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真面目で損していませんか?

「1行でできるボランティア」について

理論1(コラム) 理論2(コラム) おまけ(エッセイ)

≪理論1≫

 真面目で損していませんか?

 というキャッチコピーを考えただけなのに、すでに一歩前進したような気がしている、「1行でできるボランティア」計画の2回目です。今回は、「真面目な文章をいくら書いても、世の中は大して変わらないよ」という内容の、長ったらしい真面目テキストです。

 「今の世の中はおかしい」
 程度の差はあれど、こう感じている人は少なくないと思います。
 でも「世のため人のために、自分にできることをやっていこう」と考えて、ほんの少しであっても行動している人の割合は、ごく僅かだと思います。
 しかし日本だけでも人口は1億を軽く超えるのですから、例え行動している人が1%に満たなくても、人数としては膨大なものになります。その中には作家のようなプロもいますから、「こうしよう」「こんなことは止めよう」と世の中に訴える試みは、ずっと昔から一般人の目にふれる形で行われてきました。現在ではインターネットを利用することで、プロでなくても同じ事を簡単に行えるようになっています。読み物サイトのリンク集を利用するとすぐに分かるのですが、そういった活動を(ほんの少しでも)している人は少なくないようです。

 しかし現在でもそういった活動が目に付くということは、今の世の中に不満を持っている人が大勢いるということであり、十分な結果に繋がっていないことを意味します。
 なぜでしょうか。
 原因として考えられることはいくつもありますが、私は次の4つが大きいのではないかと思っています。

【原因1:きちんとしたテキストを書くことが難しい】

 「世の中をもっと良くしたい」という気持ちがあっても、「そのためにはどうすれば良いのか」の答えを見つけることは非常に困難です。というのも、1つの問題は他の様々な事柄と密接に関わっているため、たった1つの問題を改善しようとするだけでも、世の中のことを広く深く正確に知る必要があるからです。
 もし最善と考えられる思想を持つことができたとしても、それをきちんと理解できているのは本人だけ。それを不特定多数の人に正確に伝えて理解してもらうためには、高度な表現力さえも必要になります。

【原因2:内容の良し悪しはほとんど評価されない】

 文章のプロが、思想のプロであるとは限りません。そのためプロ、アマを問わず、真面目テキストというのは玉石混交であり、明らかに間違っているものも少なくありません。しかしそれを見抜くためにはある程度の知識や読解力などが必要になるため、読者が間違いに気付かないことも珍しくありません。また優れた内容であっても、読者の常識から外れた内容であれば信じてもらうことはできません。

 実際のところ読者に与える影響は、内容の確かさよりも、書き手の表現力や肩書きの方がずっと強いと考えられます。つまり内容が優れているかどうかは、ほとんどの読者にとって意味を持たないということです。

【原因3:読者は読みたいテキストしか読まない】

 どの本を読むか、どのサイトにアクセスするかは読者の勝手であり、それを強制することはできません。基本的に人は自由であり、自由が許されている時間に何をするのかを決めることは、その人に与えられた権利だからです。

 しかし自由な時間を自分の楽しみのためだけに使うか、それとも自分を磨くためにも使えるかが、ここでの大きな問題になってきます。人の行動範囲というのはある程度限られているため、自分を磨こうとしない人が真面目な文章を目にする機会は、ほとんどないと考えられるからです。

 真面目な文章を面白く書く。という手段もありますが、誰だって自分に都合の悪いことは嫌なものです。自分の行動を否定するような文章は、どんなに面白くても楽しめず、読み続けることはほとんどないでしょう。
 なんにせよ、どんなに優れたテキストを書いても、本当に読んでほしい人には読んでもらうこと自体が難しいのです。

【原因4:読者への影響は一時的なもの】

 「素晴らしいテキストに出会えた」と感じた人は、普通「記憶する」という形で学習するものだと思います(文章を暗記という意味ではなく、考え方を・・・ね)。しかし記憶という形で学んだことは、それが以後の人生において中心になるほどの影響を及ぼさない限り、やがて忘れ去られていくものです。
 また「いい事が書かれているな」と思う程度の内容であれば、何度も繰り返し読むことはまずありません。これも忘却を早め、学んだことがその時だけのものになってしまう原因だと考えられます。
 これを防ぐには、学習の方法を変えるしかありません。

 文章を初めて読んだときに「なるほど!」と思ったことを、「そんなの当たり前じゃないか」と思えるように、「自分自身の考え方を修正していく」という形で学習していくことが重要です。こうすれば物事を考える時の基準が、(良い意味で)固定されていきます。そして少しずつ、「当たり前だと思うこと=正しい」「納得できないこと=間違い」という理想に近付いていくでしょう。

