親鸞と浄土真宗

親鸞の誕生と比叡山延暦寺での修行
他力本願の念仏信仰へと向かう親鸞
親鸞の悪人正機説と平等な救済

親鸞の誕生と比叡山延暦寺での修行

釈迦の死後1,000年間は正しい仏法がそのまま実施される『正法』の時代であり、その次の1,000年間は正法を筆写(表象)したような『像法』の時代となり、正法の時代よりも仏法の威光や効力が弱くなってしまうといいます。『大集経』を根拠にする仏教の末法思想では『像法』の時代が終結すると、仏法の正しい教えの効力が弱まる『末法』の長い時代が始まるとされています。

親鸞(1173-1263)は、天変地異や政情不安、戦乱・略奪が渦巻く末法の時代の真っ只中である1173年(承安3年)に、下級公家の家系である日野家に生まれました。親鸞の父親は日野有範(ひの・ありのり)、母親は清和源氏・八幡太郎義家の孫娘・吉光女(きっこうにょ)と伝えられていますが、平安貴族の頂点(摂関家)に君臨する藤原家の流れの中では非常に不遇な立場にありました。

日野家は、藤原家北家の傍流に位置する血筋で、日野有範は皇太后大進という皇太后の側近くに仕える閑職の地位に甘んじていましたが、日野家没落の原因を作ったのは親鸞の祖父・日野経尹(つねただ)であったといいます。日野経尹が、朝廷の不興を買ったことで日野家の栄華の道は閉ざされたといいますが、1180年(治承4年)に『以仁王の乱』が起きて日野有範の弟・日野宗業(むねなり)がその騒乱に巻き込まれることになります。

平安時代末期には、軍事力を背景にした平氏・源氏の武士勢力が伸張してきて、古代社会の主権者であった平安貴族の地位を脅かすようになってきますが、権勢を振るう平氏政権を打倒しようとした『以仁王(もちひとおう)の乱』も源平の戦乱の流れの中に位置づけられます。後白河天皇が崇徳上皇を打ち破った『保元の乱(1156)』で平家一門が台頭し、源義朝率いる源氏一門を平清盛の平氏一門が追い落とした『平治の乱(1159)』によって朝廷を圧倒する平氏政権が産声を上げました。

その後、1177年に平氏政権を転覆しようとする後白河法皇(1127-1192)『鹿ケ谷の陰謀(鹿ケ谷事件)』が起き、陰謀の実行に失敗した後白河法皇は1179年の『治承三年の政変(治承三年のクーデター)』によって院政の実権を剥奪されます。豪胆と才覚に恵まれていた皇族の以仁王(1151-1180)は、源頼政(1104-1180)と共謀して平清盛を首班とする平氏政権を打倒せよという令旨(りょうじ)を出しますが、事前に陰謀が露見して以仁王と源頼政は殺害されました。親鸞の叔父の日野宗僕が以仁王の学問の師であったことで、日野家も陰謀に加担していたのではないかという疑念をかけられ、朝廷における日野家の立身出世はいよいよ難しくなりました。

我が子を朝廷の権力闘争に勝ち抜かせることは無理と考えた日野有範は、親鸞を仏教(天台宗)の総本山である比叡山延暦寺に預けて、僧侶としての栄達(身分の上昇)を目指させようとします。源平の戦乱が激しさを増し、古代王朝(平安貴族)の権力が斜陽の過程にある末法の時代に、9歳の親鸞は比叡山延暦寺に入山して厳しい修行と学問の日々に励むことになります。古代の飛鳥時代や奈良時代の頃から、公家の貴族が生きる世界は大きく『朝廷の政界』と『寺社の宗教界』に分かれており、朝廷での栄誉や出世が望めない公家の中には、大寺社に所属する僧侶になるものが多くいました。ただし、世俗から離れた宗教界(仏教界)である『寺社の世界』においても、最高位の僧侶へと立身出世するためには『公家の世界』と同じように、皇族・摂関家・大臣を輩出した貴族などの『高い家柄や身分』が必要でした。

