俺が学校を飛び出した時、太陽はまだ校舎からほんの少しだけ顔を出していただけだった。

それが今は空高く昇り川面を、木々を、そして一定のリズムで揺れる電車を照らす。

学校へは戻らず自宅へ帰ろうかとも思ったが、結局俺は午後の授業を受ける事に決めた。

一刻も早く、父と話をする為に──








GO











倒れこむようにベッドへ身を沈ませると、膨大な埃が部屋中に舞ったような気がした。



疲れた──



カガリはころんと体を仰向けて、暗い天井を見る。



色々な事があった。ありすぎた。



父が病院に運ばれて、手術を受けて──生死の境を彷徨って──

一命を取り留めて、今は集中治療室で眠っている。



父の傍にいる、離れないと訴えたけれど、マーナは許してくれなかった。

明日は学校へ行きなさい。その為には今日自宅でゆっくりお休みになって下さい。

目を覚まされた時、お嬢様が傍らにいらしたら、きっとウズミ様はお怒りになる。

そう言われてしまうと、カガリは従わざるを得なかった。

いや、本来のカガリならば、それでもお父様の傍にいると言って譲らなかっただろう。

それが出来なかったのは、きっと──



カガリは力の入らない両腕を自分の身体に巻いて、抱きしめた。



まだ腕に、背中に残る彼の腕の感触。

なのにあの時の自分が、そして彼が、信じられない。

私、どうしてあんな風に──

彼は、何故来てくれたんだろう──



一所懸命考えようとしてみるが、答えなど出る筈もない。

いや、解った事はあった。



それは、私が──自分が思っていた以上に彼、アスラン・ザラの事を好き、だったという事だ。



彼に婚約者がいると知ってから、私は極力彼と接触しないように心がけてきた。

会えばますます好きになってしまうと思ったし、 そうなれば、友達であるラクスを傷つける事になってしまうと思ったから。

でももう、手遅れだった。

いかなる場合でも私は彼の胸の中で泣いたりしてはいけなかったのに──



最初の印象は“ひょろっとした軟弱そうなヤツ”

