お写真
M フォアグラ・ザッハトルテ・プラハの冬 |
空爆で破壊された橋 |
の日記 11.3〜ゆーご〜ユーゴスラビアは東欧の色濃く残る国だった。宿代が$払いではだめだったので、両替をしに街に出た。 空爆が行われていたのがまだ2年前。廃墟と化した建物がそのまま残り、全体的にもうら寂れた雰囲気だった。物価は安く、ベオグラードまでの列車で食べ物が無くて苦労した教訓を生かし、食糧を大量に買い込んでも3$くらいにしかならなかった。 電車で一緒のコンパートメントになったおばちゃんと子供がとてもよくしてくれた。ユーゴに住んでるおばちゃんが(恐らく)孫を連れてハンガリーに戻る風で、いっぱいお菓子はくれるは、親切にしてくれるは、東欧の人も別によい感じだった。 ララの家には21:00過ぎについた。 アジア横断を終えた私たちが、かって泊まったことの無い、チリ1つ無いきれいな宿だった。 |
ザッハトルテ! |
の日記 11.9〜ウィーン三昧〜ウィーンは宿もいまいちで、物価も高いので、今日一日で観光全部終わらせて、明日の朝プラハに向かう。 この旅の唯一目的らしい目的と言えば、ウィーンでザッハトルテを食うことではなかったか・・・。 そしてついにその目的を果たすべく、我々はホテルザッハーに向かったのだった。 結果は・・・期待に違わぬオドロクベキ美味さ。濃厚な味わいとは正にこのこと。一緒に頼んだウィンナコーヒーも又美味い。またまた至福のヒトトキなのだった。 夜は音楽の都ウィーンなので、オペラを見に行った。日本人の女、ババアどもがうろうろしていて、うざたらしかったが、「セビリヤの理髪師」、オーケストラの演奏がまずすごくてうっとり。主人公の声もよいし。観客の反応にトリハダ。 あーまたまた幸せ。ウィーンに来て良かったなあ。 |
ウィーンと言えば・・・ |
経過報告44(イン プラハ)今日、チェコの首都プラハに着いた。 イスタンブールから直行でブダペストに行くはずが何故か、ユーゴで1泊。学生証を作るだけだったブダペストに何故か5泊。そして物価が日本と同じくらいのウイーンに2泊して現在に至る。 音楽の都、ウイーンの大衆娯楽はやっぱりオペラ。立ち見ならたった2ドルで見れるというので、われら2人もジーパン姿でいそいそ出かけた。チケットを買う行列はもちろんインドなどとは違い、整然としている。何故か日本人は多く、化粧ゴッテリの若者やおばちゃんたち(女ばっか)に混じり、気分は興ざめ、胸くそ悪し。ああ、インドに戻りたい、行列なんかくそ食らえじゃ。 しかし、さすがに本場のオペラはそんな思いさえ一蹴した。素敵だった。鳥肌たった。素敵だった。ミンクのコートのおばばにも、ビアチャンTシャツの私にも平等に感動を与えてくれたモーツアルトに乾杯。 りえ 音楽の都、ウイーン。われわれの前に大きく立ちはだかった大きな壁はそう呼ばれている。 ちょっとレストランで飯食ったら3000円(インドの30倍)。ちょっと喫茶店でケーキ食ってコーヒー飲んだら2000円(インドの150倍)、ちょっとうんこしたら50円(もう知らん)。でも。ほんとに恐ろしかったのは宿。宿代ではなくて「にほひ」だ。 同じ部屋のプエルトリカン(勝手にそう呼んでた)2人組みの体臭が、ドミ全体に行き渡っていた。そう、そのにほひを形容するなら、「取り組み後の小錦の脇の下にチョコレート塗ったようなにほひ」。 さらに「いびき」。同じ部屋にいたもう一人の日本人は夜中にうえの部屋に非難していった。 ここは音楽の都。2人のダミ声いびき2重奏は夜中まで続きました。
まわ |
プラハの町並み |
の日記 11.11〜トレーナー洗濯中〜今日も昨日と同じ中華屋台で昼飯を食い、カレル橋をぶらぶら散歩。カレル橋と言えば、ブダの宿、「ララの家」の風呂場を思い出す。洗面台のとこにやたらセンスのいい白黒写真があって、「カレル橋」と書いてあった。散歩するにはいいとこだ。 その後プラハ城の美術館に行ったのだが、なんと館の修復中とやらでクローズ。更に追い討ちをかけるように王宮の美術館もクローズ。 シーズンオフの影響を直撃。心も寒く、体も寒く・・・。そうだ、今日はトレーナーをランドリーの出してしまっていたので、セーターを着ていたのだが、トルコ製の安セーターの防寒力など完全に粉砕。ちょっと、冬になるのが早すぎるのではないか? 日が落ちて、更に殺人的な寒さになったので、逃げるようにエルフに帰った。 夜はパスタを作った、宿の通りを挟んだ向かいがスーパーなので、自炊には便利だ。 |