宍戸さんには、お金が無い!第2話

     その5 〜もう一人の新入生〜 の巻



   氷帝学園は、都内でも有名なテニスの名門校であった。

   中等部にある男子テニス部は、部員数二百名を誇り、その中でレギュラーを勝ち取る事は、

   とてつもない難関である。


   入部したての一年生ならば、合同練習が基本になるのだが、年数を重ねると、そのほとんどが

   個人メニューに変わってしまう。プレイヤーは、それぞれ特性が違うため、同じ事をやっていても

   上達はしないのである。


   俺は、学園を三日欠席しているため、大幅に訓練内容を変更する必要があった。

    どのスポーツ選手も同じだが、たった一日練習を休んだだけで、失われた筋力や体力を取り戻す

   ために、軽く一週間もかかってしまうのだ。


   俺は、電車に乗っている時も、通学路を歩いている時も、その事で頭がいっぱいになっていた。

   それが、普段の宍戸亮と言う人間の姿だと思う。

   いつもテニスの事しか頭に無い。

   今まで、他の出来事に心も時間も割いた事が無かった。

   いつも自信に溢れ、身を竦めたり、脅えたりする事は決してなく、いつも前向きに物事を考えて、

   前進を続ける・・・そんな人間だと思っていたし、そうありたいと望んでいた。


   それなのに、今、部室の扉を開こうとしている自分は、別人に変わっていた。

   周りに肉食獣が隠れている気配を感じて、身体を恐怖で強張らせる草食動物のように・・・

   中へ入る事に戸惑っているのだ。


   神経が研ぎ済まされ、鋭利な刃物のように尖ってゆくのが、自分でも良くわかった。まるで、

   内部に恐ろしい敵が隠れている・・そう、俺の身体は感じているようだ。


  (何にビビッてやがるんだ、俺はッ! )

  (ここは、テニス部の部室だ。あの男が来るのは、当たり前じゃねぇかよッ! )