細っこくて女みたいな線の細い綺麗な顔立ちで、いかにもガリ勉タイプ。

おそらくコーディネイターだろうと思った。

案の定、コーディネイターだったが…彼は軟弱ではなかった。

私の足手まどいになるとばかり思っていたのに、 あっという間に例の上級生を桜の花びらのベッドへと送り込んだ。

話してみると笑い上戸だがなかなかいいヤツで、私はすぐに気に入った。

でもこの時点ではまだ今みたいな感情は持っていなかった──筈だ。



彼の印象が一変したのはその日の夕暮れ時。

共同墓地の真ん中で佇む彼を見かけた時だった。

私の顔をちっとも見ないで、拒絶の言葉を吐き捨てる。

でも──何故だか寂しそうで放っておけなかった。

昼間あんなに笑っていたヤツが、この時は俯いたまま全く笑顔を見せない。

こっちを見てほしくて、笑ってほしくて──でもどうすればいいか分からなくて。

必死で摘んできた蓮華をはさんで彼と向き合った時、

はにかむように笑った彼の顔は夕陽に映えてとても綺麗で、少し涙が出そうになった。



出会ってからたった半日で友人になれたと思い込んでいたカガリだったが、次の日に喧嘩して。

思いがけず泣き顔なんて見てしまったから驚いて、でも簡単には許せなくて。

今にして思えば、別に疑われた事に腹が立ったわけではなく、

アスランにとって自分はまだ信用の置けない相手なんだな、と哀しくなったのかもしれない。



それからも私達はお互いを罵ったり疑ったり、傍目から見て仲良くは見えなかったと思う。

でも確実に絆は強まっていった気がする。

それは恐らく──相手を信用していたから。

どんなに喧嘩しても彼は解ってくれる、少なくともカガリはそう思っていた。

そして多分、アスランも──



生徒会の合併について意見を交し合ったあの1週間が、今では夢のようだった。

彼と話す事が嬉しくて楽しくて、ついつい話を脱線させてしまうカガリに、 アスランは呆れながらも笑って付き合ってくれた。

楽しすぎた時間が、確実に膨れ上がっていく恋心に全く気付かせてくれなかった──



気付かせてくれたのは、ラクス・クライン。

彼の婚約者の存在だった。

彼女が私の目の前に現れなければ、まだ気付かずにいられたかもしれない。



──その方が、良かった。



何度も思った。

しかし、ブラウン管の中の彼女ではなく、等身大の彼女と出会えた事は後悔してはいない。

ラクスは聡明で美しく、非の打ちどころのないひとだった。

でも年相応の少女でもあった。

そんな彼女と出会えて、そして友達になれて、カガリは幸福だと思う。



ただ──それならば、アスランへの想いは捨てなければ。

カガリはずっとそう思っていた。それが出来る、と。

でも今日、思い知らされた。それは無理だ、と。



あんなに素敵な婚約者を持ちながら、アスランが 自分に靡くなんて事、ある筈はないとは解っている。

でも、カガリはもう我慢できなかった。

初めて芽生えたこの気持ちを捨て去る事などできはしない。

あの腕を、胸を、力強さを、温かさを、知ってしまえばもう──



アスランがどんなつもりでカガリの許へ着てくれたのか、抱きしめてくれたのかは分からない。

仲の良い友人だからかもしれない。

実際、カガリがアスランの立場なら同じ事をしていただろう。

しかしアスランは大きな間違いを犯してしまったのだ。

そのせいでカガリは感情を制御できなくなってしまったのだから──



黙って天井を見上げていたカガリはゆっくり体を起こした。

そろっとベッドから降りて部屋を出て、学園指定の鞄を開け、財布を取り出す。

そのまま階段を降り居間に入って明かりをつけると、 飛び込んできた眩い光に手を翳し、目を細めた。



明かりに背を向け、財布から紙切れを取り出すと、カガリは電話機に向かった。

しばらく躊躇った後、受話器を手に取り、震える指でメモに書かれた番号をゆっくり押していく。

ブッと短い音がした後、鳴るコール音に、カガリの胸は早鐘を打つように鳴り響いていた。











結局父には会えなかった。



学園へと戻って俺はすぐ教室へ行かずに、校長室へと向かった。

ノックをして暫く待ってみたが何の反応もない。

小さく吐き出した息は落胆からか、それとも安堵からなのか、自分でも判断できなかった。

授業途中の教室へ戻るのも憚られて、チャイムが鳴るまで時間を潰そうと校長室に 背を向けようとしたその時、

落としていた肩を叩かれた。



「…クルーゼ先生…」

丁度受け持ちの授業がないのだろう、クルーゼは表情を見せぬまま俺をじっと見つめていた。

「君は…私の言った事を理解してはくれなかったようだね…」

薄く微笑む唇から落ち着いた声が零れる。

俺は視線を落として目を伏せた。

「…すみませんでした…しかし…」

「で、教頭の次は校長に用なのかい?」

クルーゼは自分の言いつけを守らなかった事には触れず、この状況について尋ねてきた。

どう答えようかと一瞬迷ったが、結局俺は事実を簡単に話す事にした。

「そうです。急ぎの用があって…」

そこまで告げて、俺は口を閉ざした。

いくら急ぎの用があったとしても、授業中に校長室を訪れる生徒の話を聞いてくれる筈がない。

それがあの校長──自分の父親なら尚更だ。

早く話をしたい一心でここまで来てしまったが、そんな事にも気付けないなんて── 自分の余裕のなさに情けなくなる。

だがクルーゼは小さく口元を歪めた後、普段通りの優しい声で話し始めた。

「校長なら今日は出張で戻らない筈だよ。明日には帰ってくる。だから今からでもいい、 君は授業に出なさい」

「…はい」

流石にここは従わざるをえないだろう。

1日に2度も言いつけを無視する事はできない。

俺は軽く頭を下げ、後ろ髪を引かれる思いで校長室から離れた。



それから俺はタイミング良く鳴った授業終了のチャイムと同時に教室に戻って 最後の1時間だけ授業を受け、

生徒会室に寄った後岐路についた。



俺は学ランを脱ぎ、壁際に掛けてそのままベッドに寝転がった。

普段なら上着を脱ぐとすぐ机に向かっていたのだが、最近はこれが日課になっている。

こうやって横になって、とりとめもなく考えるのが──



結局他の事を考えていても、思考の行き着く先は金の髪と瞳を持つ少女のことなのだが、

今日は最初から、他の事は考えられない。



カガリは──

もう家に戻っただろうか、それとも付き添いとして病院にいるのだろうか。

また泣いてはいないだろうか。もしそうなら今すぐにでも駆けつけたい。



そういえば──

いつもは気にも留めないが、もしかしたら──



俺は勢いよく飛び起きてベッドから降りると部屋の入り口に無造作に置いた鞄を開けた。

そこから携帯電話を取り出し、着信はないかと確認する。

小さな窓を見て思わずため息がもれた。

開いてマナーモードを解除し、手に持ったままもう一度ベッドに向かい、寝転んだ。



なんとなく、かかってこない気がした。