 しかし先ほど書いたとおり、学習は通常、記憶の追加という形で行われるのですから、この学習法そのものも「記憶する」という形でしか学習されることはありません。人がどんな風に物事を学んでいくのかは癖のようなものであり、ちょっとした努力や工夫で変えられるものではないからです。

 素晴らしいテキストと出会えても、人間はそれを生かせるようにはできていない。
 これが私にとっての「当たり前だと思うこと=正しい???」なのです。

【それでも私は、真面目テキストを書き続ける】

 という理由については、「理論2」で書こうと思います。

 さて、いまこの文章を読んでくださっている方は、おそらく「真面目テキスト肯定派」だと思います。そしてこのページに書かれている私の仮説を納得できないまま読み進め、【それでも私は・・・】を読んでホッとしたのではないでしょうか。

 そう、ご安心ください。これまで真面目なテキストを書いてきた大勢の管理人さん、真面目テキスト大好きな読者さん、あなたのこれまでの行為は無駄ではない!
 ・・・はず。


≪理論2≫

 理論1では、真面目なテキストをいくら書いても、社会の改善にはほとんどつながらないことを書きました。そして、それでも私は真面目テキストを書き続けるという、矛盾めいたことも書きました。
 今回は、なぜ私が無駄だと分かっていることをし続けるのか、そして肝心なこのボランティアの詳細について書こうと思います。

 私が真面目テキストを書き続ける理由、それははっきりいってしまえば、真面目な話に興味がある人だけでも読んで何かを考えてもらえれば、個人の活動としては十分だと思えるからです。また真面目な話に興味を持たない読者に対して、「こんなに真面目に生きている人がいるんだよ。あなたは恥ずかしくないんですか?」というプレッシャーをかける意味もあります。
 現代社会で重要なのは、幸せを生み出せる社会を創造し、あるいはそれを維持することであり、大人がそれに関心を示さず生きることは、反社会行為であるといえるのです。そんな問題行為をしている人に罪悪感を感じさせ、反省を促すことは、まともな社会を築くためには必要なことだといえるのです。なぜならば、迷惑をかけ合って生きている現代日本において重要なのは、良い活動をすることよりも、むしろ悪い生き方をしている人を減らすことだと考えられるからです。

 しかしこれでは個人は変えられても、社会を改善することはできません。理論1で書いたとおり、真面目テキストは読んでほしい人には読んでもらえないことが多いからです。
 ですが真面目テキストにはもう1つ、隠された効果があります。それは単独では発揮できないほど微々たるものですが、膨大な数が集まれば絶大な力を発揮する、読者の行動心理に働きかける効果です。これこそが、この「1行でできるボランティア」の本質です。

 人間の行動原理とは単純なものです。それは「〜はどんな状態が普通なのか」という、自分の価値観を基準にして行動するというものです。重要なのは、その人が何を普通だと感じるかであって、実際に何が普通なのか、それ以前に正しいかどうかなど、ほとんど関係していないということです。
 つまり「真面目なテキストを掲載しているサイトが普通」というくらい、真面目テキストがネット上でありふれたものになれば、管理人たちの真面目な生き方を読者が頻繁に感じ取るようになることで、真面目に生きることこそが普通なのだと感じるようになるはずなのです。

 ようするに、きちんとした文章を書ける人がほとんどいなくても、それっぽい文章が数集まれば、それだけで社会を変えられる力を生み出せると考えられるわけです。言い換えれば、優れた文章を書くことができない人でも、社会を良くしたいという気持ちさえあれば、誰だって社会に貢献できるということです。
 重要なのは、読者がどれくらい真面目テキストを目にする機会があるか、ということなのです。真面目テキストが不真面目な人にだけ読んでもらえない現代社会においては、まずは無理やりにでも読んでもらう環境を作る必要があるのです。
 あちこちで見かける標語や人権作文などとの違いは、それがどこの誰とも知れない人による活動なのか、自分が親しみを持っているサイトの管理人による活動なのか、と言うことにあります。親しみを持っている人の訴えならば無視することができず、自然に受け入れられるのではないでしょうか。

