──ヤバい。
昨夜、家の前でカガリと別れた後、アスランはぼんやりと数時間を過ごして就寝した。
だが、夢のような1日を過ごした後だからなのか、なかなか眠れない。
明日の休日はカガリと出掛ける事になっているからだろうか。
ウズミ教頭のお見舞いという名目ではあるが、2人きりで出掛けるのはこれが初めてだ。
しかも制服ではないし、学園で会うわけでもないのだから。
眠ろうとして目を閉じても、瞼の裏に浮かぶのは、昨日のカガリの姿。 脳裏に浮かぶのは、昨日のカガリの言葉。
そして明日からの自分達──
そんな想像を繰り返しているうちに、何だか体温が上昇してきた気がする。
まだ夏でもないのに、寝苦しい。
──逆上せたのかな、そんな風に思いながら、明日に備えて早く寝なくては、
と無理矢理思考を中断して眠りについた、筈だった…のに…
看病
目覚めは最悪だった。
まだ覚醒しきっていない状態でむっくりと身体を起こした時、2、3度咳が出た。
首を捻りながら喉を押さえて──痛くはない。
だが何だかイガイガする。
それに──身体が熱っぽく感じられた。
確かに最近悩み事も多く、まともに睡眠がとれなかったが、 こんな事くらいで体調を崩しはしないだろう。
昨夜、薄着で自宅から公園までを全力で往復し、汗をかいたが、それが理由とも思えない。
しかしたまに咳が出るし、身体もどことなくだるい気がする。
アスランはゆっくりとベッドから下り、部屋を出た。
ふらつく事はないが、やはり身体に力が入らない。
のろのろと階段を降りて、アスランは居間へとやって来た。
いくつかの引き出しを開けた後、アスランは目的の物を見つけ出した。
体温計をケースから取り出し、開いたパジャマの胸元から差し入れて脇に挟むと、
アスランは深くソファに腰かけ、凭れて目を閉じた。
しばらく待つと、ピピッ、ピピッ、と小さな機械音がした。
体温計を取り出してそのデジタル表示を見れば──37度5分。
微熱がある。
これ位の熱、普段のアスランなら問題ない。
学園ならば欠席する程のものではないし、ましてや今日は彼女と初めてのデートの日だ。
這ってでも待ち合わせ場所に向かうだろう。
だが──今日2人で出掛ける先は病室で、しかも 昨日目覚めたばかりの病人──正確には怪我人──の所へ行くのだ。
もし万が一これが風邪で、それを教頭に移してしまったら──?
アスランは壁に掛けてある時計を見て、ゆっくりと立ち上がった。
向かった先は電話の前だった。
受話器を手に取り、アスランは深く、ため息をついた。
──本当は、断りの電話なんてしたくない。
でも──
挫けそうになる気持ちを払うように、アスランはふらつく頭をぶんぶん振った。
今日は仕方ない。
自分達には今日しかないわけではない。
会おうと思えば、明日学園でも会えるし、明後日以降に約束をとりつける事だってできるのだから。
だが──
「今日」という日はこの日しかないのだ。
電話で断った後、1日中1人ベッドで過ごすなんて、とてもじゃないが耐えられそうにない──
しかし結局、アスランはカガリの自宅の電話番号を指先で押していった。
生徒会長の特権で、全生徒の個人データを閲覧できる立場にあったアスランは、
カガリ宅の住所と電話番号をすでに暗記していた。
電話番号をプッシュしながらアスランは改めて思った。
カガリの自宅に電話するのは、もしかしてこれが初めてではないかと──
そう思い始めると、緊張してきた。
熱のせいではない、冷たい汗が背中を伝う。
なのに身体はますます熱を持って全身を巡る。
心臓がばくばくするのも、体調のせいではない、はずだ。
耳にはカガリを呼び出すコール音。
お願いだから、早く出てくれ──いや、出ないでほしい、いややはり──
脳内でぐるぐると思考が回転し始めた時、がちゃ、とコール音が途切れ、そして──
『はい、アスハです』
耳に聞きなれない女性の声が届く。
カガリじゃない──
アスランは落胆してすぐに気を取り直し、掌に滲む汗を感じながら、小さく口を開いた。
「あ…おはようございます、SG学園のアスラン・ザラです。あの、カガリさんはご在宅でしょうか」
『…おはようございます。カガリ様ですね、暫くお待ち下さいませ』
女性の声が訝しげに響いた気がするのは、アスランの気のせいだろうか。
電話の保留音を聴きながら、アスランは先程の女性について考えた。
あの女性はカガリの母親だろうか。
もしそうなら自分の第一印象はどうだったのだろう。
いやしかし、彼女はカガリの事を「カガリ様」と言った。
落ち着いて考えれば、以前病院で会った女性も「カガリ様」と呼んではいなかっただろうか。
そういえば何となく声が似ている気がする。
──いや、よく覚えていないが。
『もしもしアスランか?』
突然、耳元でカガリの声がして、アスランの心臓がまた大きく跳ねた。
すぐに声が出なくて、アスランは口を開いたまま呆然と立ち尽くしてしまった。
『おい!アスランなんだろ?どうしたんだ?』