彼女は今、俺どころじゃないだろうし、仮に俺の事を考えてくれているとしても、 今の俺に電話などしてこないだろうと思った。



だから──

だから早く父に会って言いたかった。

婚約を解消してほしい、と。



父に俺の願いを聞いてもらえるとは思えない。

でも言わずにはいられない──



彼女を抱きしめてしまったら──あの柔らかさや温かさ、甘やかな香りを知ってしまえば──

そして俺に縋る彼女を感じてしまったからには──もう限界だった。

彼女が欲しい。

誰にも渡したくない。

もたもたしている内に誰か俺の知らない男と付き合い始めたりされたら──堪ったもんじゃない。

知っている男でもイヤだ。たとえそれがキラだとしても。



自分の身辺をクリアにしてから、彼女に気持ちを伝えたかった。

早く父と会って話をして──ラクスとも話をするべきだろう。



2日後には必ずカガリと会えるよう根回ししたが、それまでに婚約が解消される事はないたろう。

でも伝えなければ始まらない。それならば早い方がいい。

もうとっくに、彼女への想いは限界を超えているのだから──



俺は鳴らない携帯を手にしたままそっと瞳を閉じて、決意する。

明日こそ、父と会う。

会って直接言う。

そして──カガリを手に入れる。

最初は拒まれても諦めない。何度でも、何度でも──







次の日、朝から学園はウズミ教頭のニュースで持ち切りだった。

興味本位に騒ぎ立てるクラスメイト達にイライラしながら、アスランはただ時間が経過するのを待った。

それでも、学園内で中途半端な態度を取っているからナチュラルの連中にやられたんだ、

という類の会話を聞いた時は、立ち上がって怒鳴りつけてやりたい感情が湧き上がった。

結局、煩いとばかりに鋭く睨みつけるてやると、静かになったが。



昼休みはいつもの場所へと足を運ぶ。

俺がここに来る事を止めてしまえばカガリとの接点を失ってしまうようで、だからここへ来る事は やめられなかった。

いつもの指定席に腰を下ろして 持ってきた弁当を左手に持ち、箸を口に運びながらまた俺は思考に耽る。



カガリは今日、学園へ来ているのだろうか──

手術は成功したとはいえ、まだ教頭は絶対安静の筈だ。

だとしたら、カガリが登校していない可能性もある。



──明日、来てくれるだろうか…



カガリが登校してくれないと、俺の苦労はすべて水の泡だ。

とはいえ、カガリに登校を強要するわけにもいかない。

自分の親が、生死の境を彷徨っているなら尚更だ。



過去交わした会話の中で、カガリはウズミ教頭の事をとても尊敬しているように感じた。

自分が「中立」を貫いているのは、父がそういう姿勢を取っているからだ、 と以前この場所で話してくれた事があった。

そして言葉にこそしなかったけれど──大好きだ、という気持ちが伝わってきた。

だからこそ昨日のカガリは、今まで見た事もない程弱々しくて崩れてしまいそうで── 絶対放っておけなかった。



箸を持つ手がいつの間にか止まっている事に気付いて、俺は再び口に食物を運びながら考えた。



それとは逆に、俺の父は──

父の事を偉いと思う。尊敬もしている。

だか──好きか、と尋ねられたら──すぐには答えられない。

勿論嫌いではない。

ただ──父が俺を好きでいてくれているかどうか、自信がないのだ。

こちらから近付いて行っても拒絶されたら──

そう思うとなかなか一歩が踏み出せなかった。

でも今回の件でもうそんな事は言ってられない。

どんなに激しく罵られようとも、蔑みの目で見られようとも、俺はもう決めたのだ──



父は放課後まで校長室に戻ってこなかった。

結局クルーゼに伝言を頼み、家に帰って来てくれるようメモにも残した。

だが今日中に会えるのは難しいだろう。

父が家に戻るのはいつも深夜だし、母が亡くなってからはほとんど家に寄りつかなくなった。



とりあえず父が帰ってきそうな時間までは起きていようと、俺は自室で課題をこなしつつ待った。

30分でそれを済ませ、明日の予習でも…と鞄を開けたその時、 玄関の方から微かに物音がした。



まさか、と思ったが、アスランは急いで自室を飛び出し、廊下を走って階段を駆け降りた。

「騒がしい」

不機嫌な声で一喝され、アスランは足を止めた。

目前にいるのはやはり不機嫌そうな表情の父だった。



会うのはどれ位ぶりだろうか──

のんびりそんな事を思っている余裕はなかった。

それより、これから自分がやろうとしている事が途轍もなく無謀に思えてくる。

胸がどくどくと騒ぎ立てて、俺から冷静さを奪っていく。

「なんだ」

迫力のある声がして、俺は顔を上げた。

こうやってまともにまっすぐ見ると、萎縮して怯んでしまいそうだった。

だが、いけない。

このままでは何も変わらない。

俺はそっと深呼吸して、息を整えた。

「おかえりなさい」

「ああ」

父は俺の隣を素通りして奥へと行ってしまう。

その後ろをついていくと、父の方から話しかけて来た。

「で、何だ。あのメモは」

見てくれたんだ──とホッとしたのもつかの間、父は邪魔臭そうに続けた。

「用があるのならさっさと話せ」

居間に辿り着いた父は素早く上着を脱ぎ、ネクタイを緩めながらちらりと俺を見た。

一瞬戸惑ったが、ここで先送りにする理由は俺にはなかった。

今、今すぐ言わなければ──



「父さん、ラクスとの婚約の件ですか…」











カガリは今日も目覚ましが鳴る前にベッドを出た。



この夜もカガリは眠れぬ夜を過ごした。

だが、心境は昨日までとは全く異なっていた。



今までは、考えただけでは解決しない事をただ悶々と思って寝返りを繰り返す日々だったのが、

この夜は目の前に現れた一筋の光に目が眩んで眠れなかった、例えればそんな感じだろうか。

だがその光がカガリにとって幸福をもたらすものになるのか、

再び奈落の底へ突き落とす刃となるのか、それはまだ分からなかった。



今日は放課後寄り道をするので、自転車ではなくバスで行く事にしていた。

帰りはここまで送ってもらえる事になっている。

だが──話の流れによっては、カガリは自力で帰宅する事になるだろう。



身支度を整えて、カガリはいつもよりゆっくりと自宅を後にした。



学校へ向かうバスの中、校門をくぐって昇降口で、教室へ向かう廊下で、教室に辿り着いても

周りの生徒達の話題は自分の父の事だった。

カガリが近付くと、娘だと分かっている生徒は一様に口を噤んだ。

だがそうとは知らない生徒だって、中にはいる。

昨日学園内で起こった事件を興味本位で話している生徒に、

カガリの事を知っている生徒が間に入って話を止めさせたりしている姿も目にした。

それでも──

「撃たれる、なんてさ…一体裏でコソコソ何やってたんだか」

「中立、とか言ってさ、実際はただの八方美人なんじゃないのか?だからこういう目に…」

廊下の片隅でこそこそ話し込んでいる男子生徒を、カガリはギッと睨みつけた。

何も知らないくせに──お父様がこの学園の有様にどれだけ心を痛めているか──!

