北近江・敦賀行 ('95・5月)

彦根から木之本を経て敦賀に抜けてみました。
南北朝関係の史跡は全国どこに行ってもある ものだなァ、と思いました。
宗安寺 木村重成首塚碑
彦根市内の宗安寺。朱塗りの山門は佐和山城の大手門を移したと言われ、 馬に乗ったまま通れるという大きな門にしみじみ納得しました。 宗安寺には木村重成の首塚がありました。その首塚碑。
龍潭寺 龍潭寺山門
佐和山麓の龍潭寺。庭園で有名な井伊家先祖の菩提寺ですが、佐和山城と 城主・石田三成を偲ばせる寺でもあります。後醍醐天皇の皇子・宗良親王によって中興されたと いうのも南北朝ファンにはポイントが高い… 龍潭寺山門。佐和山城門を移したというのはこれでしょうか? ちなみに 寺の茶室も佐和山城の古材を利用して造られ、寺の鐘も佐和山城の陣鐘を移したものだそうです。
龍潭寺石庭 龍潭寺石庭
龍潭寺石庭。枯山水というものですね。 同じく龍潭寺石庭。
龍潭寺池泉庭 龍潭寺襖絵
龍潭寺池泉庭。名園というのはシロートが撮ってもそれなりの写真に なるものだと感心しました。 龍潭寺襖絵。この寺には立派な襖絵がたくさんありますが、この桜は 佐和山城の襖絵だったらしいので、写真撮影お断りだったのをこっそり…。内緒にしてください…
清凉寺 清凉寺たぶの木
龍潭寺と隣接する清凉寺。井伊家歴代の墓が並ぶ井伊家菩提寺ですが、 ここは関ヶ原戦で戦死した石田家家老・島左近の屋敷跡と言われています。 清凉寺のたぶの木は夜な夜な女の姿となり、佐和山落城のときに死んだ 女性たちの魂が現れるのだと言われたそうですが、この木でしょうか? また島左近の居間から 移したという白壁に浮かぶ月影や、触ると必ず腹痛をおこす南天の木など、佐和山七不思議を 伝えます。
石田三成屋敷跡 佐和山
佐和山を歩いていて見つけた石田三成屋敷跡碑。 石田三成の居城があったことで有名な佐和山。中山道を見下ろす要衝です。
石田三成像 佐和山登山道にて
佐和山登山口の石田三成像。 佐和山登山道にて。高い山ではないのですが登ってみるとそれなりに険しく、 また落城の悲劇をひしひしと感じます。
佐和山からの展望 佐和山遊園
琵琶湖が広がる佐和山からの展望。 佐和山南登り口を下ってくると、何だか侘びしい佐和山遊園というものが…
佐和山城 佐和山遊園にて
佐和山遊園に復元されていた佐和山城; 中は何にもありませんでした、 寂しい… 佐和山遊園にて。緑の美しい季節でした。
木之本地蔵 木之本浄信寺
北国街道の宿場町・木之本でまず目を引くのが浄信寺の木之本地蔵。 眼病除けで知られる5mあまりの地蔵像です。 浄信寺境内。
木之本竹内家 古橋石道寺
宿場町らしく、江戸時代には大名が宿泊したという木之本の竹内家。ここの 当主は日本の薬剤師第一号だったということで、この軒下。 木之本から古橋へ向かいます。古代から中世にかけて己高山を中心に大規模な 山岳寺院が築かれていた古橋ですが、現在は殆どが無住・廃寺となっています。かつてはもっと 山間にあったという石道寺も現在はこちら。
古橋飯福寺跡 古橋の寺院跡
木立の中にひっそりと静まり返っていた飯福寺跡。 ここも寺院跡と思われます。残されたお堂と石段が淋しくも、また清らか でした。
古橋の田園風景 古橋法華寺跡へ
かつて関ヶ原戦に敗れて落ちてきた石田三成をかくまったという古橋の静かな 田園風景。 法華寺跡へ向かおうとしたら、畑仕事をしていた地元の方に「熊が出るよ」と 注意されました、トホホ…; 古橋の人は皆とても親切でした。
古橋法華寺跡 古橋法華寺跡
法華寺跡。石田三成の生母の実家の菩提寺であったと言われます。 石積みがわずかに法華寺を偲ばせるものでしょうか。
古橋法華寺跡 古橋バス停
杉木立の中に作られた階段を上ると法華寺、かと思ったら鳥居が…; 古橋バス停。
気比の松原 敦賀湾
敦賀にやって来ました。まず日本三大松原の一つ・気比の松原から敦賀湾へ。 砂浜の広がる敦賀湾。
敦賀市内にて 敦賀城中門
レンタサイクルはないと言われ、ガッカリしながら徒歩で巡る敦賀市内で 探すのは敦賀城の遺跡… 見つけました、敦賀城中門。
敦賀市立博物館 気比神宮
敦賀市立博物館。思わずカメラを向けたくなった立派な建物です。 敦賀のシンボルとも言える大鳥居をかまえる気比神宮。中世には越前国一の宮 として勢力を張った格式を誇ります。
金ヶ崎 金ヶ崎登り口
気比神宮からも近く、敦賀湾に面した金ヶ崎。高くはありませんが急勾配の山で、 三方が断崖絶壁。南北朝時代には南朝方の新田軍が後醍醐天皇の皇子・恒良親王、尊良親王を奉じ、 気比神宮の支援も受けて立て籠もった金ヶ崎城が築かれていました。 金ヶ崎城趾登り口。大手口には金ヶ崎宮が建てられています。
金ヶ崎宮石段 金ヶ崎宮鳥居
金ヶ崎宮の石段を登ります。確かにかなり急勾配。 金ヶ崎宮鳥居。
金ヶ崎宮境内 金ヶ崎城趾碑
金ヶ崎宮境内。 境内の金ヶ崎城趾碑。
絹掛崎 絹掛崎と敦賀湾
1337年、北朝方の高軍の攻撃により金ヶ崎は落城。その直前、恒良親王は 前方の岩付近から小船で脱出したと伝えられ、そのとき衣を脱いで岩の松の枝に掛けたことから 絹掛崎の名があるそうです。松は絹掛松と呼ばれるそうですが、どれでしょう? 金ヶ崎の絶壁から見下ろす絹掛崎と敦賀湾。ここから脱出…、と思うと 息がつまりそうでした。恒良親王は海岸の洞窟に潜んでいたところを捕らえられ、その洞窟と伝え られるものも残されているそうです。
敦賀港 金ヶ崎古戦場碑
金ヶ崎から敦賀港を望む。 金ヶ崎古戦場碑。
金ヶ崎城三の木戸跡 金ヶ崎城焼米石出土跡
金ヶ崎城三の木戸跡。 金ヶ崎城焼米石出土跡。「戦国時代、金ヶ崎城の兵糧庫があり、織田・朝倉の 攻防戦で落城の際、倉庫は焼け落ち、その焼米が後に出土したと伝えられる」と案内板にありました。
金ヶ崎城二の木戸跡
金ヶ崎城二の木戸跡。1337年、攻めにくい金ヶ崎城は 兵糧攻めにあった後、攻撃されて落城し、尊良親王と新田一族や気比一族の多くが自刃したと 伝えられます。二の木戸はその激戦があったところだそうです。