トルコ編

 

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ネムルート・ダー
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L アジア横断ただ今完了!

ドゥバヤジットのオヤジ 

経過報告40(イン ドゥバヤジット) 

テヘランから、寝台列車でトルコにぬけるはずだったのに、何を間違えたか、カスピ海沿岸を6日連続でバス移動。今日、やっとつきました。トルコです。

イランの情報ノートにはイラン人の悪口がたくさん書いてあったけど、僕らは腐ったトマトを投げつけられることもなく、道できょろきょろしていれば「メイアイヘルプユー?」とさっそうと現れるお助けイラニーにばかりかこまれて幸せなイラン生活を送れました。

ただ、タクシーだけは、うまく乗りこなすことができず、大苦戦。値段を聞いて乗ればぼられるというので、周りのイラニーの払う額を真似して払っては見るものの、常にもめ、最後は怒りの運ちゃんのクラクションを背に強引に金をおいて逃げる。

イスファハンでもふっかけてきたタクシーを何台も見送り、やっと乗り込んだそれ。おっちゃんは珍しく優しくて、気持ちよくタクシーをおりた。まーが2枚、札を渡す。やっぱり怒るおっちゃん。もう2枚よこせといってきかない。まーはあと2枚払ってといった。

朝だったし、寒かったし、さっきまで優しかったのに、「なんで?」叫んだ。意地でも払わん。

タクシーが去った後、まーが渡したのは1000だったとわかる。うちらはイラニーの半額で踏み倒してしまったのだとわかる。小さいことかもしれない。ぼられて買ったものはすぐ忘れる。でもこの事はずーっと心に残るだろう。どうかおっちゃんがこれからもツーリストを気持ちよく乗せてくれることを身勝手ながら切に願う。                   りえ

 (★解説:結局おじさんが要求したお金は4000だったのです。私は
       「2000を2枚(4000)渡したのに8000もとるつもりか!」とキレたので        すが、おじさんがもらったのは2000だけだったのです。
       今思い返しても非常に胸が痛い出来事です。)

  所はエスファハン、世界の半分、イマーム広場。

その昔、シャー(王様)の広場といわれたところ。僕らは今日も水煙草をぶくぶく。昨日も水煙草をぶくぶく。ああ、気分はシャー。態度もシャー。もうちょっとでイラン人になって、無期限のテレカを売り歩くとこだったけど、僕らには明日に向かって進む義務があるのです。

今日、トルコ国境を通過。アララット山がどかーんと目の前に立ちはだかっていた。あの、ノアの箱船がついたというアララット山だ。その山を見て、ああ、もうアジアが終わるんだなあ、と感じた。思えば上海から遠く迄来たもんだと。ちょっと柄にもなくオセンチな僕。

イラン人はサル以下だとはよく言われますが、サルよりはちょっとマシだと思います。きっと今回の事態もそのサル頭脳で乗り切ってくれるでしょう。

とにかく!アジア最後の国、トルコに、僕ら二人は到着したのでした。バンザイナノデシタ。                                                     まわ


ネムルート山へ! 

の日記 10.7

〜ネムルート遺跡ツアー〜

とても人の良い宿だったカンタールをチェックアウトし、ネムルート・ダアのツアーに参加。

参加者はLOVE×2カップルの二人とかわいー虹色ジャージの女の子一人と、男3人と、うちらだ。

山道で案の定、少し気持ち悪くなったが、前の会社の話などして何とか乗り切った。

ホテルはとてもきれいで、やっぱツアーに参加するといいとこ泊まれるなーとしみじみ思った。

ネムルトは首がごろごろしていた。団体で来たトルコの若者と写真を撮っていたら、調子に乗りすぎたか、逆サイドのPARKについてしまい、いま来た3000メートル級の山道を急いで引き返し、更にみんなは待たせてしまうは散々だった。でも欧米人のみんなは心が広く優しかった。ごめんね。

今度からは調子に乗り過ぎないように気をつけることにする。



気分は探検隊
経過報告41(イン ギョレメ)

いやあ、ブッシュさん、やってくれちゃいましたね。私たちは、今、一大観光地カッパドキアに来ています。なかなかの奇岩ぶりでいい感じです。角の立たないように書こうと思いますが、さてどうなることやら。

日本にいるむっちゃんはママになったばかりで幸せだろうし、なるなるは資格試験で頭がいっぱいだろうし、はなちゃんはカラーリングのできぐあいが気になるだろうし。トルコだって同じです。暇な親父はチャイハネ(喫茶店)でゲームに夢中だし、若者はかわいい女の子に色目を使う。