肩を怒らせて、カガリはケタケタ笑っている生徒に向かっていこうとした。

が、がしりと腕を掴まれる。

「キラ…」

哀しい目をした少年は小さく首を振った。

「カガリ、大丈夫?」

自分を心配して、様子を見に来てくれたのだろう。

その心遣いが嬉しくて、思いがけず目頭が熱くなる。

だがもう涙は出なかった。

父の手術は成功し、容態は安定している。

それに──昨日病院で散々泣いた。涙も枯れ果てる程に。

心の中で昨日たくさんの涙を受け止めてくれた彼に感謝しながら、カガリは小さく笑った。

「──大丈夫だ」

言いたい奴には言わせておけばいい。

ウズミの教頭としての実績を分かってくれている生徒もいる。

そしてカガリを通してウズミの人となりを知る人達だっている。

今はそれで十分だ、とカガリは思う。



「…じゃあ、ウズミ教頭は、大丈夫なんだね…」

ほっとした様子のキラに、カガリは笑顔で頷いた。

「まだ眠っているらしいけれど…多分もう大丈夫だって」

カガリはキラと廊下の壁に凭れて、人が行き交う様子をぼんやり眺めていた。



授業中ずっと父の容態を気にしながら、カガリはふたつ、別の事を考えていた。

ひとつは今日の放課後の事。

そしてもうひとつは──昼休みをどう過ごすか。

改めて昨日のお礼を言うならば、あそこへ足をのばしてみるべきだと思った。

でも──放課後の話の展開によっては、今日アスランに会うのはマズい気がする。

本当はすぐにでも会いたい、けれど──

昨日の自分達の言動を思い起こすと顔から火が出たように熱くなる。

きつく抱きしめられて、優しく髪を撫でられて、そして──

あれは、なんだったんだろう。

額を掠めた、あたたかな感触。

────ままま、まさ、か、な……た、たまたま…触れた、だけ、だよな……

カガリは火照った顔を机に押し当てて冷やしにかかった。

カガリの心境を慮ってか、授業中であるにも関わらず先生は誰一人として注意しなかった。



考えに考えた末、カガリは昼休み、キラと一緒にいる。

直前まで悩んでいたのだが、こうやって会いに来てくれたのなら、 それを差し置いてまであの場所へ行く理由はなかった。

「で、放課後は病院に行くんでしょ?」

キラの言葉でもうひとつの考え事を思い出してしまう。

「ああ…」

病院で待ち合わせしている、彼女との事を──



この学園へ通う生徒の半数近くが登下校に使っているというのに、 カガリはここから電車に乗るのは初めてだった。

夕暮れ時にアスランを見送ったのが、もう遠い昔の事のように思える。

ひとり改札を抜けて駅のホームに出て、強い日差しの中、電車を待つ。

そう待つ事なく電車はやって来て、カガリはそれに乗り込んだ。

緩やかな揺れに身を任せながら、カガリは昨日、アスランが見たであろう景色を それと知らずに眺めていた。

心臓がばくばくする。

父はもう目覚めただろうか。カガリにあの優しい眼差しを向けてくれるだろうか。

そして、彼女は──本当に来てくれるのだろうか。

小さな不安を乗せて、電車はゆっくりと速度を落としていった。



カガリが病院に入ると、目の前にあるロビーではマーナが出迎えてくれていた。

「ウズミ様はまだ目を覚ましておりませんが、容態は安定しているそうですよ」

こちらが尋ねるよりも前に口を開いたマーナにカガリは小さく頷いた。

「さ、こちらですよ…」

マーナの案内で通された部屋は広めの個室だった。

なおも数本のチューブを通された状態で、ウズミは静かに眠っていた。

カガリはゆっくり近寄ってその端正な顔を覗き込んだ。

こんな無防備な父を見るのは初めてかもしれない。

カガリの知っている父はいつも起きていて、仕事をしているイメージがあった。

手を伸ばしたくても伸ばせない。

触れれば消えてしまいそうな、そんな気がして。

「マーナ…」

カガリは父から目を離さずに背後に声をかけた。

「父は…何故目覚めない?」

「それは…」

マーナの沈んだ声が途切れる。

カガリはただ父を見つめながら、続きを待った。

「…撃たれて、倒れられた時に頭を打ったらしくて…脳波に以上はないそうですが…」

初めて聞かされた事実にカガリは驚いて、差し出しかけていた腕を引っ込めた。

「大丈夫なのか…!?」

素早く振り返ると、マーナは申し訳なさそうに眉根を寄せた。

「そ、そう先生は言ってましたから…」

マーナを責める気はない。

カガリはすぐに父に視線を戻して、寂しげに瞳を揺らした。



コン、と遠慮がちに響くノックの音に、カガリはどくんと胸を高鳴らせた。

マーナがドアを開けると、そこに立っていたのは大きな花束を持った華のようなひとだった。

「約束のお時間より少し早くなりましたが…よろしいでしょうか?」

そう言って静かに微笑む少女はカガリの待ち人だった。

「か、カガリ様…」

突然の歌姫の訪問に慌てるマーナを無視して、カガリは小さく頷いた。

「どうぞ。見舞ってやってくれ…眠っているけど、な」

ラクスはカサブランカの花束をマーナに預け、ゆっくりカガリとウズミの元へ近付いてきた。

「す、素敵なお花をありがとうございます…!じ、じゃあ私は花瓶を…」

そそくさと部屋を後にするマーナをちらりと見て、カガリは隣に立つラクスをじっと見つめた。

「ウズミ教頭とは少しお話した事がありました…」

おもむろにラクスは語りだした。

その瞳は哀しそうに揺らめいていて、父の事を心底悲しんでくれているように見えた。

「しっかりとしたお考えをお持ちの、立派な方だと、そう感じました」

ラクスは父からカガリへと視線を移し、誰もが見惚れるような微笑を見せた。

「カガリさんを見ていれば、分かります。ウズミ教頭がとても素晴らしい方なのだと」

カガリは恥ずかしくなってふいっと顔を背けた。

「お、煽てたって何もないぞっ!」

鈴を転がすような笑い声に、カガリは全身がこそばゆくなる。

それと同時に──そんなラクスの評価が、これから下がってしまうのではないかと不安になっていく。

「本気でそう思っていますよ。で、カガリさん、私にお話があるとの事でしたが…」

カガリはビクッと体を震わせて、身を硬くした。

「ここでお話をされるのもいいですし、場所を移動しても構いませんが…

ウズミ教頭の傍を離れるない方がよろしければ、ここで…」

「いや」

ゆっくりとカガリはラクスを見て、言った。

「移動、したい。できれば二人きりの方がいい」