   後輩である鳳長太郎に会う事を、少しでも恐れているなんて、自分でも信じられなかった。

   俺は、扉の取っ手を掴んでいた右手の上に、左手も乗せると、力を込め、いっきに開け放った。

   すると、いつも嗅いでいた汗や油の匂いが広がった。慣れ親しんだ空気が、自分の身体の

   周囲を巡り、久しぶりに部室へやってきた喜びで気持ちがいっぱいになった。


   まだ、誰も来ていない様子だった。ほんの少し安堵している自分に、むしょうに腹が立った。

   俺は、誰よりも、練習開始が早い。 人それぞれペースがあるのだが、俺は、走り込みや

   柔軟などのウォーミングアップに時間をかける人間だったのだ。

   万全の体勢で、コートへ入りたいからだ。


   ロッカーのドアを開けて、荷物を放り込んだ。それから、スポーツバックを開いて、ウェアを

   出していると、当然、背後から声をかけられた。


   「おはようございます。宍戸先輩。」

   驚いて振り返ると、目の前には、今年入ったばかりの新入生の姿があった。

   今まで、部室内に人の気配など無かったので、俺は飛び上がるほど驚いてしまったのだ。


   この男は、二年生の間でも話題になっていたので、すぐに名前を思い出せた。

   「ああ、日吉か。お前も、早いじゃねぇか。」

   日吉若は、中等部で、初めてテニスをやったと言う変り種だった。 氷帝のテニス部に、初心者が

   入部するのは、大変珍しい事だった。
 ここの部員達は、テニススクールに所属している者や、

   ジュニア大会で初等部の頃から活躍していた者がほどんどなのだ。


   ところが、この日吉は、試合経験が全く無いと言うのに、大抵の一年生よりも上達が早く、すでに

   二年生とも互角に打ち合う能力があった。 格闘技を幼少期がやっていたと聞いていたが、

   その類まれな運動能力には、俺も一目置いていたのだった。


   そして、もう一人、不思議な経歴の人間と言えば。鳳長太郎も同じであった。

   あれだけの高速サーブが打てるテニスセンスがありながら、個人的にコーチを受けただけで、

   公式戦に一度も出た事が無いらしい。

   俺の記憶では、あの男は、初等部ではテニス部に所属していなかった。


   俺は、ジュニア大会に出場していた選手なら、大抵の人間を覚えているので、試合経験が

    無いのは、本当に違い無かった。


   「宍戸先輩。相変わらず、部室に一番乗りなんですね。」

   日吉に、そう声をかけられて、我に返った。

   そう言えば、日吉新とは、早朝練習で一緒になった事は無いように思った。


   それどころか、部活中に、このように話をした記憶が無い。

   存在感はあるのに、接触した記憶がほとんど無いと言う不思議な部員である。

   「・・・お前、こんなに朝早くから、部室にいるのは珍しいんじゃ無いか? 」

   俺が、そう返すと、日吉若は、真正面から真剣な表情で見つめてきた。

   「ええ、そうですね。ちょっと困った事が起きてしまったので・・・。

    宍戸先輩に相談したかったんです。どうやら、俺は・・・。


   先輩と、同様に失業しそうなんですよ。」

   その言葉に、俺は、持っていたバックを取り落としそうになった。

    傾けてしまったせいで、開いたファスナーの隙間から、紫色のケースが転げ落ち、日吉の

    足元へと転がった。


   日吉は、それを拾い上げると、素知らぬ顔で、俺にこう言ったのだった。

   「危ないですよ。手荒に扱わない方が良いです。

   そのカシミアサファイアは、高品質で、かなり高価な部類らしいです。紫色の混じらない、

   澄んだ綺麗な青色のサファイアは、なかなか手に入らないらしいですよ。」


   俺は、日吉からケースを手渡されながら、思わぬ事態に唖然としていた。

   一歩だけ後退すると、俺は、掠れた声を出した。


   「・・・お前は。一体、何なんだよっ! 」

   日吉は、真顔で、俺に会釈した。

   「俺も先輩と同様に、鳳家に雇われている人間です。

   ・・・と、言っても、俺の場合は、学園内のボディガードが主な仕事なんですけどね。」

   日吉は初等部の時に、鳳と一緒に、この氷帝学園に入学したのだと言う。

   日吉家は、父親の代から、鳳家のサポートを任されているらしい。それから、ずっと同級生と

   言うポジションで、ガードの仕事をしているのだ。


   しかし、俺は、鳳長太郎と日吉若が、仲良く一緒にいる姿を見た記憶が無かった。

   親しい様子で、会話をしていた姿も見ていない。


   「まあ、友達とは、ちょっと立場が違いますからね。

   でも、中等部で、当主がテニスを始めるつもりだと聞いた時は、さすがに止めましたよ。

   それは、俺もテニス部に入らないとならないですから。とんだ過剰労働です。

