イエスとその弟子の十二使徒

ナザレのイエスとしての布教の生涯

人間としての肉体を持つナザレのイエスは、紀元前4-3年頃に聖母マリア処女懐胎によってベツレヘムに生誕した。ナザレのイエスは大工の仕事を生業として、敬虔なユダヤ教徒として旧約聖書を読み、ユダヤ教の礼拝所であるシナゴーグへ足繁く通ったという。

イエス・キリストは、天上にまします神そのものである証として、性行為という原罪を伴わずにこの世に生を受けた。肉体を持つイエスの母親であるマリアをどう解釈するのかは、カトリックかプロテスタントかによって異なる。

ローマ法王を頂点とするカトリック教会では、聖母マリアはそのまま神の唯一の母として崇拝の対象となっている。一方、聖書の記述に飽くまで忠実であろうとする宗教改革を経たプロテスタント諸派は、概ね、マリアを通常の人間と解釈してその崇拝を偶像崇拝として退けている。

イエスは、西暦28年頃に、当時、神の国の到来と悔い改めを説教する洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、ガリラヤ地方を中心として布教活動を開始する。新約聖書の記述では、ヨハネは洗礼する以前からイエスが神としてこの地上に降り立ったことを知っていたとされる。イエスがゴルゴダの丘で処刑されたのは西暦29年頃とされるから、30歳をやや越えた当たりで肉体を持つイエスとして『人類の贖罪』の役目を果たしたようである。

イエスは、ガリラヤで独自の宣教を開始する以前、洗礼を受けて荒野に赴き仏教の開祖釈迦のような過酷な断食や苦役の修行をしたと伝えられる。独自の宣教というのは、当時、ユダヤ教の有力派閥であったパリサイ派の盲目的な律法遵守、融通の利かない教条主義や形式的な道徳主義に、イエスは自由な精神と誠の信仰を持って真っ向から対立したからである。肉体を帯びたナザレのイエスは、旧約聖書のイザヤ書に記されたような『神の福音』を地上のあらゆる人々に伝える為に、この世界に遣わされたのだと語り意欲的な宣教活動をした。

旧約聖書:イザヤ書

主の御霊が私に宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、私を聖別してくださったからである。

主は私を遣わして囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである。

ナザレのイエスの宗教思想や信仰生活は、当時の教条主義者パリサイ派からは異端信仰とみなされ、ローマ帝国の政治権力に接近していたサドカイ派からは貧困階層を結束させて反乱を画策する危険人物とみなされた。ユダヤ人達の多くが到来を望む救世主は、イエスのような平和主義者ではなくて、絶大な武力とリーダーシップによってイスラエル王国を復興してくれる救世主であったから、ユダヤ人の大衆層からもイエスは余り支持されなかった。

最後には、聖地エルサレムにおいて、側近としてイエスに随従していた十二使徒の一人イスカリオテのユダから裏切られ、イエスはローマ総督ポンテオ・ピラトに捕縛される。裁判の結果、イエスはローマ帝国皇帝に対する反逆罪の汚名を着せられて、エルサレム郊外のゴルゴダの丘で屈辱的な十字架刑(磔刑)に処されることになる。イエスは、西暦29年に35歳くらいの年齢で磔刑に架けられたとされている。

このイエス・キリストの磔刑による死は、一般に、人類の始祖であるアダムが犯してその時まで続いていた原罪の『贖罪』であったと解されている。一神教の世界観では、人間は生まれながらにして罪深い存在と定義され、他者を傷つける利己心や動物的欲望、神への反抗心といった原罪を背負っていると考えられている。その悪なる行為や欲望の起源は、神に逆らって知恵の実を貪ったアダムの原罪にあるのだが、イエスが十字架刑によってその罪を贖ったというのである。