強張った表情のカガリとは対照的に、ラクスはふわりと微笑んだ。

「それではマーナさんが戻っていらしたら、ここを移動しましょう。

うちに来てもらっても構わないですか?実は夕食を用意しておりますの」

カガリは驚いてラクスを見つめた。

もしカガリがここで話をすると言い出していたら、用意していた夕食はどうするつもりだったのだろう。

おそらく、黙ってカガリに従っていたに違いない。

ラクスの心遣いに感謝しながら、カガリは小さく頷いた。

「ありがとう…」



マーナが病室に戻るのを待って、カガリはラクスと外へ出た。

車を待たせているからとラクスが言うので、二人は病院の駐車場へと向かった。

その道すがら、ラクスはカガリに学園生活について話してくれるようねだった。

これから話す学園生活は本来ラクスが送るべきものとは違うぞ、と念押しして、カガリは語った。

授業中に話が関係ない雑学へと脱線していく先生、 やはり授業中にお腹をすかせて早弁に挑戦する生徒、

カガリが具体的に名前を挙げると、ラクスはその人物についての逸話を聞きたがった。

車に乗り込んだ後もラクスはカガリに話をねだった。

「その『キラ』というのは…先日、わたくしがお会いした方ですね?」

「ああ…そうだな」

あの日の事を思い出すと、カガリの胸に苦い思いが渦巻いていく。

「彼は、アスランとお友達なのですね」

「ああ…」

急に塞ぎこんでしまったからか、ラクスは心配そうにカガリの顔を覗き込んできた。

「ごめんなさい…わたくしったらカガリさんのお話が楽しくてついはしゃいでしまいました…」

「いやっ、私の方こそ…急に黙り込んでごめんっ」

今からこんな調子で、本当にラクスに話など出来るのだろうか。

カガリはこれからの事を想像して、こっそりため息をついた。



ラクスの家は凄かった。

カガリの家も立派なものだと思うが、クライン邸はそれ以上だった。

SG学園の理事の一人である父を持ち、ラクス自身知らない人はいないだろうと思われる 超がつく程の有名人だから当然か。

門を過ぎてしばらくして、車は漸く玄関らしき扉の前で停まった。

あんぐりと口を開いたまま庭園を、屋敷を見回すカガリをラクスは微笑みで誘った。

「どうぞ、こちらへ。ようこそ、カガリさん」



中へ入るとすぐにラクスの部屋へと通された。

そこは淡いピンクを基調とされている、女の子らしい温かみに溢れた部屋だった。

「好きなところにお座り下さいな」

言われてカガリはふかふかのソファへとちょこんと腰を下ろした。

その向かいにラクスが座ると、まるで計ったかのようにノックの音が響き、 そこから現れたメイドらしき人物がお茶を運んできた。

目の前に並ぶ花柄の陶器のティーセットに目をやりながら、

先日ラクスが来てくれた時の自分の対応と比較し、穴を掘って入り込みたい心境になった。



「で、カガリさんのお話とは?」

ティーカップを両手に持ったまま、キョロキョロと辺りを見回していたカガリに、 ラクスは静かに尋ねてきた。

どくん、と胸が鳴り、カガリは落としたらまずいとカップをソーサーに戻した。



とうとう、この時がきた。



昨日、アスランと別れてからずっと決めていた。

でも──あまりにもムシのいいお願いだった。

友人になって間もないラクスに、こんな事頼むなんてどうかしてる。

でももう──こんな状態は耐えられないのだ。

アスランに会えずにいる事も、ラクスに自分の心を隠し続ける事も──



カガリはすっと立ち上がり、ラクスを見た。

ラクスは不思議そうに首をかしげて、カガリを見つめている。

ギュッと握った掌が汗ばむ。額にも、背中にも、じわっと汗が滲んでいくのが分かる。

鼓動が胸から、耳から、頭からカガリを圧迫する。

それでも、カガリはこれを言う為に、今日ラクスと会ったのだ──



「アスランを…」

カガリは言葉に詰まった。

自分は何と言うつもりなのだろう。

『下さい』それとも『欲しい』?それとも『諦めてくれ』とでも?

どれも正解で、どれも間違っている気がした。

違う。

肝心な所で言葉が出ないだけの意気地なしじゃないか。

カガリは気を抜けば溢れそうな涙を堪えながら、心にある一番の想いを声に乗せようとした。

「私は、アスランを……す」

ふわりと立ち上がったラクスの白い指が、カガリのくちびるに封をする。

穏やかな笑みを信じられない思いで見つめながら、カガリは動けずにいた。

「その想い…今まで他の誰かに打ち明けた事はありますか…?」

瞬きもできずにいた瞳を、カガリはさらに大きく見開き、小さく首を振った。

誰にも言えなかった。でも心の中ではずっと叫んでいた。

ラクスは深い自愛に満ちた眼差しをまっすぐカガリに向けたまま、 いつも優しい歌を紡ぎだすその愛らしい唇を開いた。

「ならば、それはわたくしよりも前に、本人にお話された方がよろしいかと思います」

誰もを魅了するような微笑をカガリに向けて、 ラクスはくちびるに当てていた指をすっと下ろしていった。

「でも…!」

カガリは決めていたのだ。

まずラクスに話して、それから──アスランを好きでいる事を許可してもらおう、と。

ずっと抱き続けるであろう想いだから──

それを隠したままラクスと付き合っていく事をしたくなかったから──

呆然と立ち尽くしているカガリの肩にそっと手を触れ、ラクスは困ったように微笑んだ。

「カガリさん、怒らないで聞いて下さいね…」

その言いようにカガリは困惑しながらも、しっかりと頷くと、ラクスは安心したようにまた笑った。

「わたしくは──今、誰ともお付き合いしてはいません。勿論、将来を約束している方もいないのです」

「──え?」

ラクスの言っている事がよく分からなかった。

カガリの頭の中で、今のラクスの言葉と、数日前に聞いたコーディネイター達の言葉がぐるぐる回る。

確かにラクスから直接アスランと付き合っているとか、婚約してるといった話は聞いていない。

でもコーディネイターの間では2人の婚約は事実として認識されているようだ。

ただの噂だったのか──?

しかし、とカガリは思い直す。

アスランは──否定しなかった。

確かにここのところアスランとゆっくり話す機会はなかったが──

しかし、ラクスの言葉はあまりにも自分に好都合すぎて、簡単には信じ難かった。

「でも、ラクス……あなたは、アスランと……」

「ええ。婚約はしていました。先月までは」

先月──?

