2003.05.10-05.11

JR名寄本線跡(名寄−興部)

昭和55年公布の国鉄再建法により数多くのローカル線が廃止となった。
その中で”本線”と付く唯一の路線であったのが名寄本線であったそうである。
大正5年の鉄道敷設図を見ると宗谷線(音威子府からは廃止された天北線)は中頓別まで、
釧路本線(現根室本線)は釧路までの敷設である。
その釧路本線の池田から網走本線(現ちほく高原鉄道、石北本線)が網走まで、さらに網走本線の
野付牛(現北見)から湧別軽便線(現一部が石北本線)が下湧別(後の湧別)までの敷設となっている。
道東、道北方面の鉄道はこれだけである。
そこに大正10年、名寄から興部を通り中湧別に至る名寄線が開通したのである。
それは便利になった事であろう。
オホーツク方面への連絡も容易になり、札幌から網走までの連絡も従来に比べてかなりの時間短縮となった。
しかし昭和7年、旭川と北見をショートカットする石北本線が開通した。
以後、幹線の地位を石北本線にゆずり名寄本線はオホーツク海沿岸の連絡線となったようである。
しかしそうなると他の多くのローカル線と同じ運命、平成元年には廃止となったのである。

名寄本線の起点は宗谷本線名寄駅である。(左)
かつては深名線も発着して鉄道の要衝であったが今では単なる通過駅である。
広い構内こそ健在であったが転車台やSLの給水塔はすでに撤去されている。(右)

名寄駅を南下した路線は駅南側の跨線橋を過ぎるあたりまでは線路が残されている。(左)
そしてその付近から上り勾配となり名寄公園を通過する路線跡は遊歩道として整備されている。(右:遠軽方面展望)

その後、路線跡はしばらく続いているがやがて道路から離れて確認が困難となった。
そして名寄駅からひとつ目の中名寄駅跡にはプレハブの簡易駅舎が残されている。(左)
このタイプの駅舎は昭和50年台に多く設けられたそうであり、現在も石北本線西女満別駅などに見られる。
ホームは残されていないが駅前後の築堤はわずかながら確認できる。(右:名寄側)

中名寄駅跡と次の上名寄駅跡の中間あたりには中線跨線橋が残されている。
欄干には”名寄本線”のプレートが付いている。(左)
”虎は死して皮を残す”と言われているが、”鉄道は死して跨線橋を残す”である。
これを撤去するのにはまた多額の費用がかかる。
廃線ウオッチャーにとっては都合がいいが・・・。
(右)は遠軽方面展望。

上名寄駅跡は貯木場となっていて立ち入りが困難だが、遠目には何も残っていないようだ。(左)
バス停の脇に駅名標のモニュメントが立っている。(右)

上名寄市街を抜けると上名寄跨線橋を通過する。
名寄方面を展望すると上名寄市街も見えるが上名寄駅跡は木立に隠れて見えない。(左)
一方、遠軽方面は展望が開けていて市街地は目の前であり、矢文駅跡も見えるはずである。
しかし現地でも場所が分る程度であり駅施設は残されていないのでここからの特定は困難である。(右)



矢文駅跡は古地図で通りまで確認したので場所は間違いないと思う。
しかし駅舎はなかったらしく、どのようなホームがあったかもまったく分らない。
奥には先ほどの上名寄跨線橋も見える。(名寄方面展望)



続く岐阜橋駅、ここも古地図で確認している。
路線跡には農業倉庫が置かれていた。(遠軽方面展望)

かつて林業や炭坑の町だった下川町であるが下川駅跡はバスターミナルに転換している。(上、左)
ロビーには鉄道コーナーがあったが残念ながら施錠されていて見学は出来なかった。
正面には鉄道記念碑があり名寄本線の沿革が記載されている。(上、右)
この他にはキハ22が2両保存されていてここが鉄道の駅であった事を主張している。(下)

下川駅跡の次は二の橋跨線橋が残されている。(左)
そしてこの橋の下に二の橋駅があったらしい。
建替えられた後に中名寄駅舎と同じプレハブの簡易駅舎となった写真を見た事がある。
この跨線橋の欄干を見ると昭和48年10月完成とある。
二の橋駅が跨線橋の下に建てられたのではなく、後から国道の付替えで跨線橋が完成したようである。
それまでは現国道の裏(写真では左側)の道路からアクセスしていた。(右:遠軽方面展望)



次は幸成駅跡に至るが、ここは路線跡が残されているだけであった。(遠軽方面展望)

天北峠越え前の”一の橋駅”跡はバス停となり廃線後に道路が駅跡を貫通し裏手まで延びている。(左)
駅名標のモニュメントは上名寄駅と同じである。(右)

