≪背中で語れぬ大人たち≫
【注】
現在掲載している文章は、2009年3月に “きまぐれ月記” に掲載したものです。そのためこのページの文章は、いずれ他のページと同じような文章に書き換える予定です。(書きかえ後もこの文章は、“きまぐれ月記”
のログに残ります。)
≪背中で語れぬ大人たち≫
【前回のおさらい】
今回のコラムの前編である≪あなたが “あなた” になったわけ≫では、価値観とは生まれ持ったものではなく、環境によって作られるものであることを書きました。それゆえ価値観の違いとは基本的に教養の違いであり、優劣が存在する場合が多いのだと。そして明らかに劣った価値観を持っている大人は、自分の意思で自分の価値観と闘わなければならないのだと。
しかし大人には、他にもしなければならないことがあります。それは子供やこれから生まれてくる人たちが、現代社会で幸せを生み出せる優れた価値観を、自然に身につけられる社会を築くことです。
そこで今回は、なぜ問題につながる価値観を持った人が多いのかを分析し、子供たちにきちんとした価値観を身につけさせるためにはどうすればよいのか、ということを書こうと思います。
【注】
価値観は後天的なものであり、学習によって作られることを知らない人が読むと、ここから先の内容を正しく読み取ることはできません。ここまでの内容に納得できない方は、必ず前編を先にお読みください。
【モラルに欠ける大人たち】
日本では何年も前から、モラル(倫理観)の欠如がしばしば問題になっています。特に問題なのが若者のモラルで・・・とは大人たちを見ているとそうは思えないのですが、大人のモラル欠如と子供や若者のモラル欠如には、その原因や起こす問題に大きな違いがあると考えています。
今の大人たちは、教育や情報が不十分な時代に生まれ育ちました。つまり現実というものを、自分の実体験の範囲でしか知りません。それでも彼らが育った時代ならば、未熟な社会観しか持ち合わせていなくても、一人前の大人として認められることができました。なぜなら当時は、目先の利益が最優先という未熟な社会であり、目の前の仕事をこなせることが一人前の条件とされていたからです。素人でも公害につながると分かるような問題行為すら、利益につながらなければ黙認するのが常識だったのです。
つまり今の大人たちは、問題行為が問題として扱われない未熟な社会で生まれ育ちながらも、一人前扱いされたため、自分の未熟な社会観に疑問を持つことなく生きてきたのだと考えられます。また未熟な社会では我を通すことが不可欠であるため、高飛車な人やクレーマーのような人が生み出されたと考えられます。
まとめると、教養不足と社会の未熟さという単純な要素が、古いタイプのモラル欠如人間を生み出してきた大きな原因であると思われます。
ただしこのタイプのモラル欠如には、1つの利点があります。それは子どもが「大人っぽく見える大人」を見習って育つため、少なくとも表面的な部分だけはきちんとした大人に育ってくれるということです。これは遥かな昔から、人間が代々受け継いできたであろう伝統です。しかしこんな伝統さえも、今では崩れようとしています。
【モラルに欠ける若者たち】
現代版のモラル欠如人間を生み出しているのは、近年の急激な生活の変化が原因であると考えています。その急激な変化とは、家電製品やマスメディアの発達を中心とした、生活水準の向上です。
これがなぜ問題になるのか。その1つは、人間が生活の中で、動物的かつ原始的な行動をほとんどしなくなったことにあると考えています。
昔は家事をする場合、自分の体を使って時間をかけてする必要がありました。親が苦労して生活している姿を、子供が分かりやすい形で知ることができたのです。また手伝いをすることで、生活することの大変さを実感することもできました。そのうえ行動がすべて原始的であり、何をどう努力すべきかは考えることで答えを出せたため、考えることの大切さや楽しさを学ぶこともできたのです。それも、ただ親のそばにいるだけで。
一方で現在は、スイッチ一つで大抵のことができる時代です。時間をかけなければならない家事は少なくなり、親が子育てをしながらでも生活を楽しむゆとりができるようになりました。また家電製品がどんな理屈で何をどうやっているかなど、考えることさえありません。その結果、生きていくうえでは苦労や勉強がつきものだということを、そしてそれらがすべて自分のためになるということを、子どもが学ぶ機会が少なくなったと考えられます。
もちろん子供が苦労や勉強をしなくなったわけではありません。学校や塾があるからです。しかし「なぜ苦労してまでする必要があるのか分からない勉強」で磨けるのは学力だけであり、ここで問題となる子供としての生き方は学べないのです。