ラクスによって次々と判明する事柄にカガリは困惑を通り越して混乱していた。

そんなカガリの内心を察知してか、ラクスは申し訳なさそうに微笑みかけてきた。

「最初からお話します。さ、もう一度座って──」

肩に触れられたラクスの手が、ぽん、と音をたてる。

カガリはそのままぽすん、とソファに沈みこんだ。

ラクスも元いたソファに腰かけ、静かに語り始めた。

「アスランとは──確かに親同士の取り決めで婚約していました。

でも先月、それは突然解消されたのです」

「なっ、それは…!」

カガリは大きく身を乗り出して、ラクスを食い入るように見た。

ラクスの瞳はまっすぐにカガリを捉えていて、とても嘘をついているようには見えなかった。

だが信じられない。だって、アスランは──

「でも…アスランは…

私が『ラクスと結婚するんだろ』って言った時も、 何も言い返さなかったし、その後会った時にも否定しなかった!」

アスランに反論する隙を与えなかった事も、 その後会った時にはそんな話が出来るような状況ではなかった事も、

カガリの頭からは消し飛んでいた。

それに、アスランはラクスを好きだから、カガリにいちいち否定しなかったのかもしれない。

婚約を解消されても、ラクスの事を──

「恐らくアスランは婚約が解消されている事を知らないと思いますわ」

「えっ…」

またもやラクスの言葉にカガリは言葉を無くす。

当の本人が知らない、なんて事、有り得るだろうか。

ラクスは呆然と動かずにいるカガリににこっと微笑んだ。

「知っていれば先日お会いした時にその話が出ているはずです。 でもアスランは何も尋ねてはこなかった」

「でも…」

何故かしっくりこなくて、カガリは口元に手を当ててぽつりと疑問を口にした。

「ラクスだってアスランに話さなかったんだろ?婚約、解消の事…」

だったらアスランがラクスに婚約解消を知りながら話をしない、という展開だって考えられる事だ。

「わたくしが話さなかったのには理由がありますから」

ラクスはカガリに微笑を向けたまま、目を伏せた。

「前にもお話しましたけれど…わたくしは同世代の友人がいません…

特に学園内でまともにお話できる方は、アスランだけでした…」

笑ってはいるが、ラクスの瞳は寂しそうに瞬いていた。

カガリはその瞳の中に入り込むように身を乗り出して、必死に呼びかけた。

「今は私がいるだろ!?それにラクスと友達になりたい奴はいっぱいいるさ…!」

ラクスはまん丸に目を見開いてカガリを見て、それから花咲くように微笑んだ。

それを見てカガリもホッと息を吐く。

「そうですわね…今はカガリさんがいてくれますわね… でもカガリさんと出会う前の私にはアスランしかいなかった。

だから関係を断ち切るような発言が出来なかったのです…」

そう言ってラクスは最後に、ごめんなさい、と囁いた。

「謝る事なんてないさ…!」

カガリはすくっと立ち上がり、ラクスのすぐ傍まで近寄ってしゃがみ込んだ。

膝の上に置かれたラクスの白く細い手に自分の手を重ねて、その顔を覗き込むように見上げた。

「でも…アスランは婚約解消を知っても、ラクスから離れていったりしないよ。 そんな奴じゃない、そんな奴じゃ…」

こんなに綺麗で優しく大人びた、でも内面は普通の女子高生のラクスを、アスランが手放すわけがない。

ラクスを励ましている理由なんて、カガリには関係なかった。

今彼女が笑ってくれれば、それだけで良かった。

「…ありがとう、カガリさん」

そう言って、ラクスは自分のティーカップに口をつけた。

カガリも元いたソファに戻り、落ち着こうと紅茶で喉を潤した。

「私は…ラクスを差し置いてどうこうなろうだなんて思ってないさ。 ただ、自分の気持ちを隠しておける性分じゃないだけなんだ。

ラクスにも…アスランにも、正直に話して、それで避けられたら仕方ないって思ってる…」

自然とカップを持つ手に力が入る。

多分カガリの気持ちは迷惑がられるだろう。

嫌われてはないだろうけど、自分が異性にモテるタイプの人間じゃない事は承知している。

「アスランはカガリさんを避けたりしませんよ」

やけに自信満々にラクスは笑う。カガリにはそれが分からない。

「なんでだよ?自分が友達と思ってる奴…例えば、もし私がラクスに愛の告白をしたら… 気持ち悪いだろ?それと同じだよ」

アスランを含め、カガリの異性の友人達は自分の事を女として見ていない奴が大半だ。

そんなカガリから告白を受けたら──

「アスランは人の真剣な想いを気持ち悪がったりするような人じゃありませんよ、カガリさん。 それは貴女もよくご存知でしょう?」

「や、それはそうだろうけど…」

アスランはいい奴だ。

だからこそカガリも好きになった。

でも──表面上は笑っていても、もしかしたら内心では──

「カガリさん」

ラクスはカガリがここへ来てから一番の微笑をこちらに向けていた。

顔を上げてそれを見たカガリが面食らうほどの──

「もしアスランとカガリさんが付き合い始めたら…私にも報告して下さいね」

「はぁ!?」

ラクスの突拍子もない発言に、カガリは手にしていたティーカップを取り落としそうになった。

幸い中は空で、カガリの反射神経で床に落としたりはしなかったが。

「そっ、そんなワケないだろ!?何考えてるんだっ!」

カガリの混乱をよそに、ラクスは穏やかな笑みを向けたまま首を傾けた。

「そうですか?わたくしはとても期待しているのですけれど…」

自分の好きな人の婚約者、いや、元婚約者にありえない発言をされて、 カガリは妙な汗が噴き出るのを感じた。

「あのなぁ…」

「それに、お二人が付き合い始めたら、わたくしもアスランから離れて、 他にお友達を探さなくては…」

「…ラクスはさ」

『付き合い』の言葉よりも妙な引っ掛かりを感じて、カガリはじっとラクスを見た。

「アスランの事、好きじゃなかったのか…?」

二人の婚約が解消されている事に安堵してしまってうっかりしていたが、

アスランがラクスを好きなように、ラクスだって未だアスランを好きなのかもしれない。

だから今まで婚約解消の事を話せなかったのかもしれないのに──

「もしかして、私に譲ろうとか思ってないか?それなら──」

「違いますわ」

ラクスは笑みを絶やさぬまま、はっきりと言い切った。

「アスランの事は好きです。婚約にも異存はありませんでした。でも── もし私とカガリさんの立場が逆だとしたら──

わたくしは心から喜んでお二人を祝福できる、 その程度の『好き』なのです」

カガリにはよく理解できなかった。

婚約に異存がなかったのならば、それは『好き』という事ではないのか?

カガリの表情を見て、疑問を察したのだろう、ラクスは更に話を続けた。

「つまり──私は今、誰にも恋愛感情がないのです。正直この年齢で『婚約』と言われても ピンときませんでしたし…」

その言葉でカガリにも少し理解できた気がした。

確かにまだ16、7で婚約だ、結婚だと言われても、すぐに結婚できるわけではない。

カガリはわかった、というように小さく頷いた。

「でも、嫌いなわけじゃないんだろ?じゃあアスランから離れなくてもいいじゃないか」

アスランだってラクスを手放すわけがない。カガリはそう確信していた。

なのにラクスはすっ呆けた事を言う。

「でも…お二人が付き合っているのに、わたくしがいつまでもアスランの傍にいるのはおかしいかと…」

「あのなぁ…」

カガリは大きなため息をついた。

どうしてラクスはアスランとカガリが付き合う事を前提にして話を進めるのだろう…

「ですから登校した時昼食を付き合ってくれるお友達くらいは見つけないと…」

「だったら私が一緒に食べてやるよっ!」

ヤケクソ気味にカガリは叫んだ。

「アスランだって付き合ってくれる!3人で一緒に食べればいいさ!」

「…それは、楽しそうですけれど…」

ラクスの瞳が丸く、大きく見開かれた。

「だったら決定だっ!な?」

カガリは真っ赤になってソファに凭れ、踏ん反り返った。

「はい…!」

ラクスは可笑しそうに、楽しそうに、零れるような笑みを見せた。



帰りの車の中、ラクスはそれは楽しそうにアスランとカガリの今後についていろいろ想像を巡らせ 語り始めた。

最初はそれを全力で否定していたが、あまりにも優しい声で語られる幸せな夢に、

少しくらいいいよな…と、カガリは小さく頷きを返していた。



自宅に到着し、カガリは明かりのない玄関の前でラクスと向き合った。

「どうもありがとう…今日は本当に、嬉しかった…」

心からの言葉で、ガカリはラクスに微笑んだ。

「いいえ。こちらこそ本当に楽しかった…」

同じように笑ってくれるラクスに、カガリは制服のポケットにてを突っ込んで──そのまま引き抜いた。

「じゃあ、また。登校する前には連絡くれよな。一緒にお昼ご飯、食べような」

「ええ。カガリさんも…頑張って」

カガリ力強く頷いた。

決戦は、明日──











「何を言っているのだ、お前は」

いつもは低く響く父の少し高めの声を聞いて、アスランは少し違和感を覚えた。

「ですから、ラクスとの婚約…」

「そんなものはとっくに解消している」

その言葉にアスランは衝撃を受けた。

いや、衝撃なんてもんじゃない。

アスランは相手が父である事も忘れ、前に回りこんでまっすぐ向き合ると大声を上げた。

「そんな話…俺は聞いていませんっ!」

「別にどうでもいいだろ、そんな事は」

父の言い分にアスランは本気で腹を立てた。

どうでもいいだって?