比叡山時代の親鸞は、天台宗の教学と奥義を極めて悟りを開く為に、懸命に過酷な学問や修行に励みましたが、延暦寺での僧侶の出世は『学識・修行・実績』などによって決まるのではなく、『生家の家柄や身分の高貴さ』によって決まるので、(生家の家柄が低い)親鸞が比叡山で高僧となる望みは殆どありませんでした。幾ら学術研究に専心して高い教養を得ても、どんなに苛烈で危険な修行をして煩悩を断ち切っても、『延暦寺での僧侶の評価』にまったくつながらないことに親鸞は疑問を抱きました。更に、親鸞に深い苦悩と絶望を与えたのは、学問を深く修得することや厳しい修行に耐え抜くことが『人間の苦悩や絶望の救済』に全く役立たないということであり、『民衆・俗世から離れた学問研究としての仏教』に原理的な誤りがあるのではないかと考えるようになりました。

つまり、学問や知識を勤勉に蓄積することで涅槃寂静の悟りの境地に達することが出来るという『声聞(しょうもん)の悟り=聖道門(しょうどうもん)』に親鸞は疑惑を抱いたわけです。自分一人さえ苦悩から救えないような『声聞の悟りの道=仏法の学術研究の道』では、『一切衆生を救済する』という壮大な仏教の目的を達成することなどは及びもつかないのではないかと親鸞は思いを巡らします。学鑽によって悟りを開く天台宗の教えに限界を感じ始めた親鸞は、救済宗教である仏教の本質に立ち返る必要があると思い直し、『不安・恐怖・絶望・憎悪が渦巻く末法の世(五濁悪世)』を救う真の仏法を探し始めるのです。

世の中のあらゆる人々、貴賎・貧富・賢愚を問わない一切衆生を救うという壮大な目的に向かう前に、親鸞には絶対にやり遂げなければならないことがありました。それは、末法の世の峻険な現実の前に打ち倒されようとする親鸞自身を救うことであり、親鸞自身の苦悩と迷いを克服することで『仏法には人間の苦を取り除く力がある』ということを証明することでもありました。『人間の抜苦与楽(ばっくよらく)』の道としての仏法を模索する親鸞は、末法思想が波及する中で力を持ち始めた『阿弥陀仏(あみだぶつ)の浄土信仰』に眼を向けていくことになります。末法が始まる1052年(永承7年)に、関白・藤原頼通(ふじわらのよりみち)が建立した京都宇治の平等院鳳凰堂の本尊は阿弥陀如来(阿弥陀仏)です。このように、末法が始まって以後の時代には、貴族の間でも民衆の間でも、人間を極楽浄土へと導いてくれる『阿弥陀如来の本願の慈悲』にすがる人が増えてきたのです。

他力本願の念仏信仰へと向かう親鸞

生きる事に悩み悟りの道を歩むことに絶望した青年期の親鸞は、『比叡山延暦寺での学術研究・修行実践の道』では人間を究極的な絶望や苦悩から救済することは出来ないと感じるようになり、法然(1133-1212)の専修念仏(ただひたすら念仏を唱える)の仏教信仰に関心を寄せるようになります。法然も親鸞と同じように、元々は、比叡山延暦寺(天台宗)の敬虔で実直な僧侶でした。

法然は比叡山で10年の修行をし、奈良仏教(南都仏教)で10年の学究生活を送り、更に比叡山に戻って10年の学問・修行の時間を過ごしましたが、『30年に及ぶ伝統仏教(古代仏教)との格闘』を通して天台宗や奈良仏教では自分と民衆を救済することは出来ないという結論に至りました。唐の僧侶・善導の『観経疏(かんぎょうしょ)』と阿弥陀仏への帰依を説く『浄土教』を読んで、専修念仏(念仏信仰)こそが万民の苦悩を解決する究極的な仏法であると考え、京都の吉水を拠点にして念仏の信仰を広めました。

