青い三日月が綺麗な夜だった。 外に出ればそこはもう秋の気配を纏っていて、過ぎ行く夏のかけらを思っては少し切なくなった。 寒い季節は人肌が恋しくなる季節だということを生物は知っている。 母と二人で過ごしていた家はあたたかくもあったけれど、そこに父がいないという事実に幼い頃はよく寂しさを感じたものだ。 あれから色々なことがあって、たくさんの人と出会った。いい意味でも、悪い意味でも。世の中には本当に色々な人がいるのだと思う。 忘れたこともたくさんあるけれど、記憶をたどれば今なお褪せないものもある。 いつもうるさいくらい傍にあった幼子たちも、だんだんとあの頃の自分のように成長していくのが嬉しい。 生きているということは、ただそれだけで尊いものなのだと知った。 「辛気臭い顔」 前を歩くしなやかな闇が振り返る。ああ、この人もまた大人になったのだと思うのはそう感じられるくらいの縁が未だに途切れることなくあるからか。 顔を合わせれば追い掛け回され、殴られ蹴られと理不尽な暴力を受ける時もあった。 時が経つに連れマシになっていったとはいえ、今でもたまにあるのが少々厄介だが。不思議な縁で、この人ともまた繋がっているのだろう。 「辛気臭いって、あの、これ地なんですけど……」 「いつもはもう少しマシな面してるよ」 白い肌に青白い光が映え、黒い瞳が不可思議な色を乗せていた。 雲雀は中学から変わらずかっちりした服装を好むのか、いつもジャケットを着用している。今夜もまた、黒いスーツに黒いネクタイを締めていた。 短くなった前髪が風に揺れている。こうして二人きりになるのは、随分と久しぶりのことだった。 「秋ってなんだか切ない気持ちになりませんか?」 己の足で立つことを良しとする人だ。そんなことを考えたこともないだろうに、気がつけば凛とした横顔に声をかけていた。言った後に少し後悔する。 「何それ。そんなくだらないこと考えてたの?」 「はあ……まあ……」 案の定同意を得ることは出来なかった。闇に包まれながらも、なお黒い瞳に光が反射している。眉を寄せた顔と目が合った。 この人はいつもまっすぐ獲物を見据え、視線をそらさない。ブレないでいられる、ただそれだけのことに憧れていた。 「もう少しマシなことに頭を使えばいいのに」 「そう出来ればいいんですけど」 秋の風は夜になるごとに冷たくなっていく。雲雀の視線もどこか冷たい。 目線を下ろすと、乾いた地面に枯れ葉が落ちていた。踏みつけるとクシャリと軽い音がした。 何故だろう、そんな小さなことが胸に染みた。大人になるということがどういうことか、実はまだよく分からない。環境が変われば人も変わるという。変わらないでいられたらいい。非情になりきれない臆病者でいられたらよかった。 「風が冷たくなってきましたね」 硝煙と血生臭さに慣れないでいたい。現実からは決して目をそらさないから。 目の前の人みたいに、強くありたいと思った。目指す先は違うけれども。 「綱吉」 いつからか、こうして名を呼ばれるようになった。出会った頃より低く、落ち着いた声。流れる時の些細な変化に移ろうものを知る。 「はい」 お互いに距離を取って立っている。近づきすぎず、遠すぎず。この距離がお互いに合っているということを経験で知った。 それでも、ごくたまにではあるけれど、その距離の遠さをもどかしく思うときもある。 今夜はその、ごく稀な日だ。 月を背にした男が近づいてくる。珍しく境界線を破って、音もなく。 「……ムカつくなぁ」 「はい?」 「せっかくこうして二人でいるっていうのに、君ときたらいつも他のことばかり考えて。どうせまた群れのことでも考えてたんだろ」 ただでさえ不機嫌そうに見える表情で睨まれる。きりりとつり上がった眦に不穏な色が浮かんだ。 「少しはそのバカな頭を使って僕のことだけ考えられないの」 「……。ひ、雲雀さんこそ」 いつだって強そうな獲物を見つけては、自らその相手に向かっていくだろうに。 