沢田綱吉がアパートの近くの古びた本屋でアルバイトをし始めたのは去年の暮れのことだった。ふらりと入った近所の本屋の年取った店主が、分厚い眼鏡の下から温和な表情で微笑んでいるのを見てどこか懐かしい気持ちになった。普段はまるでやる気も覇気もないダメツナこと綱吉も、本当に珍しいことにここでならやっていけるかもしれない、と無理を承知で頼んでみあっさり了承を得られたときは、驚きすぎて実感が湧かなかったくらいだ。
いざ働き始めてみると、見ためのとおり、店主はとても気のいい人で綱吉が何か失敗してしまっても目じりの皺をやさしくゆるめて次に気をつけてくれればいいよと言ってくれるのであった。そんなことを言われたら、根が怠け者の綱吉でももっと頑張ろうと思うものだ。
バイトを通して働くことの有意義な気持ちとか汗水流して食う飯はウマイだとか、そんなことより自分で稼いだお金で好きなものが買えるほうが綱吉としては嬉しかった。自分の稼ぎなのでゲームを何本買っても呆れられるだけで怒られることはなくなったし、何よりだらだらとしていた暇な時間が無くなった。
働いている本屋は漫画や雑誌などは取り扱っておらず、難しい専門書や誰が読むんだ?と首を傾げるような本ばかり取り扱っていて、必然的に客層も限られる。若い人は近寄らないし、偏屈な老人が来たためしもない。
よって、あまり客もこないので何度も来る人間の顔なら一月もすればすぐに覚えてしまった。
「こんばんは沢田さん。注文していた本は届きましたか?」
「あ、こんばんは六道さん。えーっと、ちょっと待ってください、いま確認しますから」
学生服姿の客がつい珍しくてじぃっと観察するように眺めていたのをふとした拍子にバッチリと目が合ってからすでに半年。週2、3回のペースで通うようになった六道が綱吉に話しかけるようになったのもやはり半年前のことだった。
今日もまたいつものように学生服を着て細いメタルフレームの眼鏡をかけている。白い首にはチェーンのネックレスが何重にも巻かれていて、青みがかった長めの髪からちらりとのぞく耳にはピアスとイヤーカフが数個。
見たところ高校生だと思うが、高校生にしては随分と派手な格好をしているものだと初めて目にしたときは変に感心した。
綱吉の周りにはなぜかびっくりするくらいの美形(友人、先輩然り)が集まっているので自然と目が肥えているのだが、彼もまたずいぶんと整った容姿をしている。六道とあまり深い付き合いはないが、容姿と性格が必ずしも一致しないのが綱吉の持論なので、この人も顔はいいけどなんとなくとっつきにくい人という認識を勝手に持っていた。
「はい、頼まれてたやつです。これであってますか?」
「ええ、これで合ってます」
カウンターに表紙を上にして本を差し出す。悪い呪文にしか見えないアルファベットがずらりと並んでいる本の題名を確認して頷いた骸に金額を伝えて、お金を用意している間に紙袋に包んだ。
黒い革の長財布からいつものように万札を差し出されて、綱吉がこっそりとこの人どこのボンボンだよと面白くない気持ちを欠片も知らないようにニコニコとしながら少年はお釣りを受け取る。
店はいつも綱吉一人に任せられてるので店長が滅多に店を訪れることはない。そのことを知っているのか、六道は本を買い終わった後ものんびりとした口調でよく綱吉と他愛もない話をする。いつものことだ。
「沢田さん、この後ヒマですか?」
「はあ。バイト終わったら家に帰るだけですけど…」
「じゃあ問題ないですね。前に話していた本を友人からもらったので、よかったら貸してあげますよ」
ええ?!いいんですか、と喜色満面の笑みを浮かべる綱吉にもちろんですと頷いた六道を、この日初めていい人だと現金にも綱吉は認識を改めた。
いつ話したか綱吉にも曖昧なのだけど、確かにすでに絶版になった古い本を探しているが、なかなか見つからないと六道に愚痴っていたのを彼は覚えていたらしい。あまり詳しく本の内容を話さずただ題名と著者だけ言ったきりだったので、降って湧いた嬉しい出来事に顔がだらしなく緩んでしまう。
仕事が終わるまで向かいの喫茶店で時間を潰していると言った六道に礼を言って、それだけではなんだか悪い気がしたのでポケットに突っ込んでいた非常時用の千円札を彼に差し出してコーヒー代にしてくださいと渡した。
たとえ財布に万札しか入ってないようなお坊ちゃんだろうと、こういうのは気持ちだからいいのだ。
「いいですよ別に。お礼をもらいたくてしたことじゃないんですから」
「そういうわけにはいきませんって。ほんとに、オレこれくらいしかできないんで」
だがやっぱりというか、六道は千円札を受け取らずにそのまま店を出て行ってしまった。人が感謝してるんだから礼くらい素直に受け取ればいいのに、とは何故か思わずいい人だなあと後々には後悔するようなことをぼんやりと思いながら綱吉は仕事の作業に戻った。
***
八時を過ぎてもまだ明るい空を後ろに店のシャッターを手動で閉める。古い店なのでギイギイとうるさい音が辺りにひびくのが少々難点だが、この作業が綱吉は嫌いではなかった。一仕事をやり終えたちいさな達成感が気持ちいい。
鍵をポケットにしまってまばらな通行人の間を抜け、喫茶店の扉を開ける。扉の上に取り付けられたベルが開いた瞬間チリンチリンと店内に鳴った。「いらっしゃい」という店の主人にこんばんは、と挨拶をしてあまり広いとはいえない店内のなか六道の姿を探す。