子供としての生き方、それは「自分は大人ではない」ということに気づき、「つまりまだ未熟な子供である」と悟ることから始まります。自分が子供だという自覚を持つことで、大人を偉大な存在だと感じるがゆえに大人の言うことに従い、大人になることに憧れるがゆえに向上心を身につけることができるのです。
しかし現代の子供は違います。大人でなければできないことを目にする機会はほとんどなくなり、それゆえ大人がしていることの大変さや自分の未熟さを実感できる機会がほとんどありません。つまり自分と大人の違いを学べないから、自分が子供であることを自覚できず、結果として「自分は周囲の人(大人)と同等である」という価値観を身につけてしまいやすいと考えられるのです。
自分を大人と同等な存在だと感じるようになった子供は、その感覚のズレをいつまでも持ち続けるため、自分が(客観的に見て)正当な扱いを受けることに不満を感じるようになります。なぜなら自分は目上の人と同等であり、同等な人よりも格上であると思っているからです。そのうえ自分を一人前だと思っているため向上心を持つことができず、自分を磨こうとしないために一人前の大人になることができません。これらの結果、規律を守れず高飛車で面倒くさがりの未熟な人間に育ちやすいと考えられます。これが学級崩壊やニートの増加など様々な問題を引き起こす、現代版のモラル欠如人間です。
【現代社会の問題】
「いくら子供がゆがんだ価値観を持っていても、長く生きていれば自分の未熟さに気づく日が来るだろう」と思われる人もいるでしょう。しかしそれができないどころか、逆にゆがんだ若者が増えていきかねないのが、現代日本という高度な情報化社会で暮らすことなのです。
現代社会を大きく動かしているといっても過言ではない、マスメディア(ブログなども含む)が発信する情報は、子供でも容易に入手することができます。これらの情報は編集されたものであり、限定的かつ真否すら定かでない解釈例にすぎませんが、そんな怪しい情報であっても、若者がその怪しさに気づくのは困難です。なにしろ若者たちはそんな情報に囲まれた社会で生まれ育ったうえ、自分を磨いてこなかったからです。
自分を一人前だと思っている若者がそんな環境で育てば、自分が一人前の社会観を持った大人であると誤解するのは必然であるといえます。実際には社会に出たことすらない、未熟な人生経験しか持たなかったとしてもです。
長く生きてきたというだけで自分を一人前だと誤解している大人たちと、そんな大人たちの愚かさや社会の本質を限定的に知っているがゆえに、自分は大人と同等以上の社会観を持っていると誤解している若者たち。そんな現代社会において、大人に威厳を感じられない若者が増加するのは当然のことだといえます。
大人は若者を未熟者として扱い、子供や若者は大人を尊敬に値する存在だとは感じない。この意識のズレが意志疎通を困難にし、モラル欠如の問題をさらに難しいものにしていると考えられるのです。
【ダメ大人だって悪くない】
日本の高度経済成長を支えてきた一方で、社会の腐敗を放置してきた大人たち。彼らの功罪をどう評価すべきなのでしょうか。私なりの結論は、「終わったことは仕方がない。ただしこれからの生き方次第。」というものです。価値観は育った環境によって大きく左右されるものである以上、未熟な社会で生まれ育てば未熟な大人になることは必然であり、仕方がないのです。そして大人に不満を持つ若者が大勢いるのは、腐敗した社会に疑問を感じられるだけの教育を、大人が作った社会にさせてもらったからでもあるのです。
ただしそんな理論でダメ大人が正当化される時代は、すでに終わっています。誰もが自分の価値観に疑問を持て、磨くことができる環境が作られたのですから、これからは誰もが子供に戻ったつもりで価値観を磨きなおしていかなければなりません。それをしない人は人間として未熟であり、非難されても仕方がないことでしょう。
しかしこの教育というものが厄介なのです。なぜなら老若男女を問わず多くの人が、「すでに一人前だから自分の価値観をこれ以上磨く必要はない」という価値観を持ってしまっているからです。そんな人にいくら教育を行っても効果はありません。
このように価値観とは、学習能力にも大きな影響を与えています。つまり同じ環境で同じ教育を受けても、最高の環境で最高の教育を受けたとしても、それまでに持っている価値観しだいで、教育の成果は大きく変わってくるのです。つまり価値観が作られた後で価値観に関する情操教育を行ったところで、十分な効果は望めないということです。
【大人ならば背中で語ろう】
