他者との関係性の中に生きる私と自由の可能性

哲学は、全ての事象の生起発展を完全に解明する『単一の真理』を探究する学問というギリシア以来の伝統的な側面を持ちながらも、現代において強く期待される事は、概念を論理的に組み立てる事で誰もが納得して理解できるような『世界の普遍的な説明もしくは認識』を提出し、『生の指針や思考の枠組み』を自分なりに体得する契機をもたらす事にあると考えています。

哲学の現代における役割を『より良く生きる事』『より思慮深く、人間や世界を知る喜びを得る事』といった日常的な生活に関連した部分におくと、ただただ難解高尚というイメージの哲学を身近に感じることが出来るかもしれません。

近代以降、それまでの思弁的な哲学に代わって、イギリスやフランスで科学的思考の基礎としての経験主義が生まれ、政治思想の分野では『自由な市民社会の成立』を目指す啓蒙主義が興隆しました。

ここでは、自由な参政権を持つ市民による民主的な市民社会という強力な理念を打ち出し、中世までの政治体制や社会制度を一気に転覆してしまった近代哲学についての再検証を通して、『私達の生きる社会の中での自由』あるいは『他者との関係性の中での自由』という事について考えてみたいと思います。

近代以前の中世ヨーロッパ社会は、絶大なキリスト教教会の権威の影響で、『人間は神の被造物であり、人の生きるべき道や人間の存在意義は聖書に記されてある』とする宗教的な雰囲気と価値観に覆われ、政治体制の面では国王による封建的な統治が正しいものとされていました。

中世社会は、基本的に変化することが少なく、一般民衆は、安定した秩序と身分制度、そして敬虔で謙虚な信仰生活の下で自給自足的な農耕牧畜を中心とした生活を行い、人は個人の能力や意志ではなく、『生まれた身分・出自』によってその一生の大部分を規定されていました。

絶対的なキリスト教の権威の理論的支柱は、長い年月をかけて精緻に体系的に構築されたキリスト教神学としての『スコラ哲学』でした。

近代以前には、このスコラ哲学に反対するような意見やスコラ哲学の誤りを指摘するような学説を唱えることはその絶対的権威によって許されませんでした。仮に正しい学説を提示して、その証拠を並べてもガリレオ・ガリレイの様に異端審問にかけられ、危険な異端思想の持ち主として刑罰を科されていたのです。

近代哲学は、この強固な象牙の塔であるスコラ哲学を客観的な実証や観察、より正しい論理的推論によって論駁して、人間の知的能力をより高い次元へと導く端緒を開いたといってもいいでしょう。

その口火を切ったのが近代哲学の中の経験主義者であるフランシス・ベーコン(1561〜1626)であり、『方法序説』を著して、人間にとって確実で明晰な知識を求めた近代哲学の祖と言われるルネ・デカルト(1596〜1650)だったのです。

デカルトは、『我思う、故に我あり(コギト・エルゴ・スム)』の言葉で非常に有名な哲学者ですが、デカルトの最大の功績は、『近代的自我の確立』『相対主義に拠らない懐疑論への徹底批判』にあると私は考えています。

デカルトは、『この世界でどれだけ疑っても疑い尽くせないものとしての自我』を提出することで、『この世界に確実で明白なものは何1つない』とする懐疑主義に痛烈な打撃を与えました。

更に、それまで絶対的に疑い得なかったスコラ哲学の教義や教会の教えさえも疑おうと思えば疑う事ができ、キリスト教の権威そのものはその教義の内容の絶対的な正しさを保証しないという事を明らかにしたのです。

先ほど述べた様に、中世ヨーロッパには市民社会というものは成立しておらず、神から統治の権限を委譲された王が貴族や民衆を支配する専制的な封建主義でした。

中世の世界観では、世界の創造者であり支配者である神が任命した王が下位の民衆を支配し、また民衆は王に服従して忠誠を尽くすのが『正しい秩序』であると信じられていて、この基本的な社会秩序を疑う者は殆どいませんでした。
(この考えを『王権神授説』と言います。東洋にも中国などにこれと似た『天命思想』がありました。)