婚約はアスラン自身の問題だ。それを全く話してくれていなかったなんて、とんでもない話だ。

なのに父はそんなアスランに構う事なく着替えを済ませ、離れて行く。

「ちょっ…待って下さいっ!」

「今知ったのだからそれでいいだろう。とにかくこの婚約に全く意味はなくなった、だから解消した」

父がどういう思惑でラクスとの婚約を仕組んだのか、そして解消したのかはよく分からないが、

アスランにはそんな事はどうでもよかった。

「父…」

「それともラクスに未練でもあるのか?それならば勝手に付き合えばいいだろう」

邪魔臭そうに吐き捨てて、父はさっさと自室に入ってしまった。



アスランは苦い思いを振り切るように、自らに言い聞かせた。

これで堂々とカガリに会って、想いを伝えられる、と。







アスランは爽やかとは言い難い朝を迎えた。

父への憤りとラクスとの事、そしてカガリへの想いが複雑に入り混じってなかなか寝付けなかった。



父が自分に何も話してくれないというのは、今に始まった事ではない。

これに関しては少し諦めもつく。

だが、ラクスはこの事に関して知らされている筈だ。

なのに自分には何も言ってくれなかった──

まさか俺が婚約解消の事を知らないとは思っていなかったのかもしれないが…

この事に関しては今日以降、彼女と会って話さなくてはならないだろう。

今までうまく付き合えないでいた事への謝罪と、自分の本当の想いを──

カガリに自分の想いを伝えるのはそれからだ。

本当は今すぐにでも伝えたいけれど──







アスランは授業が終わるとひとり、さっさと教室を後にし生徒会室へ赴いた。



予め用意していた今日の召集で使うプリントを手に持ったまま、ぼんやり考える。



──カガリは今日、ここへ来るだろうか…



今日ここへ来る生徒会役員の人数は、4人ではない。

ナチュラル側の生徒会役員も数名、来る事になっている。

そう根回しをしたのは、アスラン本人だ。



事前にフラガと話をして、それならば、とウズミ教頭に相談するように勧められた。

カガリの父親ということもあってかなり緊張したが、俺の話に同調してくれた上で協力してもらった。

そのお陰で合同での役員会も、今後の行事も比較的スムーズに事が運びそうだった。



だがそのウズミが──あんな事になった。

カガリは今日も病院へと足を運ぶだろう。

元々ここでのカガリの発言から動き出したのに、その彼女が今日ここにこなければ──



俺は振り払うように首を振った。

カガリは今、大変な時だ。

彼女がここに来なくても、いや、来ないのなら尚更俺がしっかりしなくては。

そう思った時。

大きくなる足音がずんずんこちらへと近付いてくる。

その音に聞き覚えはあったが、アスランはまさか、と耳を疑った。

ナチュラルの生徒会役員は確かフラガの引率でこの部屋に来る予定になっているのだから──



がらっと大きな音を立てて開いたドアの向こう、 アスランは資料らしきプリントを手に持ったまま、振り返った。

一番最初に瞳に飛び込んできたのは、息を切らして立っているカガリだった。

途端に、アスランの胸はどくんどくんと大きく脈打った。



来て、くれた──



先程までの不安は吹き飛んでしまった。

そしてカガリと会うのはあの病院以来だという事に気付いて、様々な思いが駆け巡った。



「──カガリ……ひとりで、来たのか?」

アスランは立ち尽くしたままのカガリに囁くように尋ね、ふわっと笑った。

それでもカガリからは返事もなく、ぼーっ立ち尽くしているままだった。

「今日、カガリは来られないかと思っていたけれど…いいのか?」

少し表情を引き締めながら、アスランはゆっくりカガリに近付いていった。

するとカガリは突然ぶんぶんと首を縦に振りながら後ろ手に扉を閉めた。

いつもよりぎこちないカガリの態度を不思議に思いながら、俺はすぐ目の前で立ち止まった。

「これ、今日配ろうと思って用意した資料なんだけど…そちらの生徒会役員の記述とか 間違いがないか確認してくれないか?」

ナチュラル側の生徒会役員はカガリとキラしか知らない。

名前は聞いているが、本当にこれで合っているのか少し不安だった。

手にしたプリントを一枚カガリに差し出して、アスランはまた微笑んだ。

カガリとこうやって会えるだけでも嬉しい、そう思うと自然に笑みが浮かぶ。

だが、いつまでたってもカガリはプリントを受け取ろうとしない。

よく見るとカガリの表情は硬く、強張っているように感じる。

「カガリ?」

俺を見つめたまま呆然と立ち尽くしたままのカガリに、 首を傾けながら名前を呼ぶと、

まるでロボットのようなぎこちない動きで 腕を持ち上げて、漸くそれを受け取ってくれた。

何故そんな態度なのかは謎だか、それも可愛らしくて、自然と微笑みが漏れる。

アスランはくるりとカガリに背を向けて、 予めプリントを配る為、机に戻って行こうとした。



突然、予告もなく、背中に衝撃があった。

何事かと振り返る前に、俺の胸に小さな手が触れていた。

背中には柔らかく温かな感触。

自分の体をきゅっと締めつけるのは、細い腕──

「うわっ、カ、カガリ…?」

力が抜けて、ばさばさっと手にしていたプリントが辺りに散らばった。

それでもカガリはそのまま、更に腕の力を強めてきつくアスランにしがみついてきた。

今、背中から一番に伝わってくるのは、早鐘を打つ鼓動。

アスランは動けないまま、カガリから伝わる全てを感じていた。



「……っ、好きだ……っ!」

ありえない言葉だと思った。この状況が創り出した幻の言葉だと。

「好きだ……っ!」

同じ台詞が2度続いても、アスランには信じられなかった。

ほんの少しもがいていた体が、ぴたりと止まる。

「う……嘘、だろ…?」

跳ね回る心臓を落ち着けようと、アスランはからからに渇いた喉から絞り出すように呟いた。

だが口ではそう言いながら、アスランは舞い上がる気持ちを抑え切れなかった。

カガリが、俺を──

そう思うと、かあっと全身が熱くなり、のぼせたように顔が火照ってくる。

自分と密着したカガリからも、それが嘘ではない事が伝わってくる。



だが──ぴたりと自分の体に巻きついていた腕は離れていった。

背中に感じていたカガリの熱が、去っていく。



思わずアスランは振り返っていた。

既にカガリはアスランに背を向けていて、ドアに手を伸ばそうとしていた。



なんで──!