1番アメリカの動向が心配だなんて人はまずいないでしょう。自分たちも「宿代どうやってまけさせるか」が今日の最重要課題でした。(失敗に終わる)

へなちょこパッカーですが、私たちも一応旅人の、はしくれとして、自分で判断し、自分で結論はだします。イランであたふたと日本への帰国を決めてしまった人もいますが、欧米人と同じように日本人の旅行者は旅の続行を決めています。日本からのメール内容によって旅程の変更した人(まあ、うちらもそうですが)もいますが、欧米人にはこんな人は皆無です。皆自分のたびを楽しんでいます。

自分たちで安全だと思うからここにいます。それでもテロが起こってしまったらもうしかたがないと思います。

それは日本にいても同じ事ではないでしょうか?日本からの心配も良く分かっているつもりです。だから、あんなに楽しかったネットの時間が今はとても憂鬱です。ここにきてはじめて、日本と外国の壁(誤解)の厚さを思い知らされています。

今日もカヲルが仕事もせずに電話をし続けているように、トルコも何ら変わりません。                                                       りえ

 えー、本来なら、今宿泊している奇岩の中の洞窟部屋のことでも書くべきなのでしょうが、最近、経過報告が、「米テロ報告」になってしまっているので、そうもいきません。

こっちでも、アメリカが空母からガンガン飛行機を飛ばしている同じ映像を何度も何度も繰り返し流しています。そして、オヤジが鼻くそほじくりながら、ほーそんな事があったんかいな、という風につまらなそうに眺めています。

トルコも確か東部の基地を米軍に貸すはずだが、自衛隊の後方支援のために憲法改正がどうのこうの...と、鼻息荒い純ちゃんをアタマに据えたかの国に比べてなんとも長閑です。

それでも日本人は帰っちゃったそうです。俺達の泊まっているホテルは、常に日本人が15人くらいいるそうですが、今は1人もいません。と、言うか、街でも1人も見掛けません。あー、皆、味噌汁が飲みたくなったのかなあ?と、不思議に思っています。

早く、日本も、国際社会の仲間入りをして欲しいなあと思います。僕らは、もう仲間入りです。                                                     まわ

の日記 10.13

〜カッパドキアの夕陽〜

今日はかねてより計画していた、原チャリを借りてギョレメ周辺を回る、というのを実行した。

借りたのはプジョーの100CC。ギアが無いのは楽だが、始めてリエを後ろに乗せて走るので緊張する。最高でも50Km/hくらいの安全運転で行った。

最初はゼルベ屋外博物館。割と(というかぜんぜん)整備されていないくせに奇岩の上の方まで登れる。危険きわまりないけど、死なないように、自分で気をつけてね、という姿勢は、海外では基本だ。それが面白いし、リエも、案の定滑って転んだ。

その後は、キノコ岩、らくだ岩、美女岩と岩オンパレードをこなしつつユルギュップを回り、再びギョレメへ。

ギョレメ屋外博物館は整備され過ぎの上、白人ジジババ軍団が大挙して訪れ、しかも一番の見所の岩窟教会が入場料と別に4$以上も必要で断念したため、あんまり面白くなかった。

日暮れの時間を待ち、ウチヒサールへ。最初、城と見当違いのほうに行ってしまい夕陽に間に合うか心配だったけど、城の頂上に登った時、ちょうどいい感じの夕陽になっていた。

頂上にはあまり人もいず、カッパドキア全景が見渡せてすばらしい眺めだった。残念ながら夕陽は奇岩の眺めと反対側で、ウチヒサールの街側に沈んでいったけど、それはそれでなかなかいいもんだった。

トルコ国旗の下の段に腰掛け、リエはその先の出っ張りに腰掛け、夕陽を見た。

空にはツバメが円を描いていて、遠くの山はぶどう色ににじんでいた。

この大陸の果てに上海があって、そこからはるばる来たんだなあ、と、思った。そしてあの夕陽の方向にイスタンブールがある。

明日はアンカラへ。そしてあさっての朝、遂にアジアの終着点イスタンブールに着くのだ


アンカラエクスプレス 
経過報告42(イン イスタンブール)