勿論、千数百年にもわたって正統的な世界観だったスコラ哲学に支えられたキリスト教の世界観が、そう簡単に崩れるわけはなく、その権威と秩序を突き崩すまでには非常に長い時間と多くの知性溢れる人々の精力的な努力と思索が必要でした。

キリスト教を基盤とする既成秩序への反駁として人文主義(フマニスム)の側からは『痴愚神礼讃』などで有名なデシデリウス・エラスムス(1466〜1536)が出て、王制とは異なる共産主義的な世界を理想郷にした『ユートピア』で有名なトマス・モア(1478〜1535)が出てきます。

次いで、マルティン・ルターやジャン・カルヴァンによる激烈なキリスト教内部からの宗教改革運動が起き、教会の権威の下にキリストを語るカトリックとは別の聖書の権威に基づくプロテスタントが分離して、長い長い宗教戦争の泥沼へと突入していくのです。

そういった宗教改革の先駆者や宗教批判の人文学者に続いて、『自由で平等な個人』が形成する『市民社会』こそが封建的な王制社会よりも理想的で合理的な社会だと説く『啓蒙思想家たち(ジョン・ロック、ジャン・ジャック・ルソー、モンテスキュー、インマヌエル・カント、ヘーゲルなどの啓蒙思想的系譜)』が台頭してきます。

イギリスの経験論者であるジョン・ロック(1632〜1704)は、生まれたばかりの人間の心は、『タブラ・ラサ(白紙)』であるとして、人間の心の機能や性格、そして心に映る世界の表象は生まれてから後の『経験』によって形作られると主張しました。

彼は、人間個人の経験より先にある永遠不変のイデア的な神の世界を批判したのですが、神の存在そのものを否定するには至りませんでした。

同じイギリスの経験論者デイビッド・ヒューム(1711〜1776)は、当時にはまだ珍しかった無神論者で徹底した哲学的思考を論理的に巡らせて、世界の真実の姿を把握することに努めました。

彼の辿りついた世界原理は、『この世界には必然的あるいは決定的な因果関係は成り立たない。少なくとも確実に因果関係が成り立つという根拠は何処にもない』という、やや現代の私達からすると容易には理解し難い非因果的(何かの現象が起こったからといって、必ずしもその原因が確定できるわけではないという世界)な世界の姿でした。

しかし、ヒュームの考える根本原理である『世界は偶然的に今ある姿で慣習的に存在するが、何故、今ある姿で存在するかの原因は確定できない』というような世界のイメージは私達にも何となく共感できるものがあるのではないでしょうか。

自然科学の宇宙物理学などでは、ビッグバン理論や量子力学などの分野で世界のはじまりや物質の最も本質的なミクロの姿を捉えようとしていますが、それらの成果によって確実に疑い得ない世界の起源や物質の最小構成単位が分かった訳ではありませんから。

次に、近代哲学の巨人と言われるインマヌエル・カント(1724〜1804)が考えた『人間の原理』『人間の自由』について見ていきたいと思います。

直截に言えば、カントは人間の本質を『自由』であると観取しました。カント以前にも『天賦人権論』という自由を認める考え方がありましたが、天賦人権論は全知全能の神の存在を前提としていて、その神から人間に対して自由や平等が賜与されたという考えですから哲学的思索によって自由に辿りついたカントとは異なるものです。

勿論、神の権威が世界を覆う中世では、人間それぞれが神の被造物であり、神から与えられた教義・規範や社会秩序を守って生きなければならないとする宗教的な倫理観が一般的に持たれていました。

カント哲学の特筆すべき点は、現代では当たり前であると思われている自由という人間の本性を、神の権威や神学的前提を用いずに、論理的な自らの思索を持って『論証』したという点に求められるでしょう。しかし、ここで私達が注意しなければならない事は、『カントの説く自由』と『私達が日常的に用いる自由』の定義が大きく異なっているという事です。

現代社会では『他者(自分を束縛するモノ一切)に干渉されたり、強制されたりする事なく、自分の思い通りにしたい事をして、欲望のままに振る舞う事を自由である』と考える傾向があるが、カントが人間本性として考える自由はそれとは全く異なったもので『動物的な欲望や衝動を抑制して、道徳的な行為を行う事』『人間の自由』だと考えています。