 さて、どうすれば真面目なテキストが読者の目に留まりやすいのか。条件は2つあります。それは「目立つ場所に目立つ色で掲載する」「一目で全文を読めるくらい短く書く」ということです。ここまで「真面目テキスト」という言葉を使ってきましたが、その言葉からイメージするような文章は長いため、もともと興味を持っている人にしか読んでもらえません。そしてそんな人は、はっきり言って非常に少ない割合です。
 でもサイトの目立つ所にたった一行、できれば半行以下という短さならば、誰だって読んでくれるのではないでしょうか。そんな文章を多くのサイトが掲載するようになれば、「真面目に生きるのが普通」という実際には存在しない価値観で社会が動いているように、読者を錯覚させることができるのではないでしょうか。
 この錯覚により、真面目な話をネットでする時の抵抗を少なくすることできると考えています。人間というものは何かをする時に、「良いか悪いかではなく、普通か普通ではないか」を基準にして判断してしまうものです。つまり真面目な言動を普通だと感じれば感じるほど、真面目な話題を気軽に扱えるようになるということです。

 もうお分かりだと思います。この社会を改善するために、私がどんなボランティアを考えているのかを。
 それは先ほども書いたように、「サイトの目立つ所に、目立つ色で、出来るだけ短い文章で真面目な話を書く」というものです。真面目な話はどんなものでもかまいません。真面目な空気を作り出すことが目的なのですから、きちんとしたものが理想ではあるのですが、その一方でホームページの魅力とは、身近に感じられる人によって運営されていることにあるのですから、友達同士での会話のような、自然な表現にするのも有効であると思います。

 「喫煙は迷惑行為です。」
 「歩きタバコはやめてくれ。大人の恥だ!」
 こんなものでいいのです。むしろ、こんなものこそがいいのです。そしてそのあとに、(1行でできるボランティア)と書いておけば充分です。このページにリンクを張っていただければ完璧です。リンクするのではなく、このページから必要な部分をコピーして自分のサイトに張り付けてもらってもかまいません(このページの「理論1」「理論2」の文章に限り、著作権的な問題は気にしなくてかまいません)。

 こんな単純なことこそが、現代日本にとっては必要なことであると思うのです。逆にいえば、こんなことから始めなければならないほど、現代社会は幼稚で未熟なのです。
 この活動に才能なんていりません。普段の生活の中で、気になったことを思ったままに書けばいいのです。いつも同じ文章であっても、頻繁に変更するのも、どちらも意味があると考えています。ですから必要なのは、ほんのちょっとの勇気だけです。
 この活動をすることで苦情がくる可能性がないとは言えませんが、もし苦情がきても、大抵の場合は高度な思考を要する反論をする必要はありません。なぜならば、思ったことをそのまま書いているだけなのですから、それに対する筋の通った苦情なんて来るはずがないからです。「自分の素直な気持ちを書いただけ」という、これだけの反論で十分なのです。もし筋の通った苦情が来たならば、それはそれで自分の価値観を見直すきっかけになるはずです。

 1行でできるボランティアは、1行だからこそ効果があるボランティア。
 1人ではどんなに努力しても意味がないけれど、みんなが力を合わせれば、ほんのちょっとの勇気で社会を変えられるボランティア。
 ボランティアという活動の最大の問題である、立派な人だけが苦労するということは、このボランティアに限ってはありません。逆にこの活動によって、きちんとした生き方をすることに充実感を感じられるようになるはずです。

 この1行でできるボランティアは、膨大な数のサイトが参加して初めて意味を持つ活動であり、このサイトのアクセスがほとんどない現状では、他のサイトに協力を呼びかけるつもりはありません。「一部のサイトが細々と活動していても効果はない」と考えているからです。
 ですがこのままでは、いつまでたっても社会を変えることはできません。ですから「発起サイトを無視して独自に活動を行う」というのは大歓迎です。いっそのこと、このサイトに代わって広めてくださってもかまいません。

 効果を信じるのも自由。信じないのも自由。
 実行するのも自由。しないのも自由。
 とりあえず、私は始めてみようと思います。

【注】
 実際の様子は、このサイトのトップページをご覧ください。


≪この企画を考えたきっかけ(エッセイ)≫

 雨が降る日の通勤というのは憂鬱になるものです。これが台風並になれば憂鬱どころではないですし、雪が珍しい地方で積もることがあれば、同様に危険でありながら、お祭りのような不思議な気持ちになれるものなのですが。

 しとしとと雨が降り、憂鬱な通勤をしなければならない日。私は寮の駐車場で面白い場面に遭遇しました。それは猫の雨宿り。それも私の車の下で。
 近所で子猫が生まれたのを知っていたので、親子連れかな? と一瞬期待したのですが、残念ながら別の猫が1匹だけ。でもポツンと停められた車の下で猫が雨宿りなんて、なんだかとっても可愛いです。
 といっても私には仕事がありますので、いつまでも眺めているわけにはいかなかったのですが、このちょっとした出来事のおかげで、憂鬱な気分はどこかへ飛んでゆきました。