一の橋駅跡を過ぎると天北峠越えが待っていた。
国道脇に切通しで路線跡が残っていて林道へ渡る跨線橋上からうかがえる。
(左:名寄方面展望、右:遠軽方面展望)

やがて峠を下ると上興部駅跡に至る。(上、左)
ホームも一部残されていて駅名標も残されている。(上、右)
ここは鉄道記念館となっていて内部に保存物や資料が展示されている。
資料によると上興部駅の名寄側には先ほどの天北峠越えに備えて転車台や給水塔があったらしい。
現在は広場と化していてどのあたりにあったのかは分らない。(下)



次の駅は西興部駅だったが市街に至る手前にはガーダー橋が残されていた。



かつて西興部駅の線路脇には輸送されるのを待つ木材が山と積まれていたそうである。
しかし現在はホテルや美術館、マルチメディア館などが並び鉄道駅だった面影はない。
建物はもちろん例の西興部カラーである。

西興部駅の隣駅は六興駅であったが付近にレールを使用した柵はあったが場所の特定は出来なかった。

そしてその次の駅が中興部駅であった。
国道から少し奥まった所に駅舎が残されていて今にも列車が来そうな雰囲気が漂っている。(左)
改札口を通ると駅名標こそないもののホームが一面ほぼ完全な形で残されていた。(右)
このホームの一部に階段があり線路位置に降りられる構造になっていた。
おそらく線路を通り木製の対抗ホームに至ったのであろうがそこまで望むのは贅沢というものである。


中興部駅跡からしばらく行くと国道に並行して興部川が流れるようになる。
そして興部川の支流が直行して流れ込む付近にガーダー橋が残されていた。
実はこの橋の名寄側に班渓駅があるのを古地図で確認していたのである。
迂回してガーダー橋の裏の道路橋から撮影したのがこの写真である。
この道路橋が駅へのアクセス道であり、すぐ班渓駅に至るものだと思い、勇んで行ったが周辺は熊笹がびっしり生えていた。
入口部分ぐらいは残っているはずと思ったがそれも分らない。
残念、人が居れば聞くが周辺は山林、無人地帯であった。
結局確認する事は出来なかったのである。

そして次の宇津駅に至る途中に興部川を渡河する道路橋を通過する。
この隣に名寄本線の橋梁が架かっていたようで遠軽側に橋台が残っているのが見えた。(左)
道路橋から少し行くと左折する道路があったのでその橋台付近に行けると思い入っていった。
その橋台は間近に行ってもいいアングルは撮れなかった。
しかし新たな遺構を発見する事となった。(右)
陸橋か?河川は30mほど名寄側で先ほどの橋台位置で渡ったばかりである。
何故ここに陸橋があるのか分らなかった。何故築堤を築かなかったのか?
牛馬の通行路を確保するためぐらいしか考えられない。



宇津駅跡には駅舎もホームも残されていなかった。
しかしいかにも駅だったという風情は残っている。



宇津市街を過ぎると宇津跨線橋を渡る事になる。
名寄方面をうかがうと先ほどの宇津駅跡に残されていた樹木が見えた。



そこから北興駅跡までも路線跡や橋台がわずかながら確認できた。

そして北興駅跡。国道と直交する道路との位置関係から付近にあるバス停脇ではないと判断。
30m程度遠軽側のこの位置付近と思って撮影した。
しかし資料の写真をよく見ると国道からもう少し奥に位置していたようだ。

そして興部駅跡に至る手前には天北跨線橋が残されている。
欄干には”国鉄名寄本線”のプレートが付いている。(左)
名寄方面の築堤は残っている(右)がここから興部駅まではアンツーカーのサイクリングロードとなっていた。

興部駅跡は”道の駅おこっぺ”に転身している。(上、左)
入口脇には興部駅のレリーフがあり(上、右)、裏手にはSLの動輪が飾られている(下、左)
道の駅内部の一角は鉄道記念館となっており、この名寄本線と興浜南線に関する展示がある。(下、右)

このあと名寄本線はまだまだ遠軽まで遠い道のりであったがここで第一部は終了。
JR名寄本線(興部−中湧別)に続く。


名寄本線 名寄−遠軽間 138.1km 湧別−中湧別間 4.9km

1919(大正8)年10月20日、名寄線名寄−下川間が開業。
1920(大正9)年10月25日、名寄線下川−上興部間が開業。
1921(大正10)年10月5日、名寄線上興部−興部間が開業。
これにより名寄線名寄−中湧別間が全通した。
その後名寄本線に改称、湧別線下湧別(後に湧別)−遠軽間を編入した。
1989(平成元)年4月30日限りで廃止された。

至 稚内
名寄 中名寄 一の橋 上興部 至 雄武
至 旭川 上名寄 幸成 西興部 北興 興部
矢文 ニの橋 六興 宇津 至 遠軽
岐阜橋 下川 中興部 班渓

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廃線跡