始まりはいつも突然のことだった。
碇シンジが一つ年上の青年と二人で暮らし始めたのには特に事情があったわけではない。
中学生のときに仕事であまり家に帰らない父親と深い縁のある国立科学研究所に無理を言わさず叩き込まれてから二年。誇張ではなく何度も死にそうになりながら数々の修羅場を乗り越え、15を過ぎるころには研究所が太鼓判を押すほどの人物になった。俗に言うエリートと言う奴である。
いったい何がそんなにすごいことなのかと事情を知らぬ者なら揃って首を捻るだろうが、本人は他人から賞賛されるのが苦手らしくあまり詳しいことを喋りたがらない。まさか国家プロジェクトである近未来型人造化学兵器の乗り手として名を馳せているなど、シンジとしては嬉しくないどころか真っ当な人間なのかと一般人には常に疑われ、本人にしてみれば甚だ不条理な現状に頭を抱えたくなるのは仕方のないことと言える。
きっとこんなこと風に思っていることを馬鹿正直にシンジが喋れば、世俗的なことにあまり興味も関心も無い研究所の職員には一体何が不満なんだと白い目で見られるだろうなどということは、かなりの高確率で、言ってしまえば分かりきっていたことでもある。だから取り立てて不満を述べない代わりに訓練に明け暮れるという生活を、毎日毎日あまり文句も言わずに続けていたのである。
でも。
だけど。
やっぱり不満に思っていることもある。
シンジは何度も自分の現状に文句を言おうとしたのに、研究所に無理やり放り込んだ父親は忙しいのかここ数年音信普通で、さらにタイミングの悪いことに幼馴染の口うるさいけど何かと頼りになるアスカは遠い異国に長期留学中。
普段からあまり口数が多いほうではないシンジなので、見ず知らずの、あまり仲がいいともいえない大人が大勢いる場所で不用意なことを言ってその場をかき回すようなことはできなかった。下手なことを言って自分の立場を悪くすることができるほど子どもではなく、かといって大人にもなりきれない不安定な少年で居続けるしかできないでいた。諦めに似た気持ちで自分を誤魔化して過ごす。
それなのに。まさかそれが、ふとしたきっかけで覆されることになるとはシンジ自身予想もしていないことだった。突然現れた一人の青年がシンジに向かって穏やかに手を差し出すまで。
「やあ。君が碇シンジ君だね。僕はカヲル。渚カヲル」
そう微笑んだ少年は突然の移動でやってきた青年に目を白黒させて驚いているシンジの手をとって、あろうことか職員が目にしている前で手の甲に口付けを落とした。常識の塊であるシンジはあまりの展開にだらだらと冷や汗をたらしながら引き攣った顔でよろしく、と挨拶を返してカヲルから目を逸らした。逃げ出さなかっただけでも良しとして欲しい。いくらカヲルが天上の川を切り取ったような珍しい銀髪に美しい緋色の瞳の持ち主だからと言って、彼はどう見ても男だったのだから。
国花である桜の花びらを惜しげもなくそっと押し付けたような唇で甘く囁かれても、シンジ本人としてはぞわぞわと悪寒が走ってしょうがないのに当人はまったく気にせず涼しい顔をしている。
顔はすこぶるいいので、数少ない女性職員からはことあるごとに黄色い声音でお茶に誘われたりお菓子の差し入れをくれたりと至れり尽くせりの対応で、そのあまりの態度の違いにシンジは人間しょせん顔なのかと居た堪れない思いをしたものだ。本人がそれを受けていたのを見たことは無かったのだけど。
シンジは母親似な平々凡々のいたって普通の少年だ。顔を顰められるほど不細工ではなければカヲルのように騒がれるほどハンサムでもない。しいていえば、光の加減によって青くなったり黒くなったりする瞳くらいが唯一の特徴だろうか。食が細い上に筋肉トレーニングなどの運動が嫌いなので必然的に線が細いのも本人としてはなんだか頼りなくて落ち込んでしまう。まあ、おかげで着る服に困ったことは無いのが唯一の救いと言うところだろうか。
カヲルは一見して柔和な外見に騙されがちだが、筋肉もしっかりついているし手首だってシンジより太い。それを偶然知ったのはコックピットから出ていつものようにシャワー室で一緒になったカヲルのパイロットスーツが自分より一回り大きいことに驚愕して、奇妙な敗北感に打ちひしがれてしまった。
落ち込んでいるシンジをカヲルは不思議そうに見ていたが、特に何も言わずにシンジを促してシャワーブースに入った。
カヲルは柔和な外見に比べて、言うことはや周囲の大人が絶句してしまうほど容赦が無かった。
誰かがミスをすれば徹夜で作業するのが当然のことじゃないのか、と言われ、仕事の納期が遅れればもう少しマシな人材は確保できなかったのかとため息を吐かれる。仕事が終わればただのミステリアスな青年なのに、働いている間は仕事の鬼と化す。シンジ本人は実際に怒っているカヲルを見たことはないのだけど、噂だけはしっかりと耳に入っている。