熱心な学僧であった親鸞も、当時流行していた浄土教の念仏信仰について知識・情報として知っていたので、早速、比叡山の常行三昧堂で念仏の修行を始めましたが、親鸞の悩みや迷いが念仏によって消え去ることはありませんでした。『なぜ、こんなに必死に一生懸命に念仏修行をしているのに私は救われないのだ』という疑念が親鸞を襲いましたが、親鸞が念仏によって救われない理由は正に『念仏を修行(苦行)として捉えている』という一点にあったのです。

つまり、親鸞が『南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)』という念仏を必死に唱える時、それが『一生懸命に修行や学問をした人の努力』に対してのみ、阿弥陀仏の救済が与えられるという『自力本願の修行』になってしまっていたのでした。念仏を唱える『称名念仏(しょうみょうねんぶつ)の信仰』の本質は、『阿弥陀如来(阿弥陀仏)の本願』に内在している「無限の慈悲」をただひたすら信じ抜くというところにあるのですが、生真面目な親鸞は『阿弥陀如来の慈悲よりも、自分自身の念仏の修行のほうを優先する』という根本的な間違いを犯していたのでした。

誰でも実施できる易行(簡単な修行)である『念仏』は、飽くまで、絶大な救済の力を持つ『阿弥陀仏の慈悲』を信じきることが重要なのであり、青年の親鸞のように『善行や努力を積み重ねる功徳』によって極楽浄土に行こうとする『修行の発想』では、親鸞が否定した『古代仏教(天台宗・南都仏教)の立場』と変わらないのです。比叡山の常行三昧堂で念仏修行をした親鸞が学んだ事は、『自力本願の善人正機の発想』では人間は救われないということでした。

親鸞は、自分自身が煩悩具足(ぼんのうぐそく=煩悩を消尽できない凡人)の悪人であることを自覚して、阿弥陀仏の救済を信じきる『他力本願の悪人正機の発想』を持たなければならないと考えました。親鸞は、自分自身の『修行・学問・善行による功徳=自力本願』では真の極楽浄土に辿り着くことは出来ないと悟り、『善人正機=正しい努力や修行をした人だけが救われるの発想』そのものを捨て去ることでしか人は救われないと思うようになります。

しかし、『思うは易し、行うは難し』であり、阿弥陀仏を徹底的に信じる『絶対他力の念仏信仰』の正しさを思いながらも、親鸞はなかなか自力本願の念仏修行の日々を捨て切れずにいました。決定的な宗教的転回点が未だ親鸞には訪れていなかったのですが、29歳となった親鸞は『他力本願の念仏信仰』の正しさを日本仏教の父である聖徳太子(574-622)に問おうとすることになります。聖徳太子は既にこの世の人ではないので、聖徳太子に垂迹(化身)していたとされる救世観音(ぐぜかんのん)を本尊とする京都烏丸通の六角堂に親鸞は篭もって『他力本願の念仏信仰の真偽』を問いました。

親鸞の悪人正機説と平等な救済

京都烏丸通の六角堂に篭もった親鸞は、100日間の間、聖徳太子の化身である救世観音に他力本願の念仏信仰について祈願を続けましたが、そうすると95日目の日に聖徳太子が親鸞のもとに示現して『法然のもとに向かって教えを聞け』というお告げを得ることが出来ました。早速、京都の吉水で念仏信仰を説く法然のもとに向かった親鸞は、念仏によって究極の悟りを得た法然に弟子入りをします。

百日間の間、毎日法然の教えを受ける為に吉水へと足を運んだ親鸞に、突如、『宗教的な回心=阿弥陀仏への完全な帰依』の時が訪れます。親鸞は浄土教の開祖・法然との邂逅(出会い)によって、阿弥陀仏の本願を無条件に信じる『他力本願の念仏信仰』こそが、末法の世の唯一の救済であることを悟ることが出来たのです。20年間もの長きにわたって比叡山の伝統仏教を学んできた親鸞は、法然との出会いによって『他力本願の念仏者』へと決定的な回心をしたのでした。

