どろりとした生暖かなものが意思に反して喉を下る。
霞む意識の中、赤い双眸がじっと見下ろしていた気がしたが、あれはなんだったのだろう。
こくり、こくりと嚥下する何かが死んでいく体を甦らせるように体が熱くなり、シンジは我慢できない熱さにもがいた。
空を切る両手が硬く骨ばった何かを掴み、掻き毟る。
熱い、熱い、熱い、熱いっ!!
生きていた細胞が何か別のものに変化していくような、破壊されていくような未知の恐怖。
何にでもいいから縋りたくて必死に手を伸ばした先に、柔らかなものがゆっくりと宥めるように手のひらを掴んだ。
大丈夫。何も怖いことなんてない。君の体は君を生かそうと戦っている途中なんだ。
ぼんやりとした思考の中で、脳髄を溶かすような甘く掠れた囁きが聞こえてくる。
僕を生かそうとするのは一体誰だ。このまま、罪に汚れたまま消えてしまいたかったのに。
シンジは己の手を掴んで押さえていたものから逃げようと暴れる。すべての理から解放されたかった。
それでもどろりとした液体はシンジの口を塞ぎ、喉を塞いでそれを拒むことが出来ない。
経験したことのないような不快な臭いと苦味。吐き出したいのに自分の意思に反して喉は何度も嚥下する。
徐々に力の抜けていく体に意識が朦朧となりながら、シンジにはどうすることもできずに気を失った。
真っ白な天使の翼。穢れを知らず罪を知らず、欲望とは縁のない神の御使い。
神の意思ひとつで生まれ、気まぐれな一言で消滅する弱い生き物。それがシンジの属する世界だった。
何物にも囚われず、成すべき義務を果たさねばいけないという矛盾した、崇高な存在。
位階が低くなるほど増していく偏見と差別、傲慢で横柄で威圧的な態度。なんの意志もなく、ただ神に必要とされているという矜持が彼らを蝕んでいく。
それに憂えた大天使が智天使に、智天使が神に伝え、天使を総括していたシンジは総ての責任を負わされ罰せられた。
天使にとって最も屈辱的な、大衆の前での翼をもがれるという行為。
シンジのほかにも大天使、主天使、力天使も罰せられたが、翼をもがれ下界に堕とされたのはシンジだけだった。
身も心もすべてを捧げて生きてきたゆえに、絶対者である者からの否定は存在意義を、シンジ自身を殺すことと同じだった。
天に召します我らが父よ、許されることもなく身を滅ぼす私は貴方のお傍に仕えることなく消えてしまうのでしょうか―――――
薄暗い静かな室内の中、シンジはゆっくりと目を覚ます。
適度な柔らかさをもった地面を感じながら横向きになっていた。ふらふらと定まらない視界の中で、見たこともない物が整然と置かれていた。
「・・・・・・ここは・・・・・・?」
ここは一体何処なのか、霞がかった頭で考える。そもそも自分は何をしていてこんな場所で横になっているのか、抜け落ちた記憶を探りながらシンジは手をついてゆっくりと上体を起こそうとした。
「ぐうっ・・・・・・かはっ!」
途端に背中に走った激痛にシンジは地面に倒れこみ、顔を顰めて呻いた。
はぁっ、はっと息をするたび背中に走る鋭い痛みにシンジは自分を守るように抱きしめ、力を入れて握り締める。
何の光もない場所。聖歌隊の清らかな歌声も、流れる水のせせらぎも聞こえない無音の場所にシンジは不意に不安を覚える。
まさか、ここは―――――
「大丈夫かい、シンジ君」
最悪の予想をしたとき、不意に聞こえた声にシンジは驚いて上体を起こす。
引き攣れるような痛みにシンジは前のめりに体を折りながら、声が聞こえた方向を睨む。
睨んだ方向には目も眩むような色合いの髪をした・・・人間?
