2003.05.20-05.21

JR標津線跡(標茶−標津、厚床−中標津)

現在、道東根室支庁の鉄道は根室本線姉別−厚床間以東の50キロにも満たない距離の敷設となっている。
しかしかつてこの広大な根釧台地上を長大な路線が走っていた。
総延長116.9キロにも及んだ標津線である。
1933(昭和8)年にこの路線の一部が開通したが着工までに時間がかかったため、
北海道により馬鉄やガソリンカーが走る殖民軌道網がこの一帯に先行敷設されてはいた。
しかし物資の輸送力が劣り、標津線敷設に向けての運動が尚も続けられようやく開業に至ったのである。
以後50年以上に渡り根室原野の開拓と産業の振興に貢献して1989(平成元)年に廃止となった。

標津線の起点は釧網本線標茶駅である。(左)
この3番ホームの根室標津側には現在でも標津線起点の標柱が立っている。(右)



標津線の路線はしばらくは釧網本線と同じ路線を北上しやがて東側に分岐していた。
その後すぐに道路を渡った位置が多和駅跡と思われる。
すでにホームも残されていないが路線跡の築堤が残されている。

そこから路線は一旦は道路も敷設されていない原野の中に入っていく。
次に鉄道の痕跡を確認出来るのが泉川駅跡である。
交通標識では”駅”の文字が消されていたが(左)、すでに駅舎は撤去されている。
ホームは一部草むらの中に残されていたが写真で見るとほとんど分らない状態である。
また泉川駅跡の少し先、西風連川を渡る泉川橋という道路橋脇にはガーダー橋が残されていた。(右)

次の光進駅跡にはホームが残されている。(左)
路線跡を農道として使用しているのか雑草が刈られていているようである。
はっきり鉄道遺構が見えるのはいいが何かムードが出ない。
ちなみに(右)はH13-10-7に撮影したもの。
草生していかにも廃線跡という雰囲気が漂いこちらのほうがいいと思う。
まったく、雑草だらけでも文句を言うしわがままな綾小路さんである。

次は現在も”駅前西町”などの地名が残る西春別駅跡に至る。
ここは別海町鉄道記念公園となっていて記念館には標津線の資料が数多く展示されている。
現在見学は可能であるが外部は工事中で写真は撮影しなかった。
一昨年の写真を掲載しようと思ったのである。しかしその時には撮影していなかった・・・。

そしてその次の上春別駅跡にもホームが残されていた。(左右)
駅周辺はほとんど人家もなく牧草地帯となっている。

その後牧草地を抜け市街地に出た所に計根別駅があった。
駅跡に駅舎やホームは残されていないが市街地の裏手には路線跡の築堤が続いている。(左:標茶方面展望)
市街地を過ぎると次の開栄駅があったが路線跡が残されているだけであった。
中標津駅に至る途中には当幌駅があったがここも駅の雰囲気が残るのみである。(右)



そして厚床方面への分岐点だった中標津駅跡へ至る。
広い構内はバスターミナルに転換していて面影はほとんど残っていない。
この建物内にも小規模の鉄道記念室があり一回だけ開いていた事があって見学したが今日も施錠されていた。

ここで根室標津方面への路線跡は追わず、厚床駅から中標津駅跡までの路線跡を探索する事にする。

厚床駅は根室本線の駅であり現代風の駅舎が建っている。(上、左)
こちらのホームには標津線分起点の記念碑が飾られている。(上、右)
構内の転車台跡は分岐点であった事の証でもある。(下)
余談であるが西春別駅跡の鉄道記念館の中に厚床駅の駅弁の広告があった。
今はその駅弁も販売されていないが”ほたて”の絵の包装紙に包まれたその駅弁を一度食べて見たかった。


厚床駅から標津線の路線は根室本線と並行して東進していた。
すぐに根室本線は右にカーブして離れるが標津線もその後すぐに左にカーブして北上していた。
そのカーブの出口あたりに跨線橋が残されている。
欄干には”標津線”のプレートも健在である。(左)
その橋を過ぎて路線跡は原野の中を中標津目指して北上している。(右:中標津方面展望)

厚床駅から中標津方面へとしばらく国道を走ると途中で路線跡と交差して左手に路線跡が走る事になる。
風連川を渡る国道橋では左手にガーダー橋が見える。
しかし国道から離れていて、ここはしばらく車を進める。
ほどなく国道と交差する道路が現れ、これを左折して少し進む。
そこで道路と路線跡が交差していて、おそらくは踏切があったのだろう。
中標津方面を見るとすぐに雑草が生えていて先へ進むのは大変そうである。
一方、厚床方面は一直線に砂利道が続いている。(左)
ここから徒歩で進んでみる。約1キロ歩くと先ほどのガーダー橋に行き着くのである。(右)

