2015/11/25
紫禁城 九龍壁 清代乾隆帝 造営の謎をプロファイル(2)
九王奪嫡
乾隆帝は我が子、皇子達に壁を見せる。
生死を分かつ権力闘争の姿。それが彼の帝王学でしょう。
九龍からみる乾隆帝の思い 雑考
もう1つ、変なところが、この大きな壁の龍にはあります。
龍の向きです。
明永楽帝の龍は、真ん中に正面を向いた玉をくわえ込む龍。これは永楽帝とも考えられます。
戦う龍が八龍
その他の8つの龍は、それぞれ1対づつ、炎の玉を奪わんと向かい合い、戦う姿です。
右向き龍⇛⇚左向き龍 これを4つ繰り返します。
右龍⇛⇚左龍 右龍⇛⇚左龍 右龍⇛⇚左龍 右龍⇛⇚左龍
シンメトリックでとても美しい。
乾隆帝の龍は、父雍正帝に捧(ささ)げられた。
九龍壁は帝位を争う皇子達の姿に他ならない。
龍は八龍と見ます。正面の龍は数えません。
龍の向きに注目。 対立とみます。龍の向きを右向き⇛ ⇚左向きで書くとこうなります。
右向き龍⇛⇚左向き龍 右向き龍⇛⇚左向き龍 正面向き ⇚左向き龍・右向き龍⇛ ⇚左向き龍・⇚左向き龍
どうしてこういう配列にしたのか今回、考えます。意味があるはずです。
なぜならデザイン的に考えれば、この配列は中国式には不出来で美しくないから。
そして紫禁城の秘話は、多くの文物の流出とともに、今に伝わらないから。
誰かが謎を解く必要があります。気楽な気持ちでどうぞお読みください。
上の紫禁城HPでは数字の9の説明がある。9は最強の数字とか。
ならば、なぜ九王奪嫡と関係付けないのか?不思議です。
雍正簒位(さんい)
康熙帝のあと皇位をめぐって他の皇子の間で暗闘が繰り広げられ
雍正帝の即位に関して様々な憶測が伝わり「雍正簒位」として民間に広まることとなる。
九王とは1,2,3,4,8,9,10,13,14皇子のこと
4斧(ふ)党 4皇子 13皇子 対 8斧(ふ)党 8皇子 9皇子 10皇子 14皇子の対立
九龍にあてはめ、龍の向きを示します。黄色は4斧(ふ)党。赤は8斧党
右から順に九王をすべて、すんなりと入れた場合
14 | 13 | 10 | 9 | 8 | 4 | 3 | 2 | 1 |
⇛ | ⇚ | ⇛ | ⇚ | 正面 | ⇚ | ⇛ | ⇚ | ⇚ |
これの一番まずいのは、中央に8皇子がくること。これはだめですね
今度は、真ん中に雍正帝、右から1,2,3,4、と順に8皇子を入れた場合
中は後の皇帝 雍正帝がやはりふさわしい。
この順番なら小さな皇子にも良く分かります。
8子 | 7子 | 6子 | 5子 | 中 | 4子 | 3子 | 2子 | 1子 |
⇛ |
⇚ | ⇛ | ⇚ | 正面 | ⇚ | ⇛ | ⇚ | ⇚ |
胤禩 | 胤祐 | 胤祚 | 胤祺 | 胤禛 | 胤祉 | 胤礽 | 胤禔 | |
皇籍を剥奪 | (夭逝) | 雍正帝 | 後の 雍正帝 |
のち軟禁 | 廃皇太子 |
主点の4皇子(後の雍正帝)と8皇子の対立(⇛ ⇚)はうまく出る
同様に9皇子から16皇子までをみる
主点の13皇子と14皇子の対立関係はうまくでる
13皇子と中の雍正帝をひとブロックで見れば、9、10皇子も、うまく刃向かう形となる。
その為か13帝は、奇妙な姿をしている。つまり体が丸く本来右向き、首だけ左を向く。この妙な姿はこれだけ。
4斧(ふ)党 4皇子 13皇子 対 8斧党 8皇子 9皇子 10皇子 14皇子の対立図式を表す
中国語です
4斧党 胤祥、隆科多、年羹尧、马齐、戴铎、鄂尔泰、田文镜、李卫
8斧党 胤禟,胤䄉,胤禵,
福全、满都护、景熙、吴尔占、苏努、阿布兰、佟国维、马齐、阿灵阿、
普奇、马尔齐哈、常明、徐元梦、巴海、法海、查弼纳、萧永藻、高成龄等等
その他 永楽帝 補足
遠征好きで国の繁栄の基盤をつくる以外、一見何のつながりも見つけられない両皇帝。
漢民族に同化、統治を良くする点。
ウィキで良く見ると、まずそのつながりが見えてきます。
明はイスラム系国家。貧農朱元璋から。元を倒す紅巾の乱は白蓮教、マニ教徒。
マニ教
マニ教は、はじめユダヤ教をベースにゾロアスター、後仏教、儒教、イスラム教も取り入れた世界宗教という。
一日に4から7回の礼拝。菜食。週末の断食。年一度の断食月。イスラムの匂いが良くします。
異民族
五代 宋も最近の研究では異民族だから、五代、宋、元、明、清と1000年近く中原は異民族支配となる。
ついでにイスラムの血の唐も入れると1400年になる。現在はこれが特に嫌われ、当サイトの唐の文物は隠蔽された。