これは、一見すると奇異な考えに見えますが、少し考えると論理的には理解できる見解だと思います。

人間は精神機能として、進化の前段階から生存を維持し、より多くの快楽を得る為の『本能的欲望』と善悪を区別して倫理的な判断をしたり、論理的な思考や数学的な情報処理を筋道を立てて順序正しく行う『理性』を持っていて、現実状況の中で欲望と理性は絶えずせめぎ合い、お互いに優位に立とうとして葛藤が起こっています。これはフロイトの精神分析理論でいえば、『エスと超自我の葛藤』に当たるものと考えていいでしょう。

カントは、この欲望と理性の対立葛藤の事態を前提にして、もし、人間に自由がなければ、動物と同じようにただただ自然の産物である欲望の奴隷となって『欲望充足を目的にした行動を取るだけの存在』となってしまうだろう、しかし、人間は本質的に自由な存在であるから欲望の支配を覆す理性による倫理的判断によってより正しい行為を行う自由があると考えたのです。

人間は弱い生き物ですから、殆どの場合は自らを快適にして心地良くする欲望の強さに打ち負かされ欲望の奴隷となってしまいますが、時にはその欲望を跳ね返す強靭な理性や意志による行動を取る事も出来ますね。

カントは、そういった欲望にただ従属するだけではないという人間理性の部分に、他の動物とは違う人間の本質である自由を見て取ったのではないかと思います。

以上の事を踏まえて、カントは、自由と道徳の関係性について次のような言葉を残しています。

『自由は道徳の存在根拠、道徳は自由の認識根拠』であると。

このカントの『人間の本質的自由』説は、『自由で平等な個人が、それぞれを対等な人間として承認し、社会規範は、支配者階級の独断的な法律ではなく、皆の意見を取り入れた法律によって規定されるべき』とする近代市民社会の根本を支える理念となりました。

カントの倫理規範としての善は、『神や聖職者から一方的に与えられる絶対的な教条の中にあるのではなく、不正を退けて正義を行おうとする人間理性の欲望に負けない力によって実現されるべきもの』でした。

更に、私達人間が、神の支配を受ける被造物としての等質的な人間ではなく、一人一人の個人が自由と責任と尊厳を持つ人間として主体的に生きることをもカントは示唆しているのではないでしょうか。

人間は、神の国や国家の栄光、君主の柱石といった全体的な目的の為に奉仕する『手段としての存在』から、自分自身の人生をより善く生きるという意味で自分の存在を目的とする『目的としての存在』に変質したとも言えます。

カントによる人間存在の根本的変化を受けて、人間の生活の場である社会の制度や体制、成立根拠に対する考え方も多くの啓蒙思想家の出現を受けて、大きく変化していきます。

近代市民社会の成立に大きな役割を果たした近代の政治思想家にジャン・ジャック・ルソー(1712〜1778)がいます。

彼は人間を本来的に社会の中で他者と関係してしか生きる事の出来ない『社会的存在』であるとして、社会に存在する支配と被支配の関係について徹底的に考察を深めました。ルソーは、社会を運営維持する為に『権力による統治や支配は必然的なもの』であると考え、支配や統治が避けられない社会の定めならば誰もが不公平や不正を感じない『支配・隷属の構造ではない公正な統治の理念』はないものだろうかという方向に考えを進めたのです。

ここで『平等な人間の間で統治や支配があるのはおかしいではないか?』という批判もあるでしょうが、私達の生きる現代社会を見ても分かるとおり、一定の政治権力の正当性や民主主義的手続きで制定された法律の強制力を認めなければ、私達は安心して安定した日常生活を送ることが非常に困難になります。

日本政府や警察機関、司法判断による刑罰、刑法や民法による保護法益というものの存在を完全に否定し、権力的な強制や保護、権利の保証を全て無くすとするならば、全ての個人をバラバラで平等な存在として認める事にはなりますが、その個人同士の不当な殺人・強奪・強姦・支配・窃盗などを制止する力がなくなる事で、個人同士が結びついた集団が対立する弱肉強食の世界を招来する危険がありますね。

