まだ夜も明けきらぬ朝。

最近ずっと寝不足だったカガリが漸くうとうとし始めたそんな朝に、マーナの絹を裂くような声が響いた。

「カガリ様っ、カガリ様っ!」

勿論目覚まし時計もまだ鳴らない、そんな時間に浅い眠りを妨げられたカガリは

不機嫌な面を隠しもせず、ロクに瞼も開かずに布団から顔を出した。

「──今何時だと思ってるんだ…まだ起きる時間じゃ…」

「カガリ様っ、大変です!ウズミ様が…!」

マーナの温かくふくよかな体に包まれた直後から、カガリの記憶は暫く途切れた。








よしよし



カガリは冷ややかな病院の白い壁に寄りかかっていた。



学校に行くわけでもないのに何故私は制服を着ているのだろう。

スカートのチェック柄がぼんやりと瞳に映る。



お父様は──この壁の向こう側で横たわっているのだそうだ。

医師と数人の看護師に囲まれて手術を受けている、らしい。



何故──



カガリは考えても答えの出ない問いを必死に解こうとしていた。



なぜお父様は病院に運ばれたのだろう。

なぜお父様は手術を受けているのだろう。

なぜお父様は──



答えなど出ない。出る筈もない。



マーナが私を抱きしめながら何度か父の名前を叫んでいたのは覚えている。

だがそれだけだ。

今解る事は、父の命が──危ない、という事だけ。



信じられない。

最近父は忙しくしていて、自宅で顔を合わせる事は殆どなかったけれど、

校内でたまに見かけるその姿は力強く、生命力に溢れていた。

その父が何故──



「カガリ──!」



今、ここにあるはずのない声を聞いて、カガリは弾かれたように顔を上げた。

そしてここに居るはずのないひとの姿を瞳に映す。そんな、バカな──



だって今日は平日の筈で、勿論学校は休みではなくて、当然授業中の筈で──



あまりにいろんな事が起こり過ぎて、頭の中がパンク寸前、弾けてしまいそうな錯覚に陥る。

そうならないように、頭を抱えようとして──それは叶わなかった。



大きな影に包み込まれて、暫く呆然と立ち尽くす。

だがそれはただの影ではなかった。

思いがけず現れた、いとしいひとのからだだった。



冷え切ったカガリの身体には心地よい熱、小さな呼吸音と、おとこの人の匂い。

そして、痛いくらいの締めつけが、夢ではない事を教えてくれる。



何故──

考える前に体が動いていた。

ただでさえ頭が混乱しているのに、今こんなに触れ合ったままでいたら──

わたしが壊れてしまう。



カガリは必死で体を捩って、ありえない現実から逃れようと必死でもがく。

しかしそれ以上にカガリに絡みついた男の腕は力を強めていく。



「──はなして…」

カガリは力の入らない腕でたくましい胸を押し出そうとする。だが力の差は歴然で──

「いやだ」

強固な意志を感じさせる硬い声と共にますます腕の力が強まり、カガリの頬は男の胸に押し付けられる。

抵抗を続けながらも、その頬が熱をもっていくのを感じる。

「…お願いだから…頼むから…ッ!」

これ以上何か言うと、ずっと堪えていた涙が零れてしまいそうになる。

だが懇願せずにはいられなかった。このままでいたら、本当に私は壊れてしまうから。

「離さない、絶対」

彼の声と体で、とうとう自分がぺしゃんこになった気がした。

今まで聞いた事もない、彼の必死な声音が、頭のてっぺんからおりてくる。

「こんな君を、放っておけない。絶対、離さないから──」



拒絶し続ける為に築いた厚く高い壁が、少しずつ崩れるのを感じた。



私は、本当は、ずっと──待ち望んでいたのかもしれない。



全身に蔓延らせていた力を全て抜いて、カガリは自分の心のままアスランに縋った。





どれ位の時間、そうしていただろうか。

アスランの腕の中はとても安心できて、全ての感情を吐き出す事が出来る場所だった。



漸く涙は止まったが、それでも離れたくなかった。

顔を上げなければ泣き止んだ事がバレないだろうと、温かな胸に顔を寄せたままでいれば、 髪を優しく撫でてくれる。

そしてずっと背中に廻されていた手は、まるで小さな子供をあやす様に、 たまにポンポンと撫でるように触れてくる。

そんな仕草に嬉しくなってまた少し擦り寄ると、一瞬、アスランの手が止まった。

彼が離れてしまうのではないのか、不安になってカガリは顔を上げようと身動ぎする。

だがそんなカガリの動きを奪うように、背中にあった手を肩に廻して更に引き寄せられた。

ほうっ、と息を吐いて、カガリはまたアスランに擦り寄っていく。