タイのじじばばであふれたマレー鉄道の3等車、荷物が心配で眠なかったインドの2等寝台、暑さ地獄、窓を開ければ砂まみれ、1等寝台とは名ばかりのパキスタン。すべてはこの日のための布石だったに違いない。

カッパドキアからわざわざアンカラによって、乗ってきましたトルコ最高級列車、アンカラエクスプレス。

2人で何と44ドル。(学割なのに高過ぎ!)一室2ベッドのコンパートメントの中には、洗面台、冷蔵庫(中にはサービスのジュースとお菓子)。もちろん毛布もふかふかぐっすり。なぜ、インドで死ぬ思いで座席争いなどしていたのだろう?心地よいベッド、2人っきりのスイ〜トな時間。(いやそれより先に睡魔が襲ってきた)

旅行は金使ってこそ。あー、しあわせだったあ。                                    りえ


(イン イスタンブール)。あー、ついにこの経過報告を書く日がきたんですね。

アジア横断の結末はあわただしく、駅を出るとすでにボスフォラス海峡を渡る船が待っており、遅れてはならじ、と、急いで乗り込んだ。本来なら海峡を前にして、15分37秒くらい今までの長い道程に思いをはせる所だったのだが。

船に乗り込んで、初めて海峡の向こうに、イスタンブールの旧市街の光景が見渡せた。

以前、ここを訪れたとき、「きっとこの光景をまた見るだろう」と感動の中で思ったものだった。

それから6年。しかし、なんでだか、感動がやってこない。感動しようとしても感動できない。泣きたかったけど、泣けない。だって、男の子だもん。

空はもちろんくもりぞら。スレイマンモスクの尖塔が突きささりそうな低いくも。おれがちょっとでも気を抜いたら降ってきそうだ。いかん、今日だけはいかん。

多分、今日ががおれにとって最後の「アジア横断をして、イスタンブールに着く日」になるだろうから。

最後の航海。

感動もなく、くもりぞらで、他の船が風景まで隠しやがった。

でも、まあ、とにかく着きましたよ。イスタンブール。

上海を出て、ちょうど9ヶ月目の今日。                                        まわ


ボスフォラス海峡のさば売り 

経過報告43(イン イスタンブール)

人生で大事な事は2つだけ。1番大事な恋愛を夫婦2人旅は犠牲にするんだからなるべくいい男に会いませんように。その願いはここイスタンブールまでかなえられてきた。(半分冗談ですよ。ほんとに)しかし、ついにここで禁断の扉は開かれました。

三木良介声でいっつもクールなKさん。旅立ちの夜に「交差点」の弾き語り、めちゃめちゃ渋かったのです(ハート)。(タイで松さん(仮名)のギターを聞いた時はうんともすんとも思わなかったのに。)バット、幸せ配達人ののぶさんの馬鹿でかい(歌)声により彼の声はかき消され私のしあわせはふきとんでしまった。(哀)

アンド、いわぶちかつひこ似のおしゃれボーイ Tラー。彼のまっすぐな視線と軽快なつっこみにもうくらくらです。

コンヤペンションどこにも行かず10日もいるのは彼らのせいなのでしょう。彼らはもう旅立ちましたが、彼らの香りが私をここにとどまらせるのです。ところで今夜はシチューです。いつのまにやら炊事班長です。                                                                   りえ

 

アジアとヨーロッパの交差点イスタンブール。旅人たちはここで暫し休息を取り、ある人はアジアへ、ある人はヨーロッパへ、またはアフリカへと旅立っていく。

街にはオスマントルコ時代から作られたミナレットがさながら針山の針のごとく立ち並び、近代化が進む中、むしろ昔の恋人との思い出を懐かしむかのように、頑なにそのたたずまいを守ろうとしているかのような街。

その素敵な街の中心、ブルーモスクのすぐ裏に「コンヤペンション」は有ります。

毎日15〜18人集まって自炊をしています。

電車に乗って8駅目、さらに歩いて30分のスーパーに、キッコーマン醤油が売っています。醤油の魅力は恐ろしく、最近中毒症状が出始めています。

一番恐ろしいのは「ガラスの仮面」です。32巻まで揃ってます。一度読み出すと1週間は抜けられません。観光する気が起きません。

恐ろしいところです。皆さんは避けて通ってください。無事、ヨーロッパに行けるか心配です。                                                   まわ

psそれより、北島マヤが2年以内に芸術大賞を取れるかどうかの方が心配です。


モスクのドーム

の日記 10.18

〜コンヤの住人〜

外見は侍を髣髴させる第2ののぶさんがコンヤにやってきたのはこの日だ。

昼間からラク(アルコール度40%)をかっくらい、「酒は味じゃなくて、安さと度数だ」などと、なんだか「ま」のつく、どっかのアル中もそんなこといってたな、などと思い出させる、彼も酒好きなのであった。

