こちらはペー浜。ニシ浜よりこじんまりしていますが、きれいでひっそりした雰囲気が良いです。
左下は海岸に生えている「ハマシタン」(浜紫檀)の立派な木です。こんな過酷な環境でここまで育つなんて、ほんとにスゴイです。樹齢数百年だそうです。
島の北へ向かうとこんな場所があります。
左上の写真は、奥が島の中心方向、手前が北の海側です。奥の左手の丘が下田原城跡で、左下の写真のような石垣の名残が見られます。往時がどのような姿だったのか、良く分かりません。足元にたくさん生えているのが、食材になっているオオタニワタリです。
このあたりは「農地改良」されていない農地で、右上の写真の一角はカラシナがきれいに咲いていました。この一帯には、2か所ほど「貝塚」が発見されているそうです。
貝塚よりも少し東側の一帯には、昔の「村」の跡があります。宿の方が案内してくださいました。
左上は、「シムスケー」と呼ばれる井戸。牛が発見したという言い伝えがあるそうです。
右上は村の入り口の門?のようなところと、そこから続く路。この路は神様の路と呼ばれていて、年に数回ほど島の人たちがきちんと草刈りしているそうです。左下は村の跡の内部です。石垣の跡でしょうか。
現在の集落の中にも神聖な場所(御獄:ウタキ)があります。我々部外者はこれ以上は中には入れません。宿の方は神事の際にはここに寝泊まりされるそうです。また、島内の道々や海岸などにも、ちょっとした?拝み場のようなものがあるようです。沖縄ではどこも多かれ少なかれこのような神聖なネットワークが今もあって、すごいなぁと思います。
これは北側のブドゥマリ(大泊)浜。冬はだいたい北風が吹くので、波立ってます。この日の午後船は欠航になってました。
目の前には西表島の威容が見えるのですが、この島の祖先の方々はどこから渡ってきたのでしょうか? 貝塚や神様の道、村の跡、今の集落の中にある御獄・・・昔と今、信仰と現実は連続しています。畑からは時に勾玉が出土することもあるそうです。
こちらは島の南に向かう道。周囲は農地改良されており、調整池などもあります。改良された農地は使いやすいのでしょうが、問題が無いわけでも無いようです。
なかなか、難しい・・・
島は水に乏しく、土壌も痩せています。その昔は、粟で自給していたそうです。
水田を始めたのは、薩摩藩の琉球支配に伴う悪名高き人頭税制度が敷かれてからだとか。この島で稲作なんて…
明治以降も、第二次世界大戦の時には戦場にこそならなかったものの西表への全島民の強制疎開によってマラリアで多数の死者(当時の全人口の3割!の 477人!)を出すなどの悲劇があったらしいです。
歴史に翻弄される孤島・・・です。。。
「最南端の碑」のある断崖からの眺めです。
人頭税の時代、重税にあえいだ島の人たちが「パイパティローマ」(南波照間)に向かって島を脱出したという話が残っています。伝説では無く史実として。与那国にも「ハイドナン」(南渡難:渡難=与那国)という似た話があり・・・
かつて北から祖先が渡ってきたように、その子孫は南へ渡っていったのでしょうか? 彼らの足跡はこの海の向こうのどこかに残っているのでしょうか?
南にあるペムチ浜。こちらは北風の影響が少なく、波穏やか。
元旦にはビールを持って行き、まったり過ごしました。
あぁ、至福・・・
島のみなさん、同宿のみなさん、ありがとうございました!