来て彼を癒してくれれば良いと、ありもしないことを願う自分がなんだかおかしくて笑えた。
「貧血と栄養失調だな。上手いもん食わせてゆっくり休めばすぐに良くなるさ」
村で唯一の医者はそう言って帰っていった。よかったじゃないか、と安堵している女将に曖昧にうなずいてティルは部屋を出た。
村は林に囲まれた集落になっており、林を少し歩けば小さな川が流れている。少年が目覚めるまで特にすることもなかったので宿屋で借りた釣竿を持ち川辺に座って釣り糸を垂らした。ゆるやかな川の流れと澄みきった水のなかを泳いでいる魚の群れ。
戦後が終わってからはよくこうして釣りをするようになった。考え事をするのにもただボーっとして時間をつぶすのにも魚釣りは最適な娯楽だと分かって、日がな一日こうして川と向かい合っている時間が増えてしまった。他にも読書や遺跡巡りなど好奇心の向くものにはなんだって手を伸ばしている。
呪われた紋章と永く付き合っていくにはこれくらいの図太さと開き直りが必要だと、奇跡によって生き返った付き人たちは肩を張って生きていたティルに笑った。その言葉を聞いて、ふっと肩の荷が下りるように楽に息ができるようになった。
あの少年を見ていると、どこか昔の自分を思い出す。
先の見えない闇の中をひとりで綱渡りの縄を歩くような危うさに、どうしようもない絶望を感じていたころ。
まだ彼と話したことはないけれどただ安穏として暮らしているような普通の少年だけでないことは右手の紋章も感じているらしく、彼と接触してからずっと熱を持っているような感覚がしている。ティルが覚えている限りこのようなこの紋章が反応をしたことはないので今までにないことに戸惑っている。
夕焼けがあたりを橙色に染めたころ、バケツに入れたさかな三匹をみやげに釣竿を肩にかけて宿屋に引き返した。
おかえり、と扉をくぐったところを女将さんに声をかけられる。宿場は旅行者向けに食堂も兼ねている作りになっておりティルは手にしたバケツを手渡した。
「ばっちり精のつくもの作ってあげるからあんたもちゃんと食べるんだよ。二人とも村の若い連中より細っこいからねえ。たくさん食べて体力つけないと」
「ええ。ありがとうございます」
「ああ、あとお連れさん意識戻ったみたいだからちゃんと安心させてあげな。なんだかとても慌ててたからねえ」
それはそうだろうな、と、内心うなずきながら部屋に続く階段をゆっくりとのぼる。女将さんには見当がつかないだろうが彼は何も知らないのだ。どうしてこの場所にいるのか、誰が自分を運んだのか気になって戸惑う以外何もできないだろう。軽く扉をノックして部屋に入ると少年はベッドヘッドに細い身体をもたれさせながら赤紫の綺麗な夕空を見上げていた。
「やあ。気がついたようで安心したよ。気分はどうだい?」
少年は困惑したようにまばたきをして突然の侵入者であるティルにさっと視線を這わせた。警戒をつよく表している瞳は突然現れた侵入者を歓迎している様子はない。ここがどこなのか自分がどうしてこの場にいるのか目の前の男が何者なのか、きっと考えることは沢山あるに違いない。
「君が倒れていたのをすこしおせっかいかと思ったのだけど運ばせてもらったんだ。具合も、うん。良くなってきたみたいでよかったよ」
「ここまで、あなたが?」
「道草で寝るよりはよほど身体が休めただろう」
くすりと笑って自分の側のベッドに腰掛けて肩をすくめると少年は戸惑いながらも居住まいを正して深く頭を下げて礼を言った。礼儀正しい子だな、と素直に思えるほど自然な動作だった。
「そうとは知らずにご無礼を。本当にありがとうございました。なにかお礼がしたいのですが」
「礼なんていらない。困ったときはお互いさまだからね」
少年は困ったように視線をさまよわせて、結局ティルが折れないことを悟るとコクリと頷いた。水差しに入っていた水を空のコップにそそいで手渡すとまたありがとうございます、と礼を言われる。自分だったらこの状況をどうするだろうかと考えて結局考えないようにした。
少年は平静を取り戻そうとコップに入った水を見下ろしているのだがあまり上手くいっていないようだ。むしろ、彼に対して何も構えず接している自分のほうが変な気がした。
「手袋は外さなくていいのかい」
両手でコップを握ったままの手は古い皮手袋ですっぽりと覆われていて寝ているときまでも手袋をする必要があるのかと疑問に思って声をかけた。
「あ、はい。これはすごく、大事なものだから」
「そう?まあ無理に外せとは言わないから安心して」
訳ありだとはっきりと感じたのはその時だったが、ティルはそのことには触れずに話をそらした。
「君もどこかへ旅をしているのかい」
「君もって、あなたも?」
少年は驚いたように目を丸くした。ティルからしてみれば少年がひとりで旅していることのほうが意外に感じるのだがさすがに言葉には出さなかった。
「僕の場合は行くあてなどない気ままなものだけれどこれがなかなかやめられないもので、根無し草の風来坊さ。君は、失礼だがそういう風には見えないね」
「そう、でしょうか」
よくわからないと、そう首をかしげる少年に苦笑する。無垢なようでいてなかなかに食わせ者らしい。
「これからの予定は決まっているかい?」
「特にどこにいくつもりもないですけど、ここにいるつもりもないです」
彼に対する好奇心が膨らんでいく。きっとこれは自分にも止められない類のたちの悪さに違いなかった。
「じゃあこれも何かの縁だとして、しばらく僕に付き合ってみないか?僕はしばらく一人だったから君のように年が近い人と会話することもなかったし最近はひどく退屈していたからね。もちろん君がよければ、だけど」
突然の提案に呆気に取られたようにティルを見つめ、そんな自分を恥じるかのように少年はすぐに難しい顔をした。似合わない表情だな、となんとなくそう思いながらもティルは少年が首を縦に振ることを確信している。
そして彼は目を伏せてちいさく頷く。不思議な感覚がティルの身体をめぐった。
「これからよろしく。僕はティル・マクドール。ティルでかまわない」
「僕のことはリオウ、と。えっと、じゃあよろしくお願いします、ティルさん」
「うん。じゃあご飯を食べてしっかり身体を休めないとね。それからどこにいくのかは賽子を振って決めてもいいし、リオウのいきたい所にでも行ってみようか。そうしながら仲良くなっていくのも楽しそうだ」
立ち上がりリオウに近づいて左手を差し出すと心得たように左手を差し出した彼に微笑んで手のひらに力をこめる。お互い素肌ではないのに触れた手の感触は離してからも消えることはなかった。
「君がきっと驚くくらい僕たちは新しい世界を知ることになる」
暗示するような言葉にリオウは口をつぐんでティルを見上げた後、彼の前で初めて顔をほころばせた。
必然か偶然かに左右されるほどよわい心は持っていない。あるのはただ自分の強い思いが新たな道を作るという信念だけ。
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