「僕は君のこと、結構大事にしてると思うけどね」 「ええっ!?」 「何、その顔。咬み殺されたいの?」 まさか人を人とも思わないような人にそんなことを言ってもらえる日が来るとは。正直なところ、驚きすぎて夢でも見ているのかと思ってしまった。 大事に、思ってくれているのだろうか。そう考えたら、なんだかほこほこと胸が温かくなった。 「雲雀さんにそう言ってもらえる日が来るなんて、なんだかカンガイ深いです」 「今日だけだよ。君があまりにも腑抜けた顔をしているから」 「す、すみません」 そんなに間抜けな顔をしていただろうかとちょっと不安になった。 ただ、月が青くて物悲しくなっただけなのだ。一緒にいる相手をないがしろにしたいわけじゃない。 眉を寄せると、薄い唇が微かに弧を描いた。機嫌は悪くはないらしい。 「ブラッドオブボンゴレだっけ? ご大層な名前の割りに、そう大したものでもなさそうだ」 「はあ……」 「いい加減、気づいてもいいんじゃないの。それともわざとなのかな」 闇が近づく。彼のほうが身長が高いから、月の光から隠されてしまうようになる。 そうされると、顔を見るために自然と上を向いてしまう。不意に頬に熱が触れ、驚いた。 「待つのって嫌いだよ。気づかされたのも癪に障る」 触れたのは、手のひらだった。骨ばっていて、負けることを許さない強さを持つ男の手だ。暴力を良しとする、恐ろしい手。 なのにそれは、触れるとあたたかくて、いやに逆らいがたかった。 見下ろす瞳と目が合った。眇めた表情が、まるで不貞腐れた少年のようにも見える。 「気づいてないと思った?」 静かな声色が、逃げることを許さないと言う。気づけないままあれたら幸せな事だって、あったろうに。 「何のことですか」 間違いだから。正されるまで離れたところにいたいと思ったのだ。子供じゃないんだから、嫌なら目をそらすことだって出来たろうに。だからこそ距離を置いたのだ。 それなのに、彼はそれを許さない。逃げ出すことを、目を背けることを許すほど甘くない。 「好きなんだろう」 何か言おうとして口を開いたが、結局何も言えなくて口を閉ざした。 「僕が好きだろう」 「待ってください。本当に、どうして今……このタイミングで言うんですか」 思春期などとうに過ぎたのに、みっともなく泣きたくなった。言わせてしまった。ずっと秘めたままでいようと思ったことを。 否定したい気持ちと、押しとどめて踏みつけていた気持ちがせめぎあって苦しい。 人を好きになるのがこんなにも苦しさをともなうことだと知った。それもこの人が最初で最後になるのだろうか。 「本当に、なんでこんな意地悪で理不尽な人を好きになったんだ」 認めてしまった。みっともなく震えた声が、我ながらかっこ悪い。 「やっと言ったね」 勝ち誇ったように、楽しげに人の悪い笑みを浮かべる顔を思わず恨みがましく睨んだ。 「……さいあくだ!」 人の恋心をもてあそぶような悪魔に惚れてしまった自分の不運を恨むしかないのか。 これが周囲の友人たちにばれたら、もうどんな顔をして会えばいいのか分からない。 うう、と呻いて距離を取ろうとしたが、頬に当てられていた手のひらのせいで叶わなかった。 「君は大概鈍いし、群れるし咬み殺したくなることのほうが多いけど」 「ひどっ!」 この人の酷い言いようはいつものことなのに、ちょっとだけ悲しくなった。 どんな顔をして見ればいいのかわからなくて、目をそらす。出口はとうに塞がれていて、自分ではもうどうすればいいのか見当もつかない。 俯いた先、影が近づいて、気づいたら距離が零になっていた。 思わず息が止まる。 「それでも、傍に置いておいたら楽しいだろうなって思うよ。これってどういうことだと思う?」 強い力で抱きしめられたと気づいたのは、そう呟かれた声がするりと胸に入った後のことだった。 月がきれいで、泣きたくなった夜 |