織田信長の天下布武の野望と足利義昭の上洛

尾張の戦国大名・織田信長の登場と美濃の制覇
織田信長の京都上洛と将軍・足利義昭の誕生

尾張の戦国大名・織田信長の登場と美濃の制覇

『武田信玄・今川義元・北条氏康の三国同盟』の項目では、日本各地で勢力を競い合う戦国大名の諸相と経緯を解説しましたが、甲斐の武田信玄や越後の上杉謙信を圧倒して戦国時代の専制君主として台頭してくるのが尾張の守護代であった織田信長です。織田信長(おだのぶなが,1534-1582)は天下統一の基盤を整えた日本で最も有名な戦国武将ですが、武芸・兵法に秀でておりカブキ(傾き)趣味の奇抜・派手な風俗を好んで、剛勇・智謀を誇る家臣の武将を厳しく統制できる強力無比なリーダーシップ(政治・軍事指導力)の持ち主でした。圧倒的な実力と精緻な計略に裏付けられた強烈なパーソナリティ(個性)を持つ織田信長は、幼名を吉法師(きっぽうし)といい、尾張半国の守護代で古渡城主だった織田信秀(のぶひで,1510-1551)の三男として生まれました。幼少時の吉法師の守役は平手政秀(ひらてまさひで,1492-1553)でした。父の織田信秀も軍事戦略に優れた有能な武将であり、尾張国において主家の尾張守護代・清洲織田家や主君の斯波義統(しばよしむね,1513-1554)を凌ぐ勢力を獲得し、京都の朝廷に対しても金品攻勢をかけて官位を取得しました。信秀は軍事だけではなく経済政策についても先見性があり、勝幡城(しょばたじょう))近郊の商業都市である津島や熱田を手に入れて『商業の活性化・流通経路の拡大』を行って富の蓄積に努めました。

織田信長は異形の服装やだらしのない格好、非常識な礼儀を弁えない奇行を意図的にとって周囲から『大うつけ(大ばか者)』という異名を取っていましたが、これは周囲の警戒心を緩めるための計略であったとも言われます。父の織田信秀が1551年(天文20)3月3日に病死した時にも、父の葬儀の席に儀礼を無視した突飛なザンバラ髪(茶筅巻き)と袴をつけない格好をして現れ、位牌に向かって抹香(灰)を投げつけてそのまま帰ったという逸話が残っています。信長の祖先は『信秀→信定→良信』まで遡ることができますが、本貫(本拠地)は越前の織田荘(現福井県丹生郡織田町)であり織田剣神社(おたつるぎじんじゃ)の神官の出自ではないかと言われています。信長自身は初め高貴な出自であることを示すために『藤原姓』を名乗り、その後は足利将軍家の『源氏(清和源氏)』に対抗するために『平氏(桓武平氏)』を自称しました。織田信長の事績・エピソード・人物像などを知るための最良の歴史資料として、家臣の太田牛一(おおたぎゅういち,1527-1613)が書いた『信長公記(しんちょうこうき)』があります。来日したイエズス会のポルトガル人宣教師ルイス・フロイス(1532-1597)が書いた『日本史』からも、室町末期から安土桃山時代にかけての政治情勢や戦国大名の動向、文化活動、キリスト教の布教状況などを知ることができます。

信長は守役の平手政秀の働きかけによって、美濃の斉藤道三(さいとうどうさん,1494-1556)の娘・濃姫(帰蝶)と1548年に結婚して尾張と美濃の同盟を実現していましたが、1551年に家督を継いだ織田信長を待っていたのは同母弟・織田信勝(織田信行,1536-1557)との家督争いでした。信勝との家督相続争いに勝利した信長の喫緊の課題は『尾張の統一』であり、周辺隣国である美濃や三河、駿河への勢力拡大でしたが、重臣の平手政秀が1553年に信長の奇行や無頼を批判して諫死します(政秀の自害の理由には諸説あります)。同年4月には織田信長と舅の斉藤道三との会見が聖徳寺で成立し、信長の才覚と胆力を見抜いた道三は『自分の子孫はたわけ(信長)の門外に馬をつなぐことになるだろう(降参して支配されるだろう)』と感想を述べており、道三と子の斎藤義龍(よしたつ,1527-1561)との対立が明らかになってくると美濃を信長に譲ることも考えていたようです。この時期の織田信長の最大の敵対勢力は、尾張と国境を接している駿河(するが)の戦国大名で飛ぶ鳥を落とす勢いを誇っていた今川義元(いまがわよしもと,1519-1560)でした。