    ・・・まあ、それも、もう終わりみたいですけどね。」


   「・・・終わり? 何が終わりになるんだ。お前も、俺と同じように、鳳家に雇われているのが、

    嫌になったのか? 」


   日吉は、俺の言葉を聞くと、神妙な面持ちで考え込んだ様子だった。数秒してから、言葉を

    選ぶようにして、こう告げた。


  「確かに・・・。俺も、先輩と同じように、状況が良くわからない七歳の時から、仕事を始めた

   わけですけどね。
 ただ、俺の場合は、自分で納得して、当主のガードをやってましたから。

   別に、嫌では無かったですよ。俺は、ただ、強くなりたかっただけですから。

   毎日・・・なんと言うか、刺激が多くて、興奮できた毎日でした。


   ああ、そうですね。だから、もう少しテニスを続けたいのかもしれないな。

   健康的に身体を動かすと言うよりも・・・ずっと格闘技に近いかもしれない。

   それも、いつでも真剣勝負だ。」


   日吉は、思い出したように瞳を輝かせていた。

   日吉は、自分自身で思っているよりも、ずっと、テニスが好きな人間なのだろうと、俺は

   気がついていた。


   「それで・・・。俺に、何か用事でもあるのか? 」

   俺は、日吉が声をかけてきた理由は、鳳長太郎に関係する事なのだろうと確信していた。

    日吉と俺の接点と言えば、それしか無いからだ。


   「 用事と言うか・・・。宍戸先輩への報告ですね。

   ここで待っていても、当主は、部活には来ません。

   正確に言えば、今週は、学園を欠席しています。このままだと自主退学の届出を、

    黒沼さんが持参するのも時間の問題では、無いでしょうか? 」


   無表情のまま、顔色一つ変えずに、日吉若は、そう言った。

   俺は、考えてもいなかった結末を知らされて、対処方法が頭に浮かばずに無言になっていた。

   俺の予定では、ここで鳳長太郎に全ての物を突っ返して、顔面をブチのめして、洗いざらい

   白状させて・・・。
 それで、地べたに土下座させて、「すみませんでした。」と謝罪の言葉を

   百万回言わせるつもりだったのだ。
 なのに・・・。

   戦いの前に、鳳は、敵前逃亡。勝敗は、俺の不戦勝・・・・に、なるのだろうか?

   (そんなモンは、勝利じゃねぇんだよッ! )

   俺は、バックから、携帯電話を取り出すと、短縮ダイヤルの一番を押した。

   それは、鳳長太郎の部屋への直通電話だ。


   長いコールの後、ぶっつりと、電話は切れてしまった。

   (・・・あんの野郎、俺のかけた電話を切りやがった。)

   怒りで顔面を真っ赤にした俺が、再度、携帯のボタンを押そうとすると、

   日吉から声が上がった。


   「岩槻さんを呼び出して、学園の裏門に車を回してもらった方が早いです。初音さんが、

    鳳邸の通用門と裏口を開けてくれていますから・・・。」


   俺は、即座に、携帯で運転手の岩槻を呼び出すと、日吉の提案通りの指示を与え、

    ロッカーから荷物を取り出すと、外へと飛び出した。


   まるで、拳銃から発射された弾丸のような速さで、グランドを真っ直ぐ突っ切ってゆく俺の

    後ろ姿へ、日吉がこのように声をかけた。


   「先輩ッ! その指輪は、《 魔よけ 》ですッ! 刻まれているのは、詩歌なんです。

   《 己の身を焼きつくそうとする炎が、貴方まで滅ぼす事の無いように。己の身体を巡る毒が、

   貴方の命を奪わないように。愛する人を守るためなら、自らを切り裂く事も悔いは無い。》


   当主は、その指輪を宍戸先輩に持っていて欲しいそうです。自分と出会ったせいで、

    きっと辛い事があるから・・・だ、そうですよッ! それが、彼の本当の気持ちです。」


   俺は、一度だけ足を止めると、振り返って、日吉に向かって、こう叫び声を上げた。

   「馬鹿野郎ッ! 魔よけなんていらねぇよッ!

   俺はなぁ。この世の中に、怖いモンなんて、一つも無いんだからなぁッ!! 」

   日吉は、その答えに肩をすくめると、初めて、俺に笑顔を向けた。

   「なるほど。確かに・・・。先輩自身が、《 魔よけ 》なのかもしれない。

    当主にとっては、たぶん・・・。」


   俺は、日吉の言葉を最後まで聞かずに、再び走り出した。

   間もなく、迎えの車が到着する。

   俺の人生で初めて、テニスの練習よりも優先させる出来事が発生したのだ。

   テニス以外に興味を持つ事があるなんて・・・。

   それも、一週間前の俺には、きっと想像もできない事に違い無かった。



        その6〜宍戸亮の帰還〜の巻へ続く → 行ってみるその6・宍戸亮の帰還


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