『大学』の名言6:心焉に在らざれば、視れども見えず

四書五経の一つである『大学』『中庸』と並んで、元々は『礼記』の中の一篇だったが、宋の時代以降に独立した書物として扱われるようになった。『大学』は成立年代も作者も不明であるが、『論語』『孟子』『中庸』と合わせて四書の一冊としたのは南宋の朱子(朱熹,1130-1200)である。朱熹は『大学』を経の1章と伝の10章とに分けて、経の部分は孔子の弟子である曾子が書いたもの、伝の部分は曾子以下の弟子が記録したものと考えた。それとは別に、『大学』は秦・漢の儒家が後世になってから再編集したものという説もある。

朱熹(朱子)の創設した『朱子学』は、江戸幕府の徳川将軍家が国学として採用した事から封建主義社会の身分秩序を支える学問というイメージが強いが、実際には万物を統御する普遍原理としての“気”を仮定した高度な抽象的理論であった。人間・社会・宇宙・モノは“理”の普遍原理によって結合しており、君子としての徳を高める自己修養(修己)で理を把握した者が、他者や社会を統治することができるという『修己治人』の思想を説いた。この『大学』においても、政治を司る君子が実践すべき道を説いており、その内容は『修身・斉家・治国・平天下』の儒教的な徳治主義(王道政治)へとつながっている。『大学』は、前近代の儒教文化圏では学問・政治を志そうとする君子(為政者・支配階級)の必読の書であった。

参考文献(ページ末尾のAmazonアソシエイトからご購入頂けます)
金谷治『大学・中庸』(岩波文庫),宇野哲人『大学』(講談社学術文庫),諸橋轍次『中国古典名言事典』(講談社学術文庫),伊與田覺『「大学」を素読する』(致知出版社)

[白文・書き下し文]

心不在焉、視而不見、聴而不聞、食而不知其味。(伝七章)

心焉(ここ)に在らざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえども其の味を知らず。

[現代語訳・補足]

心がここにない上の空の状態では、見ても正しく物を見ることはできず、聞いても正しく音を聞くことはできず、食べても本当の味を知ることはできない。

儒教では人間の知覚・認識を『機械的な仕組み』であるとは考えずに、『正しい行い・正しい精神状態』によってこそ、初めて物事を正確に知覚して理解することができるという風に考えていた。ただ目で物を見るのではなく、ただ耳で音を聞くのでもなく、ただ舌で味を味わうわけでもないというのが、『儒教の精神主義(道徳的な世界観)』である。この儒教の精神主義は、『近代自然科学の発想(客観的な観察・実験を重視して法則を確立していくという考え方)』を受け容れる際には逆に障害になってしまったりもした。

[白文・書き下し文]

好而知其悪、悪而知其美者、天下鮮挨。(伝八章)

好みて其の悪を知り、悪みて(にくみて)其の美を知る者は、天下に鮮なし(すくなし)。

[現代語訳・補足]

好きな相手であってもその悪い部分(悪事・欠点)を見逃さず、嫌いな相手であってもその良い部分(美点・長所)を認める事ができるという人は、天下にもほとんどいないものである。

『大学』の言葉には『人は其の親愛する所において辟(へき)す』というものもあるが、人間は自分が好きで気に入っている相手に対しては、依怙贔屓(えこひいき)をしたり不公平な対応をしやすいものである。この文章は、自分の好きな人の欠点や悪事から目を逸らさずに認める事、自分の嫌いな人の長所や善行を素直に認める事の大切さを説いているが、現実には『自分が嫌悪・憎悪している相手の利点(美点)』をそのまま認める事は誰にとっても難しい事ではある。だからこそ、君子の実践すべき徳目として取り上げられているのであろう。

[白文・書き下し文]

人莫知其子之悪、莫知其苗之碩。(伝八章)

人は其の子の悪を知ること莫く(なく)、其の苗の碩いなる(おおいなる)を知ること莫し。

[現代語訳・補足]

人間は自分の子どもの悪い部分は知ることがないし、(子どもが悪人に育ったとしても)自分が育ててきた苗(小さな子)が大きくなったとは思わないものだ。

儒教の子育て論として『親バカ』を戒めた言葉であり、自分の子どもが悪事・犯罪をしてもそれに気づかないような親はダメだという事を説いている。現代の子育ての仕方・しつけのあり方についても考えさせられる部分であり、自分の子どもが『いじめ・非行行為・犯罪』をしてもそれを認められずに、現実から目を背けて『うちの子に限って絶対にそんな事はしない』と逆ギレして言い張るような親(モンスターペアレント)になってはいけないという事である。

そして、親が『子どもの悪事・問題』を無視して放置し続けた結果、その子が悪人(犯罪者)に育ってしまうリスクもある……小人・無知である親は、子どもが悪人(悪い大人)になってしまっても、それを『自分の育児の影響(きちんとした養育やしつけをしなかった事による影響)』だとは思わないのである。

Copyright(C) 2012- Es Discovery All Rights Reserved