その時──ほんの少しアスランの身体が揺れたかと思うと、髪に息が触れた。

条件反射で顔を上げかけると、前髪にも同じように息が触れ、そして、 あたたかく柔らかなものが額を掠めた──気がした。



カガリは赤く泣きはらした瞳をめいっぱい広げて顔を上げた。

が、少し横を向いたアスランの顔は濃紺の髪で隠されていた。

そうして、ゆっくりと解かれて離れていく腕は、再びカガリにのびてくる。

「…座ろうか」

頭に降りた大きな手のひらが、くしゃくしゃとカガリの髪を撫でたあと、細く頼りなげな肩に廻される。

そのまま再び引き寄せられて、カガリは彼の導くまま並んで歩きだした。



誰もいない廊下にふたり。

座った瞬間ひんやり感じた長椅子は、今はカガリと同じ熱を持っている。

アスランの左手はカガリの左肩に廻され、カガリの右耳はアスランの右肩にくっついて離れない。

先程までと違って全身をアスランに包まれているわけではないけれど──

右半身を密着させて、からだをアスランにあずけているこの状態は、とても安心できた。

ずっとこのままでいたい。

授業中の筈なのにアスランがここにいる事も、

婚約者がいる筈のアスランがカガリの肩を抱いている事も、

何もわからない振りをして。

そして、今、手術室で生死の境を彷徨っているであろう父の事も──



そこまで考えて、体に震えが走った。

私、今、何を──

自分の思考が信じられなくて、カガリは頭を起こし、腕を廻して自分自身を抱きしめた。

当然それはアスランにも伝わったようで、カガリの肩に置いた手に少し力をこめて、 顔を覗き込んできた。

「カガリ…?」

顔を見られたくなかった。

こんな薄情な私はもうすぐ神様に罰を与えられ、1人きりにされてしまうのかもしれない──

そう思うと急速に体が冷えていくのを感じて、カガリはアスランの肩口に顔を埋めた。

「父は──大丈夫だろうか」

「大丈夫だよ」

きっぱりとした口調で答えてくれるアスラン。

その発言に何の根拠もない事はカガリにも分かってはいたが、それでも少し安心できた。

「アスランは…知っているのか?父が何故こうなったのか」

「…訊いていないのか?」

カガリは小さく頷いた。

病院へ向かう途中のタクシーの中、マーナが涙声で説明していたような気がするが、 カガリの耳には全く届いていなかった。

ウズミが手術を受けているのは病気なのか事故なのか、それさえも知らなかった。

ほんの少し身動ぎしたアスランの小さな声が耳元で聞こえた。

「…俺も先生達の話を立ち聞きしただけだから詳しくは知らないけれど… 早朝、学園で…誰かに、撃たれた、と」

考えてもみなかった話に、カガリは驚愕し体を起こそうとした。

だがアスランの腕に押さえ込まれてそれは叶わなかった。

自然と体が震えだす。

アスランに宥められて落ち着いていた心がまたざわめく。

「大丈夫。大丈夫だから…」

再びアスランの腕の中におさまって、カガリは見開いた瞳をゆっくり閉じる。

大きく息をして、それをゆっくり吐き出して、それを数度繰り返す。

髪を撫でられる、背中に触れる、その手の優しさに、 小さな子供に戻っていくような感覚を覚える。

それでも子供になりきれる筈もなくて、カガリはアスランの胸を押して体を起こし、 再びこてんと頭を預けて目を閉じた。



「…カガリ様…」

しばらくして遠慮がちな震える声に呼ばれて、カガリはゆっくり目を開いた。

それと同時に肩に、背に触れていたぬくもりがそっと離れていく。

カガリはさっと頭を起こして、 立ち上がる気配のあったアスランの腕に自分の腕を絡めて縋るようにじっと見た。

困ったような微笑に不安を掻き立てられたが、アスランはそのままカガリの隣にいてくれた。

小さく息を吐きながら瞳を閉じて、次に開いた時には困惑気味のマーナが映った。

「あ、あの…」

体の割に小さな瞳は、カガリを捉えつつも、ちらりと隣にも向けられる。

「…お父様を心配して、来てくれたんだ」

いちいち話すのが億劫で、気だるげにそれだけ伝えると、カガリは再びアスランの肩に頭を乗せた。

マーナの視線が先程より忙しなく動いているのを見るのがうざったいので、瞳を閉じようとした。

「カガリ」

囁くように呼ばれて首を動かし、声の主を見る。

「俺はそろそろ…戻るよ」

いやだ、そばにいて。

そう言いかけて、カガリはキュッと口を閉ざした。

戸惑った表情を見て改めて、今が授業中である事を思い出す。

コーディネイターの彼は、きっと無理をしてここに来てくれたのだ。

それを自分の我侭で今まで引き止めてしまったのだという事に。