下剋上によって一代で戦国大名の地位を得た斉藤道三は、嫡子の斉藤義龍との仲が険悪となり1556年4月に義龍と戦って討死しますが、道三の死後には今川義元の侵略の気運が強まり、尾張国内でも信長を追い落とそうとする織田信行・柴田勝家・林通勝・林美作守(林通勝の弟)のクーデターが起こります。信長は信行派(信勝派)のクーデターを鎮圧して尾張の統一を成し遂げますが、弟の織田信行を裏切って信長に密告して手助けした柴田勝家(しばたかついえ,1522-1583)林通勝(はやしみちかつ,生年不詳-1580)『返り忠(かえりちゅう)』によって謀反の罪を許され、『信長の家臣団』の結束と忠誠がより強固に固められました。駿河守護の今川義元は、甲斐の武田信玄や相模の北条氏康と共同歩調を取りながら松平氏の三河へと勢力を拡大し、1549年に織田信秀との人質交換によって松平広忠の子・竹千代(松平元康・徳川家康)を人質にしていました。甲駿相三国同盟(武田氏・今川氏・北条氏の同盟)を結んで後方の守備を固めた今川義元は、駿河・三河から更に信長の支配する尾張へと進出し始めることになり義元と信長の正面衝突の時が迫っていました。この時点では、今川義元の方が広大な領域を支配する大大名であり、小国の尾張の統治者に過ぎない信長が勝つことは難しいと見られていました。

京都の公家の山科言継(やましなときつぐ,1507-1579)が書き残した『言継卿記(ときつぐきょうき)』によると、尾張統一を間近に控えた1559年2月に織田信長が80人程度の伴を連れて初の京都上洛を果たし、奇抜な装束と豪胆な振る舞いによって京童(きょうわらわ)の耳目を驚かせたといいます。1560年5月に、松平氏の三河を掌握した今川義元は4万5000の大軍を組織して尾張への進撃を開始しますが、この進軍の目的は上洛(京都入部)にあったとも尾張国の支配にあったとも言われています。尾張方の鳴海城主・山口教継が信長を裏切りますが、教継は逆に今川義元から切腹させられ、織田信長と今川義元は桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい,1560年)で衝突することになります。義元の攻撃の知らせを聞いた信長は、いつも好んで舞っていた幸若舞(こうわかまい)『敦盛(あつもり)』を舞って、『人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか』と歌った後に即座に軍備を整えます。夕立の雨が降りしきる中、油断していた義元軍の本陣を急襲した信長軍は、見事に今川義元の首級を上げます。義元の首を落としたのは毛利新介(もうりしんすけ)と言われていますが、圧倒的不利と言われた桶狭間の戦いが信長の勝利で終わったことで、戦国大名の今川氏が没落しその領土を獲得した織田氏の勢力が急速に拡大します。義元の愛刀である『左文字(さもんじ)』は信長が愛用することになります。

桶狭間の戦いの勝利により東海地方の勢力地図は一気に書き換えられ、今川氏の人質生活から逃れた松平元康は拠点の岡崎城に戻って、1562年に信長と同盟関係を結びます。三河一向一揆を鎮静化することに成功した松平元康は、1564年4月に今川方の吉田城を落として三河統一をほぼ完成し、1566年には従五位下三河守に任命され名前を松平元康から徳川家康(とくがわいえやす,1543-1616)に改めました。三河の徳川氏と結んで背後の憂いを断った織田信長は、舅の斉藤道三亡き後の美濃統一に乗り出しますが、1561年5月に斉藤義龍が病死して嫡子の斉藤龍興(たつおき,1548-1573)が後を継ぎました。当主が龍興に代わってから信長の美濃侵攻が始まりますが、龍興は行状が悪く人望の乏しい人物だったので美濃の内部対立は深まっていましたが、信長の勢力拡大に対する他の戦国大名の警戒心が強く大国美濃(岐阜県)の支配にはかなりの年月を費やすことになります。織田信長は近江の浅井長政(あざいながまさ,1545-1573)と結んで美濃の斉藤龍興を繰り返し攻めますが、1563年の新加納の戦いでは龍興に破れるものの、1564年には龍興に不満を抱いた美濃三人衆の一人・安藤守就(あんどうもりなり,重治の舅)と竹中重治(たけなかしげはる)によって居城の稲葉山城を占拠されてしまいます。

