その年は特別だった。
家に帰ると、緑色のカーペットが敷いてある。
赤い反射型ストーブがある。
私が学校に行っている間に配達されたものらしい。
畳の部屋にちゃぶ台が当たり前の暮らしだったから、
それはびっくりするほどハイカラな景色だった。
母が台所で何やら仕度をしていて、「一緒に買い物に行く?」と聞いた。
ついて行くと、ローストチキンを買った。
肉屋の店先でくるくると回っている、あの鶏の丸焼だ。
その鶏を、初めて見るピンクのばらの花の付いた洋皿にのせ、
母と一緒に紙の飾りを作って鶏の脚にはめた。
伯母の裁ち台を緑色のカーペットの上に出し、その上に鶏の皿を置いた。
部屋の角には数日前からツリーが飾ってある。
金銀のガラス玉、銀紙を貼った靴や家やステッキの飾り物、
モールで作ったキャンドル、それらのひとつひとつを今でも覚えている。
夜になると豆電球が点いてきれいだった。
父が早めに帰って来て料理を始め、裁ち台の上は賑やかになり、
ストーブは暖かく、ケーキまであった。
その頃ケーキは特別で、晴れの日のご馳走だったんだ。
料理が美味しかったかどうかは記憶にない。
覚えているのは父がペーパーミント色のカクテルを作ってくれたこと。
シェーカーを振る父がもの珍しく、初めて飲む「大人の味」がした。
あの時の私は7才、昭和35年。父は44才、母は37才のはずだ。
日本が高度成長を始める直前の「三丁目の夕日」の時代だった。
外国航路の船乗りだった父は、家族にクリスマスを見せてやろうと思い、
その年のボーナスでカーペーットとストーブを買ったのに違いない。
30代の母が華やいだ気持で仕度をしていたのも感じられた。
雪なんか降ると最高だったかもしれないけど、雪は降らなかったと思う。
プレゼントをもらったのかどうかは覚えていない。
それでもその日は最高のクリスマスだった。
自分が初めてクリスマスというものを認識した年だったから。
45年も経た娘がこれだけちゃんと覚えているのだから、
大成功だったね、父さん、母さん。 |
from mixi diary |
|