この『宗教的な回心』について親鸞の事績・思想について書いた『歎異抄(たんにしょう)』では、『念仏が極楽浄土への種なのか、地獄に落ちる悪業なのかは分からないが、たとえ法然聖人に騙されていたとしても一切の後悔などない』という内容が記されており、親鸞の他力本願の念仏信仰に対する師・法然の決定的な影響力を読み取ることが出来ます。『歎異抄』自体は親鸞の著作ではなく、親鸞の弟子の唯円あるいは覚如の著作と考えられています。

『歎異抄』に書かれた親鸞の教えによると、阿弥陀仏の広大無辺な本願(慈悲)を信じて念仏を唱える事が念仏信仰の本質であり、善悪や貴賎、貧富の別などは『救済の成否』に全く関係しないということになります。仏法は、『罪悪深重(ざいあくしんちょう)の罪深い人々』や『煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の欲望強い衆生』を救うために存在するのであり、極楽浄土を司る阿弥陀如来は『善悪・賢愚・貴賎の区別』などにこだわって救済する民衆を選ぶことなどはないということなのです。

阿弥陀仏の本願(慈悲)を超越するほどの善も悪も存在しないというのが親鸞の教えであり、一切衆生の救済は『阿弥陀仏の本願を心から信じて、念仏を唱えさえすれば良い』ということに行き着きます。阿弥陀仏の本願の慈悲を心から信じて、念仏称名をした瞬間に『往生決定(おうじょうけつじょう)』が起こり、いつも念仏を唱え続けなくても確実に極楽往生に行けることが決定するのです。

『歎異抄』で念仏を信じる人のご利益について、『信心の行者には、天神地祇(てんしんちぎ)も敬服し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえなり』という風に記述されており、親鸞は念仏信者のことを『念仏者は無碍(むげ)の一道なり』と簡潔に表現しています。無碍とは『一切の障害や妨げがない』という意味であり、真の念仏信仰に目覚めればあらゆる障害や苦悩を越えた無碍の一道を歩むことが出来るというわけです。

親鸞の説いた悪人正機説(あくにんしょうきせつ)とは、念仏信仰へと信心決定(しんじんけつじょう)すれば、善人であっても悪人であってもあらゆる人々が救われるという教えであり、念仏は煩悩具足の衆生のためにこそあるという思想です。『歎異抄』に示された親鸞の思想は、『極楽往生するために念仏以外の何ものも必要ではない』という教えであり、阿弥陀仏の本願(救済)の慈悲の『信心』と『念仏称名』によって、衆生は仏と同等の存在になれるというものです。

親鸞は、阿弥陀仏への信仰心が定まり念仏を唱えることを『信心決定(しんじんけつじょう)』と呼び、金剛(不退転)の信心が得られた時にあらゆる人々は諸仏と同等の位に就くとしています。特に、念仏者は、来世において仏陀となることが確実である『弥勒菩薩(みろくぼさつ)』と同等とされ、阿弥陀仏の誓願は念仏者に『摂取不捨(せっしゅふしゃ)』の利益(往生の確約)を与えるとしています。

摂取不捨というのは、阿弥陀仏の本願(慈悲)を信じる信心決定をすれば、阿弥陀仏は決してその人を見捨てることが無いということ、極楽往生の約束が破られることは絶対にないということです。つまり、信心決定した人が予期せぬ不徳を積んだり、悪事を働いたとしても、それによって極楽往生の権利が消滅したりすることはないのです。鎌倉仏教の中で親鸞を始祖とする浄土真宗がもっとも栄えた背景には、この『摂取不捨による極楽行きの絶対の保証』を考えることも出来ます。しかし、親鸞自身には独立した宗教宗派を打ち立てようという野心はなく、浄土真宗が本格的に巨大な権力を併せ持つ宗教教団になるのは、浄土真宗中興の祖と言われる蓮如(1415-1499)の時代からでした。蓮如は、衰退していた浄土真宗の本願寺を再興した人物であり、京都・山科本願寺を建設するだけでなく、大坂の石山に石山御坊(後の石山本願寺)を建立しました。