イエス・キリストは、自らが高貴なる血液を流して尊い生贄となることで、人類が背負わされたアダム以来の原罪を贖った。『神に対する反逆』というアダム以来の大罪を、神自身が痛みと屈辱の磔刑に処されることで贖ったという意味で、『磔刑による贖罪』という概念はキリスト教信仰において非常に重要な意義を持っている。原罪を背負い間違いばかりをしている人間を決してお見捨てになることなく、無限の愛情と保護を与えてくれる神のイデアを象徴するような概念として受け取られていると考えることも出来る。

イエス・キリストの十二使徒

イエス・キリストに側近の弟子として仕え、原始キリスト教の布教活動を精力的に行った12人の人物を『十二使徒』と呼ぶ。

十二使徒とは、ペテロ・アンデレ・ヤコブ・ヨハネ・ピリポ・パルトロマイ・トマス・マタイ・アルバヨの子ヤコブ・タダイ(ユダ)・シモン・イスカリオテのユダの12人である。

イエス・キリストに随伴する12人の使徒は、全知全能の神が統率する新しい精神的王国の到来を意味すると同時に、イスラエル民族の12部族の歴史を象徴するものでもあった。イエスは、ガリラヤからサマリヤ、ユダヤというように南方に布教した後、北部のフェニキア地方にも足を伸ばして神の教えを説いたが、その宣教の旅路に同伴した12使徒のような弟子もいれば、在家の身でイエスの宗教に帰依し支援する信者もいたという。

教祖のイエスは、西暦29年に、ゴルゴダの丘で十字架上の磔刑による死を迎えてしまうが、各地に四散した弟子達は、イエス・キリストの復活体験者である使徒ペテロを中心に原始共産主義的な体制を取る原始キリスト教団を結成する。イエスを告発した裏切り者のイスカリオテのユダは、磔刑後に自殺するがその後継にマッテアがついた。12使徒率いる原始キリスト教は、ステパノなどの実務従事者と共に原始キリスト教団を盛り立てていき、ユダヤ教からの迫害をはねのけながらパレスチナ地域で勢力を拡大していく。

以下に、12使徒の代表的人物と初期の原始キリスト教における重要な聖人を簡単に説明しておきたい。

聖ペテロ・聖アンデレ

聖ペテロ聖アンデレは兄弟であり、ペテロはイエスと出会う前の俗名をシモンといった。シモンは、ガリラヤ湖沿岸のカペナウム地域の卑賤な漁師であったが、イエスに帰依して12使徒の中で最初の弟子となり、イエスからペテロ(ヘブル語でケパ,岩の意味)と呼ばれるようになった。

シモン(ペテロ)は妻帯者で、性格は直情径行の人であったが、苦難に直面して信仰を貫徹するほどの志操堅固は持ち合わせていなかったという。教祖イエスに向かって、『私は、どんな苦境に陥ろうとも、あなたを絶対に見捨てることはありません』と3度宣誓したが、ローマ総督のピラトにイエスが捕縛されたときにはイエスの信者であることを否認したと伝えられる。

イエスの生前には、意志軟弱な面があったペテロが、死後に巌のような信仰心を固めて、外国の異教徒に対する布教を積極的に行って初期のキリスト教会を代表する聖人となった。ペテロは、西暦67年頃にローマにて殉教を遂げることとなるが、苛烈さと英邁さを併せ持った聖パウロとの相性はあまり良くなかったとも言われる。弟の聖アンデレも、兄の聖ペテロと同様に、異境における布教を熱心に行い、特に黒海沿岸での勢力圏拡大に功績があったとされる。

聖ヤコブ・聖ヨハネ

聖ヤコブ聖ヨハネは兄弟であり、兄のヤコブはイエス・キリストの兄弟であるヤコブ(小ヤコブ)と区別する為に大ヤコブと称される。2人はイエスが初期に活動の主要舞台に選んだガリラヤの出身で、ゼペダイという漁師の息子達であった。

