手を伸ばせば届きそうな空の先にある宇宙の果てに、いったい何があるのかシンジはずっと考えていた。 星空のまたたきを見て胸がチクチクと痛むのはその光がもう何億年も前に失われてしまったことを知っているせいだろうか。 昨日と同じ夜空なのに、本当は同じものなんて何もなくて世界は日々変わっていく。 目を閉じて真っ暗になった視界に、一人場違いに佇んでいるシンジをもう一人の自分が見ている。 今日の自分が死んでいき、明日には新しいシンジが生まれてしまう。 どんどん透けていく両手を見下ろし、砂のように舞っていく手のひらに何の感慨もなくて、 ああ、また消えてしまうんだと他人事のように思うだけだ。 喪失感が常に付きまとう現実に、心が麻痺してしまっているのかもしれなかった。 かけたもののいきさきをしりませんか? 闇に問うシンジの声に返ってくる答えはない。 とても大切なものだったような気がしたのだけれど、それが何だったのか思い出すことが出来なかった。 思い出せない記憶が歯痒くて、モノクロの世界を歪ませる。 夕焼けは何色だったかなんて、すでに忘れてしまった。 欠けたものの行く先を知りたいかい。 闇が応える。 どこかで聞いたことがあるような懐かしい声色にシンジは不思議に思いながら頷いた。 忘れたほうがいいこともあると知っているだろう? それでも、君は望むのかい? まるでシンジの失くしたものを知っているかのような口ぶりにシンジは眉を顰めた。 ツキンと胸に走った痛みがじわじわと全身に広がっていく。麻酔にかけられたように感覚が遠くなる。 自分がすでにどこにいるのかシンジには判断できなかった。 辛い選択をさせてしまったね。 そっと包み込むような闇の囁きがかなしみで覆われている。 シンジはそれに頷くことも否定することも出来ずにいて、ただ戸惑ってしまう。 きみはなに? 僕は君の忌まわしき記憶の欠片。 闇はほんの少しのかなしさを混ぜながら歌うように言った。 どうしてそんなにかなしいことを言うのか。 どうして自分はそれをかなしいと思うのかが分からず、シンジは俯いた。 いまわしいなんてうそだ。 シンジは何の確証もなく思っただけだった。 それなのに涙がポロリと零れ落ちて、あとからあとから溢れる水滴が頬を伝う。 胸刺す痛みに身体が震えている。 ぼくはだれからも”ひつよう”とされていない。 それでもいいんだ。だってべつにもう、さみしくはないから。 でも、 シンジは闇に言った。 強がっているように聞こえたかもしれないが、別に構わなかった。 孤独は満たされないまま、いつのまにかそれが当たり前になってしまっていた。 ―――ただ、あやまりたかったんだ。 ぼんやりと白い靄が目の前を覆って、シンジは強く目を瞑った。 シンジ君 呼び声にそっと目を開く。いつの前にか目の前に少年が立っていた。 シンジは驚いて後ずさった。 だれ? 知っている。 自分はこの少年を知っているとシンジは不思議に思いながら確信した。 薔薇が誇る真っ赤な色をした瞳も、耳にするりと入ってくるどこか甘い声音も、陶磁器のような肌の白さも。 少年を形作るひとつひとつが美しくて、自分に無いものを持っている少年が羨ましくて、憧れていた。 もし、 少年は目を伏せて口を開いた。真っ暗な闇の中で、少年は奇妙なほどはっきりとシンジの目に映った。 壊れ行く君のこころがほんの一欠けらでも僕を覚えているのなら、僕は君のすべてをさらってしまいたいのだけど。 君は僕と共にあることを望んでくれるだろうか。 少年は伏せていた目をシンジに向けて微笑んだ。 シンジはその微笑がいつも自分に向けられていたのを覚えている。