龍興は鵜飼山城から祐向山城に逃走しますが、その後、安藤守就と竹中重治によって稲葉山城が返還されます。しかし、美濃の求心力の低下と斉藤龍興の人望の喪失は明らかであり、堅城の小牧山城を築いた織田信長は攻勢を強め、1567年(永禄10)には龍興方の重臣である美濃三人衆(稲葉通朝,いなばみちとも・氏家卜全,うじいえぼくぜん・安藤守就,あんどうもりなり)が信長に内応して謀反を起こします。内応に応じて進軍した織田信長軍は、美濃の重要拠点である稲葉山城(井ノ口城)を陥落させ、城主の斉藤龍興は伊勢長島へと落ち延びて反信長の闘争に参加し続けることになります。龍興は長島一向一揆や京都の三好三人衆と連帯して信長に受けた雪辱を晴らそうとしますが、遂に美濃当主に復帰することはできず1573年に越前の朝倉義景と共に信長軍と戦い戦死することになりました。美濃の小牧山城から稲葉山城に拠点を移した信長は、中国の古代王朝である周の文王が岐山(きざん)から起こったという故事に基づいて井ノ口の地名を『岐阜(ぎふ)』に改め、天下統一への野心を更に強固にしました。1567年11月から、信長は禅僧の沢彦(たくげん)が選んだ『天下布武(てんかふぶ)』の四文字を自分の印章として用い始め、日本全土を武力によって制覇するという専制統治の理想に向かって前進することになります。

織田信長の京都上洛と将軍・足利義昭の誕生

美濃支配の過程において、織田家の家臣団の中から農民出身の武将・羽柴秀吉(木下藤吉郎,1537-1598)と秀吉の支持者となる丹羽長秀(にわながひで,1535-1585)が頭角を現してきますが、美濃侵攻における秀吉のエピソードで有名なものとしては、1566年に一夜にして墨俣城(すのまたじょう)の築城に成功したというものがあります。尾張と美濃を支配領域に組み込んだ織田信長は京都上洛への野心を持ち始めますが、この時期の京都で幕府の実権を掌握していたのは足利将軍家ではなく、細川晴元の重臣・三好長慶(みよしながよし,1522-1564)や長慶の家臣である松永久秀(まつながひさひで,1510-1577)らでした。1546年(天文15)に管領・細川晴元(1514-1563)との戦いに敗れた12代将軍・足利義晴(在位1521-1546)は、13代将軍・足利義輝(在位1536-1565)に譲位して近江坂本に落ちますが、その後に晴元と和解して京都に帰還します。しかし1549年(天文18)に、管領・細川晴元が家臣の三好長慶との戦いに江口の戦いで敗れたことで、足利義晴と義輝は近江朽木谷(くちきがたに)に亡命を余儀なくされました。

山城・摂津などの畿内では、摂津の芥川城に拠点を置く三好長慶が実質的な最高権力者となり、室町幕府の足利将軍の権限は完全に失われます。だが、三好長慶の弟である三好義賢(よしかた)・安宅冬康(あたかふゆやす)・十河一存(そごうかずまさ)に支えられた三好政権は長くは続かず、長慶に対立する管領・細川晴元や近江の六角承禎(ろっかくしょうてい,1521-1598)の働きかけによって、1558年に13代将軍・足利義輝が京都に帰還することになります。近江六角氏の六角承禎(六角義賢)は将軍・足利義輝を支援して戦いましたが、1560年には浅井久政の嫡男・浅井長政の攻撃を受けて領土を減らし、1568年には足利義昭を奉じた織田信長軍を『観音寺城の戦い(かんのんじじょう)』を戦って大敗し戦国大名としての六角氏は没落します。その後も六角承禎は、浅井長政や三好氏らと連帯したり15代将軍・義昭の信長包囲網に加わったりして『反信長の戦闘』を続けますが、1570年に信長の家臣・柴田勝家に敗れて監禁され1574年には脱走して消息が不明となりました。13代将軍・義輝が京都に戻った翌年の1559年2月に織田信長上洛し、4月には越後の上杉政虎(上杉謙信)が上洛して義輝に忠誠を誓い『上杉輝虎(てるとら)』と改名しています。

1560年に、三好長慶は御相伴衆(ごしょうばんしゅう)と修理大夫(しゅりだいふ)に任命されて管領・細川晴元に次ぐ幕政ナンバー2の公的地位を手に入れますが、1561年以降は次々と三好一族の重要人物や嫡子が死去することとなり、長慶の心身は極度に荒廃してその権勢を弱めていきます。三好長慶は1561年(永禄4)に弟の十河一存、1562年(永禄5)に弟の三好義賢、1563年(永禄6)に嫡男の三好義興を相次いで亡くし……最後に追い討ちを掛けるように家宰・松永久秀の讒言と策略にはまってしまい、1564年5月に忠実な弟であった安宅冬康を自らの命令で誅殺してしまいました。精神的に荒廃して政治的な活力を完全に失っていた長慶は、同年7月4日に河内飯盛山城下の屋敷においてひっそりと淋しく病死し、幼年の三好義継(よしつぐ,1551-1573・十河一存の子)が家督を継ぎました。