とはいっても、国家の消滅による個人と地域が密接に結びついた共同体の成立の可能性を考える人々もいますから、未来永劫、国民国家的な権力による統治が正当なものとされるのか否かは、当然の事ですが、私には分かりません。

また、国家という枠組みが国益を巡る紛争や戦争を生み出す事もあり、世界に諸国家が存在する事がそれぞれの個人の安全と安定を保証する訳ではないという事も考える必要があるでしょう。

少し近代思想から話が脱線しましたが、ルソーの考える『正当な統治』の形態は、有名な『社会契約論』です。

社会構成員の集合としての社会が持つ政治権限にいったん『自分の自由』を委譲して、その政治権限からその自由を保証して貰い、保護して貰うという契約を結ぶという考え方ですが、この社会契約には自由を保証して貰っている社会の存続維持を図る為の『国防の義務』が社会構成員それぞれに課されるので、これは全体主義国家の思想ではないかという反論もあります。

この問題は非常に難しい問題ですが、現代に至っても、憲法9条を持つ日本はやや例外ですが、他の国々の国民は自分たちの国を守る為の戦争に参加することを義務的に考えている人も多いことからそれほど的外れな国家観ではないでしょう。

戦争そのものの非倫理性は糾弾されなければならないでしょうが、他の国家や集団から侵略を受けた場合に、自分たちが生きる社会を守る事をどのように達成するかはとても難しく、各人の幸福や自由の保護とも関係した深刻な問題だと思います。

他国から侵略された場合に、無抵抗に隷属するべきという考え方が正しいものなのかに対しては、多くの人が正義の一方的敗北という観点から懐疑的になるでしょうし、確かに侵略や攻撃を仕掛けてくる側が悪いのでしょうが、現代のように経済がグローバル化した世界の中では軍事的侵略以外にも経済制裁や経済的支配(貧富の格差を拡大するような経済政策)という間接的な攻撃や干渉が有り得るので実に事実関係が混沌としてきます。

ルソーの社会契約論は、近代以前の王権神授説を理論的基盤に持つ封建的な王による統治とは全く異なる革新的なものであったことは間違いありません。

王権神授説とは、世界の創造者であり支配者である絶対的な神が、選ばれし人間である王に地上の支配を委任して、政治権力を与えるというものです。神から地上の統治を任命された王は、その国家と民衆を支配する正当な権利を持ち、その王の政治を補佐する為の貴族階級の存在も認められます。

しかし、カントの本質的に自由な人間像の提示とルソーの社会契約論による国家権力の正当化によって、王による専制的な民衆の統治は本来あるべき正しい政治体制ではなくなりました。上述したように、人間は自由なのだから、国家権力や社会のルールなどという人間の自由を制限するものは廃止すべきだという考えは、弱肉強食の無秩序な社会を生み出す危険性が高いので余り現実味のある考えとは言えません。

人間は、皮肉なことですが社会規範としての法律で、ある程度の行動の自由や欲望を制限されてこそ、各個人の自由は平均的に保証されるという事は確かでしょう。何のルールも規範もそれを強制的に守らせる権力もないとするならば、肉体的・能力的・知能的に劣る人たちは、それらに優れる人たちの集団に一方的に不当に支配される事を抑止する手段がないという事になるからです。

そういった何でもありの無規範や一定のルールがない無秩序の中で、『強者の自由』『敗者の犠牲』といった人権思想に悖る事態を回避するためには、各人の尊厳や権利を保証するための『出来うる限り公正な権力』の存在が要請され、それが社会的権力(政治権限)であるとするのがルソー的な社会観であると言えるでしょう。

権力が何故、必要なのかという究極的な根拠は『正当な民主的手段で制定されたルールを守らせるため』という事に行き当たるのだと思います。

仮に、ルールだけがあって、権力が余りにも弱い場合にはどうなるかと言うと、よく小学校や中学校のいじめや上下関係のある友達関係に見られるような『お前の言っている事は、正しくてもむかつくんだよ。みんな、やっちまおうぜ』といったような無法な暴力による支配に社会のルールが敗北するといった事態を招くことになります。