「誰・・・」
「もう忘れてしまったのかい?一度ちゃんと自己紹介したんだけどね」
少年は薄暗い室内でもよく映えた銀色の前髪の向こうからくすりと微笑んでシンジと同じように体を起こしていた。
「・・・・・・覚えて、ない」
近い距離に警戒するように後ろに下がり、シンジは少年のことを思い出そうと必死で記憶を洗う。
幽閉所に連れて行かれる最中に天から身を投げたところまではあやふやながら覚えている。でもその後が思い出せない。
シンジは片手で口を覆って考えるように床をじっと見つめるが、どうしてもここがどこなのか、目の前の少年が誰なのか思い当たる糸口すら見当たらなかった。
「そう。じゃあもう一度しようか。僕はカヲルだよ、シンジ君」
「カヲ、ル・・・・・・くん?どうして僕の名を知ってるんだ」
カヲルはシンジの言葉に思案するように目を細めて「何も覚えてないのかい?」と言った。
気遣うような声音と眼差しに気を張っていた体から力が抜け、項垂れて首を振った。
「残念ながら。君のことはもちろん・・・・・・自分の事ですら、あまりよく覚えていないんだ」
「仕方ないよ。僕が見つけたとき、君は酷い怪我を負っていたから。意識が朦朧としていても何の不思議もないさ」
気落ちした声でそう告げると、カヲルは励ますように言ってシンジの肩をそっと叩いた。
ぴくりと震えた体に「まだ大分痛むのかい?」と言って、シンジの上半身裸の背中に出来た傷跡を見る。
「君は、どこまで知っているんだ・・・・・・?」
カヲルには天界人が持つ特有の気も感じられないが、人間であると決め付けるにはどこかおかしい雰囲気をまとっていた。
生命が持つ特有の気を感じ取れない。一体なんなんだ。分からない事だらけで苛立たしい。
ゆっくりと近づいてくるカヲルに身構えるシンジの耳元で、「すべて」と息を吹き込んだカヲルは笑っていた。
見下ろした緋色の双眸にドクンッ、と強く鼓動が脈打つ。
「な、なんだよ、これっ」
経験したことのない胸の脈動にうろたえてシンジは胸に手を置く。
「心臓だよ、君のね。生命活動の要、血液循環の原動力となるもの。これから君が生きていく上で大切なものだ」
カヲルはうろたえるシンジの手に自分の手を重ねて、知らないことを教えるようにゆっくりと言った。
「心臓って・・・どうして!僕は生類じゃないのに!」
「しかし天上人ではない。君は天界を追放された、そうだよね?汚れた下界に堕とされた時点で、君にはもう天上人としての特権、能力や知識、常識すら失ってしまったんだ。こうなることに何も不思議はない」
「そんな・・・・・・」
居場所を追われただけでなく、身に起こっている変化に絶句する。
足の速い馬が蟻になるようなおぞましい変化が着実に、確かに起こっていることが感じられてシンジの体は小刻みに震えた。
「そう嘆くことはないよ、終わりがあれば始まりが、何かを失ったら何かを手にすることができる。君にはその資格が与えられたんだ」
カヲルはベッドから立ち上がってカーテンを引いた。小さな光が集まった夜空は明るかった。
窓からいきなり入ってきた光がまぶしくてシンジは目を細める。
「綺麗な星空だよシンジ君」
天界には無かった夜がそこには見えた。満天の星が窓辺に立つカヲルの白い肌をより一層際立たせている。
シンジは慣れない体の変化に戸惑いながらもカヲルに頷いた。透き通った青空にも負けない美しさが存在していたことに、言葉が出なかった。
「あまねく星も月も大気も僕も、君がこの世界にやってきたことを祝福しているよ」
「・・・そんな価値、もう僕にはないのに。でも・・・ありがとう」
このとき初めて浮かべたほんの微かな笑みにカヲルは嬉しそうに微笑む。
「すべてはこれからさ、シンジ君。君に何もないのならこれから身につけていけばいい。この世界で必要な常識や秩序、法則なんて今から学んでいける。絶対的な運命から外された者の行く末など、神は気にすることなどないのだから」
「それはいいことなのかな」
「少なくとも悪いことじゃないと思うけどね」
カヲルとシンジはしばらく黙って窓の外を見る。
徐々に夜が明けていき、光が見えなくなる空を眺めながらシンジは友人や親しかった人のことを思い出す。仕事をすることしか出来ない自分に声をかけ、仲良くしてくれた友人。真面目とは言えない彼らとの付き合いにとばっちりを受けることも多々合ったけれど、彼らといるのは楽しかった。
それと、蒼天の瞳に流れるような茶色い髪の勝気な少女の最後に見た、怒ったような泣きそうな顔が浮かぶ。
もし、もし、この先彼女に会うことが出来たなら、約束を守れなくてごめんと謝ろう。きっと、一人で泣いていると思うから。