カガリは止まった筈の涙を懸命に堪えながら俯き、絡めていた腕を解いた。

「…そうだな。引き止めて、悪かった…」

本当は“悪かった”なんて微塵も思っていないのに。ずっと傍にいてほしいのに。

アスランはゆっくり立ち上がり、自分勝手な私の頭に手を乗せ、くしゃくしゃと髪を撫でてくれる。

無造作で、でも優しい手にカガリはまた泣きたくなる。

やっぱりここに居て欲しい。

そう思って勢いよく顔を上げアスランを見た瞬間、その背後に見える『手術室』のランプが消えた。

カガリは濡れた瞳をめいいっぱい開いて立ち上がり、無意識にアスランの腕を掴んだ。

そのままふらふらと引き寄せられるように大きな扉に近付いていくと、

それは大きく開いて、チューブが張り巡らされたベッドを取り囲むように白衣を着た人が数人、 慌しく出てきた。

「お父様っ!」

カガリはそれに走り寄って行こうとしたが、 それに構う事なくウズミらしき人物が横たわったベッドは廊下の奥へと消えていく。

バタバタ騒がしい音が小さくなっていく方向を茫然と見つめていると、 視界の端に白衣の人物が映りこんできた。

ちらりとそちらを見やると、その医師は疲れた表情でマスクを取り外すところだった。

「先生…!ウズミ様は…」

マーナの切羽詰った声にカガリも我に返り、その男の傍へと近付く。

男はにこりともせずに淡々と事実を語っていった。

「手術は成功しました。まだ予断は許さない状態ではありますが…」

マーナの涙まじりの歓喜の声と共に、カガリの体から力が抜けていく。

それを支えてくれたのは──ずっとカガリを励まし続けてくれた大きな手だった。

「良かったな」

背後から優しい声がして、カガリは首を巡らせて嬉しそうな笑顔をみた。

安心したからか、ただその顔に見惚れてぼうっとしていると、アスランは笑ったまま小さく口を開いた。

「じゃあ…俺は戻るよ。もう大丈夫だな」

その言葉にほんの少し寂しさを感じたが、カガリはそれを振り払うように軽く頭を振った。

「…そこまで、送る」

「大丈夫だよ。カガリはウズミ教頭の傍に…」

「送る」

カガリは真剣な眼差しを向けながら、ギュッとアスランの制服の袖口を握って離さなかった。



「ここでいいよ」

病院を出ると、心地よい風が2人を撫でるように吹き抜ける。

さっきからずっと握られたままの袖口を無理矢理外す事はせず、 アスランは優しい目をカガリに向けてくれていた。

「…ごめん」

「何が?」

不思議そうに尋ねてくるアスランから、ほんの少し視線を逸らして、 カガリはぽつりぽつりと答えていった。

「だって…授業、サボらせちゃったし…」

「俺が好きでそうしたんだから、カガリが気にする事はないよ」

「でも…!」

咄嗟に顔を上げてアスランを見ると、その顔は笑ってはいなかった。

「授業より大切だったんだ…」

怒っているわけでもない、ただ酷く真剣な眼差しを向けられて、何故か顔に熱が集中する。

先程とは違った感じでからだの力が抜けて、その拍子にずっと握ったままだった制服の袖口から 手を離してしまった。

「そうだ、これ…」

ぼんやり佇むカガリの正面で、 アスランはおもむろに制服の内ポケットからペンと生徒手帳を取り出して何やら書き出し、

そのページをビリッと破って差し出してきた。

090から始まる11桁の数字が並ぶメモを、アスランはカガリの手を取って握らせてくれた。

「どんな話でも聞くし…呼んでくれたら、すぐ行くから」

驚いて顔を上げると、くしゃっと頭を撫でられた。

その腕に阻まれて、今アスランがどんな顔をしているのかが分からない──

「じゃあ、な」

そのままくるりと背中を向けられ、それはだんだん小さくなっていく。

でもカガリはもう寂しくはなかった。

2人の間に、爽やかな春の風が通り過ぎる。

その風に飛ばされたりしないように、カガリは貰ったメモをある決意と共に キュッと握りしめた。












あとがき

…あとがき、書くの久しぶり…お待たせしましたっ!
私にしてはとってもラブイチャなつもりなんですが…どうですか?
病院描写がありますが…私、病院とは割と無縁な生活を送っていますので、ウソ描写満載です。 ドラマで見る知識程度です。
あと、携帯描写もありましたが、カガリは携帯電話持ってません(『LIVE3』参照)
パソコンも…どうでしょうねぇ?微妙です。あ、パソコンは持っているみたいです!(『LIVE3』参照)
というわけで、アスランは番号だけで、メアドは伝えなかった、って事にしておいて下さい。
次回は…ムフフフ。頑張ります。

05.05.28up