蓮如の時期に浄土真宗(一向宗)は一気に勢力を拡大して、強大な戦国大名に匹敵するだけの軍事力と経済力を誇るようになり『仏教国(仏国)』さながらの威光を示していました。細川晴元と結託した日蓮宗の焼き討ちを受けた『天文法華の乱(1532)』で山科本願寺は消失しますが、石山本願寺のほうは顕如の時代の1580年まで存続しており、『石山本願寺城』と呼ばれるほどの難攻不落の要塞となっていました。

天下布武(天下一統)を目的とする織田信長と信仰拠点を保持したい石山本願寺門主の顕如(1543-1592)との間に、11年の長きにわたる『石山合戦(石山戦争, 1570-1580)』が起こり、最終的に織田信長が石山本願寺を下して門主である顕如を退去させます。浄土真宗の総本山である本願寺は顕如の時代に最盛期となり、最強の戦国大名であった織田信長を大いに苦しませるほどの軍事力と政治力を誇っていましたが、石山合戦に敗れて石山本願寺が炎上してからは、農民や土豪勢力を糾合した一向宗(浄土真宗)の勢力は徐々に衰退していきました。

時代が進みすぎましたが親鸞の悪人正機の話に戻ると、悪人正機説は『善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』という有名なフレーズで表されますが、その部分をもう少し長く『歎異抄』(Wikipediaの参考ページ)から引用すると以下のようになります。悪人正機の思想そのものは親鸞の独創ではありませんが、親鸞(浄土真宗)が『無知・無能・欲深(貪欲)・下賎・悪徳であっても救済される』という意味で悪人正機を広めたことで、農民層が幅広く念仏信仰に帰依することになりました。悪人正機については親鸞の師の法然も言及しており、大乗仏教の学説としてはかなり古くから言われていたようで、7世紀の朝鮮の学僧である元暁(がんぎょう)『遊心安楽道』の中で悪人正機の衆生救済について触れています。

善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。

そのゆゑは、自力作善の人(善人)は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれら(悪人)は、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

『歎異抄 第三章』

『阿弥陀仏の本願(慈悲)にすがる他力本願』に基づく悪人正機説の本意は、『悪人であってもどうせ極楽往生するのだから、どんな悪事を働いても構わない』というものではなく、『どんなに善行を積もうとしても、煩悩(欲望)を断ち切れない悪人である自分に気づき、そんな悪人である自分をも寛大に救済してくれる阿弥陀仏の慈悲に感謝(報謝)して生きる』というものです。

親鸞の悪人正機説は『キリスト教の原罪』に近い部分があり、自己の内面や行動を反省(内省)することで、善人になろうとしてもなりきれるものではない『自己の原理的な悪性(煩悩)』を洞察することにその始まりがあります。そういった『煩悩具足の人(煩悩を消し去れない凡愚な人)』を確実に救済してくれるのが阿弥陀如来の広大無辺な誓願(慈悲)であり、念仏信仰者は『自己の救済(極楽往生)』のためだけに念仏を唱えるのではなく、『救済して頂いた阿弥陀如来への感謝(報恩)』のためにも念仏を唱えるのです。

悪人正機説を包括する他力本願の念仏信仰には、『阿弥陀仏への感謝・報恩の気持ち』が込められているのですから、『どうせ悪人でも極楽に行けるのだから、どんなに悪い事をしても構わない』という考え方をするような人は、念仏者には存在しないということになります。傲慢な思想を持って他人に害悪を与える浄土真宗の信者もいるかもしれませんが、それは親鸞から言わせれば、『阿弥陀仏に対する忘恩の徒』であり、真の念仏信仰者ではないということになるでしょう。