確かにあんな菩薩のような笑みでプライドを木っ端微塵にされるようなことをズケズケと言われたら立ち直れないと思う。自分が自身を持っている分野ならなおのことそうだろう。常に自信満々なここの職員には辛いだろうと、普段何かしら良い印象のない職員のことをほんの少しだけ哀れに思った。
シンジはいつも微笑んでいるか、喰えない笑みを浮かべているカヲルしか見たことが無いので実際怒っている彼の姿があまり想像つかない。
シンジとカヲルは同じパイロット同士という上、年が近いということもあり仲はいい。仮想空間でエヴァと呼ばれる兵器に乗って戦いあう中で、最初の最悪な印象も徐々に薄れていったのかもしれなかった。
エースパイロットとして呼び声高いシンジも地上に戻ればただの少年。
中学、高校と学校に通えなかったシンジは当然のことながら同じ年頃の少年少女と出会うこと自体少ない。その中からさらに人付き合いが苦手なシンジでも苦痛を覚えることなく一緒にいられる人間というのは限られてくる。
そんなシンジがカヲルの傍にいることに気まずさを覚えなくなったのは、エヴァに乗って何度目かの戦闘後のことだった。互いにLCLで汚れていながらも、慣れていたのでそんなことはまったく気にならなくなっていた。
「シンジ君はエヴァに乗って敵と戦っている間、どんなことを考えているんだい」
話を切り出したカヲルの横顔は今まで見たことのなかった真剣な顔をしていて、シンジは戸惑いながら自分の考えをなんとか一つに纏めながら紡いだ。
「戦闘中はとくに、」
「何も考えていない?」
「まさか。でも、戦っている間に考えていることなんて生きたい、以外にあまり考えつかないよ」
「死にたくない、ではないんだ」
水とは違う粘着液が目の横を通り過ぎる。それを腕で拭ったシンジに一瞬だけ目を眇めてカヲルはくすりと笑う。
「生きたいと願うのと死にたくないと望むことに大した違いなんてないと思うけど・・・・・・カヲル君は違うの?」
「僕にとって生と死は同一なものだから、生を強く願うこともないかわりに死を厭うことも無いよ」
ん?とシンジは首を傾げる。
それは、つまり。
「生きていても死んでいても同じってこと?」
「おかしいかい?」
にこりと何のことはないと微笑むカヲルはどこか変だ。それがどこかと言われたら思わず全部と答えるしかないくらいには変だった。シンジは勝手に頷きそうになるのをぐっと堪えて考える。そもそも、人の価値観をどうこういう資格などシンジにはないのだ。誰がどう思おうが本人が納得しているならそう口を挟むことでもない気がするのだけど。カヲルはあまり他人の考えなどに左右されるような人ではないから尚更そう強く思う。
「おかしいというか・・・・・・勿体ないような気がする」
え、と怪訝な表情をしたカヲルに焦りつつ再度告げた。
「だって、生きていなきゃ出来ないことのほうが多いのにそういうの全部まとめてどうでもいいって言ってるようなものだろ。君はせっかくそんなに綺麗な目をしてるんだからそれをちゃんと使ったほうがいいんじゃない。自分の感じたことを無視するの、あまり良いとは思えない。生きるか死ぬかなんて考えるだけ無駄だと思うけど、さすがにすべて一緒にしちゃダメなんじゃないかな。今はこうして生きてるわけだし」
まあこれも結局僕の考えになっちゃうんだけど、と付け加えるシンジをまじまじと見てぽつりと呟いた。
「君がこんなに長く話したのを初めて聞いた」
「な、別に僕だってたまには真面目に話すよ」
施設内の恐ろしく長い廊下を二人だけで歩くというのも奇妙なものだ。会話の内容があまり人に聞かれたくない類なものだけに、早くシャワールームに行きたかった。シンジの歩く速度は普段より早いのに隣を歩くカヲルはどこかのんびりとしている。
「そうなんだ。僕は君のことを少々誤解していたみたいだよ。君がエヴァに乗るのは自分の居場所を守るために仕方なくしていたことだと思っていたから」
「そんなことあるはずない。むしろ今の状況を全部無かったことにできたらどれだけいいか・・・」
はあ、とため息を吐いて項垂れる。できることならエヴァに乗る前からやり直したいとずっと思っていた。
「だったら壊してみる?」
そう流し目で笑われたのをいつものような冗談だと受け取って頷いたのがそもそもの始まりだったのだ。ただその時シンジが気づかなかっただけで。
シャワーを浴びて職員寮のエレベーター前でカヲルと別れる頃には、シンジの未来は決まっていたものとは百八十度も違うものへと変化してしまった。
「今日の夕飯は何を食べようか」
シンジがソファに座って本を読んでいると、隣で同じように学術書に目を通していたカヲルが聞いた。気づけば外はすっかり茜色に染まっていて、西の空には太陽が沈んでいた。