信じられない思いでそれを見ていたアスランだったが、

思うよりも先に咄嗟に伸ばした手は、カガリの手首を掴んで引き寄せていた。

バランスを崩したカガリを、今度は自分が背中から包み込んで、きゅっと力の限りに抱き寄せた。

前に病院で抱きしめた時よりも、その体は熱を持っていた。

「…どこへ行くんだよ…お前は…っ」

逃げられる前に引き止められた事に安堵しながら、ため息まじりに囁くと、

強張ったカガリの体からふっと力が抜けたように感じた。

「ここに…いろって…ずっと、俺のそばに…」

ますます力をこめて抱きしめると、カガリは身動ぎしながら俺の腕を掴んだ。

この期に及んで逃れようとするカガリに、アスランは更に力をこめる。

「だめだ。逃がさない。カガリが…好きだから…」

まだ言うつもりのない気持ちだった。でももう隠す必要を感じなかった。

ここで自分の気持ちを伝えなければ、カガリは去ってしまうかもしれない、 そう思うと黙ってなどいられなかった。

腕に乗っかっていたカガリの指がカタカタと震えだす。

「う……うそ……」

カガリが何故自分の言葉を信じないのか、分からなかった。

俺は会った時からずっと、こんなにも想っていたのに…

「カガリこそ、嘘じゃないよな…?」

アスランは腕を緩めると、カガリの肩に手を置き、くるりと振り返らせた。

今、カガリがどんな表情をしているのか見たくなった。

至近距離で向き合うと、カガリは顔を火照らせたまま、視線を彷徨わせた。

「こっ、こんな事で嘘なんかつくか…っ!アッ、アスランこそ…っ!」

きっと今、俺もカガリと同じような表情なのだろう。

それを見られてしまった事を少し後悔したが、それよりも何よりもまず、愛しさがこみ上げる。

だがこの期に及んでまだ俺の気持ちを疑う言葉を吐くカガリに言い聞かせなければと、 アスランは何とか言葉を絞り出そうとした。

「お、俺だって…そんな事…っ〜〜〜ああっ、もうっ!」

だが、カガリの黄金色の瞳に見つめられているとうまく言葉にできなくて、 今度は真正面から抱きしめ、その眼差しから逃れた。

カガリの体から完全に力が抜けて、寄りかかるようにしなだれかかってくるのを支えながら、 やっとの想いで口にする。

「……俺は、好きな娘にしか、こんな事、できないよ……」

きゅっと俺ににしがみついてくるカガリを愛しく思って、アスランはまた腕に力を入れた。

今まで生きてきて、こんな喜びは今まで味わった事がない。

息もできなくて、胸が張り裂けそうで、それでいて甘くて熱い感覚。



ふと、腕の戒めが緩め、見下ろすと、そこには真っ赤なカガリの顔。

知り合ってから随分いろんな表情のカガリを見たと思っていたけれど、 まだアスランの知らない顔があった。

これからもずっと見つめ続けていきたい。

そして、俺もいろんな顔をカガリに見せていきたい──



そのままカガリの顔に自分のそれを近付づけると、さらに大きく見開かれる瞳を確認した。

そこから先はゆっくりと瞳を閉じて、カガリの小さな息づかいを感じながら──





「何でナチュラルの奴らと一緒に──ああ!?」

どすんどすんと大きな足音を立てて現れたのは、 コーディネイター側の生徒会役員で副生徒会長を務める男だった。

その後ろからひょいと顔を出すのは、同じくコーディネイター側の書記の男。

「あれー…キミら、ナニしてんのさ」

アスランは黙って散らばったプリントを拾い集めて──カガリはその傍で呆然としゃがみ込んでいた。

「何やってんだ!邪魔だ、邪魔!」

口では乱暴にそう言っていても、イザークはプリントを拾い終えた箇所を通って奥へと進む。

「あれ?もう来てたの。早いねー」

ディアッカはカガリににこっと微笑みながら、やはりプリントは避けて後に続く。

自分に何も話しかけてこない事に、アスランはそっと安堵していた。

ひたすらプリントを拾い続けて、最後の1枚を手に取ろうとした時、ひらりと上に舞い上がった。

いや、カガリがそれを手にとったのだ。

アスランは小さく笑ってカガリの側に立った。

俺を見上げる可愛らしい顔はまだほんのり桜色に染まっていた。

初めて出会った時に見た、あの時の桜とと同じ色──



「ありがとう」

にっこり笑って手を差し伸べると、カガリは手に持ったプリントを差し出しかけて、 すぐに引っ込める。

そしてプリントを持つ手とは反対の手をアスランに伸ばしてきた。

そのままぐいっと引き上げてすぐ離れる手と手。

「こっちこそ。ありがとう」

カガリもにっこりと微笑んで、しばらく見つめ合う──



最初に吹きだしたのは、どちらだっただろうか。

二人はそのまま腹を抱えて大笑いしはじめた。

そんな二人をわけが分からないと呆然と見つめる男達、そして廊下からは複数の足跡が近付いていた。








あとがき

くっつけました。くっつけましたよ!
この時点でオフ本で1冊に纏めました。サイトではアスラン視点で〆ましたが、 本の方ではカガリ視点で〆ております。
興味のある方はぜひそちらもどうぞ(宣伝)
でもお話的には全く同じですので買う必要はほとんどないかと思います(どっちだよ) 〆方としては個人的にはこちらの方が好きです。
サイトの方ではまだまだ続いていく予定ですので、これからもよろしくお願いいたします。

05.08.11up