 ちょっとしたことで気持ちが晴れる経験。ずっと前にもそんなことがありました。
 それは私がうつ病を抱えて地元で働いていた時のこと。やはり車で通勤していたのですが、信号のない横断歩道に歩行者がいたので止まったら、渡り終えた中学生が深々と頭を下げて、「ありがとうございました!」と大きな声でお礼を言ってくれたのです。生きていることが苦痛だったその頃の私でしたが、その日だけは心の霧が晴れたような気がしました。
 ・・・え、私が単純だって? ほっとけよ。
 ・・・え、その中学生が可愛い女の子だったんだろうって? ほっとけよ。

 その中学生のようなことまでしなくても、ちょっと頭を下げるだけでドライバーは嬉しくなるものです。逆に歩行者は、横断歩道が歩行者優先だということを知っていても、実際に止まってもらえたら嬉しくなるものです。

 車に乗っていると、「道路は車のためのもの」と勘違いしがちなもの。でも実際には全ての人のためのもの。道路そのものが車優先の構造になっているところも多いのですが、それならばもっと歩行者のことを気遣うべきではないでしょうか。歩行者に道を譲ったところで、大したロスにはならないのですから。
 逆にドライバーにとっては、横断歩道以外の場所を横断する人や、自転車の右側通行は非常に恐ろしいもので、している本人が思っている以上に危険で迷惑な行為です。
 ・・・ま、どっちもどっちというやつですね。ほとんどの人が自分優先(自分の基準)で行動しているから、交通手段が変われば迷惑のかけ方が変わるというだけなんでしょう。一体どうすれば、まともな世の中になるのやら。

 本来、生きていく上で特別なことをする必要なんてないはずです。みんなが当たり前の事をすれば、それでみんなが楽しく暮らせるはずなのですから。でもそれができていないのが現実。特に交通に関しては、1人の人間が様々な立場(歩行者、自転車など)を経験しているはずなのに、その時の都合でしか行動できません。これは “人間” というものに興味を持っている私にとってはとても面白い現象なのですが、同時にとても悲しい現象でもあります。
 そこで、こういった現象を何とかできないものか。と、ずっと考えてきましたが、やっぱり「知ること、知ってもらうこと」が最良の手段ではないのかな、と思うのです。

 世の中にはどんな不満を持っている人がいるのか。それを知ることはとても大事なことです。自分の身勝手な行動が否定されなければ、自分の行動がわがままだと気付くことは困難なのですから。そして他の人が自分と同じ不満を持っているのに気付かなければ、自分の不満を、我慢しなければならないわがままだと思い込んでしまうのですから。

 でも「不満を言う=わがまま」と思われがちな世の中ですから、自分の意見を主張するのは容易なことではありません。それに頑張ってテキストを書いてホームページなどで一般公開しても、結果にはほとんど繋がらないという明確な理由が存在します。つまりはっきり言ってしまうと、現状では努力するだけ無駄ということです。

 そこでちょっとした計画を思いつきました。それは「サイトの目立つところに、短い文章で、社会に対する不満(こんなの嫌だ)を書く」だけという、他のどんな手段よりも簡単で、その割には効果が期待できるのでは? と考えられる活動です。

 名称は「1行でできるボランティア(仮)」、略して「1ボラ(仮)」。
 ・・・もうちょっといい略し方はないものでしょうか?

 まあ、「思いついた計画」とか「簡単な割には」とかいうのが自分でも引っかかっているのですが、できることから始めようというのは1つの考え方でもありますので、ダメ元でやってみようかと思っています。
 ちなみに “ダメ元” と考えてしまう理由は、このサイトのアクセスが、この計画の出発に必要だと考える数の100分の1にも満たないからなんですが、それは仕方がないということで。

 閑話休題。

 しっかしこの日記、猫の雨宿りの話だけのつもりだったのに、長くなったなぁ。まあこんな理屈っぽい文章が書きたくて、このサイトを運営しているわけですが。
 でも私は理屈っぽいけれど、その理屈の元になっているのは人の感情です。人間というのは単純なもので、今の世の中はそれが裏目に出ているわけですが、逆にそれを利用する・・・もとい、良い方向に向けることだってできるんじゃないのかな? なんて悪いことを考えていたりするわけです。

 ほんと、私を例に出すまでもなく、人間って単純です。
 どしゃぶりの日だって、ちょっとしたことで心は晴れるもの。
 晴天の日だって、ちょっとしたことで心は曇るもの。
 毎日通る道ならば、毎日気持ちよく通りたいですよね。動物や幸運に頼って心を癒さなくても、人は人と生きていけるはず。現在の日本であれば、毎日をもっと楽しくできるはずだと、私は今でも思うのです。


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