「ここですよ、沢田さん」
「あ、どうも。お待たせしちゃってすいません」
六道は店の奥で先ほど買ったばかりの専門書を開いていた。ちらりと見えた中身は写真や図など乗っておらず、記号のような文字でびっしりとページが埋まっている。綱吉は六道の向かいに腰かけて、水を持ってくる店員にキャラメルミルクを頼んだ。
「コーヒーは苦手なんですか?」
「え、ああ。わかります? コーヒーの苦いのってどうも苦手で。ちょっとガキっぽいですけど」
「あまり進んで飲むようなものでもないですからね。まあ君にはコーヒーよりそちらの方があってますよ」
六道は本を鞄にしまうと綱吉に向かって一冊の古い本を差し出した。なんとなく馬鹿にされてるような気もしたが綱吉は特に深く考えなかった。
受け取った古びた表紙を見て、瞳をきらきらとさせて綱吉は興奮を噛みしめるように頷いた。
「うわぁあ! すっげーうれしい!! ずっと探してたんですけどなかなか手に入らなかったんです、これ」
「どんな内容なんですか?」
さっそくページを捲る綱吉に六道は首を傾げてみせた。本に対しては特に興味もなかったが綱吉がどんなものに興味を持っているのか気になった。
「十年以上前に流行ったゲームの原作本なんですよ。そのゲーム自体マイナーで中古ゲーム屋でもあんまり取り扱ってないんですけど、偶然手に入れちゃって。すごく面白かったから原作がどんな話なのか気になってたんです」
「へえ。おもしろいんですか?」
「もちろんですよ!ほんっとにこれは何回やっても飽きないんです!マジでおもしろいんだから」
足を組んだ上に両手を乗せてあまり興味なさそうにたずねる六道に大きく頷いた。黒い瞳がレンズの下から綱吉を見つめる。
その目ににこにこ笑っていると、お待ちどうさまでした、こちらがキャラメルミルクになります、と言って店員が二人の会話を割ってテーブルの上にグラスを置いた。六道は先ほど頼んでいたコーヒーのおかわりを店員に頼む。ふう、と肩から力を抜いて綱吉はストローを指してあまいミルクをすすった。
やっぱり疲れた体には甘い物が効くなあ、なんて内心で呟きながら半分ほど飲み終える。キャラメルの甘さとほろ苦さが口の中にひろがって、綱吉は一口水を飲んだ。
「失礼なことかもしれませんが、沢田さんって年いくつですか?」
「オレですか? 十六ですけど」
「あ、じゃあ一つ年下なんですね。綱吉君って呼んでいいですか」
「え?!六道さんオレといっこしか違わないんですか?」
唐突な質問に驚いて六道を見ると、彼は肘をついてにこりと笑った。
確かに高校生くらいかとは思っていたがまさか一つしか違わないとは。理不尽ともいえる目の前の少年との違いに綱吉はガジガジとストローを噛んで八つ当たりする。
だって、そんな。いったいどんな反則使えばそんなに背が高くなるんだと聞きたい。コーヒーが運ばれてくると、六道はすました顔でカップに口をつけながら同意する。そんな動作ですら絵になるのだからなんだか腹立たしい。
「そうですよ。若いなあとは思ってましたけどまさか一つしか違わないなんて思いませんでした」
「それって、オレがチビだって言ってます?」
半眼で恨みがましく見つめる綱吉にまさか、と爽やかな笑みを浮かべて六道が否定する。なんとなく胡散臭い笑みだった。
「驚いてるんですよ。まさかあんな寂れた店に君のような若い人が働いてるなんて思いませんでしたから。綱吉君はボランティア精神旺盛ですね」
「いや、べつにただのバイトなんで。それにちゃんと給料もらってるから」
口が悪いのか性格が悪いのか、六道はどちらも兼ね揃えてるような気がしてならない。ただの勘だけど、こういうことに関してはよく当たるので綱吉はなんだか複雑な気分になった。本を貸してくれたから悪い人ではないのだろうけど。
話を変えるために綱吉は違う話題を振った。
「六道さんもよく店に来ますよね。本が好きなんですか?」
「ただの暇つぶしです。最近おもしろいことがあまりないので退屈してるんですよねえ」
口角を上げて笑う六道にぞわわと背筋が寒くなる。ただの暇つぶしで二千円以上する本を何冊も買う気が知れないが、黙っておく。人の趣味にわざわざケチつけることもあるまい。
「そこでひとつ、綱吉君に提案があるんですけど」
「はい?」
「僕と友達になりません?」
「はあ?!」
綱吉は素っ頓狂にさけんだ。店内から白い目で見られているのに気づいて慌ててボリュームを下げる。
「友達って、オレと六道さんが? なんで」
綱吉が目を白黒させていると、何が気に入らなかったのか六道は眉を寄せて訂正した。
「骸です、六道骸。次からはぜひ骸と呼んでください」
なにを今さら、なんて言ったら怒るだろうか。いや、怒るんだろうなと綱吉は遠い目になる。一応聞いてはいるもののあきらかに強制だった。
「綱吉君は友達になるのに何か理由が必要とでも?」
「そんなことは…言ってないですけど…」
「じゃあいいじゃないですか。こんな友情のはじまりもありですよ」
そう言われればそうかと思うがはたしてそれでいいのだろうか。手に持った本と骸の顔を何度も往復してため息を吐いた。
「まあ、たしかに―――――」
―――こんな始まりもありかもしれない。
偶然か必然かそんなことはどうでもいい。大切なのは自分が足を踏み出すかどうか、それだけのこと。
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