再び国道に戻り北上するとパーキングがある。
左折してさびれた市街地に入るとそこには奥行臼駅跡があり駅舎やホームが残されている。
初めてここに来てからまだ2年少ししか経っていなかった。
相変わらず時間が止まったような佇まいを残している。(左右)

路線跡は道路との交差部に行けばほとんど残っている。
別海駅跡の手前には鮭の遡上で有名な西別川を渡河するガーダー橋が残されている。(左)
現在は整備して遊歩道に利用されているようである。
そのすぐ北側がバスターミナルに転換した別海駅跡である。(右)

さらに北上した路線跡は奥行臼駅跡からは国道の右側を走っている。
平糸駅跡は古地図では国道と交差する道路を右折してすぐの踏み切りの南側になっていた。
昨年秋に来たときは踏切跡に立ってすぐ南側に”ここに平糸駅があったんだ”と思いにふけったものだ。
今日もまた写真を一枚撮り満足していた。
しかしこの時期はまだ雑草が生い茂っておらず奥まで行けそうだった。
ちょっと駅の南側まで探索してみるかと歩を進め50mぐらい歩いたときである。
えっ?何とホームが見えてきた。(左)
いままで駅は踏切のすぐ南側と思っていたが実際は違っていたのである。
北海道には踏切の脇から板張りのホームに待合室というスタイルの駅が多く、誤解していた。
そして崩れかけた待合室まで残っていた。(右)
後で待合室の脇から国道までの入口があるのも発見した。
雑草が生い茂っていないとこうも違ってくるものかと驚いた。

さらに北上を続ける路線後は春別市街に至る手前から”SL散策道”として遊歩道となっている。
その遊歩道の終点近くに春別川橋梁が鉄道橋から歩道橋に転用されている。(左)
そのあとに道路を渡った所が公園やゲートボール場に変貌を遂げた春別駅跡になる。(右)

春別駅跡のすぐ北にはこれまた黒百合橋梁というガーダー橋が残されている。(左)
そして協和駅に行く途中に跨線橋が見えてくる。
別海跨線橋と看板が立っている。しかし橋の欄干を見ると中春別跨線橋となっている。
まあ鉄道と国道での名前が違うのであろう。
ともあれこの付近の路線は原野の中を走っていたようである。(右:厚床方面展望)

このあと協和駅跡付近にも路線跡が残っていたがホームの位置までは特定出来なかった。
路線跡はやがて中標津市街の西方で標茶方面からの路線跡と合流するが中標津駅跡の手前で消滅する。



標茶方面と厚床方面から路線跡を追ってきたがいよいよ根室標津方面への探索を開始する。

中標津駅を過ぎた路線はすぐに標津川を渡っていたが市街部には路線跡は確認できなかった。
そこからはまた原野の中に姿を隠した路線跡は上武佐駅の手前で現れる。
クテクンベツ橋梁というガーダー橋が国道から見える。

上武佐駅跡には映画”遥かなる山の呼び声”に登場する駅前旅館が健在である。
手前側には映画の記念碑も建てられている。(左)
ここも駅の施設は残されていないと思い込んでいたが草むらからホームが顔を出していた。(右)

川北駅跡は駅前通りが雰囲気をかもしだしている。写真右端は日通の建物だったようである。(右)
舗装され駐車場となった駅跡にはキハ22が展示されている。(左)

川北駅跡から路線跡はまたも原野の中を走る。
この辺りは根室本線ではあまり感じない”さいはて”の雰囲気が漂っている。
廃線となった寂しさが加わっているからか、それとも知床が近いからか。

標津川を再度渡河する橋梁は残されていないがそこから路線跡は終点の根室標津駅まで続いている。
そして終点、根室標津駅跡の広い構内には駅舎もホームも残されていない。(上、左:標茶方面展望)
それどころか駅を突ききって道路まで通じてしまっているのである。
しかしその道路の奥にはいまだに転車台が残されている。(上、右)
転車台の先にもバラストが残されていて駅構内の最奥に終点の車止めがポツリと放置されている。(下)


標津線 標茶−根室標津間 69.4km 厚床−中標津間 47.5km

1933(昭和8)年12月1日、厚床−西別(後に別海)間が開業。
1934(昭和9)年10月1日、西別−中標津間が開業。
1936(昭和11)年10月29日、計根別線標茶−計根別間が開業。
1937(昭和12)年10月30日、計根別−根室標津間が開業し計根別線を編入して標津線が全通。
1989(平成元)年4月29日限りで廃止された。

西春別 上春別 当幌 中標津 上武佐
光進 計根別 開栄 協和 川北
至 網走 泉川 春別 根室標津
標茶 多和 奥行臼 別海 平糸
至 東釧路 姉別 厚床 至 根室

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廃線跡