でも、いったいドコでだったろう? どこか広い空間で、自分は彼をなにかに阻まれながらも見下ろしていたような気がしてシンジは頭を抱えた。 イタイ、イタイ 彼を思い出そうとするたび、シンジの頭は割れるように痛んだ。 大丈夫。君はひとりじゃない。 うそだ、そうやっていつもぼくをひとりにする。かあさんも、とうさんも……みんな。 だからもうぼくはだれにもだまされたりしないよ。 シンジは頑なに心を閉じて、少年の言葉に首を振った。裏切りの二文字が頭を過ぎった。 胸を揺さぶる痛みをさらけ出すことが出来たら、きっと酷く歪んで傷ついた自分の心臓が出てくるに違いない。 シンジはそれを誰にも見られないように抱えながらひっそりと息をする。 自分でさえ、そんな腐った心などいらないのだ。だからもう、ずっと持て余したまま。 孤独のままの君のこころはその重みに、もう耐えられない。だから君はココにいる。 きづいたらココだったんだ! ぼくがのぞんだわけじゃない! 少年の言葉に、シンジは叫んだ。 顔を覆った右手には、いつのまにかべっとりと真っ赤な血がついていた。 ヒィっと悲鳴を上げてシンジはついにはしゃがみこんでしまった。 さっきまで何も無かった深い闇に沢山の目が浮かんで、シンジを見下ろしている。 監視するような、非難するような目玉は、しかし何も言わなかった。 シンジは恐ろしくて言葉もなく立ちすくんで震えるしかなかった。 シンジ君、目を開けて。 優しく促す少年の手が、真っ赤に染まっている右手を握った。 ビクリと震えて、触れたところから伝わる熱に冷たい身体が反応する。少年の手はほんのりと温かかった。 耳で聴いて、心で感じて。 少年の声がシンジを捉える。 君は間違ったことをしていない。ただ僕の望みを君が叶えてくれたに過ぎないんだ。 僕は弱くて、人の想いを知った瞬間にそこから逃げ出した。そして傷ついた君を置いていってしまった。 そうするのが君にとっても、僕にとっても一番いい選択だと思ったんだよ。 でも、と少年は言葉を切った。深い後悔を滲ませているようにその声色は低く掠れていた。 君をひとり残したことを僕はずっと後悔していた。本能すら君を思えば容易く押さえ込めてしまう。 それがどういうことか、シンジ君。君に分かるかい? シンジは緩く首を振った。 少年の体温が指先から馴染んでいく。それはどこか懐かしくて、気がついたらまた涙が頬を伝っていた。 少年は涙の雫を手のひらで優しく拭うと、シンジのおでこに自分の額を重ねた。 好きなんだ。 君を思えば、この身が熱く焦がれてしまうほど。僕は君が愛おしかった。 でも、だからこそ怖くなった。 シンジは閉じていた目を開けた。視界いっぱいに少年の顔が映る。 すき? すきってなに……? シンジは悲壮な顔をして少年に尋ねた。 好きって言うのはね、僕が君を大切にしたいという気持ち。傷ついて血を流している君を総てから守りたいという気持ち。碇シンジと言う少年すべてに惹きつけられているということだよ。 少年はあやすようにシンジの髪を撫で、愛撫し、柔らかく包み込んだ。 それがすきっていうこと? きみはぼくをすきなの? そうだよ。すべてを無に返してさえ僕は君を望むほど。 わからない。 シンジは首を振った。 でも、なんだかあたたかい。いままでさむかったのに、どうしてだろう。 きみがぼくをすきって言ってくれたから? そうだったら僕はとても嬉しいよ。 少年はシンジが思わず見惚れてしまうほどの笑みを浮かべて言った。 シンジ君。 もし君が、夜空に漂う星を思うほど微かでも僕を想ってくれるのなら――――― 僕の名を、呼んでくれるかい? 少年の身体が淡く透き通る。傍にあった温もりが徐々に輪郭を失っていく。 シンジはそれが悲しくて、眉を寄せて少年を見上げた。 