「あ…ああ、おはよう…」
『…おはよう』
挨拶は大切だが、なんともマヌケなやりとりになってしまった事にアスランは恥ずかしくなった。
じりじりと体温が上昇しているように感じて、アスランはぺち、と自分の額を叩いた。
「あの…今日の事なんだが…」
『ああ、もう準備はできてる。そろそろ家を出ようかと思っていた所だったんだ』
カガリの声がとても弾んでいるように聞こえるのは、アスランの気のせいではないだろう。
それを思うと、とても申し訳なく思う。
いっその事、不調を隠して会う事にしようか──一瞬、そんな風にも考えた。
しかし──
「悪い、今日の予定はキャンセルしてもいいか…?」
『え…』
先程までとは一転、暗く沈んだカガリの声に、アスランは慌てて言葉を続けた。
「いや、本当はキャンセルなんてしたくないんだが、少し体調が良くなくて…
全然大した事はないんだが、念のため、今日病室に行くのはやめておいた方がいいと思って…」
カガリからの返事はなかった。
労りの言葉を期待していたわけではないが、もしかしたら愛想を尽かされてしまったのでは、 とアスランは内心慌てた。
だがそうではなかった。
『…行くよ、今から、そっちへ』
「え…」
『今から行くから!じゃあな』
「え、カガリ!カガ…!」
がちゃん、と耳元で大きな音がして、アスランは目を細め顔を顰めた。
すぐにカガリの名前を数度叫んだが、返ってくるのは通話が切れた後の機械音のみだった。
──嘘、だろう──!?
アスランはしばらく、受話器を耳に当てたまま呆然と立ち尽くしたままでいた。
熱のせいか、いつものようにうまく頭が回らない。
ようやく体が動くようになったのは、それからどれ位経ってからだっただろうか──
アスランはリダイヤルボタンを押して、もう一度カガリの家に電話をかけた。
何度目かのコール音の後、受話器から聞こえたのは、またしても年配の女性の声だった。
『はい、アスハで…』
「あのっ、先程お電話しましたアスラン・ザラです、カガ…」
『お嬢様ならもうお出かけになりましたが』
すぐカガリを呼んでもらおうと早口で告げたが、すぐさま返ってきた言葉はアスランを落胆させた。
「…そうですか…分かりました。朝早くに申し訳ありませんでした…」
気持ちが思いきり声に出てしまった事にも気付かず、 アスランは通話を終えようとボタンに親指をかけた。
だが──
『あの、失礼ですが、あなたはカガリ様とはどういうご関係で?』
先程までの応対よりも明らかに低い声で尋ねられて、アスランの指はぴたりと止まってしまった。
途端に額から噴き出てきたひんやりとした汗は、微熱のせいではないだろう。
さて、何と答えるべきか──
アスランは受話器を握りしめた手のひらにもじんわりと汗を感じながら、努めて冷静に考えた。
カガリと共に暮らしているらしいこの女性は、普通に考えれは母親である可能性が高い。
だが、彼女はカガリの事を「お嬢様」「カガリ様」と呼んでいる。
となると、カガリの血縁者と考えるには無理があるだろう。
ならばどういう関係なのか。
アスハ家に仕えるお手伝いさんという事も考えられるが、 雇い主の娘の人間関係にあれこれ口を挟んでくるのはおかしい。
だが、ウズミ教頭やカガリの人となりを考えれば、 家族ぐるみの付き合いをしているという事もありうる。
恐らく彼女はあの病院で見た人物だ、アスランはそう確信した。
ではこの場合、どう説明すればいいか──アスランが導き出した答えは──
「…カガリさんとは、学園の生徒会で一緒なんです」
カガリとの付き合い云々についてはまだ話す必要はないと判断した。
自分達は昨日、そうなったばかりだし、もし必要ならばカガリから話をするだろう。
自分が彼女に話す必要はない。
そして、嘘をつく事はしない。
彼女がカガリにとって大切な人ならば、自分にとっても彼女は大切な人だ。
そんな人物に嘘などつけない。
これからカガリと長く付き合っていけば、自分と彼女との接触も何度となくある筈だ。
心証は良くしておきたい、という下心もある。
『…そうですか…』
自分の言葉に納得してくれたのかは分からないが、彼女は一言そう呟いた。
しばらく沈黙が続いた後、アスランは短く挨拶をして通話を終えた。
ゆっくりしている場合ではなかった。
すでにカガリはここへと向かっているのだから。
家を出てしまったカガリに連絡を取る術はもうない。
ならば──アスランはここでカガリが来るのを待つ事しかできない。
いや──
アスランはきょろきょろと辺りを見回して、腕組みをした。
──掃除しよう。
そうと決まると、アスランは早足で移動を開始した。
そこら中を探し回り、雑巾を見つけて手に取ると、辺りの棚や机の上を拭き始めた。
キッチンからリビングに移動し、そこを終えると玄関へ──
夢中になって、どれくらい時間が経ったのかも分からなくなった、その時だった。
来客を告げるチャイムが高らかに鳴った。
と同時に、アスランの胸の鼓動も高らかに鳴り響く。
来た──?