大ヤコブは、ボアネルゲ(雷の子)と異名を取るほどに激烈な勘気の持ち主であったが、西暦43年頃のヘロデ王のキリスト教迫害を受けて、12使徒で初の殉教者となった。弟のヨハネは、イエスから死後の母の世話を託された弟子であり、イエスより強い信頼と愛情を寄せられた弟子とされる。ヨハネは、迫害のターゲットにされやすかった12使徒の中で、唯一天寿をまっとうした聖人とされている。

聖パウロ・聖ルカ

聖パウロは、幼名をサウロといい、ローマ市民権を所有する裕福なユダヤ人家庭に産まれた。西暦3年頃に、ヘレニズム文化が隆盛していたキリキヤの州都タルソスで産まれたのだが、長じて教条的な律法主義を重んじるパリサイ派に所属するようになった。

パリサイ派は、ユダヤ教の伝統と歴史に準拠した律法を守ることこそが至上命題であると考え、律法厳守をあまり重視しない新興宗教のキリスト教に対して苛烈な攻撃や迫害を加えていた。熱心なパリサイ派のユダヤ教信者であったパウロは、キリスト教とイエスを強烈に憎悪して苛烈な迫害を行い続けた。パウロは、ストア哲学を修習した知識人として禁欲的な律法主義者となり、キリスト教の徹底的な弾圧を行おうとしたのである。

しかし、収監したキリスト教徒をダマスコへ護送する途上で、歴史上有名な『パウロの回心(パウロのキリスト教への転向)』が、正に、突如として彼の身に降りかかったのである。イエス・キリストへの絶対的な帰依の思いが電撃のようにパウロの内面をかけ巡り、パウロはそれまでのキリスト教弾圧の過去を強烈に悔い改めて最も敬虔な信者の一人となった。

意志強靭な信仰の人パウロであったが、パウロは遂にキリスト本人と面会する機会は得られなかったという。しかし、パウロの回心の夢幻体験の中で、パウロは、死より復活したイエスと対面して神の贖罪と赦しを授かったという。キリスト教信者へと転身したパウロは、ユダヤ教の律法主義を宗教の初期の段階としてその役目は終わったと考えた。また、神秘思想を持つグノーシス主義の信仰を、現実逃避の手段としての欺瞞に満ちた宗教だと切り捨てた。パウロに至って、イスラエルの宗教は、個別的な民族宗教から普遍的な世界宗教への長き道のりの第一歩を踏み出したといえる。

シリアのアンティオキアを活動拠点に据えたパウロは、現在のトルコに当たる小アジア地域を熱心に布教して回り、マケドニアからギリシアまでの遠路を3回も伝道して回ったのである。パウロの宣教師としての功績は、12使徒の中でも他の追随を許さない大きなものであり、鉄の意志と不退転の決意を持って望むパウロの信仰は凄愴なものであったという。

かつてキリスト教を執拗に弾圧して回ったパウロだったが、キリスト教に回心してからは自らがユダヤ人やローマ帝国の官吏から弾圧される側に回った。しかし、どんなに苛烈な攻撃もどんな艱難辛苦も、彼の信仰を曲げることが出来なかった。

原始キリスト教繁栄の基盤を築いたパウロは、ローマ帝国の首都からイベリア半島のスペインにまで伝道の大望を抱いていたが、パレスチナでユダヤ人に訴えられて西暦67年頃に首都ローマで殉教の死を迎えたという。キリスト教会は、1月25日を聖パウロ回心日とし、6月29日を聖ペテロ・聖パウロの日として祝福を与えることとした。

聖ルカは、シリアのアンティオキアで医師を生業としていたギリシア人だが、聖パウロに随従して長距離の伝道旅行を精力的に敢行した聖人である。ローマの牢獄に捕縛されたパウロの側近くにも仕えた人であり、初期キリスト教の重要な聖書文献である『ルカによる福音書』『使徒行伝』を執筆したとされる。


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