父親の承諾を取り付けたその日の夜にカヲルは本部に近いマンションと契約してきた。
優柔不断の気があるシンジにとっては、カヲルの思い切りのよさや何物にも囚われない独特の思考回路がすこし羨ましい。アパートではないところが彼らしいといえば彼らしいのだろうか、普通とは程遠い意味で。
住めればべつにどこでもいいシンジとは違ってカヲルは些細なこだわりがあり、容赦なくふるい落とされた中で見つけたただひとつの物件らしかった。

「疲れた・・・・・・」

暇を見て荷物を片付けようと考えていたシンジは、学校から帰って部屋の戸を開けた瞬間に立ち尽くした。 たしかにあまり荷物がない殺風景だった部屋が、物取りにでもあったかのようにがらんとしていた。

「帰ったの」
「な、んできみがここにいるわけ」

いきなり背後に現れたカヲルにさらに驚いて、シンジは思わず後退さった。
相変わらず心臓に悪い使徒さまだ。

「荷物ときみを引き取りに。あらかた部屋も片付け終わったから。きみの手伝いがなくても、ね」
「それって嫌味のつもり?」
「そう聞こえたならそうなんじゃない」

カヲルの言葉に孕んだ棘を敏感に察してシンジは視線を彷徨わせる。
今まで暮らしていた空間がまるで知らない場所のようで落ち着かない。 くしゃりと自分の髪をかき混ぜ、カヲルはシンジの手をとった。

「帰ろう?」

冷たいけれど温かな手のひらに包まれて、シンジはますます落ち着かなくなる。人の体温がこんなにも温かいなど知らなかった。
目が熱くて、すこし鼻が痛かった。
カヲルの言葉に頷いてしまえば今までのような自分で居られなくなることにシンジは気づいている。それゆえに肯定も、かといって否定することも出来ずに俯いてしまった。 窓から差す茜色の光がカヲルの白い肌とシンジの黒い髪を照らして包んでいる。

「ミサトさんは・・・・・・」
「今日引っ越すからってここに来る前に言っといた。鍵は僕があとから返しておく。・・・・・・きみが心配することなんて、なにもないよ」

カヲルの赤い瞳。
初対面のときはなんて非常識な奴なんだと思っていたけれど、目の前にいるカヲルは以前とは少し違って見えた。 何がどう変わったのかはシンジにもよく分からない。
ただ、ただカヲルの眼差しが怖いと思う。まるで愛しんでいるような、その眼差しが。 移ろいやすいのはなにも季節だけではなく、街の景色も人の感情でさえいつか変わってしまうことを知っている。

「やっぱりおかしいよ、きみ。なんでそんなにぼくのすべてを知ったように言うんだ」
「分からない?」
「他人の気持ちなんて分かるわけないよ」

カヲルはシンジが自分の言葉に傷ついているのに気がついた。しかし彼は泣かない。
人ではないカヲルはシンジの痛みを感じることが出来ない。 しかし理解しようとすることなら出来る。シンジがそれを望むにしろ、拒むにしろ。

「きみが何をそんなに恐れているのか、僕には理解できないけど・・・・・・でも、きみが何かを思い出して哀しむのならそれを慰めてあげたい。痛みに泣くのならその痛みを僕が引き受けたい。そういうものだろ、人を好きになるってことは」

カヲルの言葉にハッと顔を上げ、シンジは唇を噛む。

「でもきみは人じゃない、使徒だ。きみだって言ってただろ。人を好きになるのはどんな感じなのか分からないって、そうぼくに言ったじゃないか!」
「そう、僕は人じゃないな。むしろ君たち人間にとって僕は脅威で、絶対悪だ。だから君たちは僕たちを排除しなければならなかった」

感情を省いたカヲルの言葉は事実をただ述べるだけでシンジは悔しかった。目の前の端正な少年はよほど自分より優れていると内心思っていたから。
カヲル(使徒)とシンジ(人)の違いとは一体なんだろう。
人を滅ぼす力があるのか否か?感情があるかないか?人とは違う姿だから?
すべてに当てはまるようで当てはまらない答えに焦れる。

「でも、僕はきみがファーストに対して好意を寄せていることに嫉妬した。セカンドを心配しているきみに苛々した。愕然としたよ、僕は使徒なのに人間のようなこの感情はなんなのかって」

手首に回ったカヲルの手に力を込められてシンジは顔を顰めたが、カヲルは離さなかった。

「ずっときみを目で追っていた。そうしたら気づいたんだ、きみが好きだってことに」
「そんなの、錯覚だ」

カヲルの言葉を受け入れたくなくてシンジは頭を振る。動揺を悟られたくなくて言ったのに語尾が掠れていて失敗した。

「いくらきみでも僕の感情を否定することは許さない」

ドンッと近くの壁に身体を押し付けられてシンジは息を呑む。身体に受けた衝撃よりもカヲルの瞳に浮かんだ強い意志に目を見開いた。

自分でもなにをこんなに必死になっているんだとカヲルは馬鹿らしくなる。
自分の感情を受け入れないシンジに苛々して、怒りを覚えることも、ある。 それでも、とカヲルは思うのだ。

「きみが教えてくれたんだ、シンジ君」

胸に溢れる切なくてあまい泉を涸らすことなど出来ないのだと。