きみ、は……きみの、なまえは ズキズキと痛んでいた頭がさらに痛みを増す。思い出しては駄目だと魂が叫んでいる。 これ以上傷つきたくないと、臆病なこころが嘆いている。 シンジはそれを押し切って、少年の名を叫んだ。 ……カ…ル……く、ん。カヲル、くん! 唐突に真っ暗な視界が真っ白に変わって、シンジは意識を失った。 ありがとう……シンジ君…… 優しい言葉を最後に、カヲルはその場から消えてしまった。 「ここは……? 僕は、どうしたんだろう」 シンジが気がつくと、目の前には赤くなった湖があって、一人でぼんやりと立っていた。 寝ぼけていたのか、夢遊病の気でもあるのか少し心配になったが、すぐにどうでもよくなった。 「夢を、見てたんだっけ」 どんな夢だったか記憶は曖昧ではっきりしない。それでも、心は妙に軽かった。 「カヲル君がいた気がしたけど、そんな筈ないよ、な。僕のこと、怨んでるはずだから」 真っ赤な湖に朝日が照らされていて、シンジはなんだか不思議な気持ちになった。 山は眠りから覚め、鳥達は歌を歌っている。この街に朝が来たのだ。 「アスカも、綾波もミサトさんもみんな帰ってきたけど……やっぱり帰ってこない人も多いから、しょうがないけど」 それでも、シンジの胸を満たすのは漠然とした空虚感だった。 「僕は淋しいのかな。君が、いないことが、こんなに」 朝の清らかな空気と光に消されるように呟く。言葉にしてすぐシンジは後悔した。 彼がいないことにこんなに固執している理由は、自分が彼を殺したからだろうか。 自らの手で、人――正確には人ではなかったのかもしれしないけれど――を殺してしまったから。 綺麗ごとは好きじゃない。 何故だか今も行き続けている自分も、決して。 「帰って来てくれたらいいんだ」 そうしたら、今度は君が僕を殺せばいいのに。 楽になりたかった。 しがらみも、恨みも、重圧もすべて取り払ってしまって。 シンジはしばらくその場に立っていたが、やがてゆっくりと歩き出した。 自然と足は、カヲルと出会った顔のない天使像に向かっていた。 今思えば、その出会いも彼が言う仕組まれたものそのものだったのだろうけれど。 すべてをなくした後、たった一人で生き残った。 自分が壊した後の世界が、アレだというなら。 もう生きたまま死んでいるのも同じにしか感じられなかった。 しゃりしゃりと鳴る砂を踏みながら歩く。 だんだん距離がなくなっていって、最後には、0になる。 その前に、立ち止まった。 像の上に、誰かが座っていた。 日の光を受けて輝く白銀の髪が、風に揺れてなびいている。 まさか、そんなはず、ない。 シンジは目にしているものが信じられなくて、自分はついに起きたまま幻覚を見るようになってしまったのかと思った。 足が動かなくて、歩くのを止めていた。 近づけば簡単に綻ぶのが怖かった。 だから、もう、これ以上―― 「……カヲルくん」 口から零れた言葉にはっとして口を塞ぐ。 もしこれが幻なら、今のこの言葉で現実が戻ってくるはずだった。 幻は消えなかった。 彼は、カヲルはゆっくりと振り返って、初めて会ったときと同じように、最後に別れたときのように微笑んだ。 「シンジ君」 呆然とする。 シンジはこれが夢なのか現実なのか分からなくて混乱した。 「本当に……カヲルくん?」 カヲルは立ち上がって、軽やかにシンジの元へとやってきた。 無意識のまま握る手のひらに触れる、確かな熱。 彼を殺した、自分の手のひら。 カヲルは怯えたように震えたシンジの手を、自分の手で覆って、しっかりと繋いだ。 「僕の名を呼んでくれて、ありがとう。シンジ君」 カヲルは、ずっと苦しめていてごめんね、と謝って。 シンジの身体を強く抱き寄せた。 |