自分はどこへも行けないのだと折れた翼の羽根を見てシンジは思った。
鳥にとっての翼と魚にとっての尾ひれ。失ってしまえば朽ちていき大地の糧になるしかない。
人間にとっての頭脳のような、自分の一部だった物を見下ろしてシンジはぐしゃりと羽根を握った。
背中の焼ききれるような痛みのほかにはもう何も感じることはできない。
虚ろな視線で眼下を見下ろすと蒼い星がくるりと回っていた。諦めと憎しみで染まるこころ。
初めて生まれたその感情にシンジは戸惑いながら、足を踏み出しふわりと堕ちていった。


渚カヲルは塾から帰る途中、珍しいものをみつけた。
すっかり日が暮れて街灯の光が辺りを照らす夜、公園のベンチで彼は横になっていた。
意識がないのか、目を閉じて四月の寒い夜風に吹かれる柔らかな漆黒の髪。
外見は同じくらいかそれより少し上か。彼の周りに異様なほど白い羽根が散らばっているのが目に入ったが、カヲルの興味はすぐに寝ている少年に移った。

「こんなところで寝ていると襲われちゃうよ」

治安が悪いこの地域では夜になると派手な改造をしたバイクや車に乗った少年少女たちがたむろっていて、少年がこのままの状態であれば間違いなく厄介ごとに巻き込まれるだろう。親切心ではなく事実を語るカヲルの口は何を考えているのかふっと笑っている。

「まあいいか。君、家においで」

少年の意識がないのをいいことに、カヲルは寝ている少年を軽々と抱き上げてその場から姿を消した。
夜の濃い気配が満ちる公園のベンチの下に、少年が確かに存在していたという証は風に流されて白く舞って消えてしまった。



家に帰って部屋の明かりをつけることなくソファに少年を落とした。カヲルには少なくとも今の衝撃で目を覚ますのではないかと思っていたが、少年はよほど疲れているのか意識があがってくることはなかった。
着ていたブレザーを脱ぎ、ネクタイを緩めて床に落とすと窓から差す月明かりがカヲルの銀の髪を照らした。
仰向けで横になっている少年を見下ろして、ソファに乗り上げる。
ぎしりとスプリングの軋む音がやけに部屋に響いたが、カヲルは構わず少年の顔の横に手を着いてじぃっと観察した。
少年を構成している遺伝子や細胞は、彼をこのように自分に囲わせることを喜んでいるのだろうか。
細い首筋を手のひらでなぞるとひんやりして冷たかった。カヲルが確信を持って少年の胸に耳をあてると、人間であれば絶対に聞こえてくる命の鼓動が彼からは聞こえてこなかった。

「弱ってるのか」

カヲルは己の唇を噛みきって、血の滲むまま少年に顔を寄せた。触れた唇は柔らかく、いい香りがしてカヲルを酔わせる。
開かない唇を舌でこじ開け、意識のない舌に己の血を絡ませてむさぼる。月が天上に昇り星星が瞬く間中、カヲルは少年の体がぴくりと反応するまで続けた。

「・・・・・・ぁ」
「気がついたかい?」
「こ、こは・・・・・・」

少年が意識を取り戻すと、カヲルは顔を離して少年を見下ろす。ぼんやりと開いた両目は月の光に反射して、綺麗なターコイズやクォーツのような、色を変えて辺りを彷徨っている。万華鏡のようにきらきらと輝く瞳が綺麗で、その瞳に自分が映っていることに満足してカヲルは微笑んだ。

「きみは誰」
「僕はカヲル。渚カヲル」
「カヲル・・・・・・渚、カヲル」

少年はソファから身を起こすことをせず、カヲルの瞳に映る自分を見上げていた。
少年には目の前にいるカヲルがどのような人物なのか判別できない。堕ちる際に思考能力をどこかに置き忘れてきてしまったのだろうか、頭の中を黒い靄が埋め尽くしていた。幸か不幸か、自分が何者であるかを少年は覚えていた。

「君は誰だい」
「・・・・・・碇、シンジ」
「シンジ君か。これからよろしく」

カヲルの質問に、口から零れた自分の名に少年は驚いた。言うつもりのないことが意思に反して外に出たことに戸惑いを隠せない。シンジはにこりと人好きのするカヲルの微笑みに警戒心を覚え、沈んでいた上体を起こす。

「ここはどこ」
「僕の家だよ。君が住んでいた場所とは違う世界」
「どうしてそれを・・・・・・っ」

起き上がったさいに走った激痛にシンジは顔を歪めて背中を抱きしめる。ソファに沈んで苦しそうに呼吸するシンジの背中を撫でながら、カヲルはシンジの両目に浮かぶ涙の雫を舐め取った。

「興奮しないほうがいい。傷が出来てまだそう経っていないんだろう?」
「きみには、関係ないっ、よ」

背中に回していた手を取られて痛む傷口を撫でられたシンジは咄嗟に力を解放する。傷つけられることに酷く恐怖を覚えるシンジの自己防衛反応をカヲルは軽く流した。びりびりと部屋全体が揺れ動く中、シンジは己の力が効かないカヲルに怯んだ。

「誤解しないで。僕も君と同じだよ」
「同じ・・・・・・きみも、堕とされたの?」
「僕の場合は自分から堕ちたっていうのが正しいけど。でも大体似たようなものさ」

カヲルの手に導かれてシンジが背中を触ると、シャツの上からでも分かる傷跡があった。斜めに走った傷を辿りながら見上げたシンジは、カヲルの銀色がかった瞳が真っ赤に染まっているのに気づいて息を呑んだ。

「僕が怖いかい?」
「分からない・・・・・・すごく怖いような気もするし、そうじゃない気もする。どうして・・・・・・自分でも変だと思うけど、きみを、どこかで見たことがあるような気がする」
「面白い話だね」

背中を辿る細い指に自らの指を絡めてカヲルは笑う。ソファに落ちた二人の指は、解けることなど許さないとでも言うようにずっと絡まっていた。耳元でくすくすと笑うカヲルの心地よい音程に誘われて、シンジは自分の意識がどこか深い場所に潜ろうとしているのを感じる。目を閉じてはいけないと思うのに瞼は自分の言うことを聞かずゆっくりと落ちる。それに気づいたカヲルは、絡めた右手をそのままに左手でシンジの目を覆って「おやすみ」と囁いた。
その言葉を最後に力の抜け切ったシンジの指先に熱が宿るのを感じながら、カヲルは瞳を細めてひっそりと笑う。

カヲルの背から六枚の翼が生えているのにシンジは気づくことなく、その腕の中で身を任せて眠っていた。

















あとがき

シンジ堕天使もの。カヲルは本当は人間だったのに何故かサタンになってしまいました。カヲルがシンジの唇を奪って血を与えたのには意味があって、シンジの体内に入ったカヲルの血はそのままシンジの体の一部になってムフフな展開になります。巷によくある契約モノ(シンジに意識ない)が書きたかっただけです、はい。