実際、街中で見られるような暴力団や不良少年による集団暴行などでも、一般市民だけではそれを抑止することが出来ず、警察が来るまで傍観して見て見ぬ振りをしてしまうことがあります。それは、単純な力関係を考慮して、その場で自分がやられてしまうのかもしれないという保身的な恐れと、暴力団という暴力を手段として利益を得るような非合法な集団に逆らって、後で何かひどい仕返しや制裁を自分や家族受けるのではないかという恐怖や、不良少年の集団に、後でいきなり刺されたり、リンチを受けるのではないかという恐れがあるからです。

しかし、公的な権力というのは、通常、民間で構成される暴力的な集団とは比較にならない強大な組織と装備を持っていて、通常、その権力に対して不当な暴力的組織が打ち勝つことは不可能です。

だからこそ、あらゆる犯罪や暴力を抑止する実際的な能力があるのですが、反対に権力が暴走すると、過去の歴史の悲劇のように恐ろしいことも起こり得ます。

その事を考えると、権力は特定個人の手によって継続的に握られては恣意的に濫用される危険があるし、絶えず主権者である国民やマスメディアによる権力に対する監視や調整、適切な批判を行い、個人の自由や権利を抑圧したり、贈収賄による不公正な政治が行われているといった政治権力の問題がある場合には、選挙によってより有能で倫理的な政治家の選抜を行っていく必要があるのでしょう。

しかし、ルソーの考案した『社会の成立根拠と個人の尊厳保護の枠組み』を示唆する『社会契約論』は、現在でもそれ以上に個人の自由と権利を効率的に確実に守る方法が無い為に有効な考え方と言えると思います。

ルソーは、更に『統治権力の正当性の原理』について、『一般意志』という概念を用いて説明しています。

ルソー以前の統治権力の正当性は、何度も書いているようにキリスト教的な神によって根拠付けられていましたが、ルソーの社会契約では『その権力が民衆の一般意志を代表している事』によって正当性が確保されます。

一般意志とは、現代的に言い換えるならば『各人の自由と平等を保証し、各人の幸福と利益に還元されるような国民全体の利益を目指す意志』という事になります。国民“全体”の利益ですから、その一般意志は、特定の集団や組織、階級の人たちの利益や欲望を満たす為のものであってはならないわけで、これは『統治権力の公正性』という事に関係してきます。

近代以前の社会規範の目的は『社会の秩序維持』が中心であった為に、現在の力関係を維持して安定した社会を築く為に王や貴族の特権を守るための法律を制定することは正当性のある事でしたが、社会契約論的な市民社会においては社会規範の主要な目的は『個人の自己決定と自由の保証』にありますか。

そのため、特定の階級や集団の利益を図る法律は不公平で不正なものとなります。近代の市民社会においては、各個人は『平等の尊厳を持つ対等な個人』となったところが、それまでの身分制度に基づく差別を正当とする封建的な人間観と最も異なる点であると言えるでしょう。

市民社会の概念で最も革新的で有意義なことは、『階級・出自・職業・宗教・文化・思想信条』の違いによって各人の人間としての価値や尊厳が異なるわけではなく、何人であろうとも、その社会が公正な民主的手続きの元で制定したルールに従うならば平等で対等な個人としての権利と自由を持つという事だと私は思います。

対等な権利と自由を持つ私達個人は、多種多様な人々が暮らす社会の中で、相互に関係を持ち、影響を与え合いながら日々の生活を送っています。相互にお互いの自由を尊重し合い、承認し合う為には、自らの自由と権利を一方的に主張するばかりではなく、相手の自由や権利に対する十分な配慮と人間的な温かい思いやりを忘れない事が大切なのでしょう。

そして、自らの生き方を自己決定していく自由を確保し続ける為には、何よりも社会のルールを制定する政治権力というものに対して強い関心と注意を向けて、投票行動を通した参加意欲を持ち続けなければならないと考えます。政治権力の暴走による民衆の弾圧と歴史の悲劇は、その多くが国民の政治に対する不信からくる無関心の中で生まれたのですから。


参考文献
『哲学ってなんだ 自分と社会を知る』 竹田青嗣著 岩波ジュニア新書

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