その前に不甲斐ないと言ってぶたれるかもしれないけど、蹴られるだろうけど、そこは我慢して。
シンジは目を伏せて、もう二度と会えないだろう彼らのことを思った。
「・・・・・・シンジ君」
深い意識の底に沈んでいたところに不意に声をかけられて、伏せていた視線を上げてシンジはカヲルを見た。
「・・・ん・・・?」
「君は僕が誰なのか聞かないのかい?」
「誰って・・・・・・カヲル君だろ。違うの?」
「いや、そういうことじゃなくて」
「じゃあどういうこと?」
カヲルの尋ねる意味がよく分からなくてシンジが顔を向けると、窓枠に手を着いて見下ろしていたカヲルとまともに視線がぶつかった。
「何も聞かないのかい?」
もう一度カヲルは繰り返す。シンジはうろうろと視線を彷徨わせ、結局頷いた。
「うん。きっと、聞いても何も変わらないと思うから」
「どうかな。僕は君を利用としている酷い奴かもしれないよ。それでもかい?」
「別に・・・・・・君は僕を助けてくれたし、利用する価値があるならそうすればいいと思う。どっちにしたってここには君以外に頼れるものなんかないし」
元々滅びる身だったのだ。それをたまたま彼に拾われたというだけで、生きていることすら未だに実感が湧かないくらいだ。
その答えに肩を竦めてカヲルは窓枠から立ち上がった。
「まあいいさ。シンジ君が僕に興味を持つまで僕からは何も話さないことにするよ」
「なんだよそれ」
どんどん近づいてくるカヲルにシンジは、じりじりと身を引く。
「どうして逃げるんだい?」
「・・・・・・君が近づいてくるからだよ」
「怖がることはないよ。ただ素直に身を任せてくれれば」
「あうっ・・・な、に・・・?!」
傷ついた背中が、柔らかいと言っても床に押さえつけられて呻いたシンジの口を、カヲルは唇で塞ぐ。
ぬるぬるとぬめった柔らかで温かな質量が口の中で絡み合い、初めて受ける感触にシンジは慄いた。
首を振って逃れようとしても髪の根元に両手を差し込まれ、体を使って押さえ込まれる。痛いっ、と喉の奥で悲鳴を上げたシンジの痛みを引き受けるように、腰から背中をなぞり上げる指は優しい。
吸い付くように唇を寄せ、唾液を送り、抵抗がなくなるまでカヲルはシンジを味わう。
混ざり合った唾液を嚥下したシンジの朱色に染まった目元に軽く口付けして、力の抜けた体を抱きしめる。
「僕の永遠を君に捧げるよ、シンジ君。だから君も・・・・・・僕のものだ」
「カヲルく・・・っ・・・・・・なにをっ?!」
白く浮かび上がった首筋に顔を寄せるカヲルに嫌な予感を感じて、力の抜けた体を必死に揺すって逃れようとしたシンジに陶然と笑って―――――
「ぁ、っぁ、ぁぁあああああああっ!!!!」
カヲルは白い首筋に思い切り歯を立てた。
ごくり、ごくりとカヲルが喉を鳴らすたび、シンジの体は波に呑まれた蝶のように力なく震える。
皮肉なことに、受けた痛みが飛びそうになる意識を押さえて、血が啜られ抜かれていくのを言葉も出ずただ薄く口を開いてなすがままになっていた。夜のヴェールが脱げ、置き出した小鳥のさえずりが閉じていた窓の向こうから聞こえてくる。
「っ、はぁ・・・シンジ君・・・・・・」
「・・・・・・ぁ・・・・・・」
丸く開いた二つの穴を舐め、カヲルは血に濡れた唇を舌で拭った。
何が起こったのか、呆然と見上げるしかないシンジは見下ろす緋色の瞳に自分のぼんやりとした顔が映っているのに気付いて顔が熱くなる。征服されるこの行為を自分は確かに嫌悪しているのに、全身が、自分の意思に関わらずにカヲルを受け入れている。喜んですらいた。その現実が、シンジを混乱させる。
「なんで・・・っ」
「ちょっとした仕掛けを、君のここに、ね」
とん、とカヲルの指がシンジの胸を突く。ぞくりと背中を走った甘い痺れにシンジは小さく声を上げる。
カヲルが触るところが、見つめる先がどうしようもないほど熱く燃え上がる。
同性との触れ合いは禁忌だ。忌むべきものとして教えられ、従ってきた今までの経験が
―――――崩れていく。
祈りの言葉を口に出すことも出来ずに滅び行く私に慈悲を アーメン
あとがき
シンジはノーマル、といいますか同性での愛は成立せず、お互いにする行為は不浄のものとして教えられてきたのでカヲルに色々されてしまい精神崩壊しそうです。体も価値観もすべてカヲルの手によって壊されていく過程を書きたかったのですが、はたして上手く書けてるのか・・・?
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