雑巾を握りしめ、アスランは裸足のまま走って玄関のドアを開けた──
「おはようございま──あ、アスラン──!」
そこには赤いTシャツに深緑色のジャケットにロールアップジーンズという、 学園では絶対に見られないカガリがいた。
突然うちに来る、と言い出した時にはとんでもない、と思ったが、 やっぱりこうやって姿を見ると、嬉しい。
「カガリ…」
「何やってんだ、お前はっ!」
よく来たね、というアスランの言葉は、カガリの怒号に遮られて消えた。
カガリは大股でこちらに近づいて勝手に家へと上がりこみ、 アスランの目の前に立つと雑巾をひったくった。
「体調が良くないんだろ!?なのに何でこんなモン持ってるんだ!?」
「えー…っと…」
カガリが自分の体を心配して、もの凄く怒っている──
そう思うと、幸せで胸がほうっと温かくなって、その熱が全身に行き渡るのを感じる。
だが──
「えーっと、じゃないっ!」
カガリはアスランの体をくるりと回転させ、ぐいぐいと背中を押し始めた。
アスランは背中に感じるカガリのてのひらの感触に微笑みながら、 逆らわず、そのまま前へと数歩進んだ。
「お前は自分の部屋に戻って寝てろっ!そんなに汚れが気になるなら、 私が代わりに掃除しといてやるっ!」
「え…ええっ!?」
アスランは慌ててカガリに向き直り、再び雑巾を奪い返した。
「そんな事…!お客さんに掃除なんてさせられないっ!俺が…」
「ダメだっ!病人に掃除なんかさせられるかっ!私が…っ」
アスランは上方に腕を伸ばして、カガリに雑巾を奪われないようにした。
そしてカガリはアスランの肩に手を置き、ぴょんぴょんジャンプして雑巾を奪おうとした。
すると肩の上にあるカガリの手に力がこもると同時に、アスランはバランスを崩し、 ふらついてしまった。
これはもしかしたら熱のせいだろうか、と考える間もなかった。
「う、わ…っ!」
「あ…危な…っ!」
ぐらり、と2人とも、大きく体が傾いた。
アスランは咄嗟にカガリの背中に腕を廻し、体を支えようとした。
だがそれは叶わず、大きな物音と共にアスランは廊下に尻餅をつき、壁に背中を打ちつけた。
「…っ、カガリ、大丈夫か…?」
打ちつけた箇所からじんじんと痛みが伝わってきたが、それよりもアスランはカガリに怪我はないか、
どこも傷めていないか、それが気になった。
自分の体に凭れかかるカガリの顔を覗き込んで──アスランは息を呑んだ。
アスランの胸に手を添えて、完全に自分の上に乗っかっているカガリ。
痛みと共に、カガリの柔らかさが伝わってきて──
ふと、カガリと目が合った。
じっ、と見つめてくるまっすぐで、意志の強そうな瞳。
アスランは魅入られたように、目が離せなくなった。
無意識で、背中に廻していた手を移動させ、肩に触れ、髪に触れて、引き寄せようとした時──
カガリの方から顔を近づけてきた──
「やっぱり!熱があるじゃないかっ!」
ごん、と額に鈍い痛みが訪れると同時に届くカガリの声。
全身に感じていた重みは離れ、アスランは廊下に座り込んだまま呆然とカガリを見上げた。
カガリの右手には奪い返したはずの、雑巾が握られていた。
そしてもう片方の手は──
「ほら、立って。お前の部屋はどこだ?連れてってやるから」
何だか嬉しくて、アスランは微笑んで腕を伸ばし、カガリの小さな手をとった。
引っ張り上げてくれようとする力を頼らずに、アスランはほぼ自力で立ち上がり、 あいている手で雑巾を掴んだ。
「掃除はもう終わったから…」
そう、カガリを出迎える準備は整ったのだ。
「俺の部屋は、上だよ」
カガリと手をつないだまま、アスランは自分の部屋へと続く階段の方へと歩き出した。