「うぅーんと、昨日は中華だったから今日はさっぱりしたものが食べたいかな」
「和食?」
「いいね。お刺身とか煮物とか。味があまり濃くないものがいい」
シンジの要望にカヲルは考えるようにまばたきして、夕飯は散らし寿司とお吸い物に旬のおかずを使ってなにか作ろうかと提案する。それに頷いて読んでいたページに栞を挟んで立ち上がる。
「じゃあ買い物にいかないと。カヲル君も一緒に行く?」
「もちろんだよ。シンジ君一人に重い荷物運ばせる訳にはいかないからね」
ダイニングのテーブルの上に置いてある使用していない灰皿から車の鍵を取ってカヲルが艶やかに笑う。素面でよくそんな恥ずかしい台詞を男相手にすらすらと言えるものだと思いながら家の鍵を持ってシンジは玄関に向かった。実際にカヲルがそんな台詞を言うのはシンジ限定なのだが当の本人はすでに慣れてしまったのか、やっぱりカヲル君は頼りになるねと軽く流せるようになっていた。人間は慣れる生き物なのだとあらためて実感している毎日だ。
「寒いと思ったらもうすっかり秋の空だ。見て、あんなに空が高い」
「本当だ。冬ももう近いねぇ」
エントランスを出て駐車場に歩きながら何の気なしにシンジが空を見上げると、いつもより高い場所にある鰯雲が悠々と菫色の空を泳いでいた。思わずはしゃいだように後ろを歩いていたカヲルに声をかけて、ふと我に返って照れくさくなる。
「どうしたの?シンジ君」
不思議そうにシンジを見下ろした目はいつかのように綺麗な赤い硝子玉のようで、懐かしくなる。初めてその目を見たのはまだほんの数年前のことなのに。
「ううん。空が綺麗だなって思っただけ」
「そうだね。僕がそう思えるようになったのも君のおかげだよ」
「それを言ったら僕だってカヲル君に感謝してるよ。君と君のお爺さんのおかげで僕はこうしてここにいられるんだから」
世界でもトップレベルと言われるローレンツコンツェルンの代表の嫡孫だなんて、初めてその肩書きを聞いたときには住む世界が違いすぎて実感が持てなかったくらいだ。出来がいい孫をたいそう可愛がっている翁は、カヲルが初めて口にした要望を二つ返事でいとも容易く叶えてしまった。
カヲルがなにを望んだかというと、それはシンジと二人で生活している現在の状況のことで。研究所に所属していた二人を上に圧力をかけて引き抜いて、今では気ままな大学生活を楽しむように手配してくれている。
「いつも迷惑ばっかりかけてるね」
「お爺さまもシンジ君のことが大のお気に入りだから、むしろ楽しんでやっているんじゃないかな」
「そうかなあ。僕がいるといつも怒ってるような気がするけど」
「それはシンジ君だけにじゃなくて皆にそうなんだよ。素直に自分の感情を表すのが苦手な人なのさ。君に対しては怒ってるというより照れてるんだ。僕も家族もあまり自分の感情を表現するほうじゃないから、君のような素直な人には特に弱いらしい」
死ぬまで働く必要のないほど貰った退職金で買ったミラジーノの新車。世界企業の御曹司であるカヲルと違って、父親が官庁の重役に名を連ねていようと本人は慎ましい生活をしていたシンジなので一緒に暮らし始めて何より苦労したのがカヲルとの金銭感覚の違いだ。
カヲルはあまり物に執着しないほうだが、都心の最高マンションの最上階をポンと買い与えるような祖父の血を受け継いでいるらしく、たまにとんでもなく高価なものを買ってきたりしてはシンジを悩ませた。
このミラジーノも、本当ならベンツやらジャガーなどの高級車のパンフレットを捲っていたカヲルにぎょっとしたシンジが休日に近くでやっていた大規模な試乗会に連れて行った時二人で相談して決めたものだった。
シンジとしてはあまり口うるさくしたくないのに「シンジ君が喜ぶかと思って」と微笑んで高価な物を渡されるたび、もっと自分のお金を大事に使って欲しいと思うのだ。
「今度本家に顔を出すときには何か甘いものをお土産に持っていくといい。お爺様も顔は強面だけど甘いものには滅法弱いから甘いものを見るといつもの表情を保っていられないんだ」
「なんか、すごく楽しんでない?」
「そう見えるかい?」
「とても」
助手席に座ったシンジはシートベルトをしてカヲルのジャケットを受け取って膝に置く。
すでに慣れた動作で駐車場から抜け、街の中を走り出した車内に流れるのは二人の共通の趣味であるクラシック。
流れる景色を横目に、二人は他愛のないことを話しながらスーパーまでの道のりを楽しんだ。
初めて出会ったのは何も知らない研究所の中。自分以外の人間が暮らす家に帰るのもカヲルと共に過ごすようになってから。
知らないことを二人で知って、些細なことで腹を立てて。気づけばまた仲直りしている今の生活。
そんな二人の始まりは、いつも突然に。
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