三好長慶に代わって幕府の最高権力者として台頭したのは、幼少の三好義継を補佐する家宰の松永久秀と三好三人衆であり、陰謀と策略に抜きん出た才覚を持ち権威を恐れない松永久秀(1510-1577)は、大胆にも13代将軍・足利義輝の暗殺を計画します。三好一族の重臣であった三好三人衆とは、三好長逸(ながゆき,生年不詳-1573)・三好政康(まさやす,1528-1615)・岩成友通(いわなりともみち,生年不詳-1573)の三人のことを指します。三好三人衆は1566年以降、上洛を伺う信長との戦いに敗れ、将軍・義昭が京都から追放されて反信長の戦いを挑み始める1573年中には京都・畿内における影響力を完全に失いました。大和(奈良)の信貴山城(しぎさんじょう)を拠点とする商人出身の松永久秀は『乱世の梟雄』としてその権謀術数の怜悧さを恐れられましたが、織田信長が1568年に上洛すると、名茶器の『九十九髪茄子(つくもがみなす)』を差し出して信長に降伏して家臣になります。最終的には、上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺と呼応して信長に再度の反乱を企てたものの戦いに敗れることになり、爆死という奇天烈な方法によって自害を遂げます(1577年10月10日)。

長慶の後継者である三好義継は、1565年(永禄8)5月1日に13代将軍・足利義輝から『義』の字を偏諱されて『義重』と改名し義輝の奏請で左京大夫へと昇進するのですが、松永久秀と三好三人衆の傀儡であった三好義重(義継)松永久通(ひさみち,1543-1577)と共に将軍・義輝の居館を襲撃します。1565年(永禄8)5月19日昼間に、三好義継と松永久通は約1万の軍勢で将軍・足利義輝の居る二条御所を包囲して襲撃し、義輝は奮闘も虚しく殺害されました。足利義輝は上泉信綱(かみいずみのぶつな,1508-1577)に剣術の指導を受け、塚原卜伝(つかはらぼくでん,1489-1571)に奥義の伝授を受けた将軍であり、『剣豪』『剣聖将軍』と呼ばれることもあります。そのため、松永久秀方の襲撃を受けた将軍・義輝は、畳に複数の刀を刺して敵襲に備え、次々と刃こぼれする刀を取り替えながらかなりの人数の敵を豪快に斬り伏せたといいます。白昼堂々、征夷大将軍が家臣から襲撃されて殺されるという前代未聞の事件が起きたわけですが、この松永久秀と三好三人衆が裏で画策した暗殺事件を『永禄の変(1565)』と呼びます。『永禄の変』によって将軍権威の復活を必死に模索した足利義輝の努力は無に帰すことになり、将軍がいなくなった後には松永久秀と三好三人衆の仲間割れが深まることになります。

14代将軍・足利義栄(あしかがよしひで,1538-1568)は久秀と三好三人衆に傀儡将軍として擁立された阿波在住の将軍ですが、両者の対立が激しくなると三好三人衆に担がれて『久秀討伐令』を発布しました(1565年12月)。三好三人衆と松永久秀の抗争に翻弄された義栄は、三好三人衆の推挙で1568年2月8日に14代将軍に就任しますが、背中に腫瘍(腫物)を患っており結局京都に入ることがないまま、1568年9月に腫瘍を悪化させて死去しました。1568年9月という日時は、奇しくも上洛して天下布武の号令をかけようとする織田信長が15代将軍となる足利義昭を奉じて上洛した年でした。足利義輝には鹿苑寺院主の足利周嵩(しゅうこう,生年不詳-1565)と奈良の一乗院門跡・足利覚慶(かくけい,1537-1597・足利義昭)がいましたが、周嵩は永禄の変後に久秀に殺害され、後の足利義昭となる覚慶だけが生き残りました。足利義昭(法名・覚慶)は12代将軍・足利義晴の次男ですが永禄の変の時は出家しており、松永久秀らに危うく殺害されるところでした。しかし、越前一乗谷の朝倉義景(あさくらよしかげ,1533-1573)や重臣・細川藤孝(ほそかわふじたか,1534-1610・細川幽斎)の支援を受けた覚慶(足利義昭)は奈良を脱出することに成功し(1565年7月28日)、室町幕府の再興を図ることになります。