つまり情操教育は、物心がつく前から行う必要があるということです。それがいつなのかは分かりませんが、おそらくは生まれてすぐ、もしかすると生まれる前からすべきなのかもしれません。でも正確な時期を知ることは重要ではありません。なぜなら子供は、親を手本にして育つものだからです。つまり理想の情操教育とは、育ての親が一人前の人間としての生き方を実演して見せることであるといえます。ここで重要なのは、演技ではいけないということです。なぜなら演技では必ず無理が生じるため、子供はごまかしを含んだ生き方を学習してしまうからです。つまり親は、無意識のうちに理想の教育を行っておく必要があるのです。ですから「いつから始めるか」などと考えることに意味はないのです。
さて、理想の教育で子供は何を身につけるのか。何も知らない子供がまず学習することは、五感だけを頼りに鵜呑みにした情報をもとにして行う、「社会や自分ってなに?」というようなものでしょう。これは「社会や自分とはどんな状態が普通なのか」と言い換えることができます。
この「〜はどんな状態が普通なのか」という初期の価値観を基準にして、その後のすべての学習が行われていくわけですから、この初期の価値観を正しく身につけさせることこそが、人間にとって最も重要な教育であるといえます。
つまり最も重要な教育は、育ての親にしかできないということです。その教育が実演でしか行えないということは、きちんとした大人でなければきちんとした教育はできないということです。前回のコラムで「幸せにつながる恋愛観を持つことが重要」と書いたのは、自分が一人前でも配偶者が未熟であってはダメだからです。
【そんなの無理だという人に】
ここまで読んでくださった方の中には、「自分は理想的な大人ではないから、理想的な教育なんて無理だ」と思われる方も多いでしょう。
でも、それでいいのです。今のゆがんだ社会できちんと生きるのは、容易なことではないのですから。大切なのは、自分の未熟さを自覚して努力することです。「生活するのは大変だ。でも社会の一員として頑張らなければならない。」そんな苦労をしている姿を、(意図的にではなく)子供に見せることが重要なのです。社会の真の姿とそこで生きる大人の姿という、ありのままの姿を見せることは、むしろ必要なことであるはずなのです。
ただし、人生は苦行ではありません。どんなに立派に見える大人でも、その生き方が辛そうならば、きっと子供はそんな人生を送りたいとは思わないでしょう。だから無理のない範囲で努力する。可能ならば努力すらも楽しむ。それが理想ではないかと思います。
とはいえ、明らかな問題行為は絶対にすべきではありません。
身近な例で最も重要だと考えているのが喫煙問題です。悪い悪いと言われていながら多くの人が公然と吸い、あるいは喫煙所に通ってごまかしの人生を送る、そんな大人たちを見て子供がまともな価値観を身につけられるわけがないのです。そして悪いと言われていることをする自分の親を、子供が尊敬するわけがないのです。
またそんな大人を見て育った子供は、非行や犯罪に走る確率も高いはずです。なぜなら「悪い」という言葉(概念)の意味を取り違え、「“悪い” ということは、実はそれほど悪くない」という、明らかに間違った価値観を身につけてしまうからです。そんな価値観を持つ人は、問題行動を問題だと感じることができませんし、まともな行動を堅苦しく感じるようになります。なぜならそんな人にとっては、「問題行動だって普通のことだから」であり、誰だって「普通だと感じることの中で最も楽そう(楽しそう)なことを優先する」ものだからです。普通だと感じることを受け入れ、普通ではないと感じることを拒絶するのは、誰だって同じなのです。
だからこそ社会を憂うならば、そして自分の子供の将来を憂うならば、なによりも自分がまっすぐに生きることを心がけてください。大人は背中で語り、手出し口出しは最低限のことだけでいいと思うのです。きちんとした価値観を身につけさせておけば、あとは子供が自分で自分を磨いてくれるはずだからです。もっともコミュニケーションは、とても大切ですけれど。
【補足】
今回のコラムを読んで、「悪い子の親はすべて悪いのか?」という疑問を持たれた方もいると思います。でもそれは半分だけ間違いです。最も重要な初期の価値観は家庭で作られるとはいえ、その時点ではまだ価値観は固定されていません。学校などその後の環境によって、少しずつ変化していくのが普通です。つまり価値観に関する家庭での教育とは、子供の傾向を大きく左右するだけであり、機械的に構築するわけではないのです。逆にいえば子どもがいない人だって、近所の子供にとっては環境の一部であるわけですから、やはり自分を磨かなければならないのです。
また人の価値観を統一化するような教育方針に、不安や疑問を感じる人もいるでしょう。しかし人の潜在能力には差がありますし、生活環境にも必ず差が出るため、子供の価値観は問題化しにくい範囲で多様化します。つまり実社会で必要になるだけの個性は、間違いなく生み出されるはずなのです。
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