そして夜になり、彼はどんどんエスカレートし、「いやぁ、日本人と話すのは久しぶりでね」と、志村けん口調で100回くらい言い、フランス人に、「お前はピーターか。フランス人はみんなピーターだ」と、500回くらい言い、ピーターじゃないフランス人は本名を忘れ去られ、その後「ボジョレー!!」と、1000回くらい叫んで、記憶はすっかり無いようだった。

そんな彼はソーシャルワーカーで、大変子供好きな純な奴である。

彼の描くイラストは、どれもこれも人をひきつけるもんがあって、絶対売れるのに、売らないところもまたすばらしや。

の日記 10.20

〜てんぷら〜

今日の夕飯は、キヨさんを引き止めるため、てんぷらを作ることにした。

コンヤは魚料理禁止(猫が来る、という理由だが、実際はエリフが嫌いだかららしい)なのだが、エビはOK(エリフが好きだから)というので、エビ天を作ることにした。

今日のてんぷらには最高の15人が集まった。スチャダラパーのBOZE似で、いつもニット帽を被っているS君が、居酒屋でいつもてんぷらを揚げていたというのでてんぷらは一任され、彼は以後、『てんぷらー』のあだ名がついた。

今日はガスが切れ掛かっているため火力が弱く、なかなか威勢良くあげることができなかった。仕方なく、揚げるそばからどんどん運び、食べてもらうことにした。

特にエビは競争が熾烈で、1秒で全てなくなってしまう。結局全て揚げ終わったのは10時ごろだった。

今夜はキヨさん、そして一緒にギリシャに行くチャリダーの最後の夜だったので、中庭に皆で集まった。ヒロ君がギターを持っていたので、ギターと歌の大会になった。

特にキヨさんの弾き語りの『交差点』はサイコーにかっこよかった。その後もノブ2の「ボジョレ〜!!」に対抗して、本家、幸せ配達人ののぶさんが、「ナイアガラ!!」という大技を繰り出したりして散々盛り上がった。

キヨさんが出て行くのは寂しいけど、サイコーに楽しい夜だった。



コンヤのエリフ一家 

の日記 10.26

〜ついてない日〜

ついていない1日というのはあるもので、何をどーいってもうまくいかない。

こんな日はおとなしくしているのがいいのだが、こんな日に限って新市街に買い物に出ていたりする。

かわいい服やら安いトレーナーやらいっぱいあって、ニコニコだったのだが、まわが写真を撮っている一瞬のスキに財布を盗られた。

おまけにそのとき、わたしも隣にいなかったのだ。

が------------------------------------ん

ショックから立ち直るのに1時間、両替するのに1時間走り回って、フーっと一息。しか〜し!修理の見積もりを頼んでいたカメラ屋が、勝手に修理を終わらせていて、ぶっ飛びの値段を請求してきた。

ブル------------------------------------

まわががんばって40ミリオンで話をつけた。

コンヤに帰り、「50$盗られた〜」と、のぶさんに言ったら、あっという間にコンヤ全部に広がって、数々の同情票が寄せられた。

そして、みんなで約束してたボーリングへ。

エリフやノブ3とともにタルカンなどトルコのヒット曲に合わせて踊りまくり、楽しかった。40ミリオン出した甲斐あり、EOSも完全復調し、ボーリング場で大活躍した。

やっぱ直してもらってよかった。


の日記 11.1

〜さよならイスタンブール〜

ついに今日、コンヤを去ることにした。そしてわれらが長老けんさんの、お待ちかねトルクメビザもようやく出て、ついにあの部屋が3つ空くことになった。

夕食はエリフが「最後だから、みんなでトルコ料理を食べに行きましょう」と言ってくれ、10人強の団体でぞろぞろ、シルケジ近くの飯屋へ繰り出した。飯もうまかったし、雰囲気も楽しかった。

そしてみんながわざわざ駅まで見送りに来てくれて、この旅一番のうれしはずかしの移動になった。

エリフ、LOVERYのぶさん&コンヤで出会った人々。ほんとに良い宿でした。

ここに宿替えしてよかった、と、心から思います。