室町幕府の権威を愚弄して政権を壟断する松永久秀と三好三人衆を討伐するため、覚慶(義昭)は日本の全国各地の戦国大名に次から次へと『幕府再興の出兵・助力』を要請する書状を出します。覚慶が最も軍事的な助力を期待していたのは、13代将軍・義輝に忠誠を誓っていた越後の上杉謙信でしたが、謙信は北条氏政や武田信玄と交戦中で身動きが取れず覚慶はしきりに停戦の調停を行おうとしました。1566年2月に覚慶は還俗して名前を足利義秋(よしあき)に改めますが、幕府復興の軍事勢力として最も強い期待を寄せる上杉謙信や武田信玄以外にも、薩摩の島津貴久・義久父子や織田信長、斉藤龍興にも助力を依頼しました。1566年8月には三好三人衆の三好長逸に攻められた義秋は、越前一乗谷の朝倉義景を頼って更に上杉謙信に厳しく出兵を督促します。1568年に上杉謙信・武田信玄・北条氏政の三国同盟が成立して、いよいよ謙信が京都に上洛してくるのかと思われたのですが、越後の一向一揆や国人の反乱によって謙信はなかなか京都への出兵を断行できませんでした。1568年2月には足利義栄が14代将軍として朝廷に承認され、1568年4月には越前一乗谷で元服を終えた義秋が足利義昭(よしあき)と更に改名しました。

足利義昭は尾張と美濃を制覇した織田信長にも上洛と出兵を呼びかけていましたが、信長は北近江の浅井長政(あざいながまさ,1545-1573)に妹のお市を嫁がせて同盟を結び、北伊勢に滝川一益(たきがわかずます)を派遣して侵略するなど着々と上洛の準備を進めていました。北伊勢の有力氏族を完全に服属させるために、信長は三男の織田信孝(のぶたか,1558-1583)を北伊勢の有力な一族である神戸氏(かんべ)の養子にしました。義昭の出兵要請と第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう,在位1557-1586)の上洛の綸旨によって『京都上洛の大義名分』を得た信長は、1568年7月に佐久間信盛(さくまのぶもり)・村井貞勝(むらいさだかつ)を使者として派遣し、義昭の身柄を拠点の岐阜へと移送します。信長は近江の六角承禎と同盟を結んで安全な通行路を確保することに失敗しますが、1568年9月7日に実力行使で上洛の道を進むことを決断し、尾張・美濃・伊勢・三河の領土から約4万の大軍勢を集めて岐阜から京都へ進軍を開始しました。圧倒的な軍事力で突き進んでくる信長を前にすると、9月12日に近江の六角承禎・義治親子は拠点の観音寺城を捨てて伊賀へと逃走し、織田信長と足利義昭は1568年9月26日に、三好三人衆が逃げ出した後の京都に悠々と入京しました。

京都に入った織田信長は細川藤孝(幽斎)に京都警固役を命じると同時に、勝龍寺城で岩成友通(いわなりともみち)を破り、摂津芥川城の三好長逸(みよしながゆき)と摂津越水城の篠原長房(しのはらながふさ)を倒して四国の阿波へと追い落とします。摂津芥川城を拠点とした信長の下には次々と降伏する者たちが集まり、京都・畿内で実質的な権力を掌握していた松永久秀も『九十九髪茄子』の名茶器を持ってきて信長に服従しました。1568年10月14日に足利義昭は京都の本圀寺(ほんこくじ)に入り、10月18日には室町幕府の第15代征夷大将軍に任命されることになり、義昭の信長に対する感謝の念は並々ならぬものがありました。15代将軍・義昭は『幕府復興の最大の功労者』である織田信長に、近江・山城・和泉・摂津・河内といった畿内の最重要拠点や副将軍・管領の地位を恩賞として与えようとしますが、室町幕府の政治機構に従うつもりなど全くない信長はこれを拒否して岐阜へといったん帰国します。

将軍の権威と幕府の秩序を回復した織田信長は、堺・大津・草津といった重要な商業都市・交通拠点に代官を置く権限を獲得し、商業都市や石山本願寺などの寺内町に矢銭・礼銭などの税金を賦課しました。信長が足利義昭を15代将軍の地位につけた1568年は、全国の戦国大名に織田信長の圧倒的な存在感と強大な軍事力を見せ付けた年であり、信長が『天下布武の手段』として室町幕府の権威と政治機構を利用する足がかりが準備された年でもありました。この後、『御父織田弾正忠・武勇天下第一』と呼んで父親のように慕っていた信長と足利義昭の関係が急速に悪化していき、義昭は幕府・将軍の威令に服従しない信長を討伐するために全国の大名に信長包囲網の形成を命令する事態へと発展していきます。

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