『悪人』とは実際に悪事(犯罪)や乱暴を振るう人という意味合いよりも、『根本的な悪性や罪深さから逃れられない凡庸な人=一切衆生に当たる煩悩具足の人』といった意味合いが強く込められていると考えると分かりやすいと思います。念仏には『阿弥陀仏への感謝・報恩の気持ち』が込められていると書きましたが、親鸞は『無碍の一道』を歩める念仏者を増やすために『念仏の布教』を熱心に行い、一切衆生の救済につながる布教活動こそが阿弥陀仏への報恩(感謝)になると考えていました。末法の時代における究極の救いは、阿弥陀仏の本願(慈悲)にしかないという念仏信仰の教えを親鸞は必死に説き続け、まさに『念仏の布教』を自分の人生の使命としていたのです。

『阿弥陀経』には、『来世における極楽往生』だけでなく『現世における諸仏・諸神の加護』についても触れられており、親鸞は、阿弥陀仏の本願によって救われるとしても、他の諸仏や諸神を軽視したり否定して良いことにはならないと戒めました。日蓮が開いた日蓮宗では、法華経以外の経典(南無妙法蓮華経以外の称名)は全て邪教であるというような排他的な教えが説かれましたが、親鸞の念仏道場では、念仏信仰の直接の対象である阿弥陀仏以外の諸仏・諸神も『現世で生きる間の衆生』を守護してくれるので大切に取り扱うようにと教えていました。

親鸞は、日蓮宗やキリスト教、イスラム教のような『一神教的な絶対性・排他性』を目指すことはなく、阿弥陀仏以外の仏たちや神々も『念仏信仰に衆生を導き、現世での安全や繁栄を守ってくれる』という重要な役割を果たしていると教えたのです。念仏信仰には、『南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)』と称名すれば現世利益がすぐに得られるという誤解もありましたが、親鸞が説いた念仏の効用は『阿弥陀仏による死後の極楽往生』『輪廻の宿業からの解脱』であり、『お手軽な即時的な現世利益』に関しては否定しました。

親鸞は、阿弥陀仏へと信心決定して念仏を唱えれば、誰でも諸仏と同等の地位に立つ『妙好人(みょうこうにん)』になれると説きましたが、他力本願の念仏信仰は『無為なる現世の幸福(何もしなくても現世で財産や安楽を得られる)』を約束するわけでは当然なく、その意味では浄土真宗には奇跡的な現世利益はないと言えます。つまり、仏教の念仏信仰によって、重い病気を平癒させるとか、貧乏な人がお金持ちになるとか、下層階級の人が政治権力を手に入れるとか、人間関係の悩みをすぐに解決するとか、そういった『奇跡的な現世利益』を親鸞や鎌倉仏教の始祖たちは明確に否定しました。

浄土真宗をはじめとする鎌倉仏教の特徴は、平安仏教(古代仏教)に見られた『超能力的な加持祈祷(祈れば病気や問題が解決する)』を否定したところにあり、親鸞はお手軽な現世利益ではなく、『人生を堂々と生き抜く自信と覚悟』という現世利益を農民を主体とする衆生に与えたのです。親鸞が説いた阿弥陀仏への他力本願で得られるのは『死後の極楽往生(輪廻の苦悩の解脱)』と『現世における諸仏の加護』であり、念仏者と雖も『現世における幸福と栄光』は自分自身の努力と行動で掴み取っていかなければならないことになります。

親鸞は、天変地異や戦乱の危機に喘ぐ民衆の無力感と絶望感を、阿弥陀仏の本願(救済)を信じさせることで打ち消し、自信と安心感を持って『現世における生活』を頑張れるように導いたのでした。善悪や賢愚、貴賎を区別せずに、あらゆる人に人生を生き抜く自信と安心を与えることが親鸞の宗教的使命であり、阿弥陀仏の誓願によって死後の極楽往生を確実に保証し、現世の生活に天神・地祇の保護を与えることで衆生の現世の生活をバックアップしたのでした。浄土真宗の念仏信仰の本質は、身分や知性、財力に左右されない『完全に平等な救済』にあり、念仏信仰によって一切衆生に『無碍の一道(一切の障害や迷いのない人生の道)』を力強く歩む勇気を与えたのです。

Copyright(C) 2007- Es Discovery All Rights Reserved